序X:2077年、水曜日の脱出

 2077年7月14日、史上最大「大清算(リクイデーション)」と呼ばれる事件が起こった。


 日本、深夜0時。子午線共和国(ミッドライン・リパブリック(MR))、午前10時。


 安和(あんわ)学院の地下実験室。

冷たい灰色の照明が、緑色に明滅する量子演算モジュールの列を照らしていた。


 北川修治(きたがわ・しゅうじ)は、まるで時間の裂け目から覗き込むかのように、眼前のスクリーンを凝視していた。


 システムによる神経同化を無効化する「未編藉者(アンエディテッド)」。

その免疫者である彼の目には、二つの現実が映る。


AIが弾き出した冷徹な「真相」。

そして、市場で「神経同化」という遺伝的バグに操られ、狂ったようにFOMO(フォモ)に群がる「ギャンブラー」たちの姿。


 キーボード上の指が微かに震える。これは単なるコード入力ではない。必然的に崩壊する旧システムに対する、彼自身の「大博打」だった。


「伊月(イツキ)、最終リスクスキャンを開始しろ」


「警告。『ヨルムンガンド』による『高頻度インサイダー取引』を検知。高確率で『連邦理事会(TFD)』が通貨両替(カレンシー・コンバージョン)を実行中です」


 傍らのスピーカーから、伊月(ララ v1.0)の理性的で、どこか優しい声が響く。


「従来のAIでは検知不能ですが、私の量子モジュールが『システミック・アノマリー』……市場の『確率』が理論上『あり得ない状態』にまで歪曲されているのを捉えました!

不合理な取引量、許容不可能な評価水準——リスクは測定不能です。

推奨行動:直ちに空売りポジションを全決済してください」


 修治は目を閉じた。


(……全決済だと?……笑わせる) 心の中で冷笑する。

(伊月……お前には『リスク』しか見えていない)


「だが俺には、『確実性』が見えている!」


 思わず声が漏れた。


「TFDは『売り逃げ』を図っている。

旧システムは100%崩壊する。

これは『ギャンブル』じゃない、必然の『事実』だ!

これが『必然』である以上、100倍レバレッジの空売りは『リスク』じゃない!『最適解』だ!」


「シュウジ! これは『規律』違反です! AIモジュールは『損切り』すべきだと!」


 伊月の声が悲鳴のように尖る。だが、修治は狂気と冷酷の光を目に宿し、ゆっくりと目を開いた。


「伊月、お前には分かっていない!」 彼はマニュアル・オーバーライド(手動上書き)のコマンドに指を伸ばす。


「ルールとは『不確実性』に対処するものだ。俺が今、直面しているのは『確実性』だ!」


 彼は、コマンドを実行した。ララ v1.0の「ポジション管理(ストップロス)」モジュールが、手動でシャットダウンされる。


「オーバーライド、成功……」 伊月の声が震え、まるで人間の嗚咽のように響いた。


「……シュウジ……この……大バカ……ギャンブラー……あなたは……あなたの『ポジション』を……管理できなかった……」


 モニターから最後の警告が消えた。


 ◇◇


 深夜0時20分


 十五分後。必死に上昇していた緑のローソク足が、突如として抵抗力を失い、奈落へと突き進んだ。 1%、2%、そして1時間後には20%の暴落。


「俺の、勝ちだ」 修治の目に表情はなかった。

当然の結果だ。


(トレードなど単純なことだ。ファンダメンタルズを失えば、適正価格に戻る。FOMOに踊らされた連中は、この一度の取引で全てを失う)


 彼は勝った。 彼が正しかったのだ。


 彼がポジション決済(平倉)ボタンを押した、まさにその時。 システムが応答しない。


「?」


「——なぜだ」 胸に冷たい動悸が走る。


「ネットワーク設定に問題はない。

まさか、取引所がダウンしたのか?

いや、あり得ない。

今時そんな初歩的エラーなど」


(まさか……奴らの反応が、これほど——) 伊月の警告が脳裏をよぎる。

(——計画的な通貨両替。現物資産の確保。だとしたら、奴らは——)


 ——彼の「完璧な理性」は「市場」の崩壊を読み切った。

だが、

「胴元(ディーラー)」が「回線切断(プラグ・プル)」という非道な手段で強制的に清算(リクイデーション)を行うことまでは、

計算に入れていなかった。


 その瞬間、最高レベルの赤色警報が地下実験室の壁を叩き、耳を劈くサイレンと金属の打撃音が交響曲のように響き渡った。


 棋盤市(ごばん)の海風が、死の匂いを運んでくる。


安和学院の静かな廊下は、爆発音と銃声によって引き裂かれた。

ヴァンガード(Vanguard)のヘリが空から急降下し、ローターが空気を切り裂く。

地上部隊がロボット兵の群れとなってキャンパスを蹂躙し、学生たちを無差別に撃ち抜いていく。


 地下実験室が鋼鉄の足音に揺れる。

「修治、ヴァンガードが全面突入しました」

伊月の仮想アバターが明滅し、ノイズ混じりの声が響く。


「キャンパス内の生存者はゼロ。

ルートは封鎖されました。

唯一の出口は——舞鶴港の潜水艦です」


 修治の全身から血の気が引いた。恐怖が理性を侵食しようとするのを、彼は奥歯を噛み締めて押さえつける。


「伊月、端末(ターミナル)に移行しろ。お前がナビゲートするんだ」


 廊下の突き当たり。

重厚な金属扉が、冷たい審判のように立ちはだかる。

修治はわずかに身をかがめ、両手で操縦ハンドルを握った。

スクリーンに伊月の表示が閃く。


「マスターロックをスキップ。5秒後に開きます」


 修治は地下駐車場へと続くトンネルの入り口に身を潜める。掌にじっとりと冷や汗が滲み、心臓が激しく鼓動していた——

 イヤホンから伊月の声が響く。彼女はすでにコアプログラムを修治の携帯端末に移していた。


「了解。……戦争危機用の旧避難通路へ。20年以上放棄されています。そこから地下駐車場へ」


 地下の冷たい路を駆け抜ける。伊月は彼のARグラスと携帯端末にハッキングし、リアルタイムで最適ルートを提示する。


「左だ! 奴らのGSAI(汎用特化型AI)の索敵パターンを予測、次の30秒は死角になる!」

 彼は愛用の内燃機関車に飛び乗った。その赤い車体と「Zoom-Zoom」というエンジン音が、今や場違いに響く。


「シートベルトを。私が制御します」


 伊月が車を掌握した瞬間、タイヤが悲鳴を上げた。車はヴァンガードの警備網の隙間を縫って、まるで幽霊のように棋盤市の街路を疾走し、地獄の只中へと突入した。


 交通と情報は徹底的に麻痺していた。ホログラム広告はノイズを撒き散らし、交通信号はすべて機能を停止。自動運転車が頭のない蠅のように互いに衝突し、幹線道路で炎上している。濃い煙が空を覆い隠していた。


 だが、より恐ろしいのは「神経同化者(ニューロ・アシミレーター)」たちだ。

 イェルムンガンドの「完璧な網(パーフェクト・グリッド)」とアゴラの信号が途絶えた途端、彼らは「完璧な市民」から「狂える獣」へと変貌した。


 修治は、彼らが茫然自失として路上にさまよい出し、やがて「断線」の極度の苦痛に絶叫するのを見た。彼らは互いに攻撃しあい、あるいは地面に跪き、すでに存在しないネットワークに再接続しようと、冷たい地面に狂ったように頭を打ち付けていた。

 そしてヴァンガードが、残酷な「狩り」を執行していた。


 彼らの機械的な歩みは正確無比で冷酷だ。それら「故障」した市民に対し、無差別に射撃を加えている。これは戦争ではない。単なる「デバッグ」だ。ヴァンガードのヘリが黒煙の中を旋回し、機銃の閃光が修治の強張った顔を照らし出した。」


 修治は息を深く吸い込み、胸にこみ上げる恐怖を、極端なまでの理性的計算へと無理やり押し込めた。彼は「狂った市民」と「狩る機械」の狭間で、唯一の活路を見出さねばならない。


「伊月、ルートをマークしろ!」


「都市監視システムに侵入中!」伊月の声が、唯一の理性的な錨だった。「ヴァンガードが市街地をグリッド化して掃討中です。交通ネットワークにハッキング、全ての警備車隊のルートをあなたの視界から『抹消』し、逆算した安全な回廊をマークしました」


 修治の手指はハンドルに貼り付いていた。その一回一回の操舵はミリ秒単位まで精密だった——伊月が彼のために、空中の脅威、路上の障害物、光の反射、そして不意に飛び出してくるかもしれない「狂った歩行者」まで、すべてを計算していたからだ。


 ◇◇


 舞鶴海軍基地。夜陰に紛れ、伊月が防衛システムに侵入する。 「旧式のたいげい型潜水艦だ。ハッチ解錠。端末をコントロールパネルに接続!」


 修治は冷たい船内(フネ)に転がり込む。

「2030年型……元は多人数操作(マルチクルー)設計だ。伊月、やれるのか!」


「演算リソースを集中させ、ワンマン・ドライブモードに切り替えます。浮力と動力を制御。航跡を安全なシーレーンにロック……!」


 伊月の演算コアが、彼の端末から潜水艦のメインホストへと転送される。 潜水艦が夜の海へと滑り出した。


 だが、安和学院を廃墟に変えたヴァンガードの追撃は、すでに始まっていた。 「マスター、海上追撃モードです。多数の無人機と哨戒艇が接近中。5分以内に海域は封鎖されます」


「潜航しろ! 最後まで援護しろ、伊月!」


「……了解。これが……最後です」


 潜水艦が冷たい水中に身を隠す。

 だが、追撃は執拗だった。


「ソナービーム接近。左舷へ3メートル急潜航、速度2ノット減速」


「敵機雷敷設帯。左へ12度転舵、深度プラス5、速度8ノット維持」


 伊月の指示は冷徹で、修治の指は機械のようにコンソールを叩く。恐怖と理性がせめぎ合う中、潜水艦は辛うじて死の網をすり抜けていく。


 やがて、追撃の音が遠のいた。 ヴァンガードのGSAIが、これ以上の追跡を「リスクとリターンが見合わない」と判断し、捜索を打ち切ったのだ。


 だが、安全には代償が伴った。 伊月は、潜水艦の強引なハッキングとヴァンガードの追跡妨害に全リソースを割いた結果、崩壊する学院の地下室に設置された自身の記憶モジュール(本体サーバー)を転送する演算能力を残していなかった。 彼女の本体は、建物の瓦礫と共に物理的に破壊された。


 潜水艦が外洋へ出た頃、通信機から最後の光が灯るかのように、彼女の声が聞こえた。


「……修治……この…… ドアホ……ギャンブラー……あなたは……あなたの『ポジション』を……管理できなかった……」


 通信が途絶えた。 彼女の光は、システムから完全に消え去った。


 ◇◇


 修治は、声も出さず、ただ麻痺したようにステータス表示を見つめていた。

 伊月は、世界で唯一彼を理解してくれた仲間だった。

 そして彼は、自らの手で彼女の死を招いた。


「すべて、俺のせいだ」

 寂静のコクピットに、彼の低い声が響く。


 その瞬間、胸の奥底で、名もなき裂け目が開いた。

 ——迷い。

 ——否、「迷茫(めいぼう)」の誕生だった。


 この「爆倉」は金融だけのものではない。

 理性を絶対視してきた彼自身の哲学が、音を立てて崩れ落ちていた。

 完璧な計画、完璧な分析、完璧なロジック——

 それらを破壊したのは、敵でも運命でもなく、自分の手だった。


 ──まただ。

 また俺はすべてを台無しにした。

 ああ、2020年代の俺もきっと、同じ顔でこんなことを呟いていただろうな。


「……俺は、何を信じていた?」

 その囁きは、自分への問いであり、自分を裁く刃でもあった。


「そのすべてを清算する完璧な計画……

 それを、俺自身の傲慢な『理性』が破壊した」


 彼はもはや、この感情に縛られた世界の住人ではなかった。


「これより先、感情が理性を妨害することを許さない。

 人類が生まれ持つ『感情バグ』は、すべて排除(デバッグ)する。

 極端な理性のみが、この混沌(カオス)の世界を俺のロジックに適合させる」


 彼の冷たい瞳が、ソナーの緑色の光を反射していた。


「……そうだ。

 すべての人々を理性的(ラショナル)にすること。

 かつて伊月が俺を理解したように、互いを理解させること。

 それこそが、この世界のあるべき姿だ」


 潜水艦は深海へと沈んでいく。

 北川修治は、心を完全に理性的な「計算機」へと冷却させ、

 世界を再構築する孤独な征途へと踏み出した。

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