『追放令嬢は薬草(ハーブ)に夢中 ~前世の知識でポーションを作っていたら、聖女様より崇められ、私を捨てた王太子が泣きついてきました~』
とびぃ
第1話 第1章 追放 1-1:退屈な夜会と計画の最終段階
王立学園の大広間を満たすのは、人の熱気と、虚栄心が放つ眩い光だった。
天井で輝く巨大なシャンデリアは、この国の魔導技術の粋を集めた逸品であり、その一つ一つの灯りが、床に磨き込まれた大理石の上で踊る貴族たちの宝石に反射し、無数の星屑を撒き散らしている。壁を飾る豪奢なタペストリーは、建国の英雄譚を色鮮やかな糸で描き出しているが、その前を通り過ぎる者たちの関心は、もっぱら互いのドレスの生地の質や、身に着けた装飾品のカラット数にしかない。
楽団が奏でる優雅なワルツは、人々の高揚したささやき声にかき消されまいと、必死に音量を上げているかのようだ。
卒業パーティー。それは、貴族の子弟にとって学園生活の終わりであると同時に、本格的な社交界デビュー、あるいは次世代の権力構造を固めるための、見えない戦いの始まりを意味していた。
(ああ、なんと……なんと退屈だわ)
ソフィア・フォン・クライネルトは、完璧な淑女の笑みを顔に貼り付けながら、内心で本日何度目か分からぬ深いため息をついた。
その表情は、アルベルト王太子の婚約者として、そしてクライネルト侯爵家の令嬢として、一分の隙もない。だが、その瞳の奥には、目の前の光景に対する絶望的なまでの無関心と、微かな冷笑が浮かんでいた。
手にしたヴェネツィアン・グラスの中身は、最高級の葡萄から絞られた果実水。その芳醇な香りは、この一杯で平民の数ヶ月分の生活費に相当することを示している。だが、今の彼女にとっては、前世で愛飲していた、研究室の片隅で飲むインスタントコーヒーや、実験の合間に口にする、少し焦がしてしまった薬草茶の方が、よほど刺激的で価値があるように思えた。
十八歳になったソフィア。その立場は、この国において王族に次ぐものだ。クライネルト侯爵家は代々王妃を輩出してきた名門であり、彼女がアルベルト王太子の婚約者となったのは、生まれる前から定められた既定路線だった。
その立場ゆえに、彼女は常に注目の的だった。今日も多くの貴族たちが、ひっきりなしに挨拶と称して彼女の機嫌を伺いに来る。
「ソフィア様、今宵も一段とお美しいですわ。その青いドレス、まるで夜空の星々をすべて縫い付けたかのようで」
「アルベルト殿下も、きっとソフィア様に見惚れていらっしゃいますね。これほどの才色兼備の妃殿下を迎えられるのですから」
お世辞の数々を、ソフィアは「ありがとう存じますわ」と、優雅に扇で口元を隠しながら受け流す。その仕草一つとっても、貴族令嬢の完璧な手本だった。
(見惚れる? あの人が私に? まさか)
ソフィアは、広間の向こうで、取り巻きたちに囲まれて得意げに笑う婚約者の姿を扇の陰から一瞥した。
アルベルトが自分に向ける視線が、憧憬や愛情の類でないことなど、とうの昔に気づいていた。彼が自分に見出すのは、クライネルト侯爵家という強大な「背景」と、彼の隣で完璧に振る舞い、彼の威光を高める「道具」としての価値だけだ。
そしてソフィアもまた、彼に何の感情も抱いていなかった。
いや、正確には「この世界」の貴族社会そのものに、何の価値も見出していなかった。
ソフィアには前世の記憶がある。
日本の製薬会社で、ハーブや生薬の研究に没頭していた研究者、葉山カオリとしての記憶が。三十代半ばで過労死した彼女は、気づけば異世界の侯爵令嬢ソフィアとして転生していた。
過労死。その言葉の響きは、今となっては滑稽ですらある。文字通り、研究に命を捧げたのだ。だが、カオリはそれを後悔していなかった。彼女の人生は研究室と共にあり、新しい発見こそが彼女のすべてだった。
そんなカオリにとって、転生後の生活は苦痛以外の何物でもなかった。
貴族の面倒な作法。内臓を締め付けるコルセットと、動きを制限する不自由なドレス。中身のない会話。研究一筋だったカオリの合理的な精神は、この非生産的で虚飾に満ちた日常に悲鳴を上げた。
(なぜ私が、こんな場所で、こんな人々のために時間を浪費しなければならないの?)
だが、ソフィアはこの世界で「発見」してしまった。
貴族の庭園の片隅に咲いていた、名もなき花。それは、前世で絶滅したとされていた希少な薬草に酷似していた。
触れた瞬間、脳内に電流が走った。
『——名称:ルナティア・ブルー。薬効:鎮静、魔力安定化。成分:ルナリシニン(未知のアルカロイド)……』
それは、この身に宿った不思議な力——触れた植物の成分や薬効が、脳内にデータとして流れ込んでくる『植物図鑑インターフェイス』の覚醒の瞬間だった。
気づいた時、彼女の魂は歓喜に打ち震えた。
(すごい……! なにこれ、最高のチートじゃない!)
前世では文献の中でしか知らなかった、あるいは存在すらしなかった未知の植物、未知の薬効。この世界は、彼女にとって未開拓の宝の山だった。
(研究がしたい)
土をいじり、薬草を育て、未知のポーションを開発したい。誰にも邪魔されず、この世界の植物学を極めたい。
それが、葉山カオリの記憶を持つ、ソフィア・フォン・クライネルトの、ただ一つの目標となった。
しかし、王太子の婚約者という立場は、その目標達成において最大の障害だった。王妃になれば、研究どころか土いじり一つままならない。待っているのは、今日のような退屈な夜会の、終わりのない延長戦だけだ。
だから、ソフィアは計画した。
——悪役令嬢として振る舞い、王太子から婚約破棄され、追放される。
幸い、格好の「獲物」も現れた。
平民でありながら強大な治癒魔法に目覚め、異例の速さで「聖女」として認定されたリリアだ。
世間知らずで、作法も知らず、ただ王太子の庇護欲だけを刺激する少女。アルベルトが彼女に惹かれるのは時間の問題だった。
ソフィアは、リリアの些細な作法違反を、わざと大衆の面前で「冷静に」指摘し続けた。リリアが王太子に泣きつくように仕向けた。プライドが高く短絡的なアルベルトが、ソフィアを「嫉妬深く傲慢な悪役令嬢」と断じるように誘導した。
(すべては、自由な研究室(ラボ)を手に入れるため)
今日の卒業パーティーが、計画の最終段階。ソフィアは、この日のために用意した「切り札」を、ドレスの袖に忍ばせたポケットの中でそっと確かめた。絹のハンカチの、わずかな湿り気。それが、彼女の自由への鍵だった。
ざわり、と会場の空気が揺れた。
それまで鳴り響いていた楽団の演奏が、指揮者の合図でぴたりと止む。人々の視線が、まるで示し合わせたかのように大広間の入り口へと集まった。
そこに立っていたのは、この国の太陽たる王太子アルベルト。そして、その腕に守られるように寄り添う聖女リリアだった。
金色の髪を光らせるアルベルトは、自らの権威を示すかのように胸を張り、リリアは、対照的に真っ白なドレスに身を包み、潤んだ瞳で何かに怯えるようにアルベルトを見上げている。その姿は、庇護欲を掻き立てる「可憐なヒロイン」そのものだ。
(役者は揃ったわね)
ソフィアは、その完璧な演出に内心で拍手を送った。
アルベルトが、まっすぐにソフィアを見据え、一歩、また一歩と近づいてくる。その顔には、正義の執行者気取りの、独善的な怒りが浮かんでいた。
(そう、その顔よ。私という「悪」を裁く、愚かな「正義」の顔)
ソフィアは、背筋を伸ばし、完璧な笑みで彼らを迎え撃つ準備を整えた。
待ちに待った、断罪劇の幕開けだ。
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