カラーズ
丹路槇
カラーズ
倉庫の隅、古いスチール製の事務用デスクが積み重なったできた空間に、僕は靴を手に持ち裸足で立たされていた。廃品になる寸前の事務用デスクにはふたりの男が座っていて、ひとりの足もとには従順な大型犬が伏せて待っている。彼らを軍人と呼ぶには恰好が軽装だと思ったけれど、敵を銃で撃ったり迷彩服で戦車に乗り込んだりする役は、もう人間には課されていないのかもしれなかった。
「名前は」
男が眼前の標的、つまり僕に向かって言った。何か猶予を与えられているらしかった。少しでも怪しいと思ったら、きっと今頃カヤフの収容所行きの貨物便に詰め込まれて終わりだったもの。
僕は慎重に頭の中の語彙をたどって、「シン」と答えた。口にしてすぐ、クリアらしい名前を選べたことにほっとした。犬を持たない方の男がじろじろと僕を見た。何を見たって分からないはずなのだ、身体的特徴にほとんど差異はなく、すべては自らの申告によってしか区分がされていたことだから。存在そのものを信じていない人間だっている。僕だってこれが特別なことだとは思っていなかった。
床に伏せていた犬が短く唸って、ひとりの男が舌打ちした。
「親は」
「父はエンジニアでした。母は事務員。研究者ではありません」
「出身は」
「ラワウです。最近ダットに移住しました。送還で」
「情報はすべて基盤に登録しているか」
「ええ」
カードを、と言われて、IDを差し出した。中の情報はもちろん、シンのパーソナリティについてはまったく書き込まれていない。展開した人物像がどうか髭面のおじさんだったりしませんように、と祈りながら、軍人が手元の端末で参照したデータを一緒に見上げた。住民の基盤管理という体制において、クリアの情報技術は科学的で〝伝統的〟だ。IDには名前も生年月日も記載されていないが、十二桁の数字が一意で与えられていた。僕はそれで中の人間がだいたいどんな感じなのかを分かって盗んできたのだ。ああ、だいたい自分と似たような色だ、と即座に判断した。その判断が万に一つでも外れる仮定をするか? しない。絶対に。信憑性について議論したいのはクリアの中だけで、僕らとは何も関係がないもの。
IDの中身はだいたい十八歳くらいの男性で、シャーナという名前が記されていた。目の色も同じ、髪は僕よりもまっすぐで短い。笑顔が上手で戸籍登録はカバネアだった。
軍人はしてやったりという顔で「誰だ」と怒号した。
「兄です」
僕は落ち着き払って言った。
「昨年の空爆で病院への支援中に死にました。僕は肉体を兄に預けてそのIDで生きることにしました。浮浪者にしておくよりも予備役登録が簡単でしょう。僕のIDはもう見つからないし」
「なぜ」
「病棟にいた兵士がプシークにかかって、僕の持ち物をぜんぶ奪い、壊してしまいました。新しいIDの発行には時間がかかります。許可されるまでは兄として生きます」
ちなみに僕には男の身内はおろかこどもの頃に同性と遊んだこともない。市中の社会保険病院で死んだのは兄ではなく市役所のリモさんだった。負傷した徴兵の青年が精神疾患に陥って暴走したのは本当だ。でもそれは精神神経科を受け入れる特殊病棟ではごく日常のありふれた風景だったし、街に軍人がやってきたことと入院患者との関係もまったくない。
彼らは僕のID情報の不整合から視線を離し、兵士が我を忘れて暴走したというひとつの報告に心を傷めた。僕にカードを返し、ここに連れてくるまでにいくつか施した暴力の結果でよれた身形を無理やり整えさせ、速やかに退出することを命じた。
「IDは既に登録してある。必要に応じて居住区の再配置をする。伝達は欠かさずに見ること。家族の生存者は全員届け出させろ」
「はい」
「速やかにだ」
「分かりました、速やかに」
シャーナの弟ということになった僕は、実際の歳よりもひとつかふたつ幼く見えるような目をして、真剣にうなずいてみせた。
これはゲームではない。逃げられるかどうかではなく、いつも死の瞬間が連続してできている。銃を持たない軽装でも軍人はご覧の通り街の生活のそこここに入り込み、僕らを見張り、結成を阻害し、種の根絶を着実に遂行していた。
軍人は胸ポケットからチェーンを手繰って丸形のプレートを引き出した。懐中時計の形を模したそれはIDや管理情報を参照・編集するためのマスター機能がついたベーシックな端末だった。チタン製のカバーには決まりのデザインが彫刻されている。文字盤にはアナログ時計と同じで3、6、9、12と数が刻まれていた。
幾度となく見てきたその数字をあらかじめ頭の中で思い浮かべながら、僕は小さく深呼吸した。子どもの頃から何度もトライしている、繰り返し訓練でしくじらない技術を叩きこまれてきた、いつも通りにやるだけ、今日も絶対に大丈夫だ。
吐く息を気取られないように歯の隙間からゆっくりと口の外へ押し出した。軍人がいちど手のひらにおさめた文字盤をひらっと返し、僕の目の前につき出した。
「何に見える」
目の前にふわっと色が瞬いた。3のピンク、6の水色、9の群青、12はふたつの数字が合わさって紫になる。マジックアワー。空気が澄んだ日の夕暮れが思い浮かばれ、目の奥がじわりと熱くなった。
「数字です」
微かに声が震えた。ここで失敗はできない。
「3と6と9と12です。長針と短針のない時計、そうでしょう、ただそれだけです」
もう余計なことを言うまいと、僕は口を結んだ。軍人は何かを言うかわりに、笑顔で深くうなずいた。
僕は拘束された。どこが次の送還先なのか、告げられなかった。
数字や文字に印刷以外の色がついて見えることは、余計なものであっても秀でていると考えたことはいちどもなかったと思う。1という数字が目の前にあったとき、その文字の色が何色であっても常に意味としての色が赤に見えるのは得でも損でもなかったし、特に大きな意味を成すことではなかった。1の他にも、「さ」とか「明」とか「ダ」が赤に見える。文字は集合すると一文字ずつの時に与えられていた色とは別の色に変化する。たとえば、「明」は赤だけど、「明日」はレモンクリームみたいな色に見えた。そして何度「明日」を見ても必ず同じ色に見えたし、人名や地名、ものの名前を文字ではじめに見た時点で、僕にとってそれが好きか嫌いか、あらかじめ判断できることが多くあった。苗字と名前がそろって水色の人間が好きだなとか、緑色と茶色の組み合わせはあまりいいことが起こらないなとか、紫には嘘が多く含まれているな、とか。
他人のIDを拾った理由もそれだった。無作為に並べられた十二桁の数字で、僕はカードの中身の人物が僕と親和性の高いことをあらかじめ知っていた。送還先を告げないのは文字を見せると副次的な意味を即座に収集することができるから。幼い頃の遊びでそれはさんざん母から教わって心得ていた。絵合わせのように文字を足したり繋げたりして、ひとつの集合からあらゆる意味を探っていくのだ。そうやって地名や人名はもちろん、言葉や記号、ナンバーと付き合っていくことが僕らにとって普通だった。仲間同士のチャットやメッセージはいつも短く簡潔で、本題に触れていないことも普通なのだ。
見えない者にとって、それがどれくらい厄介で迷惑で、存在することが疎ましいのか、僕には分からない。
クリアたちは僕らのことをカラーズと呼ぶ。
色がつくなんて余計なこと、無駄なだけ、正しい本当の情報に比べたら弱くて二次的で不正確だ。僕らはそれを子どもの時に憶えた遊びとか、時たま心を落ち着けるために使う癖くらいにしか思っていない。
でもだめなんだ。クリアには僕らが結託して種の優を決め、線引きし、排他的な行動に出ようとするみたいに見えてしまう。いっぺんそうラベリングされてしまうと、彼らと何ら違いのない、僕らもごく普通の人間だという、こちらの釈明はひとつも受け入れられないのだった。
父は市街が武装化する何年も前に、思想統制によって虐殺された。そうなるとたいてい一家皆殺しの目に遭うけれど、母と僕はカラーズの共営住宅にさっさと入居していて、貧困の濃い霧の中にいたから、摘まみだされて始末されることから免れた。IDはプシークの兵士ではなく自分の手で折った。あっても意味のないものだもの。僕の十二桁はモスグリーンに泥を塗ったみたいな色で、感動するほど大嫌いな羅列だった。母も「イクスに似合わないね」と笑っていた。母はライラックみたいな綺麗な色のひとで、やつれていても美人で、賢くて冷静だった。残飯を収集しに行く時は、息子に申し訳なさそうな顔をせず、分量を決めて淡々と作業をした。たくさんもらえそうな日があってもすぐに切り上げようとするので、備蓄にしておかないのかと聞かれると、食べられそうに見えるものは大量の防腐剤が入っていることを教えてくれた。その二日後に、共営住宅で腹痛が重症化した大人が何人も出た。彼らは僕と同じように、ただ文字や数字を色で見るだけの仲間だけど、きっと母は、音や匂いも色で見えるひとだったのではないか、と今になって思う。
彼女とは半年前に別れたきり、再会できていない。僕が教会に行っている数十分の間に母は失踪した。軍の利用目的で連行されてしまったのだろうか。そうだとしたら、彼女は自分が生きているのと死んでいるのと、どちらが僕の命を守れるのか、即座に判断してしまっているだろう。僕はさほど聡明でもなく、身体能力が高くもなければ、何かを切り拓くような力も持たない、ふつうに成長してふつうの大人になろうとしていた。
だから困った。今、送還で詰め込まれた粗末な貨物スペースの中で、僕の足を踏んづけてくる人間に、ふつうの怒りを覚えていたからだ。
「くそ」
ひとがひしめく暗闇の中で、憚らず大きな悪態をもらした。相手も僕に気づいた。
「手を縛られていないのか」
僕を見て彼はへえと感心していた。これから、きっと今までと同じくらい汚くて寂しいところへ連れて行かれようとしているのに、足を踏んでいた男の表情は明るかった。
「解いてくれない?」
「どうして、いやだよ」
僕が鼻面に皺を寄せて僅かに彼から離れようとすると、反動でひしめく人の波がぎゅうと押し寄せ内臓をひどく圧迫した。
「ほら、きみのせいで」
「……最低」
自分で出た言葉が思考の中で文字になる。最低は「最」だけだと黄色、「低」は薄橙だけど、ふたつが合わさるとなぜだか青緑になる。最低がちょっと好きな色に見えるのは、その言葉を使う時じっさいは最低のみっつくらい手前の段階のことが多いからじゃないかな、と勝手に思っている。まわりにいる仲間たちも、僕の言葉につられてややほっとしているみたいだった。
この先いつ死んだっていいけれど、今が死ぬ瞬間だと思っていない限り、もし間違って死んでしまった時、なんだか呆気なくてびっくりしたまま事切れてしまうかもしれないと、それだけがたまに怖くなる。後ろ手に縛られた男の上に触れて、もしこれで紐を解いている間に刃物で刺されたり体に穴を開けられたりして死ぬのならぜひそうしたいと願った。
クリアはきっと、カラーズを抑制している間は自分たちが殺される日がくるなどとは思っていないのだろう。市街での闘争状態とはまったく別次元で、世界では別の戦争が起きていた。クリアが死ぬのは肉体の破壊ではなく脳のシャットダウンと考えるのがふさわしい。純粋に速くて正確なものが強くあり、他は追従の余地なく滅ぼされる。クリアが対峙しているのは世界の情報駆け引きだった。もう人間の出番なんてまったくない領域だ。父が生きていればそこに何かを提示できたかもしれないけれど、他者から盗んだり、改竄したり、模倣したりして生成しあうものやことについて、僕にはよく理解ができない。
ただ泥棒と同じような人間としてラベリングされた僕らは、戒告を受け、収容され、クリアたちに淘汰される運命であり、世界の勢力抗争の中にいる様々な種のヒト、そのどれにも含まれていないみたいだった。
男の手を束ねていた紐が解けた。足も結ばれていたみたいで、彼は片腕をもみくちゃになっているひとの間に滑り込ませて器用にそれも外した。肩をすぼめて腕を上げ、ついさっき最低と言ったばかりの僕の方へ振り向いてから、にこにこして「レッテン」と名乗った。目の前にあたたかい蜜柑色が広がった。きっと貨物車の中のみんな、同じ色を見ていたと思う。
たくさんの大人と子どもを運ぶ貨物の輸送便は、日没後、悪天候によって立往生となった。今までに想像したことのない雨量の雨が冷たい空から降り注ぎ、レールを敷いた路面をあっという間に沈めて川にしてしまうだけの濁った水をあふれさせた。ごうごうと音がするのは、坂の上から溜まった雨が滑り落ちていているから。そのうち落石や土砂崩れが始まると言った年長者の煽りによって、僕らはすっかり震え上がった。
壁際にいる人間が外の様子を窺う。ここから脱出できたとしても、腰の高さを越えて粟立つ濁流に流されてこの世からも脱出してしまうとその声はみんなに絶望を伝えた。ひそひそと小さな会議がいくつか行われた。じきに、ある家長がうちは心中することに決めたと言うと、まわりが一斉に視線を集める。
「迷惑だ」
「勝手にやってくれ」
「輸送団も今に貨物を見捨てる」
「雨が上がることを祈るしかないんだよ」
刺々しい声が行き交う中で、見ると水色になる言葉だけ頭の中で文字の形になって浮かんだ。少し、決壊、ボート、東、トレーター、出口、ナイフ。
騒ぎを黙らせるために誰かが振り上げたナイフを、別の誰かが拳で叩き落とした。また別の誰かの額と頬をナイフが裂いた。ぎゃっと飛び退いた怪我人の手がナイフを跳ね除けると、鈍色の尖った葉っぱみたいな光はひらひらっと凄い速さで人々の中へ潜っていった。床へ落ちた音がしない。大きな悲しみの予感でいっぱいになる。
腕を後ろに引かれる。短い耳打ちがぱっと意識に広がった。
「銀の子」
なぜ僕の名前が分かるの? ペンで記せば名前が星屑みたいに光るのは、僕が両親からもらったいちばんの宝物だった。
「一緒に落ちよう」
レッテンは笑っていた。カラーズの中でもとびきり言葉遊びに長けているひとなのかもしれないと思った。僕らはしばしば、同じ色を違う言葉に置き換えて遊ぶことがある。彼のせりふを頭の中で思い浮かべると、すぐに音を立てて燃える火の色でいっぱいになった。
混乱する貨物車の端まで移動する。レッテンは胸ポケットから自分のIDを取り出して鉄扉の錠の前に翳した。鍵が内側から開いた。
やめろ、と誰かが怒鳴ったけれど、僕とレッテンは振り返らず貨物車から外へ飛び出した。
線路も道も分からないくらい、雨の川があたりに広がっていた。動きは緩慢だがぬるぬるとした流れに捕まると有無を言わさず押し流された。自動車、自動販売機、商店の屋根、人間や犬の体のようなもの、電線が絡まったままの電柱が袖から垂れた糸屑みたいにぶらぶら揺れている。
何が正しい判断なのか分からないまま、近くにあったバンの屋根にしがみついてどうにか体が沈んでしまわないようにした。雨の川はたぷんたぷんと押して引いてを繰り返しているようだった。貨物車はいつの間にか海辺まで走ってきていたのだろうか。街が急坂に囲まれたラワウや平たい湿地のダットにしかいなかった僕は、大きな水に人や乗り物が簡単に攫われてしまう情景にただ呆然とするばかりだった。
近くを漂っているバンにつかまって頭を浮かべているだけであっという間に送還車両は見えなくなった。貨物車は誰か内側からまた鍵を閉めていれば壊れたり倒れたりはしないはずだ。靴は履いていて助かったが、重たくて邪魔な服は飛び込む前に脱いでしまえばよかった。
流れる途中で大きな幌のようなものに小さい玉がいくつもくっついているのが見えた。通り過ぎてから、それはコートの防風ネットにしがみついている人間の姿だったと気づく。川に攫われまいと同じものに縋るひとは互いの姿が見えているのだろうか。中に子どもはいた? ぐねぐねと撓むものを掴み続ける手の力がふいに抜けてしまった時の、あっという間に死へ吸い込まれる絶望のひとつ手前で、僕なら最後に何をするだろう。死んだ父やはぐれてしまった母について誰かに語るだろうか、それとも今までの傷や疼きへの恨み言を? いや、本当に死ぬ時は準備もさせてもらえないはずだ。神に祈ったり不徳に罵り声をあげていたりしていれば、きっとその時はまだ僕は生きている。
一緒に落ちよう、と言っていた男の顔を思い出した。目の周りを覆う睫毛が奇妙な形をしていた。毛が白いからだ、彼は襟足と髭と眉毛も塗料で染めたみたいに硬い白色をしていた。
「レッテン」
声に出すと、名前の穏やかな蜜柑色に彼の白がふわっと重なった。レッテン、レッテン。何度か呼びかけたが、男は雨の川の上には浮かんでこなかった。
夜明けになる。雨は降り止んでいた。赤や黄色のボートがいくつか出されていて、僕は通りがかった三隻目に引き上げられ、ボートの端へ座った。引き上げられた体は重たくてずっと痺れていた。もう二度とペンを持ったり端末で認証コードを入力したりすることはかなわなさそうだと思うくらい、不随意な指の震えは止まらなかった。
ボートの中には見覚えのある顔がいた。心中一家の子どもがひとり、たぶん弟の方が先に助け出されていた。その周りにいる何人かの男ももしかしたら貨物車からの脱走者かもしれなかったが、記憶は定かではなかった。
ボートはゆっくりと遡上し、土地が高く浸水を免れた緩やかな坂道の入口へ行き着いた。アスファルトは泥や瓦礫で汚れ、まったく未舗装の田舎道のようになっていた。
潮の匂いはあまりしないが海が近い気がした。操舵者に場所を尋ねると、ここはヅヌマだと返された。これまでカラーズはみなカヤフに集められてそこが終着となると言われていたので、遠い港町に連れてこられてしまったことに驚いた。ここで僕らに肉体労働を課すなどして消費しようとしているのだろうか。クリアはずいぶん前から僕らを集団で行動させることをことごとく阻害し続けてきた。起業の禁止、法人化の禁止、土地所有の禁止、居住地エリア外との交信禁止、文字使用の禁止。
ヅヌマから何日もかけて歩き続ければ、ひと月足らずでダットへは帰れるかもしれない。けれど向こうへ帰って僕の味方になる存在はもう残っていなかった。レッテンはこのまま死んだことになるのだろうか。一緒に落ちよう、また、頭の片隅で美しい綴りが浮かぶ。
避難した僕らのところへ、少しするとふたりの軍人が現れた。着ている服は薄い乾きやすい生地のようだが、ここに来る前に僕を尋問していたふたりよりはしっかりとした恰好をしていた。伴する犬は鼻が短くて、温和というよりもぼんやりした性格に見える。軍人の膝ほどの高さにある一対の目が僕と合うと、彼は垂れた耳を広げ、唾を飛ばしながら鋭く吠え始めた。ここにある何を危険信号だと察知したのか。周囲を見渡し状況を的確に見定めようという前に、家族と離れた子どもは悲鳴をあげて逃走した。坂道のすぐ脇に葉の香りが独特な低層の樹林が広がっていた。茂みの中へ潜る子どもは、片方の靴が脱げたまま姿を消す。首を乱暴に振ってリードを外せと催促していた犬は、ひとりの軍人の手で放たれ、すぐに後を追った。
空になったリードを手繰る軍人とは別の方が、さっそく胸ポケットから取り出した端末で早速遭難者たちの把握と管理をはじめようとしていた。
「一列に並んで、IDを差し出せ。出身地と名前は大きな声で」
クリアはカラーズに命令し、IDの数と基礎データで拘束する。情報はすべてコードになって処理される。故意に書き換えることも、その改竄を追跡して暴くことも自由だ。データは常にスキャニングされ、加工の汚れだらけでサンドペーストがかかったものをなんとかクリーニングして読み取ることばかり繰り返している。
のろのろと先を譲り合いながら作られる列にくっついて、口の中に残っているドブっぽい唾を飲み込んだ。無造作に並べられた十二桁の数字を読み込み、どこでいくら稼いだか、いつ誰と食事をして宿に泊まったか、輸血をしたことはあるか、性別は出生から転換していないか、もっと煩雑でオブラートのない開示の祭りが開催される。僕らは全裸にされることに慣れすぎている。怒りも羞恥も失意も、カードの中ではコード化されて凍結された状態で扱われた。
お前はカラーズか。違います。これを見ろ。懐中時計型の文字盤を読まされる。3、6、9、12、3、6、9、12……。
僕の番がきた。はじめから戸籍に記されたシャーナを名乗った。目の色の他は特別僕に似ているわけでもないし、年も身の丈もまったく同じではなかったけれど咎められなかった。例の懐中時計を翳して、なぜか軍人の方がうんざりした声で言った。
「何に見える」
少しの間、思案した。
「失礼、その、あまり高価なものには見えません」
「勘定をしろと言ったわけじゃない、形だ」
「御伽話に出てくる魔法の道具ですかね」
「ふざけているのか」
犬の飼い主ではない方の軍人が苛立って腰のベルトをぐいと掴んだ。僕は肩をすくめて、借り物のIDを再び胸ポケットの中に落とした。
「僕が見た本の挿絵に、ちょうど貴方が持っているのとほんとうにそっくりのデザインが載っていたんです。この作者は同じ本を読んで知っていて制作したんじゃないかな。懐かしい、小さい頃に、本のページをめくった時の反った感じとか、紙の感触、古いインクの匂いまで憶えています。素敵な話だったんです、何度も読み返した。いつもそのページは必ず開くから、すっかり折り痕もついてしまった。その本はいつもカリンの木の本棚にしまってあって」
もういい、と話は遮られ、僕は列から外れるくらいまで思いきり突き飛ばされた。軍人は怒鳴った。逃げた子どもを探し出せ。その言葉は、壁紙に投げつけられて潰れたみたいな、プリンの卵とカラメルの色になった。
僕は踵を返して列から離れ、背の低い木の間に体を差し込んで樹林へ潜っていった。
逃亡の許可は喉元につきつけられたナイフと同じだ。僕はこの先、そこらじゅうに従軍するクリアの人間によって二度と見つかってはいけないことになった。
樹林の向こうには大きな石の堆積する急斜面があり、小川も流れていた。水面に直接頭を屈めて流水を飲む。入口に落ちたままの靴を拾ってこなかったのを後悔したのは、ほどなくして子どもの亡骸を見つけたからだった。
送還の貨物車が途中で豪雨と冠水に巻き込まれてからあとはあっという間に何日も経った。はじめの七日間は枯れ葉に印をつけて日付を数えていたけれど、空腹の時間を数えているみたいになってやめてしまった。
堪えきれず林を出て深夜の幹線道路へおりたことがある。体臭で怪しまれるから店の出入口のそばに近づかないように気をつけた。バラックで暮らしている頃に母がしていたのと同じように、飲食店や商店の裏にあるゴミ捨て場で手際良く残飯を見繕って腹を満たした。深夜の時間でも軍用車はのどかな国道を巡回で走っていた。乗用車と少し違うエンジン音と独特な排気ガスの匂いを嗅ぎ取る。乗車しているふたり一組の軍人が特に目的もなく車窓の外を眺めていた。その視界に入らないように、音を立てないようにして建物の影に潜む。
そのうち空腹に耐えられなくなると、僕は昼間の農地にも顔を出すようになった。側溝の掃除に難儀している老人に声をかけて作業を手伝い「何か食べさせてくれませんか」と頼むと、事情を聞かずに家に連れていってくれた。収穫した野菜を洗うところで汚れた手足と顔を洗い、頭から水を浴びた。
老人は海苔に巻かれた大きなオムスビと漬物を二切れ出してくれた。今夜くらいなら泊まってもいい、言ってくれたので、廊下に毛布を出してもらって、ふたつに折ってその中で体を畳んで寝た。
食事の後、老人から出生や歳を聞かれた。ダットから来たとは言わずに「川の東側」ということにしておいた。親は。いません。カラーズの知り合いはいるか。いません。ひとりでどうしていたんだ。川の水を飲んでいました。学校は。肩をすくめるだけにしてなにも答えなかった。
「まだ子どもじゃないか」
老人はまるで僕がその子どもを虐げているみたいな物言いでため息をついた。
「我々は今に猫ではなく犬しか飼えなくなるし、その犬も茶色ではないとだめだと言われるし、一重まぶたの者、爪が丸い者、順番に連れて行かれる。我々は裸にされて石鹸に作り変えられる」
故事に出てくる人間石鹸の話は後世に残る有名な嘘だ。僕は憂いの深い老人を心の中で慰めたけれど、彼のため息は深くなるばかりだった。
夜中、老人の家に人が訪ねてきた。僕は物音がするまでぐっすり眠っていた。言い争っている声を聞いてふいに目を開ける。老人は軍人ふたりと対峙していた。
「IDを」
「持っていない」
「隠さず提示しろ」
「若造、何度もおれにそんな大仰な口をきけると思うなよ。あんなちんけな台帳、書き換えられてもう死んだことになってる」
「それはいつだ。改竄されたIDを見せろ」
「偉そうに」
頑として譲らず立ち阻む老人にふたりの軍人は苛立ち始める。
「カラーズを匿っているという通報があった」
「まさか。ここらではもう何年も見ていないよ」
「三週間前の豪雨からまだ収容できていない人間が残っている」
「はあ、怠慢じゃないのかね」
軍人のうちのひとりが、廊下にある毛布の存在に気づいた。あれは何だと老人を詰ると、老人はすました声で応じた。
「親戚から預かっている子さ」
話しぶりからして、初めての説明ではなさそうだった。
「特別な子だよ。心が少し難しくて、しばらくここにいる」
それで軍人もそれ以上の言及をやめた。彼らにも触れてはいけない領域が存在することに僕は驚いた。
最後にふたりの侵入者は老人に懐中時計型の端末を見せた。表面の装飾に明かりを当て、これが何か分かるか、といつも僕らにするのと同じようにそれを見せた。軍人はうっすらと笑っていた。老人は憤怒して大声をあげた。
「貴様らは駐留から日が浅い、今夜に限ってその浅はかな行いを許してやる」
曲がった背筋を伸ばした老人は、節くれだった長い指を男たちにつきつけた。
「おれに〝検査〟をするなんて愚かなことは二度と考えないことだ。次に同じ過ちを犯した時には、その重大な行為についてすべて子細におのおの履歴に書き記してやるとしよう」
夜半の軍人たちは冷笑を浮かべていたが、顔は不自然に強張っていた。
僕はその時に初めて気づく。クリアの人間は文字を見る行為について、既知を確かめる以外に屈辱の意味を持ってしているということを。僕らへの侮蔑であるならそれは仕方のないことだったが、それとは別に何か、自分たちには理解しがたいことについて指摘されないように互いを必死に咎め合っているように見えた。
軍人たちが去った後、老人は僕のところまでゆっくりと歩み寄った。毛布をめくられるより先にこちらが這い出していき、どんなことを言われたり尋ねられたりしても、ただ首を横に振った。
僕は老人の家を出た。彼が特別な子だと呼ぶのに悪意はなかったはずだけど、僕がそれを受容することもないのだろうと思った。
線路が敷かれた場所へ戻ることにした。空が暗くなってから貨物や旅客の車両が通った時に、発車で緩やかに加速するところに飛び乗ろうと思った。
茂みで少しの間潜んでいると、先頭に赤いランプを灯した貨物車がやってきた。停車した車両がぷすんぷすんとガスを吐いている。後ろの方に半身を乗り出して見張りが車両の端から端まで目視で確認をしていた。列車は三分足らずの停車で再び行先を目指して前へ滑り出した。
見張りの男が車両の中へ引っ込んでドアの錠を下ろした。草陰から走り出て追いかける。
別の影が線路の向こう側の草陰から列車に向かって走ったのも同時だった。男がひとりふたり、合わせて五人はいるだろうか。服の袖を靡かせて走る先頭の男の顔が見えた。ひどく汚れていたが、豪雨の日に一家心中を宣言していた父親だった。
仲間が生きていることへの祝福も、雨の翌朝に彼の家族は林の中で死んだという告解も、今の僕とは結びつかない不思議なものとしてまわりにうっすらと漂うだけになっていた。向こうもこちらに気づいたのか、ちらちらと視線が送られた。僕が悪いのか、それとも彼の目は、ここにはいないレッテンを戒めようとしているのか。
走る男たちは次々に車両の端へぶら下がり、よじ登り、姿を消していった。僕の目の前にも短いはしごの先が近づいてきた。これに掴まれば今の場所から幾分か離れられる。ペンキが剥げた鉄の棒を掴んで必死に走ったが、僕の手が少し小さくて滑り、しがみつく前に列車は走り去ってしまった。
別の日にも列車との追いかけっこは繰り返された。観察した限り、先頭のランプが赤は貨物ではしごのパイプが太め、旅客車は黄色いランプでステップの鉄板がついていた。僕は走りながらステップに紐をくくりつけて腕を固定し、手足でぶら下がれば列車に掴まれるという何度かの成功体験をした。あとは作業を手早く、なるべく速く走る、ぶら下がった後の体の方向転換を慎重に。
何度かのトレーニングの末、次は必ず成功できるだろうと思った。ただ、時間は予定よりかなり経過してしまっていた。僕の時間感覚が間違っていなければ、今は真夜中に近い。じきに最終列車がやってきて、そして僕は、乗車に成功する。
草の上に頭が出ないように、ほとんど這う格好で線路の脇を移動する。レールが弧を描く景色のいちばん奥を見定める。真っ暗の中に目がふたつのランプが現れるのを待つ。足の先に固いものが当たって反射で身震いしてしまった。小石が転がる乾いた音。大丈夫だ、今度は乗れる、次で最後だ。耳の中が自分の鼓動でいっぱいになる。
突然、足がずるっと引きずられてうつ伏せのバランスが崩れた。元の位置に留まろうと前に手を伸ばすと力任せに両腕を押さえられた。僕を拘束した手は傷だらけで埃っぽかった。雑草の間に白い毛が見える。レッテンだった。
「銀の子、生きていた」
彼は流離の間に驚くほど痩せていた。頬が削げ落ち、目は落ち窪み、顎は黴が生えたように髭で覆われていた。話すと口から酸っぱい臭いがする。僕がずるずると這い出て、彼の額に自分の鼻面を擦りつけると、彼は子どもの頃に自分も母親にそうしたと言って笑った。
「一緒に……」
口から出かかった言葉は形になる前に遮られる。
「どうしたいか教えてくれ」
彼は僕と一緒に列車を待つと言ってくれた。はしごとステップのこと、先頭車両のランプの色について説明した。
途中、軍人たちのバンが堤防の方を走っていくのがいちどだけ見えた。その晩は冷たい風が強く吹く夜で、僕らの話し声をうまくかき消してくれた。
「時間の感覚はなんとなくだけど、もうすぐ次の電車がくるはずなんだ」
「間違いないだろうな」
痩せたレッテンが請け合った。
「黄色いランプの列車が来る、真ん中あたりの車両で、ステップが見えたらすぐに走って乗り込むんだ」
「分かった、うまくやるよ」
その時、深い闇の中からチカッと小さな瞬きが見えた。来た。折れた草の上に両の拳を置く。ズズン、ズズンとレールに鉄の車輪の動きが伝播して音が広がっていった。
ランプの色が白からだんだん変化していく。闇の中で灯りが膨張して見えるようになった。ランプは赤だった。
隣でがさっと大きな音がして、大股で雑草を踏むレッテンが飛び出してきた。僕の腕を掴み上げ、猛烈な速さで走る。彼の腕に引っ張られ、足が何度ももつれて転びそうになりながらあとをついていった。あっという間に太腿も足の裏も痛くなったけど、そのあとすぐに痛みも感じられなくなり、息ができているのかも分からず、耳の奥まで突き刺さるごうごうという風の音でいっぱいの夜を駆けた。
もしも今が死ぬ時だとして、それはきっとレッテンの腕が解けて僕がひとりだけ走れなくなりこの場で倒れ、もう起き上がる気力もなく草地で朽ちることになるのだと思うと、それだけは絶対に嫌だった。嗚咽が出ないように息を止めると足が少し速くなった。レッテンが先にはしごに手をかける。ぐいと僕の腕を引き寄せると、僕にもそれを掴ませようとして、さらに尻を何度も押し上げ、自分より先に列車に乗せた。
「絶対に落ちるな」
彼はそれから少し減速すると、また一気に走り込んで追いつき、はしごによじのぼった。彼の服を掴んで引き寄せ、狭い格子の上に身を寄せてしゃがむ。僕が何度か頭が前に傾いて落っこちそうになり、レッテンは腕を広げてそれを押し戻した。
「手を縛ってくれ」
レッテンが腕をベルトのようにして僕を囲み、離れないようにがっちりと手を組んだ。僕が彼の両の手首をはしごのパイプに絡めて括りつけた。ポケットの中には奇跡的に紐が残っていた。解けなくなると困るから絶対に此処にいてくれよ、と彼は笑った。
列車は信じられないほど加速して、車輪が外れそうなくらい大きく揺れ、何度も長いトンネルを抜けた。夜でも海を見たら分かるかもしれないと思ったが、湾岸が見えるのは車両の反対側なのか、こちら側の情景は山肌と侘しい光の漏れる市街がぽつぽつと映るだけだった。
長い沈黙のあとに、いちど、旅客用ではない発着駅での停車があった。電灯を持つ人間がふたり、車両の端に現れたので、見回りで列車の確認があるのではないかと戦慄した。しかし電灯はぷらぷらと闇に揺れ、列車の中から出てきた電灯と交代すると、降りた電灯はまっすぐ駅舎へ向かったきりになった。
発車して少しして、そのことを話すと、レッテンは僕に回している腕をぎゅうと締めた。
「きみのおかげだよ」
体をくっつけている男の体が、さっきよりぐにゃりとしているように感じた。耳に触れている彼の頬は、氷のようにずっと冷たいままだった。
「ぜんぶ言った通りだったじゃないか。列車は来たし、ランプも黄色だった。そうだろう? きみの力は素晴らしいね。あの時一緒に落ちようと言って、きみを殺さずにいられてよかった」
ちがう、この列車のランプは赤だったのだ。貨車にはかしごがついていたがステップはなかった。見間違えたのだろうか、僕の説明がうまくなくて勘違いをした? 体から力が抜けてどんどん重たくなっていくレッテンに、僕はしっかりとしがみついた。
「それは僕のための嘘?」
泣きそうになった。泣くものかと思った。薄いレッテンの背中の服を力いっぱい握ると、彼は苦しそうに息を吐いた。
「いや、嘘なんてついたことないさ。黄色だったよ、ランプは確かに黄色だった」
その時の僕は、ずいぶん前に母が話をしてくれた、
次に発着駅で停まったら、それがどこでも一緒に降りよう。何度か僕が呼びかけたが、約束はしてもらえなかった。
終着より少し早く、夜明けが始まっていた。線路の片側に広がる景色で、僕はそこがカアサというかつて訪れたことのある場所だということに気づいた。
列車が完全に停車するより少し前に、僕はレッテンの手を結んだ紐を解き、彼を抱えながら地面へ飛び降りた。落ちた時の傷みに数秒悶えてからゆっくりと頭を上げ、彼の腹の下へ潜ってから立つと、一歩ずつ歩き始めた。
僕しか憶えていられない約束になったとしても、彼と一緒に死ぬつもりになっていた。まずはじめに安全な川を探そう。IDで管理されないところで少しだけ体を休めて、それから。
今の僕にできることはひとつかふかつしかなかった。その思案も今は深く考えてはいけない。背からずり落ちそうになる大きな体を抱えて、静かに歯を食いしばった。
〈了〉
カラーズ 丹路槇 @niro_maki
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