【第6章】伝説の「SR」と会長の「NR」


文化祭、初日。 体育館の壇上(だんじょう)は、地獄だった。


(……あ、……あ……)


熱い。 スポットライトが、容赦なく肌を焼く。 目の前には、黒い、うごめく「人」の海。全校生徒の視線が、一本の槍のように私に突き刺さる。 マイクを握る手が、汗で滑る。


(しゃべらなきゃ……なにか……) (彼が、私に……『輝け』って……任せてくれたのに……!)


口を開く。 ヒュッ、と空気が漏れる音だけがした。 (だめ……声が、でない……)


頭が、真っ白になる。 練習したはずの原稿は、一文字たりとも思い出せない。 「接続(コネクト)」って、なんだっけ。 「生徒会企画」って、なんだっけ。


(こわい、こわい、こわい、こわい)


視界の端、舞台袖(そで)に、彼――中村 竜司くんの姿が見えた。 彼は、腕を組んで、あの感情の読めない瞳で、まっすぐ私を見ている。 (あ……)


(待っててくれてる……私が、話すのを) (がんばらなきゃ……!)


もう一度、息を吸う。 「……あ、……ぅ……」 やっぱり、ダメだ。 足がガクガクと震えて、立っているのがやっとだった。


どのくらいの時間が経っただろう。 十秒? 三十秒? それとも、永遠?


体育館が、ざわめき始めている。 (なにか、言ってる……) (「どうしたんだ」「放送事故か?」)


(もう、むり……) (ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!)


私は、マイクを持ったまま、動けなくなった。 ただ、全校生徒の視線に晒(さら)され、石のように固まっていた。 1分間、あるいは、もっと長く。


やがて、ざわめきが、なぜか静かになっていった。 (……え?) 誰かが、息をのむ音。 そして――


パチ、パチパチ……


どこからか、拍手が起こった。 それは、一瞬にして体育館全体に伝播(でんぱ)し、嵐のような喝采(かっさい)となった。


(…………は?)


何が、起こったの? 私は、ただ、本能的に、深々と、頭を下げた。 そして、そのまま脱兎(だっと)のごとく舞台袖に駆け込んだ。


***


「……終わった……」


体育館の裏、機材置き場の隅で、私は膝を抱えてうずくまっていた。 (……私、何もできなかった) (彼が、せっかく私に「花形」の仕事と彼が言ってくれた場所をくれたのに……) (……最低だ。……もう、顔向けできない)


涙が、じわりと滲(にじ)んできた。 その時だった。


「白石さーーーーんっ!!」


バタバタという足音と共に、興奮で顔を真っ赤にした愛梨亜さんが、暗がりに飛び込んできた。 「は、……ひゃい……(ごめんなさい……!)」 怒られる。 そう思って身を固くした私に、彼女は信じられない言葉を叫んだ。


「すごかったです! 最高でした、白石さんっ!!」


「……え?」


「あの『沈黙』! あの『間(ま)』!」 愛梨亜さんは、私の両肩を掴んで、ブンブンと揺さぶる。 「最初はみんな『どうしたんだ?』ってざわついてたんです! でも、白石さん、微動だにしなかったじゃないですか!」 (……いえ、硬直してただけです……)


「あの1分間の沈黙が! 逆に全校生徒の意識を、一点に集中させたんです!」 「(……えええ?)」 「みんな、息をのんで、『彼女(白石さん)が次に何を言うのか』って……! そして、最後の、あの深いお辞儀!」


愛梨亜さんは、うっとりとした表情で天を仰いだ。 「……『言葉に頼らない、魂のプレゼンだった』って! 美術の先生が興奮してました!」 「(たましい……?)」


「おかげで、文化祭は大成功のスタートです! もう、みんな白石さんの話題で持ちきりですよ!」


何が何だか、分からなかった。 私は、ただ、パニックでフリーズしていただけ。 それが、なぜか「カリスマ」として神格化されてしまっていた。


***


生徒会室に戻ると、電話が鳴りやまなかった。 「はい、生徒会です! ……ええ、ありがとうございます!」 愛梨亜さんが、嬉々として対応している。


「白石さん、やりました!」 彼女は、受話器を押さえながら、興奮気味に私にウインクする。 「今の、教師陣からです! 『白石さんのプレゼン、素晴らしかった』って! 会長も、教師陣から『彼女を任命するとは、さすがだ』って、すごく褒められてたみたいですよ!」


「(……会長が、褒められて……? よかった……)」


ホッと胸をなでおろす。 私が失敗して、彼に迷惑をかけるのが一番怖かったから。


「あ、それと!」 愛梨亜さんが、とっておきのゴシップを話すように、声を潜めた。 「聞きました? 白石さんの、あだ名!」 「あだな……?」


「**『SR』**ですって!」 「えす……あーる……?」 「そう! 『スーパーレア』! あんなカリスマ、滅多に見られない『超希少(スーパーレア)な天才』だから、ですって!」


(すーぱーれあ……私が……) もう、誤解を訂正する気力もなかった。


「あ、ちなみに……」 愛梨亜さんが、少しだけ申し訳なさそうに続ける。 「……会長は、**『NR(ノーマルレア)』**って呼ばれ始めてるみたいです」 「えっ!?」 「『会長(竜司くん)が、地道でノーマルな実務を全部やってくれるおかげで、私たち(特にSRの白石さん)が輝ける』って意味で! ……ちょっと、失礼ですよね?」


(そんな……! 会長が『ノーマル』なんて……) (彼が、一番すごいのに……!)


「ちなみに私は」と愛梨亜さんが付け加える。「真面目に実務をこなす『オールA』って意味で『AA(ダブルエー)』だそうです。……SR(白石さん)の足元にも及びませんけどね!」 (SR、NR、AA……)


私は、生徒会室の隅で、一人、書類の山と格闘している竜司くんの背中を見た。 彼は、さっきから電話対応もせず、ただひたすらに、山積みのトラブル報告書を処理している。


(……あ) 彼の横顔が、見えた。


(……顔色が、悪い……) いつも無表情な彼の顔が、今日は明らかに、青白い。 目の下には、うっすらとクマさえ浮かんでいるように見えた。


(……そっか) (会長、教師陣からも褒められて……でも、『NR』なんて呼ばれて……) (違う。……きっと、それだけじゃない)


(……私が、あの壇上で『SR』なんて呼ばれるために……) (彼が、見えないところで、全部……全部、『ノーマル』な仕事を、一人で……)


その時だった。 「うわ、本当だ」「あれがSR……」「オーラやばくね?」 生徒会室のドアが、いつの間にか半開きになり、数人の男子生徒が、私を「見世物」のように遠巻きに眺め、ヒソヒソと噂している。


(ひっ……!?) 血の気が引く。 (や、やめて……見ないで……!) 人見知りの私にとって、大勢の好奇の視線は、壇上(あそこ)の地獄の再来だった。 私がパニックで固まっていると、


「――おい」


地を這うような、冷たい声が響いた。 竜司くんだった。 彼は、報告書から一切目を上げないまま、野次馬たちに向かって言い放った。


「ここは執務室だ。業務妨害は非論理的(ひろんりてき)極まりない。五秒以内に視界から消えろ」


「うわっ」「会長(NR)キレてる」「行こうぜ」 野次馬たちは、蜘蛛(くも)の子を散らすように去っていった。 「……」 しんと静まり返った生徒会室。


(……あ) (……守って、くれた……?) パニックになっていた私を、彼が、助けてくれた。 彼が一番疲れているのに。


私は、彼に向かって、かろうじて声を絞り出した。 「あ、……あの……あり、がと……」


しかし、竜司くんは一切私に視線を向けなかった。 彼は、先ほどまで見ていた報告書を一枚めくり、ペンを走らせるだけ。 まるで、私の声など、最初から聞こえていなかったかのように。


(……照れてるんだ) (私のために怒ってくれたのが、恥ずかしいんだわ)


(……ごめんなさい、会長) (……ありがとう、竜司くん)


彼への「好意」と「罪悪感」が、私の「ポンコツ」な胸の中で、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。それが、私の「伝説」の一日の、本当の結末だった。



中村竜司視点:沈黙の地獄と論理の崩壊

(……なぜだ)

(なぜ、あれで拍手が起きる……!?)

俺は、舞台袖から白石の様子を見守っていた。

いや、正確には「沈黙が続いたらすぐにフォローに入る」つもりだった。

だが、1分間の沈黙のあと、なぜか体育館が拍手の嵐に包まれた。

(あれは“フリーズ”だ。明らかに“失敗”だ。なのに……)

教師陣からは「慧眼の会長」と褒められ、白石には「SR(スーパーレア)」という称号が与えられた。

俺は「NR(ノーマルレア)」――地味で実務を支えるだけの凡人扱いだ。

(俺が全部、裏で処理してるんだぞ……!)

報告書の山を前に、電話対応もせず、ただ黙々と作業を続ける。

誰も見ていない。誰も評価しない。

白石は、ただ黙っていただけで“魂のプレゼン”と呼ばれたのに。

(……非論理的だ。すべてが)

その時、生徒会室のドアが開いた。

数人の男子生徒が、白石を“見世物”のように眺めている。

(……うるさい)

(……邪魔だ)

(……俺は今、限界なんだ)

「――おい」

声が低くなるのは、怒りを抑えている証拠だ。

俺は報告書から目を上げず、ただ冷静に言い放った。

「ここは執務室だ。業務妨害は非論理的極まりない。五秒以内に視界から消えろ」

彼らは逃げていった。

俺は、少しだけスッキリした。

(……別に、白石を守ったわけじゃない)

(ただ、ちょうどいい“当たり先”だっただけだ)

彼女が「ありがとう」と言ったのは聞こえた。

だが、俺はペンを走らせ続けた。

(……違う。俺は、論理的に動いているだけだ)

(感情なんて、関係ない)

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