【第3章】会長へのファースト・ダメージ
(……どうしよう、どうしよう、どうしよう……)
私の思考は、完全にフリーズしていた。 目の前には「会計予算案」と書かれた紙の束。 そこには、私の知らない部活動の名前と、私の理解が追いつかない「0」が並んだ数字が、規則正しく羅列されている。
(分からない、分からない、分からない……!)
ページをめくることすらできない。 指一本動かせば、この積み木のような均衡が崩れて、私が「ポンコツ」であることがバレてしまう。 ただ、資料を見つめる。 それが、今の私にできる、唯一のことだった。
「……」
中村 竜司くんが、私を値踏みするように見ている気配が、肌を刺す。 (あ……す、すごい見られてる……!? は、恥ずかしい……!) (でも、彼が『天才』だって信じて振ってくれた仕事なんだ……期待に応えないと……) 好意と恐怖がないまぜになり、私の身体はますます硬直していく。
カチカチ、と軽快なキーボードのタイプ音だけが、生徒会室に響いていた。 音の発信源は、相田 愛梨亜さんだ。 彼女は、竜司くんに指示された「生徒会則の見直し」と「議事録の作成」を、凄まじい集中力と速度で片付けている。
(すごい……愛梨亜さん。かっこいい……。彼女こそ、本当の『天才』だ……)
それに比べて、私ときたら。 ただ黙って座っているだけ。 (あ……もう無理……泣きそう……)
どのくらいの時間が経っただろうか。 私が無意味な「沈黙」を続けていた、その時。
「――ふう、終わった!」
愛梨亜さんが、ノートパソコンを閉じて、大きく伸びをした。 そして、キラキラした笑顔で、私と、私が睨みつけていた資料に視線を移す。
「白石さん、さすがです! もう全体像は掴まれましたか?」 「あ……えっと……その……」 (全体像どころか、一文字も頭に入ってません……!)
私が言葉に詰まっていると、愛梨亜さんは「よし!」と気合を入れたように立ち上がった。
「私も議事録が終わったので、ここからは具体的な数字のチェックに入りますね! 予算案は、ダブルチェックが基本ですから!」
そう言って、彼女は私の目の前の資料――私がずっと睨みつけていた、まさにその【1ページ目】を、隣からのぞき込んだ。
「えーっと、まずは1ページ目の、吹奏楽部の備品購入費……」
その時だった。 愛梨亜さんの動きが、ピタリと止まった。
「……あれ?」
彼女は自分のノートパソコンを再び開き、何かを打ち込む。 そして、もう一度、紙の資料と画面を見比べた。
「……おかしいな。ここの数字……」
愛梨亜さんの独り言に、それまで静観していた竜司くんが、鋭く反応した。 「どうした、相田」 「あ、会長! ここの、吹奏楽部の備品購入費なんですけど……」 彼女は、該当のページ(1ページ目)を指さす。
「昨年度の実績と比べて、数字の桁が一つ、ズレてるみたいです!」
「なに?」 竜司くんが、素早くその資料に目を通す。 「……本当だ。入力ミスか。相田、よくやった」 「いえ! これくらい当然です!」 愛梨亜さんが、えへへ、と胸を張る。
(すごい……愛梨亜さん……。私、ずっと見てたのに、全然気づかなかった……)
自分のふがいなさと、彼女への尊敬で、胸が苦しくなる。 その時、竜司くんの凍てつくような視線が、再び私を射抜いた。
「――おい、白石」
「は、はいっ!?」 ビクッと、肩が跳ねる。
「お前は、この資料をずっと見ていて、そのミスに気づかなかったのか?」
(あ……) 心臓が、冷たく握りつぶされる。 (……気づきませんでした) 言えない。そんなことを言ったら、彼に「無能」だと思われる。 「天才」だって信じてくれた彼を、失望させてしまう……!
私が青ざめて言葉に詰まった、その瞬間。
「――ま、待ってください、会長!」
愛梨亜さんが、カッと目を見開いて、私と竜司くんの間に割って入った。 その瞳は、何かとんでもない真実に気づいてしまったかのように、興奮に輝いていた。
「え……?」 「会長、もしかして……」
愛梨亜さんは、恐る恐る、といった様子で私を振り返る。
「白石さんが、さっきからずっと黙り込んで【1ページ目】を見つめていたのは……この重大なミスに、真っ先に気づいていたからじゃ……!?」
「…………え?」
私と竜司くんの、間の抜けた声が重なった。
「だって、そうでしょう!?」 愛梨亜さんのボルテージが上がる。 「そして……!」 「ただミスを指摘するだけじゃなく、これをどう生徒会として、あるいは学校全体の問題として『うまく収めるにはどうしたらよいか』……その最適な対応策まで、深く思考されていたのでは……!?」
(ち、違います……! ただフリーズしてただけです……!)
「だから会長は、『天才にやってもらう』って、この仕事を白石さんに任せたたんですね!」 愛梨亜さんは、今度は竜司くんのほうを向き、尊敬の眼差しを送る。 「さすがです、お二人とも! 私、感動しました!」
「……」
竜司くんが、固まっていた。 その表情は、普段の無表情とは明らかに違う。彼は何も言い返せない。ただ、じっと、私の顔を見つめている。その感情の読めない瞳で、私の真意を探るかのように。
(え……) 不意に、彼と視線が合った。 (ひゃっ……!?) 心臓が跳ねる。恥ずかしさと、訳の分からない期待で、顔に熱が集まるのが分かった。 (あ、あんなに見つめられたら……! やっぱり、私のこと……!) 私は、耐えきれずに、ぷい、と目線をそらしてしまった。
愛梨亜さんは、そんな竜司くんの葛藤など知る由もなく、無邪気に(そして致命的な)一言を付け加えた。
「それにしても会長、白石さんがこんなに深く集中している時に、『気づかなかったのか』なんて野暮なこと聞いちゃダメですよ! 天才の思考を邪魔しちゃ!」
「ぐ……っ」
竜司くんが、小さく呻いた。 彼は何も言い返せない。
(……俺は、『無能』を暴くために仕事を振ったんだ) (……それが、なぜか、『天才』だと見抜いて仕事を振った、有能な会長、ということになっている……) (……それどころか、俺は、天才の思考を邪魔した『器の小さい男』だと……!?)
竜司くんは、こめかみを押さえ、深く、深く、息を吐いた。 これが、中村 竜司が、白石 瑠香という存在によって受けた、最初の精神的ダメージだった。
(あ……) 私は、何が起こったのかよく分からないまま、愛梨亜さんが「さすがです!」と称賛してくれる手前、とりあえず小さく会釈だけしておいた。
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