【第2章】実務ゼロのスーパーレア


放課後の生徒会室。 それが、私、白石 瑠香と、中村 竜司、そして相田 愛梨亜の、本当の意味での初顔合わせの場所となった。


(……生徒会室って、こんなに空気が重いの?)


重い、というより、張り詰めている。 ドアを開けた瞬間から、私の足は鉛のように動かない。 それもそのはずだ。


「失礼します……」 かろうじて絞り出した声に、室内にいた二人が顔を上げた。


一人は、中村 竜司くん。 彼はすでに着席し、分厚いファイルを無表情にめくっていた。私を一瞥(いちべつ)したその瞳は、電車で会った時とも、選挙演説の時とも違う、凍てつくような冷やかさを帯びていた。まるで、値踏みをするように。


(ひっ……)


思わず息が詰まる。 そして、もう一人。


「白石さんっ! お待ちしていました!」


弾けるような笑顔で駆け寄ってきたのは、もう一人の副会長、相田 愛梨亜(あいだ ありあ)さんだった。 彼女は、選挙の時に見た通りの、快活で真面目そうな優等生だ。その真っ直ぐな瞳が、今はキラキラとした憧憬(どうけい)の色を宿して、私を射抜いている。


(ち、近い……! ま、眩しい……!)


人見知りの私にとって、こういう「陽」のオーラをまとった人は、竜司くんとは別の意味で天敵だ。


「私、相田 愛梨亜です! あなたと同じ副会長になりました! あの選挙の日、壇上でのあなたの『堂々とした態度』、本当に感動しました……! あれぞ、真のカリスマです!」 「あ……えっと……」


(違うんです、ただ声が出なかっただけなんです……!) そう言いたいのに、彼女の期待に満ちた視線が怖くて、口がパクパクと動くだけ。


「……よろしく、お願いします」


しどろもどろにそれだけ言うのが、私の精一杯だった。 すると愛梨亜さんは、カッと目を見開いて、さらに感激したように両手を握りしめた。


「『よろしく』……! なんて重みのあるお言葉……! わかりました、私、白石さんの右腕として、いえ、手足となって実務をこなしますので、白石さんは『神の視点』から私たちを導いてください!」


(神の視点!?)


もうダメだ。この人も、私のことを盛大に誤解している。 しかも、悪意がない分、タチが悪い。


「……静かにしろ、相田」


その時、室温をさらに三度下げるような、低い声が響いた。 中村 竜司くんだった。 彼はファイルを閉じ、まるで非効率なノイズを聞かされた、とでも言いたげな顔で私たちを見ている。


「白石も、着席しろ。第一回の実務会議を始める」


「は、はい!」 愛梨亜さんが慌てて自分の席に戻る。 私も、緊張でこわばった手足で、一番遠くの席に座ろうとした。


「――白石」 「は、はいっ!?」 「お前は、俺の隣だ」


(え……っ!?) 心臓が、跳ねる。 会長の、隣。 (ど、どうしよう……! あ、あの時のこと、覚えててくれたんだ! だから、私を隣に……!)


ただ、(庇ってくれた)優しい人だと思っていた彼が、急に冷たい態度を取ることに混乱していた。


(どうして……? 助けてくれた時は、あんなにクールだったのに……。あ、もしかして、これも『会長としての威厳』……? さすがだわ……)


竜司くんが重い紙の束を机に叩きつけた。


「これが、今年度の各部活動から提出された会計予算案だ」


「はい!」と愛梨亜さんが即座に手を伸ばす。 「私が精査します! 中学時代も会計監査の経験があるので!」 (すごい、愛梨亜さん……かっこいい……)


彼女こそ、副会長にふさわしい。私は早くここから消えたい。 そう思った瞬間、竜司くんが、その紙の束を愛梨亜さんではない方向――私の目の前に、滑らせた。


「いや」 「え?」 「相田、お前は生徒会則の見直しと、議事録の作成を先にやれ。そちらの方が効率的だ」


冷たい声が、私に宣告を下す。


「その『会計予算案の精査』という、最も重要で、論理的な思考を要求されるタスクは――」


彼の目が、私を捉えて離さない。


「『天才』だと全校生徒から推薦された、白石副会長にやってもらう」


「…………は?」


時が、止まった。


愛梨亜さんが、隣で「おお……!」と息を呑む音が聞こえる。 「いきなり、一番の重責を……! やはり会長は、白石さんの『真価』を分かっていらっしゃる!」


(違う、違う違う違う! この人、私を殺そうとしてる!)


「会計」?「予算」?「精査」? 私のポンコツな脳みそには、どれ一つ理解できない単語だ。 目の前に置かれた紙の束は、何かの呪いの書物にしか見えない。


「で、でも、私……そういうの、やったこと、なくて……」 「そうか」 竜司くんは、表情一つ変えない。 「だが、お前は『天才』なんだろう?」


その言葉が、皮肉や嫌がらせだとは、この時の私にはまだ分からなかった。 (『天才』だから、できるって思われてる……!) (どうしよう、どうしよう、どうしよう!)


「……」 「……」 「……」


重苦しい沈黙が、生徒会室に満ちる。 竜司くんは、無言の圧力をかけ続けている。 愛梨亜さんは、「天才の仕事ぶり」を拝見しようと、期待の眼差しで私を見つめている。


逃げられない。


私は、震える手で、その紙の束を手に取った。 (やらなきゃ……『天才』だと思われてるんだから……!) (でも、何から……?)


私は、ただ、その資料の一枚目を開き、そこに印刷された無数の数字と漢字を、ただ黙って見つめることしかできなかった。


(数字、数字、数字……。分からない、分からない、分からない……) 緊張でフリーズした私の脳は、完全に機能を停止していた。 これが、生徒会副会長、白石 瑠香の、最初の「実務」だった。

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