【第1章】「天才」の凱旋と「論理」の絶望

あれから数週間。 桜の花びらは役目を終えたようにアスファルトを淡く染め、私は無事にこの高校の生徒となっていた。 教室の窓から見える、葉桜の緑が目に眩しい。


(……見つけられない)


私は休み時間のたびに、廊下を行き交う生徒たちの中に「あの人」の姿を探していた。 同じ制服だったのだから、絶対にこの学校にいるはずだ。 あの日、彼に手渡されたボタンは、私のお守りになっていた。小さな透明の袋に入れ、制服のポケットに忍ばせている。時折、指先でその硬い感触を確かめるたび、心臓が小さく音を立てた。


けれど、極度の人見知りである私にできるのは、遠くから眺めることだけ。 おかげで入学以来、クラスメイトとは当たり障りのない挨拶しか交わせていない。 その結果、どうなったか。


「ねえ、見た? 白石さん、また窓の外見てた」 「見た。なんかこう、憂いを帯びてるっていうか……ミステリアスだよね」 「わかるー。いつも一人で静かだし、絶対なんか『持ってる』よね、あの子」


(違うんです、何も持ってません、ただ人見知りなだけです……!)


そんな内面の叫びは届くはずもなく、私の「クールビューティー(という名のコミュ障)」という誤解は、日増しに強固なものになっていた。


そんなある日の昼休み。 お弁当を食べる勇気もなく(人前で食べるのが苦手なのだ)、飲み物だけを買おうと廊下を歩いていた時だった。 少し先の男子トイレの入り口付近で、複数の男子生徒が談笑しているのが聞こえた。


(……!)


その中に、聞き覚えのある、やけに落ち着いた声が混じっていた。


「いやー、それにしても竜司、お前マジですげえよ。生徒会長とか、俺には絶対無理だわ」 「適正とリソースを鑑みた結果、俺が立候補するのが最も論理的だと判断したまでだ」 「出たよ、そのロジカル馬鹿(笑)。あ、でもさ、会長サマよぉ」


一人の男子生徒が、からかうような声を上げる。


「その制服、第二ボタンなくね? 入学早々、彼女にでも取られたか? あー、青春!」


(え……)


心臓が、喉元まで跳ね上がってきた。 第二ボタン。 恐る恐る、声がした方を盗み見る。


間違いない。 「あの人」だ。 彼は、中村 竜司(なかむら りゅうじ)という名前らしい。


彼は、友人たちのからかいに対し、表情一つ変えずに、淡々と事実だけを口にした。


「違う。登校中、非論理的な障害物が俺のボタンに物理的に絡まったため、分離するための最適解として、当該ボタンを引きちぎった。それだけだ」


「はぁ!? 非論理的な障害物!? 最適解!? なにその中二病全開の言い訳(笑) 素直に『彼女ができました』って言えよ!」 「事実だ。これ以上この話題を続けることに、生産性はない」


竜司くんはそう言って、会話を打ち切ってしまった。 私は、壁の影に隠れたまま、動けなかった。


(やっぱり、あの時のことだ……)


「非論理的な障害物」という言葉が、私の耳にはうまく届かなかった。 ただ、「髪が絡まった」と、「彼がボタンを失くしたこと」だけが、事実として突き刺さる。


(どうしよう……私のせいで、彼が友達にからかわれてる……)


しかも彼は、「女の子の髪が絡まって」とは一言も言わなかった。 「障害物」なんて、意味のわからない言葉でお茶を濁して……。


(もしかして……私のことを、庇ってくれてる……?)


あんなに変な言い訳をしてまで、私の存在を隠してくれている。 ポケットの中のお守りが、急に熱を持った気がした。


(迷惑だったはずなのに……やっぱり、優しい人だ)


私の好意は、ここでさらに一段、深く、決定的に進行したのだった。


***


そして、運命の日がやってきた。 生徒会選挙、当日。 全校生徒が集められた体育館は、独特の熱気に包まれていた。


生徒会長選挙は、あの中村 竜司くんの圧勝だった。 壇上に立った彼は、電車で私が見た「クールな人」そのものだった。 「私は、本校に蔓延る非効率なシステムをすべて洗い出し、タスクを最適化します。そのための具体的施策は三点――」 感情を排した声で、しかしよどみなく語られる「論理」は、多くの生徒と教師を魅了した。


(すごい……堂々としてる。私とは全然違う……やっぱり素敵な人だ)


私は、体育館の後ろの方で、こっそりと彼を見つめていた。 問題は、その後に起きた。


「――以上で、生徒会長は中村 竜司くんに決定しました! 続きまして、副会長の選挙に移りますが……」


司会の教師が、声を張り上げる。 「副会長の定員は二名。立候補者は……一名、1年C組の相田 愛梨亜(あいだ ありあ)さんです!」


(相田 愛梨亜……) 名前を呼ばれた女子生徒が、ハキハキとした返事をして立ち上がり、周囲に一礼する。真面目そうな、快活な印象の人だ。彼女が、あの中村 竜司くんと一緒に仕事をするんだ……。


「――さて、ご覧の通り、定員に対し、まだ一名足りません! そこで、この場で残りの一名について、皆さんから推薦者を募りたいと思います!」


体育館がざわめく。 (よかった、私には関係ない……) そう安堵したのが、間違いだった。


「先生! 推薦します!」 私の隣のクラスの男子が、勢いよく手を挙げた。 「1年B組、白石 瑠香さんを推薦します!」


「…………は?」


一瞬、何を言われたのか理解できなかった。 周囲の視線が、一斉に私に突き刺さる。 (うそ、うそ、うそ、なんで!?)


「おお、白石さんか!」「確かに!」「あのクールビューティーなら間違いない!」「生徒会の頭脳になってくれそうだ!」


やめて、やめてください、私に「頭脳」なんてものはありません……!


「白石さん、前に!」 教師に促され、私はロボットのようにぎこちなく立ち上がる。 パニックで、頭が真っ白だ。


「む、無理、です……」


かろうじて絞り出した声は、体育館の喧騒に吸い込まれて、誰にも届かない。 壇上まで、どうやって歩いたのか覚えていない。 マイクを渡される。 金属の冷たさが、嫌な汗をかいた手のひらに伝わる。


(何か、何か言わないと。「私にはできません」って……!)


口を開く。だが、声が出ない。 全校生徒の視線が、痛い。怖い。 壇上の端には、当選した竜司くんが、感情の読めない瞳でこちらを見ている。


(あ……あ……)


一分だったか、あるいは十秒だったか。 私がマイクを持ったまま「沈黙」したその時間が、なぜか最悪の誤解を生んだ。


「……すごい。堂々としてる」 「ああいうのを、大物っていうんだろうな」 「異論なし、ってことか。クールすぎるだろ……」


違うんです、ただ固まってるだけなんです!


「よーし! 白石さん、信任だな! 拍手!!」


パチパチパチ、と、どこからか始まった拍手が、体育館全体に伝播していく。 その中には、あの相田 愛梨亜さんが、なぜか感激したような顔で人一倍強く手を叩いている姿も含まれていた。 私は「違います」の一言も言えないまま、盛大な拍手に包まれて、生徒会副会長に祭り上げられてしまった。


「では、新生徒会長の中村 竜司くんと、新副会長の相田 愛梨亜さん、そして同じく新副会長の白石 瑠香さん、並んでください!」


促されるまま、竜司くんの隣に立つ。 (どうしよう……あの人の隣に立ってる……。緊張で死にそう。でも、嬉しい、かも……?)


そんな私の乙女心とは裏腹に、その瞬間、中村 竜司の脳内は、人生最大の「絶望」に支配されていた。


(……あの女)


壇上で、隣に立つ、緊張でこわばった(と周囲に誤解されている)女の顔を、彼は確かに覚えていた。


(電車で髪を切ろうとした、あのパニック女……! 論理性の欠片もない、あの無能が……副会長!? しかも『天才』扱いだと……!?)


その瞬間、竜司は確信した。


(この学校は終わっている。――集団浅慮だ!!)

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