7.帰路の中に




ー2177年8月7日PM20:15ー


──辺りはすっかり暗くなってしまった。

時間を忘れて、会話にすっかり夢中になっていた。


私たちは、考えも感性も何もかも違うのに、太陽の周りを周る惑星のように、ぶつかることなく同じ時を過ごした。


私はこうやって"対等に話せる関係"を、ずっと探していたのかもしれない。


『さて、暗くなってきたし、そろそろ先生も動き出す時間だ。俺はもう行くとするかな。あとは、お家でしっぽり飲んでるよ。』


『あー、楽しかった〜!そうだね。堕天使先生、私たちも帰る?』


咲楽が背伸びをしながら、大悟に聞いた。


『そうですね。まだ、夜の街は歩いたことがないので、早めに帰りますか。』


『それじゃ、みんなでお開きにするか。佳奈ちゃん、いつものやつくれ。先生に会いに行ってくるよ。』


『佳奈ちゃん、私たち2人のお会計と、私もいつものもらっていい?』


──2人が、従業員の女性に声をかけた。2人とも、いつもここで何かをもらっているらしい。


『はいよ〜!いま持ってくね!』


『咲楽さん、ここは僕が払いますよ。昨日、ビールご馳走になったので、そのお礼に払わせてください。』


『本当に〜?じゃあ、甘えちゃお!佳奈ちゃん!奢ってもらえるから、もう1つ追加して〜!』


──咲楽さんが、これみよがしに何かを追加した。

まあ、良いだろう。


『はい、悟さん!これが先生のと、焼酎ね。咲楽さんのは、もう1つ追加でいま表に準備するね!先にお会計渡しとく!』


『いつもありがとよ。』


──悟さんは佳奈ちゃんから魚と焼酎を受け取り、お礼を言った。これだけ飲み食いして、8,500円とは、この街の人たちは儲かるのだろうか。

私は、お金を準備して佳奈ちゃんが戻ってくるのを待った。


『はい、準備できたよ!2ケースも持っていくなんて、台車あるとしても重たくない?』


『大丈夫!この人が運んでくれるよ〜!レディに力仕事は任せられないタイプの人だからね!』


──どうやら咲楽さんは、ここでビールを買っているらしい。そして、ホテルまで台車を押すのをしれっと任せられた。

本当に抜け目のない人だ。

その天真爛漫な姿が、とても愛らしい。


『こちらお会計です。とてもお安くしていただいて、ありがとうございます。』


『えぇ、安かったですか?むしろ高くて、払えるか心配になりました!お兄さんは、お金持ちなんですね!ありがとうございます!それでは、いつでも沢山使いに来てくださいね!』


──確かに、元の常識で考えるのはもうよそう。これが"スラムの普通"なのだ。


『いえ、ただスラムで食事するのが初めてだったので、値段感覚がわからなくて...。また、顔出します。』


『じゃあ、兄ちゃん、咲楽ちゃんありがとよ。先帰るぜ。』


『はい。ありがとうございました。また、会ったときよろしくお願いします。』


『気をつけてね〜!先生によろしく!』


──悟さんは、鼻歌を歌いながらゆっくり帰っていった。


『私たちも行こうか!私も台車に乗っていい?』


『ホテルまで押して行ける自信ないので、ちゃんと自分で歩いてください。』


──この人は、本当に捉えどころのない人だ。網に捕らえられない風のように、するりと私の間をすり抜けて冗談を言ってくる。


『しょうがないな〜!自分で歩きます。歩きたくないけど。』


──この店も、他の店もまだ賑やかだ。

この街の人たちは、去勢と引き換えにここで、共に酒を交わし、同じ物を食べて、笑顔で暮らしている。

21世紀初頭から人の世界は、インターネットの普及が一般的になり、江戸時代から比べると時代の流れが急速になった。


そして、暮らしの体系が変わり、世界が変わり、便利になっていったと聞く。


その反面、孤独を感じる人が増えていったという。


それと違いこの場所には、皆が去勢という1つの体験を共有して、残りの人生を保証されている。


そのためか、資本主義の中、日々戦っていた私たちより顔つきは穏やかで、話し声は明るい。

現代の中流階級の人たちや、上流階級の一部の人たちより、幸福を感じているのだろう。


瞳の奥に悲しみや寂しさも感じられない。心から笑っている。


"繁栄"という生物としての本能を失い、社会から省かれても、生活が保証され、独自のコミュニティが形成された、この場所はやはり面白い。


いまの私は、学ぶことが多い。


『彼らは、お店がやっていない時間は何をしているんですかね?』


──私は、隣で余韻に浸りながら、楽しそうに歩いている咲楽さんに訪ねてみた。


『みんな釣りに行ったり、サーフィンしたり、いろいろ自分のやりたいことやってるよ〜!お金がかからない遊びはたくさんあるからね!』


『なるほど。だから、皆さん飲み屋でも活き活きとされているんですね。確かに娯楽は、お金をかければ楽しいとは限りませんからね。』


『そう!そして、釣った魚をお店に持ってきて料理してもらったり、他の人にも振舞ったりしてるよ。私もこないだ、太刀魚のお刺身と塩焼きもらったんだ〜!美味しかったな〜』


『さすがですね。なんだか、その光景が想像できます。咲楽さんなら、皆んなから好かれそうです。』


──本当にこの人は、どこでも誰とでもすぐに仲良くなれそうだ。その世渡りセンスが、社会的成功を収めた秘訣の1つだろう。


『先生だって馴染めそうだけどな〜!いやなの?』


『嫌というわけではないです。ただ、社会で日々働く人たちより、この街の人たちの方が、幸せそうなのが不思議だったので。』


『堕天使先生は、向こうで幸せだったの?』


──咲楽さんにそう聞かれ、私は雲に覆われた空を見上げて、少し過去を振り返ってみた。


『はい。向こうで暮らしているときは、そう思っていました。でも、時々どこか他人との距離があることを、無意識のうちに寂しく思っていました。悟さんや咲楽さんが、私と対等にお話ししてくれて、そのことに気づいたんです。幸せは迷路のように入り組んでいて、努力して辿り着かなければいけないと思ったりもしましたが、魔法のように、そこに出口が出来ることもあるんだと思うようになりました。』


『やっぱり、先生は面白いね!不思議ともっと話聞きたくなるな〜。先生が迷路の中で求めてた幸せって?』


咲楽が台車の前に移動し、大悟を見ながら聞いた。


『僕は、まずは親の名に恥じぬよう跡取りとして、会社の業績を上げるために力を尽くしました。部下や周りから信頼を得て、皆んなで同じ方向に進めるようにと、前を向いて歩き続けていたんです。そして、教養を深め、免許証を取得し、家庭を持ち、私を含め皆んなで幸せになりたいと思っていたんです。そのために、足りないものがないように、日々行動していました。そして、成長を感じられたとき、妻や家族が笑顔になったとき、部下や同僚が活き活きと仕事をしている姿を見たとき幸せを感じていました。それと同時に立ち止まってはいけないと、更に、前に進むことだけを考えていたんです。』



『ストイックだね!そんなにずっと頑張れるなんて、普通の人ではできないよ。やっぱり、先生はすごいね!だけど、なんだか昔読んだ本の主人公のセリフを思い出すな〜。「ぼくは成長しなければならない」

「ぼくにとってはそれがすべてだ……」ってやつ。』


──咲楽さんが、少し立ち止まって私にそのセリフを教えてくれた。


『それは何て本ですか?』


『"アルジャーノンに花束を"って本!聞いたことある?』


──咲楽さんに合わせて、私も立ち止まって話をした。風に揺れる髪を抑える仕草が、妙に焼きつく。


『はい。その本なら、昔に読んだことあります。天才になり、彼の世界が変わり、恋をして上手くいかなかないまま、研究成果をあげて最後の言葉まで繋がるストーリーは、文体も含めて独特でしたし、僕の考えや行動を改める機会が、随所に散りばめられていました。』


咲楽が、笑いながら口に手を当てる。


『感想固すぎ〜!でも、先生っぽいね!冷静なところとか。先生は、チャーリーの恋が実らなかったのは、何が足りなかったからだと思う?』


──咲楽さんがビールケースに腰掛け、私に質問した。


『随分前に読んだので、内容をしっかり覚えてないのですが、彼に足りなかったものがあるとすれば、"知的謙遜"と"心を養う時間"。この2つが、すぐ思い浮かぶものです。IQが短期間で飛躍的に伸びてましたが、どんな科学技術も、EQは早送りできませんでした。彼がもっと様々な経験をして、心を養う時間があれば、彼がその才能を維持できるようになり、"過去の自分との統合"という別のストーリーが生まれていたのかもしれません。咲楽さんはどう思いますか?』


『私は、"友達"と"休息"かな。恋人作る前に、人との親密な関係って、まずは友達作りから始まるでしょ?彼には、友達がいなかったし。あとは、研究室に籠ってばかりだと気が狂っちゃうし、視野も狭くなると思うな〜。神様はせっかく日曜日作ってくれたんだしさ!日には当たらないとsundayの意味がなくなるよ!』


──彼女の意見が、胸に刺さった。

それは、私が求めていたものかもしれない。


『咲楽さんの意見は、いつも私に驚きと喜びを与えてくれます。それは、私にも足りなかったものかもしれないです。友達と休息もそうですが、確かに健康上の理由も含め、日光浴は毎日行うのが1番ですよね。咲楽さんは軽く言っているのに、とても心が動かされてしまいます。』


咲楽が優しく微笑みながら答える。


『確かに先生にも必要かもね!でも、先生の謙虚さは異常だよ?チャーリーから学んだの〜?』


『実はそうなんです。僕は、この作品の独特な文体や物語に興味と古典ならではの趣を感じていたのですが、チャーリーが天才になってからの発言に、ときどき憤りを感じ、私はこうならないようにしようと、18歳のころ思ったんです。』


──咲楽さんの笑い声が空に響いている。

私は、その姿を見れたのがとても嬉しい。


『はははっ、先生らしくて笑っちゃう。でも、先生ってそうやって学ぶ姿勢がとても前向きで常に謙虚だから、たまに私が馬鹿に感じちゃうんだよね〜』


『いえいえ、私が謙虚な姿勢を体現できているとして、それを咲楽さんが感じているのなら、既に知性的で知的謙遜がありますよ。馬鹿の辞書には謙虚が載っていないので、馬鹿に謙虚を認識できませんから。』


咲楽がまた、笑いながら話す。

『珍しく毒舌だね〜!先生の毒舌すごく刺さるのね!怒らせちゃダメなやつだ!面白くて涙出てきちゃった』


『僕が咲楽さんに怒ることは、天地がひっくり返ってもないと思いますよ。あなたには、出会って2日と思えないほど、濃密で魅力的な体験をさせて頂いていますので。』


咲楽が儚げに空を見つめながら話す。


『先生に選ばれて愛された奥さんは、幸せなんだろうな〜。先生に口説かれて落ちない女はいないよ。あれ、雨?』


──咲楽さんが、朧げに空を見つめると、空はいつの間にか厚い雲に覆われ、雨が降ってきた。


『きゃー、強くなってきた!急いで帰ろ!ほら、先生急いで!』


『そんなに早く台車押せませんよ。咲楽さん、先に帰っててください。』


──咲楽さんが、雨に打たれて笑いながら、私を見た。


『わたしそこまで鬼じゃないよ!しょうがないな〜。先生のために、わたしも濡れて帰りますよ!』


──雨音と彼女の声が重なり、絶妙で心地よい。私たちは、ずぶ濡れになりながら小走りでホテルへ向かった。雨に打たれているのが、とても愉快でなぜだか爽快で、ミュージカル映画のように雨に唄いたい気分だ。幸せが再び込み上げてくる。


ー2177年8月7日PM22:00ー


──何とかホテルに着いた。濡れた咲楽さんは、髪をかきあげ話しだす。


『やっと着いたねー。雨は明日だと思ってたのに〜。酔いもすっかり冷めちゃった。』


『雨に打たれるなんて久しぶりでした。何だか、少年に戻った気分でした。咲楽さん、風邪引くかもしれませんし、早めに、戻って休んでください。ビール部屋の前まで運びますよ。』


ホテルの中に入ると、管理人は、映画を流したまま、ソファでいびきをかきながら眠っている。


咲楽が小さく顔を横に振り、優しい顔で静かに答える。


『いいよ。先生も濡れてるんだから、自分で持ってくよ!ちなみに、ビールは2人で飲む用だからね。また、一緒に屋上で飲もう。』


『わかりました。また、飲みましょう。』


──私たちは忍足でエレベーターまで向かい静かに乗った。

そして、エレベーターのボタンを押した。


『楽しかった〜!お風呂入ったら、すぐ寝ちゃいそう。』


──咲楽さんは、あくびをしながら、32階のボタンを押した。

扉が閉まり、動き出す。

雨に濡れた咲楽さんの姿が、とても可愛らしい。


『4階だね。じゃあ先生、風邪引かないでね!おやすみなさい!』


『咲楽さんもお気をつけて。おやすみなさい。』


──私はエレベーターを降り、部屋へと向かった。廊下に響く足音が、昨日よりも軽快だ。


部屋に着くと、すぐに風呂に入り、いまは思考の天体観測をしている。

私はあのまま横浜に住み、甲屋グループで働き続けていたら、どのような人間になっていただろうか。


咲楽さんや、悟さんと対等な立場で話し、個々の考え方やユーモアに触れ、いままで手を出さなかったお酒を受け入れた。


お酒は、私を写し出し、私は少しずつ過去や自分を受け入れ始めている。


"友達と休息"か。

とても良い話を聞けたと思う

いまの私には、ホルミシス理論をなぞっても回復のフェーズが必須だろう。

彼女と話せたお陰で、また、点と点が繋がりだした。


正しく休み、更に強くなろう。


成長こそが、私の生き甲斐なのは、今後もおそらく変わらないだろう。

そして、この街に来て柔軟性が、更に増した気がする。


今日見つけた"星座"もとても綺麗だ。

私は頭の中で、その星座を見つめながら安らかに眠りについた。

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