4.スラム初夜 Ⅱ 〜水と愛〜
ー2177年8月7日AM0:20ー
──段々と昼の暑さが姿を消してきた頃、私たちの会話は熱く弾んでいた。
お酒を飲みながら話すのは、確かに楽しい。
ビールの苦味にも慣れてきた。
そろそろ、1本空きそうだ。
"シュッ"
彼女が気づいて新しいビールを用意してくれた。
『お、段々と様になってきましたね〜!この街へようこそ!』
──あどけなさながらに、咲楽さんが瓶を渡してくれた。
『ありがとうございます。香りと苦味が、とてもクセになってきました。鼻から抜けるシトラスの香りは、炭酸とホップが一緒に弾けて爽やかなのに、味は、しっかりと苦い。余韻が凄く深いです。スラムで、下町のようだけどこんなに上品な味の飲み物を飲めるとは思いませんでした。』
『食レポの達人じゃん!ビールは、大人の階段の第一歩だよ。初手でこの苦味がいけるとは、中々育て甲斐がありそうですね〜』
──彼女が笑いながら、調子良さそうに突いてくる。
とても愛くるしく感じる。
『では、先輩から大人のビールの嗜み方を学ばせて頂きます。』
『ノリが良いね!大悟くんにこのまま煽てられると鼻の下が伸びて、地面にぶつかっちゃいそうだよ!』
『咲楽さんが面白いからですよ。咲楽さんと話してると、私の笑い声が月の裏まで聞こえそうです。』
『月のうさぎもびっくりだね。』
──こんなに冗談を言いながら他人と笑っていられる関係なんて、昔は全然なかった。
桃香とも、色んな話をしたけど、咲楽さんはそれとも違う。
昔はもっと向上心の塊で、趣味の中では話せてても、皆が私に気を遣っていた。
私はその見えない距離に孤独を感じていたのかもしれない。
何だか重力がなくなっていくが、ここから動きたくないほど、身体が重い。
こんな感覚にさせるなんて、お酒も咲楽さんも不思議だ。
少し間を空けて咲楽さんが話し始めた。
『大悟くんは、恋愛免許証って必要だと思う?』
──私はビールを飲み、月と目が合った気がした。
『...。そう思ってます。私は、恋愛免許証を否定することが出来ないので。それを否定すると、”私自身”を否定することに繋がるからです。』
咲楽がトーンを落として、大悟の顔を覗き込むように、聞き返す。
『...どうして?』
『私は恋愛免許証が誕生して初めて生まれた子どもだからです。私の両親が初の免許証取得者なので。』
咲楽は驚いた顔で、また聞き返す。
『え!?初めてってことはあの"甲屋グループ"の甲屋 潤の息子さん!?あの、甲屋 大悟!?』
『ええ、そうです。やっぱり知ってますよね。恥ずかしい話、"あの"甲屋 大悟です。今はスラムに堕ちてまいりました。』
──咲楽さんは少し笑顔でよそよそしくなった気がしたが、砕けた感じで話を続けてくれた。
『私、どこかで見たことあるって感覚だけで、大悟くんなんて馴れ馴れしくしちゃったけど、ごめんなさい。』
『いえ。それがとても嬉しかったんです。このままぜひ"大悟くん"でお願いします。』
『わかった。私のこともいつでも呼び捨てにして良いからね。』
『ありがとうございます。』
『でも、甲屋グループか。すごいよね。世界的スーツブランドで高級スーツからファストファッションまで扱うアパレル界の頂点じゃん。働く男のステータスだもんね。あの広告、なんだっけ?あなたがモデルだった、オーダーメイドはすでに出来ているみたいな。』
『貴方のスーツは、オーダーメイドする前に出来ている。』
──咲楽さんが、手を叩き、私を指差して話し出す。
『そう、それ!いつも通勤のとき見てたな。朝の目の保養になるくらい、格好良かったもん。甲屋ってことは、昔は”兜”とか作ってた一族でしょ?兜ってやっぱり戦のとき、存在感を醸し出すじゃん?それを作ってた遺伝子がやっぱりスーツにも活かされてるのかな?戦う男を1番かっこよく魅せることが本能的にわかるみたいな!』
大悟が、頭の後ろを撫でながらよそよそしく話す。
『そうかもしれないですね。私たちは先祖代々そういうことが得意だったのかもしれません。』
『何か研究もあったよね。甲屋スーツ着たら、交渉の成功率が17ー38%上がるみたいな。』
『装いの科学の世界ではそう言われているみたいですね。とても誇りに思ってます。』
少し間を空けて咲楽が切り出した。
『でも、甲屋 大悟ってことは恋愛免許証保持者で”剥奪”されたんだっけ?』
──答えるのにあまり気まずさを感じないのは、咲楽さんの人柄のお陰だろう。
『そうなんです。訳あって弟に裏切られて資格を剥奪されました。いまの私には、ほとんど何も残っていません。』
『訳っていうのは聞いちゃダメなやつ?』
『いえ。そうじゃないのですが...。私は、その後から泪橋を渡っているところまで記憶が曖昧で...。何故か、ちゃんと思い出せないんです。妻とどうなってしまい、いまどうしているのかも。』
──咲楽さんは共感を寄せつつも、明るく話題を戻した。
『そっか。エリートに生きるのも大変だったんだ。これからは、ゆっくりとここで星に癒されて慰めてもらおうよ。とりあえず乾杯しよ。』
──夏の大三角が眩く光り、白鳥が浮かぶ。
私たちは、静かに瓶を重ねた。
『でも、元資格保持者ってことは私の先生だね。試験は何回受けたの?』
『1度だけです。』
咲楽が思わず驚く。
『えっ、1度で受かったの??あの、医者や弁護士、政治家ですら難しいって言ってるあの試験を?』
『はい。私はたぶん運が良かったんだと思います。』
『さすが!話しててもわかるもん。この人なら受かりそうだなって。ちなみに試験内容どんなのだった?』
──咲楽さんが、瓶を揺らしている間に私は、ビールを一口飲み答えた。
『基本的に咲楽さんと同じだと思います。
色んな学問の筆記、面接、健康診断、遺伝子検査、性格診断、社会的地位と倫理観の試験とかでしたかね。とにかく多くて、試験の3日間はとても長かったので、ざっと言うとそんな感じです。』
『面接では、何聞かれたの?』
『LOVE & PEACEは実現できるか?とかでした。』
咲楽が身体を前のめりにして話す。
『それ、私も聞かれた!いきなりだったし驚いたよ!何て答えたの?』
『えっと...、実現するときもあるが、持続的ではないと思います。愛で平和は訪れますが、人は愛を守るために争います。人々が、知識の刷新、相手の立場に立ち考え、言動を豊かにしていかなければ、持続不可能だと思います。なので、私はこの恋愛免許証という資格制度が生まれ、資格取得のために知識を深め、向上心を持ち、誠実に行動し、人々が愛のために争うこと、傷つけ合うことが劇的に減ったことに深く感謝しています。みたいに答えました。咲楽さんは、なんて答えたんですか?』
咲楽が小さく拍手をした。
『さすが先生、やりますね。私のは、先生の答えの40%くらいしか言えてないから聞かなくていいよ。その後に聞かれなかった?"それでは愛とは何ですか?"って。』
『私は聞かれなかったです。咲楽さんはなんて答えたんですか?』
咲楽が瓶ビールを回し、いたずらっぽく笑った。
『私のより大悟先生の答えが聞きたいな〜』
──私は、ビールを飲み直し、チョコを頬張り、口が空になるのを待ち、こう答えた。
『私には、わかりません。愛は変幻自在で、固定的なものではないと思うからです。私は、同性にも異性にも、植物や動物、芸術や学問など様々なものに、愛を持っています。それを単純化して答えを出すのは"水で理想のマイホームを作って下さい"と言われているようなものです。氷に化学変化させれば作れるのでは?という方も出てくると思いますが、それでは住める環境が限定的です。そして、恐らくその家が崩れない場所は、人が安心して住める世界とは言えないと思います。』
『...なるほど。。』
──咲楽さんは、髪をかきあげ、緩んだ表情で頷きながら聞いていた。私はそのまま続けた。
『そして、水は化学変化などで、姿形を変えます。また、何かを足せば、コーヒーにも、スープにも、いま飲んでいるビールにもなり、洗濯やお風呂など、何かと私たちの生活や生命活動に欠かせません。しかし、その水で”人を殺す”こともできる。愛とは何か1つに限定して答えを求めず、相手のことを理解して、いま何が必要か形を変えながら、お互い分かち合うことが大切だと思います。それを行うには、宇宙空間に近く、空にも似た私たちの心を"物差し"という"2次元的な測定法"で計測するのをやめることから始めるのが大切だと思います。』
──そう。答えられないと言った私は、まだ愛の本質を理解していない。水の例えで誤魔化したが、水は目に見えても、愛は目に見えない。目に見えないものは、しっかりと捉えることが難しい。見過ごすことがかなり多いからだ。
そして、人は誰かと比較することで常に答えや状況を捉えたり、正当化しようとしたり、悲観してしまう。
そんな世界では、多角的な視点でより立体的に審査する”あの試験”を、私は正しいと思っている。
咲楽さんは、ビールを飲み、星から私に視線を移し口を開いた。
『さすが先生!急な質問にも完璧に答えるね。そりゃ、あんな試験も1発で合格できるよね〜。私が落ちた理由が何となくわかったよ。これからもご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします。』
『違いますよ。今のは私が捉えどころのない物を、完全には理解してないという意味で言いました。』
『それでもしっかり言葉にできる先生は、やっぱりすごいよ!いまの答えで、わたし感動したもん。今日、星を観に来て良かったって改めて思ってる。』
──咲楽さんの顔が月に照らされ、その優しい表情が、はっきりと見える。
『こんな剥奪された人を先生に持つと、いばらの道かもしれませんよ?』
『ふふふっ、大悟くんはまるで"堕天使"だね。』
『堕天使?』
『そう、堕天使。天界で裏切られて、翼を折られて地上に堕ちて来た堕天使。本当はこのまま悪魔にもなれる。でも、そのままの姿で地上で人間を従えて、空に反逆することもできる。どちらでも天界に逆らうセオリーなのかもしれないけど、大悟くんなら、その翼を治して天界に戻れるかもしれない。私は、そう信じてるよ。先生。』
──彼女の笑顔に、私の心臓が鼓動を強めた。
霧が濃くて見えていなかったこの先が、少しだけ見えた気がした。
『咲楽さんらしい、ユニークな表現ですね。ありがとうございます。私が堕天使なら、咲楽さんは、もう"天使"に昇格している。あなたはもう、天界に戻る資格がありますよ。あなたは、星の力を借りて皆んなを癒す力を得ていると思います。』
咲楽は、大悟から星へ視線を戻し答えた。
『私なんて、まだまだだよ。自分を星に慰めてもらうので精一杯だし。独りで星を観て、お酒にも頼って、なぜ、試験に合格できないのか流れ星を探しながら考えてたら、大悟くんが来たの。私も、こうみえて姉妹で会社を経営しててね。妹に、働き詰めだったからバカンスに行ってくるって言って、ここに子どもを堕ろしに来たの。まだ戻る気になれないから、こうしてるだけの弱い人間なの。もう1ヶ月経つけど、どういう顔して戻れば良いのかも、私の居場所がまだあるのかもわからないの。』
『わからないですよね。どういう顔したら良いのかも、居場所がまだ残っているのかも。』
──咲楽さんが、星から私にまた視線を戻した。
切ないような共感してくれているような顔をしている。
『うん、わからない。でも、大悟くんにもわからないことってあるんだね。』
『わからないことの方が多いですよ。この街に来たときも、もっと顔が死んでる人ばかりだと思っていたのに、皆んな酒を飲みながら大きな声で話して笑ってるし、世界で1番不幸な顔をしているのは、私だけでした。そんな中、悟さんと話し、思っていた世界と違ったことを知り、色んなことがあって、夜空を観にきたら、近い場所から来た咲楽さんの顔も儚さの奥には美しさがあった。いま、自分がどういう顔しているのかもわかってません。』
『イケメンだよ。』
──彼女の真顔が、私の心を揺さぶる。
彼女の表情の変化や仕草は、まるで遊園地のアトラクションのように私に色んな気持ちにさせている。
『ふふっ、そういう冗談を言える咲楽さんの顔やユーモア、性格がとても素敵だと思います。』
──咲楽さんの笑顔や声、ユーモアに今日の夜空は星以外にも埋め尽くされて、私は彼女のことが好きになっていた。これは、恋ではなく"愛"なのかもしれない。たとえ、契りを交わすような親密な関係になれなくても、こうして、2人で空を観ながら、もっと色んな話をしてみたい。
『ところで、咲楽さん。"独り"で星を観ているときも楽しかったですか?』
咲楽は、安らかな声で答える。
『うん、楽しかったよ。だから、毎日ビール飲み過ぎて太ったかも。』
『なら、良かった。咲楽さんのように、知的で繊細な人は、孤独を愛せないと隣人も愛せなくなると思うんです。咲楽さんが星空を独りで楽しめていたのなら、きっと、隣人のことも愛せる。その愛があれば、元の世界で居場所を取り戻せると、私は信じています。私は4階にいるので、いつでも、声かけてください。悟さんと3人で飲むのも良い。独りの時間も、人と過ごす時間も作れれば、あなたなら、資格を手に入れて元の世界に返り咲くことができますよ。咲楽さんの、優しさやユーモアは、淘汰されて良いものではないと思います。』
咲楽はビールを1口飲み、笑いながら話した。
『隣人を愛するなんて、神父さんみたいなこというね。やっぱり、大悟くんは堕天使じゃん。でも、ありがとう。今日は幸せだな。"あなたがじっとしていれば、人はあなたに会いにくるだろう"だったっけ?本当なんだね。』
『その格言は面白い真理をついていますね。とても素敵な言葉です。ところで、咲楽さんはいつも屋上に来るのに、なぜ32階にしたんですか?』
咲楽が少し不機嫌そうに、冗談混じりで答えた。
『35階だと、他に人がこのホテル来たとき、もっと上の階まで攻めてきそうでしょ?でも、32階なんて中途半端だと危険な奴って思ってくれると考えたの。そしたら、皆んな下の階に固まってくれて、屋上は私だけのものだと思ったの。でもまさか、4階選んで屋上まで来る人がいるとは思わなかったな。』
『す、すみません。カーテンを開けたら、星がたくさん見えたので、つい屋上まで来てしまいました。』
『ふふふっ。堕天使には人の考えなんて通用しないんだよね。天界が恋しくなったんでしょ?』
『意地悪ですね。迷惑だったなら謝ります。』
『ううん、来てくれてありがとう。とっても楽しかったよ。』
──彼女の笑顔にまた癒される。ゼウスが白鳥の姿になって、王妃レダに近づいたように、私はスラムの装いをして、彼女に近づいたのかもしれない。
スラムの初夜は、私の人生で1番長く、沢山の星に彩られる夜になった。
咲楽さんとの会話は、朝日が昇るまで続き、笑い声は月に届かなかったかもしれない。しかし、私の心は月まで広がり、この世界を優しく包み込んでいった。
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