スラムA地区

1.スラムの入り口ー去勢の楽園ー

ー2177年8月6日PM1:50ー




──スラム地区に着いた私は、座れる場所を探していた。


しかしこの場所といえば、五感すべてを疑いたくなるほど異様な場所だ。




やはり、あの橋は異世界への入口だったのか。




まだ昼過ぎだというのに、人々は頬を赤らめて、ジョッキの底を空に向けて、喉から豪快な音を立ててジョッキから一気に液体を注ぎ込む。




そして、プハーッと気持ちよさそうにしている。




──ここは、まるで衛生環境の悪い天国だ。




そして、人から漂うこの匂いは何だ?これがお酒というやつなのか?




アルコールを未だに摂取するなんて、あまりにも時代遅れすぎる。






そもそも、話し声がデカすぎる。


互いの距離は1mもないのに、そのトーンは15m先にいる人に話すそれではないか。


腹式呼吸すらできていないから、喉で話している。


これでは、明日の体調が心配になる。




──ここでは、医学は150年以上停滞しているのか?




そう思わせるほど、人が人として機能していない気がしてならない。


ただの言葉を話せて酒が飲める類人猿ではないか。


半ば呆れていたが、初めて見る彼らへの好奇心を、私は抑えきれなかった。






『よお、兄ちゃん。初めて見る顔だな。』




──後ろから声がした。


振り返ると、架空の人物として名高いサンタクロースが率いるトナカイのように、真っ赤な鼻をした白髪混じりの男が、くちゃくちゃ何かを噛みながらこちらを見ていた。




『元気ないようだな。もしかして今、流れ着いたばかりか?』




『……。』




──無視するのが最適なのか、私は迷った。


真っ赤なお鼻のトナカイは、笑いながら話を続けた。




『そんな尖った目で見ないでくれよ。喧嘩なんて売ってねぇよ。金になるのは喧嘩より信頼だからな。


そんな高い服着て街中歩くと、身包み剥がされちまうぞ?


とりあえず、ここ座りな。いまの温室育ちの人間ってのはどんなもんか教えてくれよ。』




──どうやら、ただの酔っ払いではないらしい。


お互い情報交換するのは、悪い話ではない。




羅生門かと思いつつも、私はどうにかこのスラムの情報を得て、大人しくできる場所を探すことにした。




『兄ちゃんはどこから来たんだい?』




『横浜です。周りの人からする体臭が変ですが、これはアルコールなのですか?昼からこんなことをして、一体普段は、何をされているのですか? 仕事はしていないのですか?』




──トナカイが笑いながら私をなだめる。




『質問が多いな。焦るなよ。見ての通り、毎日こうだ。そして、これはお酒だ。見るのは初めてかい? 初めてなら酒臭いってのは耐えられないだろうな、がはは。


横浜なんて良いとこ住んでた“良い身分”の人間には、ここは地獄にしか映らないのかもな。


まあでも、ここが現実だ。何があったかは知らんが、あんたもここにいるってことは俺らの仲間ってことだ。これから仲良くやっていこうや。あんたがスパイなら、ここがどういう場所かは知ってるはずだしな。』




──聞きたいことは山ほどあるが、口が先に動いてしまった。




『仕事は、何をしているのですか?』




『してないよ。あんたらお上と仲良い“AI”ってやつの方が、よっぽど上手く働いてくれるんだ。


俺らは、"去勢"をして、女遊びさえしなければ、ここで人生の辛さを忘れて、ただ笑って生きていける。政府に保証されてる“生活保護”ってやつさ。


その代わり、素面に戻れば玉無しで、仕事もない情けない男さ。酒がなくなれば、存在意義がなくなる。笑えるだろ?


ところであんた、この街に着いたばっかだろ? 記念に一杯どうだい? 俺が注いでやるよ。


明日にでも生活保護を申請すれば、去勢されるが、来月からタダで酒が飲めるぞ?』




──確かに国には、そういった制度がある。


しかし、呆れたことを勧めてくる人だ。


私は、冷静に彼を見つめ返答した。




『いいえ。私は酒など飲みません。私はただ、あなたとお話がしたいだけです。』




『なんだい。酒があんたに悪いことでもしたか? この街に来たなら覚えとけ。


酒は悪さなんてしない。いつだって悪さをするのは人だ。酒はただの鏡なんだよ。それともあんた、"写されたくないもん"でも抱えてんのかい?』




『……あなたに、私の何がわかると言うのです?』




──何故か拳を握り、思わず反論してしまった。




こんな下衆な親父と私が対等に話すなんて、やはりどうかしている。


様々な感情が怒りに統一され、マグマのように煮えている。




しかし冷静を装わなければ。このトナカイはどうやら人を見る目が鋭いらしい。




"酒を飲むと馬鹿になる"というのは、嘘みたいだ。




『わからないから、こうやって酒を酌み交わそうとしてんだ。言いにくいことも、酒があれば言えるもんさ。


あんたらお上が好きな“LSD”ってやつは自白剤みたいなもんだが、酒ってのは言うことも言わないこともできる。


ただ、"獣"になっちまうと抑えるのが大変ってだけだよ。心配すんな、あんたが飲みすぎたら今日は介抱してやるよ。』




『だから、私は飲みません。第一、名前も知らないあなたに話すことなど、何もありません。』




『俺は"悟"って言うんだ。兄ちゃんは?』




『大悟です。』




──トナカイの名前は悟と言うらしい。


私の部下だった者も、ここまで私に上手く切り返せる者はいなかった。




『よし、自己紹介も終わりだ。これでお互い名前も知ったし、飲めるだろ? 佳奈ちゃん、焼酎もう1本追加だ。お茶と氷も新しいの持ってきてくれ。』




『はいよ〜!悟さん、あんまり若い人いじめちゃだめだよ? せっかくイケメンが来てくれたのに、寄り付かなくなるじゃん!』




『いじめちゃいないさ。こりゃ歓迎会だよ。若いイケメンが初めて街に来たんだ。


この街の“いろは”を優しく教えて、馴染んでもらおうってだけさ。』




『また上手いこと言って〜!もう鼻も真っ赤なんだから飲み過ぎないでね。お兄さんも、この酔っ払い放っといていいんだよ?』




『ええ、ありがとうございます。』




──ポニーテールの、私より少し若そうな店員は、テンポの良い会話と慣れた手つきでテーブルの空いた酒瓶を片付け、颯爽とキッチンへ戻っていった。




『どうだ、あの娘可愛いだろ? この店の看板娘だが、この国で“色恋沙汰”は御法度だ。


まあ俺の息子はもう起きてはこないが、あんたは気をつけなきゃな。』




『呆れた人ですね。とりあえず今日はお茶だけにしてください。私はお酒がなくても話せることは話します。なので、私が教えて頂きたいことを、いくつか教えてください。』




『はい、お待たせしました〜!ほどほどに、ごゆっくり〜』




──ホールの女の子が追加の注文を持ってきた。


早い。とても仕事ができる人だ。




『おっと、ありがとう。佳奈ちゃん。気をつけるよ。』






『ところで兄ちゃん、質問はまだ続くのかい? まあ、お互い様ってやつだな。


酒は無理にすすめん。ここにあるから、飲みたきゃ勝手に飲め。


お互い、自分のペースでやるのが一番だ。


なんてったって、ここはスラムの入り口だ。まだ治安はいい方よ。


この地区を出ると、反政府組織がゴロゴロいる。


あんたみたいに小綺麗な格好してると、すぐ目の敵にされちまうぞ。』




──当初想像していた”座れる場所”とは程遠い。




だが、この悟という名のおじさんは、見た目とは裏腹に、私の持っていない何かを持っている気がした。




ここで逃げるのは、このスラムで生き抜くことを"放棄する"ことと同じ行為かもしれない。




『なるほど。噂程度にしか聞いたことはありませんが、奥の方はそれほど危険なのですね。武装もしていると聞きましたが、それはスラム全体の話ではないのですね?』




『こんなとこで武装してたら、国に潰されて終わりよ。ここは死を待つだけの人間しかいねぇ。だから、みんな好きに生きるのさ。


酒を飲んで、歌って、踊って。音楽が鳴り続ける間は踊らなきゃいけない。それが、人生をうまく生きるコツってもんだ。女とは無縁な生活かもしれんがな。


去勢さえすれば、食いもんも飲みもんも保証されてる。けど、もっと奥に行くと“それに憤りを感じる奴ら”ばかりだ。あいつらは簡単に言やあクレイジーだ。愛なんて形のないもんのために争うんだぜ。


よく見てみろ。あんたくらいの年なら、上流階級で合法の免許証持ちの子かもしれねぇが、ホールの姉ちゃんはあんたより若い。知らんふりするのが正解だ。』




──彼の言う通りだ。ホールの子が若いことに気づいていたが疑問に思わなかった。


私もいつの間にか、彼との対話に火がついていた。




『確かに、言われるまで気がつきませんでした。何があるかはこの目で確かめてみないとわかりませんが、あの娘が働いているとなると……スラムの奥にいる方たちが政府に抗いたい理由が、少し見えてきました。』




『確かめるつもりかい? 物好きだねぇ。好奇心は、猫も殺すんだ。俺らは猫を見習って、日向ぼっこしてりゃいいんだよ。たまに集まって世間話でもしてりゃ、罰は当たらねぇ。


おっと、横浜には野良猫なんていねぇか?』




『いえ、いますよ。駆除の話もありましたが、猫は科学的にも人をクリエイティブにしてくれる存在です。だから、市民が断固拒否しました。AI主流のいま、人は“創造的であろうとする”ことに必死ですからね。』




──そう。人はみなAIに創造性を奪われんと必死なのだ。この自然体な悟さんとは何かが欠けたように。




『そりゃ笑える。猫は貴族みたいだと思ってたら、本当に貴族じゃねぇか。人間より猫の方が地球で立場が上だな。さすが、俺に生き様を教えてくれた先生だ。


あんたら上流階級も、猫様には頭が上がらねぇってか。いい気味だぜ。』




『ふふっ、“猫は貴族”という視点は面白い。間違いではないかもしれません。私の周りにも社会的地位が高いのに、猫には頭が上がらない人達がいますよ。野良猫のために、またたびを常に持ち歩いている者まで。』




『そりゃ、俺も上流階級と仲良くできそうだな。俺の先生にそんなに優しいとは。昔“バター猫のパラドックス”ってのがあったの知ってるか?』




『なんとなく覚えてます。バターを塗ったパンは塗った面が下に落ちる、猫は必ず足から着地する――その矛盾の実験でしたね。』




『そう、それだ。猫の背中にバターパンをくくりつけて落下させると、どっちが下になるかってやつだ。


俺の答えはひとつ。そんなこと考えた奴の腕を切り落として、二度とパンにバター塗れねぇようにしてやれってんだ。俺の先生の背中に、あんな栄養皆無なもん貼りつけて実験すんな!』




──また、斜め上から解答してくる。


少々過激だが、彼の発想は悪くない。




『ははっ、過激ですね。でも悟さんの気持ち、わかります。猫を侮ってはいけません。』




『あったりまえだ。俺も生まれてから色々頑張ってきたが、“恋愛免許証”なんてもんができて、時代に淘汰される側になっちまった。


金も希望もいらねぇ生活を送れてるが……それでも“心”はあった。


虚しさってやつをどうにかやっつけようとしてたときに、先生と目が合ったんだ。俺なんて興味なさそうにあくびして、尻尾ひと振りして寝ちまったよ。……その瞬間、生き方を教えてもらった。


お礼に毎日魚を届けてたら、だんだん俺に気をかけてくれるようになって――先生が、俺に生きる意味をくれたんだ。』




『それは素晴らしいですね。やはり猫には、横浜もスラムも関係ない。先生のおかげで、私はいま悟さんとこうして話せているのかもしれません。』




『あんた、否定もしねぇし、いい奴だな。話しやすいよ。』




──悟さんの猫好きな過激思想には驚かされたが、横浜で味わえなかった“会話の温度”がここにはあった。




これがスラムの空気なのか、それとも悟さんが特別なのかはまだわからない。




ただ、私は確かに、この男に惹かれていた。




『ところで、あんた寝る場所はあるのかい?』




『いいえ。それで悟さんに色々教えてもらおうと思って、こうしてお話しているんです。』




『そうかい。寝る場所がないと落ち着かねぇもんな。ここから少し北に行くと、昔の商店街がある。そこに古いホテルの跡地があって、誰かが勝手に宿屋として営んでいる。


もう少し金を出せば、元高層マンションを宿屋にしてるところもある。太陽光発電でお湯も出るぞ。……まあ、水すら怪しい場所もあるけどな。』




『1番高いところで、いくらなんですか?』




『1泊3,000円だ。』




『3,000円!? そんな安値で? 汚いとか、訳ありとか……』




『お上の人間からすりゃ安いかもな。けどここはスラム、ドヤ街だ。訳なしを探すほうが無理だ。3,000円のとこは、ここじゃ高級ホテル扱いさ。


泊まるのもいいが、噂には注意しな。ここにいる奴らの大半は去勢済みで金なんて興味ねぇが、そうじゃねぇ奴もいる。……賢いあんたなら、察しはつくだろ?』




『確かに。目立たないようにするには、まず何を?』




『まずはその身なりだ。あんた、ちと綺麗すぎる。ここから3軒先を右に曲がったとこに服屋がある。安物でいい、汚してこい。』




『3軒先を右ですね。わかりました。ありがとうございます。』




『ところで不躾だが、金もあるのに、なんでこんなとこに流れてきたんだ? 向こうでやり直すこともできたろ。』




──確かに、そう思われても仕方がない。




だが、生まれてからずっと“知られすぎてきた”。


私の居場所は、もうあそこにはなかった。




『私の居場所は、あそこにはもうありません。……何というか、誰も私のことを知らない場所を探しているんです。』




悟さんは無表情のまま、お茶割りをぐいっと飲み干し、音を立ててグラスを置いた。




『そうかい。まあ、他人の詮索は御法度だからな。悪いこと聞いたよ。』




『いえ、話せないことではないですが、まだ色々と落ち着いていません。また機会があれば。』




『そうか。今日は楽しかったよ。こんな去勢した酔っ払いの話を真剣に聞く奴なんて滅多にいねぇからな。じゃあ、達者でな。俺はもうちょい飲んで歌って帰るわ。』




──悟さんはそう言って焼酎を注ぎ直し、上機嫌で鼻歌を歌い始めた。


悟さんの助言も済み、私は日が暮れる前に服を調達し、宿を探すことにした。




この街は、とても賑やかだ。


スラムとはもっと沈んだ空気を想像していたが、ここの人々は表の世界の中流階級よりも明るい顔をしている。




タダ酒とは、これほどまでに人を愉快にするものなのか。




”酒は悪さをしない。悪さをするのは人だ。”...か。確かにそうなのかもしれない。


悟さんと話して胸が少しだけ軽くなった気がする。




さぁ、宿を探そう。

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