出れない
夜明け前の空は、まだ深い藍色だった。
伊吹と雪花は、恐怖に震えながらも、互いの手を離さずに立っていた。
「雪花、大丈夫?」
伊吹が肩に手を回し、優しく声をかける。
「うん……でも、早く、ここから出よう」
震える声。
それでも、雪花の目には“生きたい”という意思が宿っていた。
二人は必要な荷物をリュックに詰め込み、玄関へと向かう。
――そして、ドアを開けた瞬間。
「……嘘」
雪花の声が掠れた。
目の前にあったはずの赤い車は、見るも無残な姿になっていた。
タイヤは裂け、フロントガラスは蜘蛛の巣状に砕け、ボンネットは歪んで開いている。
オイルとガソリンの匂いが、朝の澄んだ空気を汚していた。
「伊吹の車が……」
「誰が……なんで……!」
伊吹は拳を握り、悔しさに唇を噛む。
けれど、怒っている暇はない。
「……行こう。とにかく電波が入るところまで」
伊吹が携帯を取り出す。画面には、無情な「圏外」の文字。
雪花の顔から血の気が引いた。
「うそ……どうして……?」
「落ち着いて、大丈夫。必ずなんとかなる」
伊吹は雪花の氷みたいに冷たい両手を、自分の手で包み込み、無理やり熱を分け与えるように握る。
冷たい指先が少しだけ温もりを取り戻した。
「どうしよう、伊吹……」
雪花の手が、伊吹の服をぎゅっと掴んだ。
伊吹は一度、深呼吸をしてから言った。
「落ち着いて、雪花。今は選ばないと。ここで助けを待つか――歩いて人里まで行くか」
「……どっちがいいと思う?」
雪花の声は小さく、まるで風に消えそうだった。
伊吹は少し考え、強い目で彼女を見つめた。
「行こう。歩こう。怖くても、止まる方が危ない」
迷っていても夜は来る。
二人は残りの食料と水をリュックに詰め、最後にもう一度、家の中を見回した。
差し込む朝日が、粉々の窓ガラスに反射して、きらきらと光っている。
それはまるで、壊れた世界が最後に見せる美しさのようだった。
「行こう、雪花」
「うん……行こう」
ドアが閉まる音は、まるで何かを封印する儀式のように響いた。
山道を抜け、舗装された県道へ。
朝日が差し込み、森の中にも少しずつ色が戻っていく。
「伊吹、大丈夫?」
「大丈夫。雪花こそ、歩ける?」
「平気……だと思う。伊吹が一緒なら」
その言葉に、伊吹は笑顔を見せた。
緊張の糸が少し緩み、二人は並んで歩き始めた。
足元で落ち葉がカサカサと鳴る。
木々の隙間から鳥の声が聞こえてきて、ほんの一瞬だけ、現実に戻った気がした。
けれど、歩けども歩けども景色は変わらない。
「あれ? もう四時間は歩いてるよね……」
伊吹が立ち止まり、顔をしかめる。
「うそ……そんなに?」
雪花の声が震える。
「だって、全然着かない……この道、本当に県道に出てるの?」
「出てるはず……だよね……?」
二人は顔を見合わせた。
だが、周囲は静まり返っている。風も止まり、鳥の声さえ消えた。
「伊吹、まさか、道に迷った……?」
雪花の瞳が揺れた。
伊吹は彼女の手を掴み、強く握る。
「違う。迷ってなんかない。大丈夫だよ」
そう言いながらも、伊吹の声も僅かに震えていた。
やがて太陽は西へ傾き、影が長く伸びた。
冷たい風が吹き始め、森がざわつく。
「伊吹、もう暗くなる……」
雪花の声がかすれる。
「大丈夫。少し休もう」
二人は道端の岩に腰を下ろした。
疲れきった雪花の肩が小さく震える。
「怖いよ、伊吹……おうちに帰りたい」
その一言が、伊吹の胸を強く刺した。
伊吹は雪花の髪を撫で、無理やり笑顔を作った。
「大丈夫。私がいる。絶対、帰ろう」
そう言って立ち上がると、雪花の荷物を背負った。
「え……?」
「リュック、貸して。私が持つ」
「だめだよ! 伊吹だっていっぱい持ってるのに……!」
「いいから。相棒の荷物持つのは、当たり前でしょ」
伊吹は自分のリュックを背負い、雪花のリュックを胸の前に抱えるように持つ。
「伊吹……」
「なに?」
「ありがとう。いつも守ってくれて」
「当たり前じゃん。私は雪花の相棒なんだから」
二人は再び歩き出した。
手を繋ぎ、互いのぬくもりを確かめるように。
だが、数十分後。
雪花がふと立ち止まった。
「ねぇ、伊吹……この木……さっきも見たよね」
伊吹も息を呑む。
曲がった枝、割れた岩。見覚えのある風景。
そして――見えてきたのは、あのログハウスだった。
「……うそ。戻ってる……?」
雪花が呆然と呟く。
行きは四時間かかったはずの道のりが、帰りはたった一時間。
伊吹は言葉を失い、ただ玄関を見つめた。
中からは、暖炉の明かりが漏れている。
火はまだ燃えていた。まるで、二人が出て行くのを待っていたかのように。
「夢……だったのかな」
雪花が震える声で呟く。
「わかんない。でも……戻ってこられたのは確かだよ」
伊吹はソファに崩れ落ち、力なく隣に座った雪花を、強く引き寄せた。
雪花はもう抵抗する気力もなく、伊吹の肩に額をこすりつける。
肩を預け合う二人の影が、暖炉の光に揺れる。
その静けさは、安堵とも、絶望ともつかない。
「……ねぇ伊吹」
「なに?」
「また、朝になったら出よう」
「うん。今度こそ」
火のはぜる音だけが、部屋に響いた。
その音はどこか、人の囁きに――『おかえり』と、いう声に似ていた。
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