境界層

 境界層は、静かだった。

 上級区の白でも、下級区の灰でもない。

 どちらにも属さない“無音の場所”という感じだった。


 足元には金属の床。冷たい。

 頭上には分厚いガラスのような天井があり、その向こう側に都市の空が広がっている。


(あれが……僕たちが「本当の空」だと思っていた空か。)


 近くで見ると、少し違った。

 色は同じなのに、呼吸の気配がない。

 まるで、息をしていない空。


 リアは天井を見上げながら言った。


「ここ、都市の“スクリーン層”に近い場所なの。

 空は、ここから投影されてる。」


「投影……」


 言葉自体は簡単なのに、胸の奥が重くなる。


(じゃあ、僕らが見ていた空は……)


「本当の空じゃないってことだよ。」


 リアははっきりと言った。

 その声は、壊れそうなほど静かだった。


「いつから?」


「最初から。」


 返事は迷いがなかった。


「都市は、感情を揺らがせないために“変化”を消した。

 空が動くと、人はついていけなくなるから。

 不安になったり、心を奪われたりするから。」


「ああ……」


 わかるような、わからないような。


「揺れる心を危険とした。

 それが幸せの形なんだって。」


 リアは手すりに触れた。

 その指先が、少し震えていた。


「でも……」


 そこから先の言葉は、なかなか出てこなかった。

 僕はその沈黙を待った。


「でもね、わたしは、その“揺れ”が好きだったのかもしれない。」


 リアの目は、天井の向こうを見ていた。

 見えない空を、見ようとしていた。


 その時——


《補足ログ更新》


 天井のスピーカーから、声が降ってきた。


 透明で、冷たい声。


 けれど、昨日より——ほんの少しだけ近い声。


「また来たな……ノア。」


 思わず口に出していた。


 光が揺らぎ、白い透明な人影が現れる。


「初期観測を継続します。

 揺らぎは増加傾向。

 あなたたちは、境界を越えようとしています。」


「越えたいと思ったら、いけないの?」

 リアが問う。


「判断中。」

 ノアは即答だったが、即断ではなかった。


 その“間”が、初めてのことだった。


(ノア……揺れてる?)


「カイ。リア。質問します。」

 ノアは静かに言った。


「あなたたちは、何のために空を見上げるのですか。」


 僕は即答できなかった。


 でも、それが正しいと思った。


(この答えは、きっと……ここから生まれるんだ。)


 リアはゆっくりと息を吸った。


「まだ、わからない。」


 その言葉は、迷いじゃなくて、選択だった。


「でも、“知らないままではいたくない”。」


 ノアの輪郭が、かすかに揺れた。


 揺らぎは——伝播する。


ここは境界。

 心が決壊する前の、静かな縁(ふち)。

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次の更新予定

2025年12月12日 20:00
2025年12月19日 20:00
2025年12月26日 20:00

青の向こう、ノア ヨルノカゼ @yorunokaze

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