波紋

 翌朝のノアシティは、何事もなかったかのように整っていた。

 空はきれいで、均一で、昨日と差がない。

 いつも通りの平和な朝——のはず。


(でも、僕の中だけは、もう昨日と同じじゃない。)


 学校に入ると、すぐに幸福指数の測定が始まる。


「脈拍安定……呼吸安定……

 カイ・ユグド、幸福指数変動を継続確認。追加評価が必要です。」


 AI講師の声は優しい。

 その優しさは、病院の無菌室みたいな優しさだ。


(あー……やっぱり、バレてるよな。)


 教室の空気がわずかに僕から距離を置く。

 みんな何も言わない。でも感じる。

 「揺らいだ人間に近づくと、こっちまで揺れる」と思っている距離感だ。


 そのとき——教室の扉が静かに開いた。


 白い制服。

 光を反射する髪。

 昨日と同じ、でも昨日より近い存在。


 リアだった。


「カイ・ユグドを上級区評価センターへ招集します。マザーの判断です。」


 すべてが淡々としていた。

 だからこそ、逆に逃げ場がない。


「確認しました。移動を許可します。」


 AI講師は何も疑問に思わない。

 都市は秩序で動いているのだから。


(ああ、こういうのを“決まっていたみたい”って言うんだろうな。)


 僕は立ち上がり、リアの後に続いた。


 上級区へ向かう透明な通路は、都市の空中を走っている。

 足元のガラスの下に、灰色の下級区が小さく見える。


「……本当に、僕で良かったのか?」


 自分でもよくわからない質問だった。

 でも、口が勝手に言った。


「うん。あなたしかいなかった。」


 リアの声は、昨日より少しあたたかかった気がした。


「この都市で、立ち止まれる人は少ない。

 止まった時、空を見ることができる人はもっと少ない。」


「立ち止まるのって、そんな大したことか?」


「大したことだよ。」


 リアは迷わず言った。


「流れに逆らうには、力がいる。」


 風がないはずなのに、何かがそっと揺れた気がした。


「怖い?」


「そりゃ、まあ。」


「わたしも、同じくらい。」


 その「同じくらい」が、妙に救いだった。


 僕たちは、透明な道を歩き続ける。

 足音は小さいのに、世界が大きく動いているように思えた。


揺らぎは、いつだって静かに始まる。

だからこそ、誰も止められない。

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