第3話 ホタルと見舞いの約束
夏休みに入ってすぐ、春菜と秋斗は、第二話で約束したホタルの名所へ向かった。夕暮れ時、田んぼのあぜ道を並んで歩く。秋斗はリュックを背負い、まるで遠足のようにわくわくしている。
「ここだよ。誰もいないでしょ?」
春菜が教えたのは、町の外れにある小さな渓流だ。日が完全に落ちると、辺りは墨を流したように真っ暗になり、静寂に包まれた。二人は草の上に座り、じっと待った。
やがて、水面から光が生まれた。一つ、また一つと、緑色の淡い光が、闇の中にきらめき始める。ホタルの数はあっという間に増え、まるで天の川が地上に降りてきたようだった。
「わあ……」
秋斗は感嘆の声を漏らした。その横顔は、蛍の光に照らされて、より一層幻想的に見えた。
「すごいね、春菜。本当にきれいだ」
「ね!私、毎年これを見るのが大好きなんだ」
ホタルを追いかける春菜とは対照的に、秋斗はその場に座ったまま、じっと光の群れを見つめていた。その時、春菜はふと、彼の息遣いが少し荒いことに気づいた。
「秋斗、疲れた?」
「え?ううん、大丈夫だよ。でも、ちょっと…この道、歩くのが久しぶりで」
彼は笑顔でそう答えたが、どこか無理をしているように見えた。春菜は、夏の暑さのせいだろうと納得し、深くは追求しなかった。
しかし、この夜、二人は互いの手をそっと握り、きらめくホタルの中で、言葉にできない大切な時間を共有した。春菜の初恋の気持ちは、夏の夜の熱を帯びて、確かなものになった。
夏休みの中頃。秋斗が「この前のお礼に」と、初めて春菜の家に遊びに来ることになった。
秋斗が約束の時間に玄関に立っているのを見て、春菜は思わず目を丸くした。彼の頬はいつもより少し赤く、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「秋斗、もしかして風邪ひいた?」
春菜が尋ねると、秋斗はすぐに首を横に振った。
「ううん、大丈夫!ちょっと暑いだけだよ。今日は、春菜に勧められたあの本を読んだ感想を話したくて」
彼は優しい笑顔を崩さず、熱意を持って話したが、会話の途中で時折、小さく「コン」と咳き込んだ。春菜は心配になったが、家族以外には病気を隠している彼の性格を思い、それ以上詮索するのをやめた。
家の中に入ると、春菜の母親が秋斗のために冷たいお茶を用意し、その礼儀正しさや物腰の穏やかさに「秋斗くんは本当に優等生ね」と感心しきりだった。秋斗は家族の前でも完璧な「優しい優等生」の顔を保ち続けた。
しかし、帰り際、春菜が彼の背中にそっと触れると、服越しにもはっきりとした微熱を感じた。春菜の心に、小さな「ちくっ」とした痛みが走った。この優しさの裏にある無理を、自分だけが知っているという、秘密めいた感覚と、それに対する漠然とした不安。
春菜は心配でたまらなくなったが、結局「早く治してね」とだけ言って、秋斗を見送った。
夏休みが終わり、二学期が始まると、秋斗の体調は明確に変化を見せ始めた。
夏休み明けの九月。秋斗は、新しい学期が始まってまだ二週間も経たないうちに、熱を出して一日学校を休んだ。春菜は不安を覚えながらも、連絡ノートを彼の家に届けに行った。
秋斗は布団の中でぐったりしていたが、春菜の顔を見ると、無理にでも笑顔を見せた。
「ごめんね、春菜。ちょっと疲れちゃって」
その謝罪の言葉に、春菜の心はギュッと締め付けられた。「謝らないで」と、自分の胸の痛みから秋斗を庇いたくなった。
その次の月、十月にも、秋斗は再び体調不良で学校を休んだ。そして十一月も。
いつしか秋斗が月に一度、体調を崩して学校を休むことは、二人の間で**「当たり前のこと」**になっていった。
学校では活発で目立たないよう振る舞う春菜だったが、秋斗が休む日だけは、「お見舞い」という名目で彼の家へ向かうことが、春菜の新しい習慣になった。
春菜は宿題のプリントや、秋斗が好きだと言っていた田舎のお菓子などを持ち、心配する気持ちを隠して「早く元気になってね」と伝える。秋斗はそのたびに「ありがとう。春菜が来てくれると、元気が出るよ」と、心からの笑顔を見せた。
彼の家を後にする田舎道で、春菜は考える。この病気は、いつまで続くのだろうか。自分はいつまで、この「活発だけどシャイ」な仮面を被って、彼を見守り続けるのだろうか。
春菜の恋は、秋斗の優しい笑顔と、彼の体調不良という、二つの相反する要素を抱え込みながら、ゆっくりと深まっていった。
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