第2話 初恋と優しい雨
ブランコでの一件以来、木口春菜と木下秋斗は放課後の公園で会うようになった。それは誰にも言えない、二人だけの秘密の時間だった。
春が終わり、学校生活にも慣れてきた頃。教室では、春菜は相変わらず活発なリーダー役を任され、男子にも女子にも頼られる存在だった。しかし、秋斗と二人きりの時間になると、内面のシャイな自分が顔を出す。
「都会では、ゲームセンターとかあったの?」
「うん。でも、僕はあんまり行かなかったかな。それより、この町の田んぼの匂いが好きだよ。すごく落ち着く」
秋斗はいつも、穏やかな話し方をした。春菜が言葉に詰まってしまっても、彼は急かさず、ただ静かに待っていてくれる。その優しさが、春菜にはたまらなく心地よかった。
「春菜はさ、いつもクラスをまとめられてすごいね」
ある日、秋斗がぽつりと言った。春菜は反射的に顔を赤くした。
「そ、そうかな?別に、普通だよ」
「普通じゃないよ。僕、転校してきたばかりで不安だったけど、春菜の明るい声を聞いていると、なんとなく安心できたんだ」
秋斗の言葉は、いつも春菜の心の一番柔らかい場所にそっと触れる。彼は、春菜が繕って見せている「活発な自分」ではなく、内に秘めている頑張り屋で繊細な自分を、まるで最初から知っているかのように接してくれた。
クラスのみんなから「頼れるハル」として扱われる中で、秋斗だけが自分を「春菜」として見てくれている気がした。彼の言葉の一つ一つが、春菜の心の中で小さな花を咲かせていく。この時、春菜は初めて、彼と話している時に感じる特別な感情が「恋」なのだと知った。
学校はもう衣替えの季節を迎え、田んぼからはカエルの大合唱が聞こえてくる。二人の秘密の時間が始まって、約二ヶ月が経とうとしていた。
その日の放課後も、二人はブランコに座って話をしていた。春菜は秋斗に、この町の田舎ならではの遊びを教えていた。小川での魚の捕り方や、夜になると飛ぶホタルがきれいな場所の話。秋斗はそれを、まるで宝物のような話を聞くように、静かに、真剣に聞いてくれた。
「すごいね。僕は生まれてから、あんなにたくさんのホタルを見たことがないかもしれない」
秋斗が目を輝かせて言う。その表情は、普段の大人びた優等生という顔ではなく、純粋な好奇心を持つ「九歳の男の子」の顔だった。
春菜はその顔を見て、思わず胸が締め付けられるような、愛おしいような感覚を覚えた。
「じゃあ、今度、ホタルを見に行こうよ!」
そう口にしようとした瞬間、春菜は勢いよく立ち上がろうとして、バランスを崩した。
「わっ」
春菜の体は前のめりになり、危うくブランコの鉄の支柱にぶつかりそうになる。しかし、その体は地面に落ちる前に、横から伸びてきた細い腕に引き寄せられた。
春菜の右手に、温かい、少しひんやりとした手が触れた。その手は、春菜の二の腕をしっかりと掴み、倒れないように支えている。
「危ない!大丈夫?」
秋斗の顔が、すぐ近くにあった。彼の優しい視線が、春菜の瞳を覗き込む。
春菜は息を呑んだ。彼の手が自分の体に触れている。その指の感触、掌の温度。彼が、今、自分を支えてくれているという事実。
体が触れた時に電流が走るような、強烈な動悸。それが、春菜が秋斗を好きになった決定的な理由だった。顔が熱くなり、春菜はすぐに体を離したが、彼の温かい手の感触が、いつまでも手のひらに残っているようだった。
「だ、大丈夫。ありがとう」
春菜は、恥ずかしさで俯いてしまい、顔を上げることができなかった。
その時、急に空が暗くなった。さっきまで晴れていた空が、まるで誰かが照明を消したかのように一瞬で濃い灰色に変わる。
「あれ? 急にきたね」
秋斗が空を見上げた。次の瞬間、大きな粒の雨が公園の砂を叩き始めた。夏の始まりを告げるような、激しい通り雨だ。
二人は慌ててブランコから立ち上がったが、この小さな公園には雨をしのげる屋根などない。
「濡れちゃうね。急いで帰ろう!」
春菜が走り出そうとした、その時。
秋斗は自分のランドセルを頭上に掲げたまま、春菜の体の前に一歩踏み出した。そして、彼はいつもきっちりと畳んで持っている折りたたみ傘をサッと開いた。
「この傘、二人で入ろう」
秋斗は傘を春菜の方へ傾け、春菜を庇うように自分の体を寄せた。
春菜は、彼の優しさ、そして突然の体の接近に、またも鼓動が早くなるのを感じた。小さな傘の下で、春菜の肩と秋斗の腕が触れ合う。彼の体から伝わる温かさや、石鹸のような清潔な匂いが、春菜の頭をぼうっとさせた。
「ごめんね、ちょっと狭いね」
そう言いながら、秋斗は傘を春菜の方にさらに傾けた。彼自身は、傘の端から少し雨に濡れている。
春菜は、そんな秋斗を見上げて、きゅっと胸が締め付けられるのを感じた。こんなにも優しい人は、初めてだ。この一瞬が、永遠に続けばいいのに。
二人は一つの傘の下で、静かに公園を出て、田んぼの脇の道を進み始めた。春菜の心は、初恋の喜びに満たされていた。
しかし、その時だった。
「…っ、はあ…」
秋斗が、一瞬だけ傘の影で、小さく咳き込んだ。その咳はすぐに収まったが、彼は一瞬、左手を胸元に当てた。そしてすぐに、何事もなかったかのようににこりと笑った。
「大丈夫だよ、少し濡れたかな」
秋斗はそう言ったが、彼の顔色は、雨に濡れて冷えたせいか、少し青白く見えた。
春菜は、彼の言葉を信じようとした。だが、彼の優しさの裏に、何かの**「影」**があるのではないかという、漠然とした不安が初めて春菜の心に芽生えた。
それでも、春菜は秋斗が特別な存在になったことを強く自覚した。小さな傘の中で、春菜は「ずっと、彼と一緒にいたい」と、夏の雨の音を聞きながら、心の中で強く願った。
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