ピンクのダウンジャケット

春日 いと

第1話

 電車が止まったままちっとも出発しないと思ったら、「この先で人身事故がありました」というアナウンス。ああ、今日はついてない。これは長くなるなと、すぐに電車を降りた。同じような人達と団子になって、反対方向のホームに向う。

 丁度特急が止まっていたので、急いで飛び乗る。すいていたので、ほっとして座ったら、 前の座席に座っている女性の声が聞こえてきた。

「ねえ、何でまた戻るの? いくら電車が来ないからって戻る事ないじゃない」

 一緒に電車を降りた人だろうか、二十代の女性が連れの男性に文句を言っている。ピンクのダウンジャケットの下は短いスカートにブーツ。寒くないのだろうかと余計な心配をしてしまう。

「あのまま待ってても、向こうの電車は動かないよ」

「えー、ほら向こうのホーム見てよ。電車動き出したじゃない」

「人身事故って言ってたじゃないか、片づけるのに最低でも一時間かかるんだよ。あの電車だって次の駅で止まってしまうよ」

 男性は一生懸命なだめている。彼女の気持ちは良く分かる。私だって、家と反対方向に戻るのかとため息が出そうだ。

「だって、ちっとも動かないじゃない。変わんないよ」

 彼女が腰を浮かしたとたん、やっと電車が動き出した。

「ほら、こっちに乗って正解だろ。これで戻ってJRに乗り換えるのが一番早いんだよ」

 男性が自慢げに言っている。

「そう?」

 彼女はそっけなく言ってスマホを取り出した。

「そうだよ。人身事故ってのはさ、電車に轢かれたということだよ。血や肉片が散って凄いんだよ。体がバラバラに切断されるなんて怖いよな」

 男性はしつこく言い始めた。うるさいな、というかうざったい。女性はスマホ見ながら「そうなの?」と相槌を打っている。ああ、前に野本さんが言っていたマンスプレイニングって、これかな。そう思ったら、いい加減にすればいいのにと、思わず男性を睨んでしまった。


 あれは暑さがやっと終わって秋が来たというのに、まるで十二月のように寒い日だった。

「悪いけど、私、歌の会辞めるわ」と、野本さんが言って来たのだ。

 誘って誘って、やっと入ってくれた私たちのコーラスグループ。それを二か月ちょっとで辞めたいと言われた。シャンソンが好きだと言っていたので誘ったけど、今歌っている曲にシャンソンは入っていない。それが気に入らかったのだろうか。それについては最初にちゃんと伝えたんだけど。それとも先生が気に入らないのか。まさか誰かが意地悪したのかな。びっくりして、とにかく会って話を聞こうと、翌日会う約束をした。

 野本さんの事情を聴いて、運営上の問題があれば改善すると約束して残って貰うつもりだった。新型の感染症のために会が休止していた二年は長かった。人数が減ったし、久しぶりに集まったメンバーもすっかり高齢者になっていた。膝の手術をしただの、腰痛が酷くなって立って歌えないだの。中には癌の手術した人までいた。まあその人は全然元気で、自慢の声を張り上げているのだから心配はしていないのだけど。

 そんな訳で、何とか退会を引き止めようと固く決意して、待ち合わせのファミリーレストランに向ったのだ。

「辞めるって、どうして? 何か嫌な事でもあったの?」

 椅子に座りながら訊いた。

「もう、せっかちなんだから。せめて注文してからにしてよ」

 野本さんは大きな口を開けて笑いながらメニューを開いた。そしてしばらく見てから、

「うーん、決まらない」と、私にメニューを押し付けた。

「作田さん、先に決めてよ」

「じゃあ、ランチのドリアにしようかな」

 さっと見て答える。この店のドリアは美味しい。

「そうか、お昼ちゃんと食べるんだね」

 ランチしようって言うから、この時間に待ち合わせたのに。そうか、昼は軽いものしか食べないのか。

「ドリア美味しそうね」

 野本さんはそう言った。それで私と同じ物にするのかと思ったら、一番安いハンバーグ定食を頼んだ。

 ドリンクバーでカフェラテと野菜ジュースを入れて来て、やっと話が始まった。

「理由だよね、うーん」

 野本さんは言い淀んで見せてから「岡田さんがね」と言った。岡田さんが気持ち悪いのだという。

 岡田さんは七十歳に手が届きそうな年頃の小柄な男性。この人も十年近く通っている。可もなく不可もなく、それでも楽しそうに歌ってる人。いつもメンバーたちの話にニコニコと相槌を打っている。気持ち悪いというのが分からない。


「初めてあんたと一緒に歌の会に行った時、帰りに駅で一緒になったのよ」

 その日は、彼女と待ち合わせて、体験のために一緒に行ったけれど、返りは別々だった。会の役員の私は打ち合わせがあった。

「子どもじゃないんだから一人で帰れるよ」

 野本さんは笑って一人で先に帰って行ったのだ。

 その日、野本さんは駅の改札を入った所で岡田さんとばったり会って、

「お宅はこっちですか」と呼びかけられたという。

「はい」と返事すると、「僕もこれで帰るのですよ、奇遇ですね」と言って一緒にホームに行ったのだと言う。

「それでね、岡田さんは電車がホームに入った途端に飛び込んで、席を確保して大声で呼んだの。『ここ、ここですよ』って。恥ずかしいでしょ。仕方ないから『はい』って隣に座ったんだけど」

 岡田さんに「どこまでですか」と訊かれたので、仕方なく私鉄に乗り換える駅を答えたら、「僕はこのまま乗っていくんですよ」と言われたという。野本さんは良かったと安心したと言った。

「私は私鉄に乗り換えるからほっとしたのよ。ずっと一緒に帰るのは、いくらなんでもねえ」

 ところが、岡田さんは座った途端に話し始めて、それからずっと一人でしゃべりっていたという。

「それがね、興奮したように手を突き出して横に振り始めたのよ。驚いちゃった」

「周りに人がいたんでしょ。信じられない」

「舞い上がっちゃてるみたいだったわ」

「何か勘違いしたのかな。野本さん綺麗だから。ねえ、既婚者だとちゃんと伝えた?」

 野本さんは一見楚々とした美人だ。でも、見かけと違って飾り気のない性格とでもいおうか、歯に衣を着せない。ただ、初対面だと猫を被る。きっと気取って応対したのだろう。

「初めて会った人に訊かれもしないのにそんなこと言えないよ。なんか失礼じゃない」

「まあそうかな」

 でも、何気に家庭の話でもすれば問題ないのに。そう思いながら「ふーん」と聞いているうちにドリアを食べ終わってしまった。それでまた珈琲を取りに行こうとしたら、野本さんは私を止めた。

「ねえ、飲もうよ。ワイン、白がいいかな。デキャンタでいいよね。おつまみ代わりに何か。ああ海老サラダと、ホウレンソウでいいか」

 野本さんはそう言うと、私の返事を聞かずにさっさと注文した。運ばれてきたワインを一口飲むと、岡田さんに後をつけられたと言った。

「それでね、正式に入会した日。ほら、その時もあんたは打ち合わせだったでしょ。だから一人で駅に向かったら、改札の前で待っていたのよ。それで電車がホームに入って来たら『あそこに座りましょう』って、当たり前のように言うのよね」

 同じ方向に帰るのだから、別に後をつけるなんて話ではない。何を言っているのかと思いながら聞いていると、

「でね、私鉄に乗り換えるために降りて、ふと振り返ると、目の端に岡田さんも電車を降りたのが見えたのよ。そのまま乗っているはずなのにね。それで家とは反対方向に行くホームに行ったの」

「それは面倒だったわね。地下通路通って行くんだものね」

 それ以上に面倒だったのは、電車を途中で降りて、あちこち見て回って買い物をして帰った事だったと言う。

「だってね、電車に乗ってからそっと見たら、案の定、岡田さんの姿がちらっと見えたんだもの。そんなストーカー男に家を知られたくないじゃない」

「そりゃあ大変だったね」と頷いた。

 ところが、それからも同じ事が続いているのだと、野本さんはグイっとワインを飲んだ。

 春にある発表会の日程が決まって、私はその打ち合わせなどで、野本さんとは別行動になっていた。それに発表会には全員の合唱のほかに、ソロや、カルテットなどの演目もある。私はカルテットの仲間との居残り練習もしていたから帰るのは遅かった。

 野本さんは夫と子どもの話もしてみたと言うがスルーされたらしい。仕方なく、その都度、反対方向に行っていると言う。

「確かにストーカーっぽくて気持ち悪いね」と私は相槌を打った。

 身の危険を感じると言うので、「そうだね、危ないかも」と応じた。

 でも本当の所、私は野本さんが勘違いをしていたのだろうと思っていた。だって、シャイでほとんど話をしない岡田さんと、野本さんの話の岡田さんは結び付かなかった。まして女性を付け回すなんて。あの紳士的な人が、そんなことをするはずがないと、思ったのだ。


「でも、いつまでもそれじゃあね」と、野本さんは言った。それで、私は、彼女の残留を説得するのは無理だと悟った。岡田さんがストーカーだと思い込んで怖がっているならどうしようもない。

 それで、どんな話をするのかと訊くと、

「そうそう、孫が大学院に行ったとか」

「えっ、それほとんど知らない人に話す事?」

「自慢よ、自慢」

 そうか、大学院に行ってる孫がいるのか。そういえば私は岡田さんの家庭のことは何も知らない。みんなそうじゃないかな。

「ね。それで研究室の教授に気に入られてるんだってさ。それが何だって話よね」

 野本さんは海老サラダの葉っぱを口に入れながら容赦がない。

「『ふんふん』『うんうん』と、ただ頷いてしゃべらせといたけど」

 自宅を太陽光発電にした話を滔々としゃべられたこともあって閉口したとも言っていた。

「そりゃあそうだわ。お宅はとっくに屋根にソーラーパネルつけていたものね。そのこと、話さなかったの?」

「だって、家を特定されると困るじゃない。それにしても電気を売るだのなんだの、知っているっていうの」

 だったらそう言えばいいのに、私に愚痴ってないでと思ったけれど、面倒だから黙っていた。黙ってるんじゃ野本さんと同じだったけど、その時は気が付かなかった。

 それから私鉄の説明を始めたのだと言う。

 有料特急が出ているんですよ。指定席券を切符とは別に買うんですけどね。進行方向に向いて座るんですよ。だから発着駅では椅子が回って反対の向きになるんです。左から右へね。ビールを飲みながらゆっくり帰れるというわけですよ。それでね、終点近くになれば誰でも乗れるんですよ。空いていれば座って良いんです。

「ねえ、私はその沿線に住んでるんだよ。それをさ、教えてやるって、知ったかぶりして。分かりもしない事を偉そうに。しかも両手を振り回しちゃってさ」

 聞きながら私は笑ってしまった。

「そりゃそうだね」

「そうよ。JRの話でもするならともかく。ねえ」

「親切のつもりなのかな」

「何でそれが親切なのよ」

「女は何も知らないから教えてやろうって事かも。知識をひけらかして野本さんに感心してもらいたいとか」

「ああ、いわゆるマンスプレイニングというものか」

 分からない単語が出て、私は首をかしげた。最近はインバウンドとかなんとかと、何でもカタカナになってしまっている。

「何のことよ、日本語で言ってよ」

「今、作田さんが言ったようなことよ」

 野本さん自身がよく分かってないようだった。だけど私は、女を下に見ている男のことかと理解してうなずいた。つまり岡田さんは優しそうだけど、本当は女を馬鹿にしてるってこと? 私は岡田さんと言う人が分からなくなった。だったら、ストーカーというのも有りかもしれない。岡田さんに話を聞いてみたほうがいいかなと、野本さんを見つめた。ところが野本さんはクククと笑っていた。

「ああ、そういう事か。そうかあ」

 野本さんはデキャンタに残っていたワインを自分のグラスに注いで、グイっと飲んだ。

「女に立てて欲しいんだね。だったらサシスセソだ」

 サシスセソ? なんだろうと顔を見つめてしまった。

「つまりね、『流石ですね。よくご存じね』『まあ、知りませんでした』『すごいですね』って。男ってそう言って欲しいんじゃない?」

「『セ』は何だろう、ああ、醬油か」

「何言ってんのよ。それじゃあ味付けのサシスセソになっちゃうでしょ。それで、『ソ』は、『そうなんですか』よ。『あら、そうなんですか』ってね」

「なるほど、『あら、そうなんですね』か」

「違う、『ネ』じゃダメなの。知ってたみたいでしょ。『そうなんですか』よ」

 ダメだしされてしまった。

「そういえば、子どもをやる気にさせる魔法の言葉があったけど、それの男性バージョンなの?」

 野本さんは目で私に笑って頷いて、「そうかあ」「そうかあ、そうだったんだ」とワインを飲みながら繰りかえした。そして、突然、発表会に話を始めた。だから私は『セ』が何なのか聞けなかった。


「ねえ、発表会ではソロもあるんでしょ。岡田さんがそんな事を話してたけど」

 ソロは前から参加している上手な人が歌うのだと伝えると、

「私、ソロ向きなのよ。感情込めて歌いたいわ」

 目を輝かせて言った。いやいや、合唱だって感情込めて歌うんですよと、私は心の中で突っ込んだ。そうなのだ。野本さんの辞書には人に合わせるという言葉がないみたいなのだ。合唱の練習で先生に注意されても、不思議そうな顔をしている。

 だって野本さんは勝手にテンポを替えてしまう。みんなに合わせようと努力しないのだから、確かに合唱向きではないのかもしれない。でも、だからといってソロで歌いたいだなんて勘違いもいいところだと私は思った。

「作田さんは? ソロで歌うの?」

「私はカルテット組んでいるの。今度も四人で歌う予定よ」

「カルテットかあ、そうなんだ。そういえば岡田さんは合唱だけだと言っていた。あの人、もう長いんだよね」

 ワインを飲み終わって私はコーヒーを取りにドリンクバーに向かった。私の頭の中には岡田さんのことしかなかった。やっぱり次の練習日に岡田さんと話をしよう。それとも、こっそり後をつけてみるか。そうすれば野本さんの話が本当かどうか分かる。でも、ばれたら面倒だし。そんなことをずっと考えていたのだ。

「ねえ、話聞いて思ったんだけど、岡田さんがあなたの言うようにストーカーだったら、このまま放っておく訳にはいかないよね」

 私はコーヒーを飲みながら話を戻した。辞めたいと思うのは無理のない話だ。でも、岡田さんのことはこのままではいけない。そう思いながら伝えると、

「話、大げさにしないでね、私が変に思われるから」

 と、アイスコーヒーを飲みながら言うではないか。寒い日だったのに。

「うーん、そうなんだ。でもこういうのってちゃんとしないと、他の人にも同じことをするかもしれないし」

 しどろもどろになってしまった。

「これは私のことだよ。私なら平気だから。話を聞いて貰っただけですっきりしたわ」

「本当? でもそれで辞めるんじゃあ」

「大丈夫、自分で対処するから」

 本人がそう言うのに勝手な事は出来ないしと、困っていると、

「私、続けるわ。声出して歌うのって楽しいもの。私、シャンソンが大好きなのよ。ああ、作田さんと話ができて良かった」

 野本さんは目をキラキラさせてアイスコーヒーをすすった。

 あの日、野本さんはアイスコーヒーを飲み干して生き生きと元気に帰って行ったっけ。


 そんな事を思い出していたら、電車はいつの間にか各駅停車になっていた。しかも先の電車が詰まっているからか、駅に着くたびに時間調整している。これでは何時に着くか分からない。そうか、次は別の路線に乗換える駅だ。そこで乗り換えようかと頭の中で路線図を思い描いた。降りてからどちら方面に行ったらいいだろう。それとも、混むだろうからこのまま乗っていたほうがいいのだろうか。

 前の座席に座っている女性は、

「ねえ、また止まってる。ちっとも進まないじゃない」と言ったきりスマホから目を離さない。

「それでもこうして乗っていれば、ちゃんと着くよ。ここで降りるわけにはいかないだろう」

 女性は男性が話しかけてもだんまりを決め込んでいる。

「下りが動かないということは、始発の駅に電車が止まっていて、つまり、詰まってるということだよ。な、ははは」

 駄洒落だろうか、男性は一人で笑っている。

 あー、また野本さんを思い出してしまった。だって、今日、野本さんから今度の発表会で岡田さんと二人でデュオを歌うことになったとメールが来たのだ。信じられない。やっと、次回の練習日に岡田さんに話を聞こうと決めたところだったのに。

 発車のベルが鳴った。さて、もうすぐ乗り換え駅に着く。一番早く家に帰るにはどうしたらいいだろう。

 あれから一か月。野本さんが今でも帰宅経路を変えているかどうかは分からない。彼女は先生に個人レッスンを受けて猛練習中をするそうだ。まだ入会三か月やそこらでろくに声も出せていないのに、岡田さんが先生に頼みこんだらしい。

 うーん、実力じゃなくても「さしすせそ」か。野本さんに使ったのだろうな。私なんて十年以上頑張って練習してきたというのに。そうか、先生もそれで? なんかなあ。

 駅に着くというアナウンスに私は席を立った。ドアに向かおうと前の席を見ると、女性の眼が私と合った。彼女は私に笑いかけると、スマホを閉じて腰を上げた。

「ここで降りるから」

「えっ。何?」

 隣にいた男性が驚いた声を上げたのを無視して、彼女は私を追い抜いてホームに降りて行った。ピンクのコートの下から長い脚を出して颯爽と歩いていく。

 そうか、もう野本さんの心配も岡田さんのことも関係ないんだ。そう、私は私だ。野本さんがデュオを歌おうが私には関係ない。私は自分の努力でカルテットのメンバーを勝ち取ったんだもの。四人の息が合って素晴らしいと好評のカルテットの実力を発表会で見せつけてやるんだ。なんせ十年選手の仲間たちだもの。

 早く家に帰ろう。帰ったら私も頑張って練習、練習だ。

 私は急いでピンクのジャケットの後を追った。 



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ピンクのダウンジャケット 春日 いと @itokasugaito75

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