ひと夏の31日間旅行
月野 咲
一日目
漆黒の世界にいるようだった。心地よかった。でも暗く怖い。僕はずっとそこにいるようだった。
変わらない色は思い出の色さえも変えなかった。
波の音が聞こえてやっと目が覚めた。記憶は定かではないが、確かにアラームを波音に設定したのだろう。
冷房二十七度の風が髪の毛を揺らす。鼻を啜って空気を取り込んだ。思春期特有の体臭が混じり合っていた。
締め切った窓の奥で蝉の鳴き声が響いていた。
立ち上がってカーテンを開けて、窓から見える見慣れた景色を再度目に映すと、自然と目から涙が溢れた。涙を拭って窓を開けた。
今日は八月一日。
今日から一か月の長い夏休みが始まる。勝手に出てくる涙を太陽で乾かした。
やっと、やっとのことで始まる夏休みの一日目に、泣いている暇はない。
今日は二年になってから付き合い始めた彼女とのデートだ。
今日、という限定的な言葉で括るにはおかしいかもしれない。この三十一日間の夏休みの間で、僕たちは二十三日間デートする。
毎週月曜日から金曜日までデートの予定。僕は彼女にとっての夏休み学校だ。
カーテンから零れた眩しすぎる太陽の光に従って、デートの用意を始める。足取りは軽く、重力に従う事は容易だ。
そう感じたのは、これからのデートが楽しみだからに違いない。
家から出ると、今日の気温は二十八度で夏にしては涼しい。
これくらいの温度が夏として楽しめる。
今日の彼女との待ち合わせは学校だった。先に学校に着いたのは僕らしかった。
時間を間違えただろうか、と感じて、学生らしい一万円程度の腕時計を覗く。刻々と刻む秒針についていくように短針が動く。短針が何個か動いていると長針がゆっくりと動く。風が服の間を吹き抜けると、心も同じように時計のようにゆっくりと動く。
携帯を取り出して彼女からの連絡が来ていないかを確認するけれど、そこには今日の朝見た時と変わらないライン履歴が残っていた。
遡ってライン履歴を目に焼く。文面でも恥ずかしさを匂わせた可愛らしい文章を何度も送っている自分を可愛いなと思う。
彼女との連絡をスクロールして眺めていると「わっ」という大きな音と衝撃が背中に走った。
急だったせいで携帯から一瞬、手が離れて落としそうになる。両手で捕まえて後ろを振り返る。そこにはデニムのショートパンツに少し大きめの白のプリントTシャツを身を纏った彼女がいた。
後ろを振り返ると大きな声で笑った。
「……笑いすぎだよ」
「いやあ」
笑いすぎて目の端に一粒二粒ほど光った涙を拭いて続ける。彼女の涙を見ると同じように目が潤った。
「だって驚きすぎだよ。いつもよりリアクションが大きかったから笑っちゃった。顔も驚きすぎてちょっと泣きそうになってたんだもん。今も泣きそうじゃん。目潤んでるよ」
言っている時も思い出して笑っている。
そんなに笑ってくれるならどれだけリアクションが大きくてもいいな。
「外だからあれ、じゃん。不審者かもしれないでしょ。……ほら、知らない人に突然後ろから驚かされるって考えたら怖いだろ?」
周りに人がいたことを思い出すと、恥ずかしさが沸々と沸き上がってきたので、抑えるように言い訳をした。汗が額を大きく流れた。
「何言ってんの。驚いただけなくせに」
僕の言い訳を見抜いて、また、わははははと笑う。
よく笑う彼女の目尻は、まだ高校生なのに皺になっている。
「それより今日はどこに行くの?」
いつまでも笑っている彼女に話しかけた。話しかけないと、いつまでも笑い続ける。
「はあはあ。笑いすぎて疲れた」
手を扇いでふうと一回落ち着く。
「どこにしよっか。そうだなあ。今日はお買い物にしようよ。明日からいっぱい遊ぶから服とか買いに行こ」
「分かった。何処にする?」
どこといっても、行く場所は限られている。近くのイオンか都会に行くしか選択肢はない。
電車で梅田まで来た。
梅田駅にある水平型エスカレーターは歩かなくても勝手に動いてくれるのに、殆どの人が歩いて目的地に向かっていた。
でも、僕は動きたくなかった。
「ほら早く行こうよ」
「そんな急いでも逃げないからゆっくり行こうよ」
「何言ってんのイケメン君。商品は逃げないけど時間は逃げていくよ」
「……それは間違いないね」
つい納得してしまうような言葉だ。
時間は無限に見えて有限。
いつの間にか無くなって消え去った時間は一生戻ってこない。何があっても過ぎ去った時間は取り戻せない。
「時間だけじゃなくて商品も逃げていくよ。誰かに買われちゃうよ」
「本当だ。じゃあ尚更早く行かないといけないやん。行くよ、イケメン君」
僕よりもちょっとだけ温かい彼女の柔らかな手の感触を確かめて、改めて握り返す。
「待って。美人ちゃん」
外に出たら太陽からの直射日光と跳ね返ったコンクリートからの光が僕を痛めつける。汗がじわっと滲んだ。額に流れた汗を拭った手は不快感とは裏腹に太陽の光に照らされて光って美しさを感じるほどだった。
汗が美しいと感じるなんて随分とおじさんくさい。
店に着いてからは彼女の独壇場だ。これならこうかな、とかこの時はこの服装が似合うかな、と小さな声で呟いては首を捻ったり、服を体に合わせながら選んでいる。
僕もなんとなくでいいから服を持っていった。
「イケメン君。今から試着するから外で待っといて」
多くの服を持って試着室に入る。その中には僕の選んだ服も入っている。
入る直前に「覗かないでね」と一言付け足しカーテンを閉める。周りに同じくらいの年代の女の人がいる中でそのようなことができるわけもないし、する気もない。
「覗くかよ」と言い返すと、カーテンの奥で笑い声が聞こえた。
待っている間、十代の女の子から視線が痛い。
「じゃーん、どう?」
数分待って初めに出てきたのは僕の選んだ黒のオープンシャツを身に纏った彼女だ。
口の端を上げてモデルっぽく決めポーズをしながら出てきた。
どう? と感想を求められても僕には一つしか出てこない。
「似合ってる」
彼女が着ているものは全部かわいい。
「そう? ありがと」
先ほどよりも口の端を釣り上げた。それを隠すようにカーテンを閉める。少し照れた君を見ると懐かしさを覚える。
僕が告白した時もそんな顔をしていた。
僕が付き合ってくださいと言ったとき、彼女は口の端が動いて頬が上向きにならないように、ふーん、私の事好きなんだ。いいよー、って揶揄おうと頑張っていた彼女を、いつになっても思い出せる。
「じゃあ、次の服に着替えるからまだ待っといてね」
その後も、彼女は何度も服を着替えて僕に見せてくれた。でも、その度に僕は似合っているという言葉を使うしかなかった。
「同じことしか言わないじゃん」と口をとんがらせて拗ねた。
可愛いからそのままにしておこうと思ったけど、機嫌を悪くしたままこの後も過ごすのは弊害が出そうだ。だから「ごめん、でも似合っているからそれしか言えないんだよ」と言ったら機嫌を良くした。逸らした顔を彼女に返すころには笑顔になっていた。
服を買い終わり観覧車に乗るために一緒に向かう。しかし観覧車は止まっていた。今日は偶然、定期点検の日だった。
「こんなことあるんだ」
彼女は肩を落とす。彼女を抱き寄せて肩を擦った。
「……仕方ないよ。他の場所で観覧車乗ればいいんじゃない?」
「えー。ここのやつ乗りたかったな。九月になったらもう一回梅田で観覧車乗る! 決定ね。今から予約」
「……分かった。乗ろうね。うん」
慰めるように柔らかな声で、僕の手を彼女の肩で擦った。
「今、運が悪い分もっと良いことが起こるよ。明日良いことあるかもよ」
「そうだね。そう思う」
彼女は機嫌を取り戻してまた違うお店に寄った。小物屋に入った。
「これ買わない?」
彼女は薄い青色のガラスをした安いサングラスを付けながら言った。
「おー。いいじゃん。似合ってるよ」
「そちら買われますか?」
店員さんが割り込んで話しかけてくる。
「買います!」
僕が店員に返す前に彼女が返した。店員は口を三日月みたいににっこりと上げて目元を柔らかくして微笑む。
「彼氏さんも買われますか?」
「あー。はい。買います」
「それならセット割で割引しますよ。学生さんですか?」
僕が一瞬答えるのに時間がかかっていると、彼女は元気な声で「はい!」と答えて続ける。
「良かったじゃん。イケメン君。どれ買う?」
店員さんは一瞬眉を吊り上げた。見慣れた光景だ。大方イケメン君という変わった呼び方に対して不思議に思ったのだろう。
「買おうかな。美人ちゃん」
僕は店員をさらに揶揄いたくなってわざわざ彼女のあだ名を呼んだ。
二人で同じ種類を買った。別の種類にするという手もあったが、同じ色の方がペアって感じがした。すると彼女もそれを気に入ってくれたようだった。
初めてのペアルック。僕の宝物だ。十年経っても二十年経っても手放さない。
「いやあ、買い物楽しかったね」
「うん、色々買えたし良かったよ」
「ペアルックのサングラスも買えたし明日から付けて遊ぼうね」
電車に乗る。まだ昼を少し過ぎた頃で一日の時間はたっぷりあるので、普通列車で帰ることにした。ゆっくりと動く列車の方が今日は良い。まだ特急列車に乗りたくない。
「じゃあ今日はこの辺でお別れにしよっか」
「うん、そうだね」
時刻はまだ夕刻になる少し前。まだ空が青い時刻だ。
まだ家に帰るのに早い気もするけれど、明日も明後日も明々後日も彼女と遊ぶのだから焦る必要はない。だけれどもっと彼女と話していたい気持ちはなくならない。しかしそうはいかない。
今日はこれで終わり。
続きは明日のお楽しみ。
「じゃあね、イケメン君。また明日に会おう!」
「うん。また明日ね」
いつもこうやって挨拶することが恒例だ。
家に帰って自室に戻って買ってきた服を紙袋から取り出してタンスの中にしまいこむ。お昼時は時間が流れるのが遅いから外を眺めた。
代り映えのない自室からの光景は何度見ても飽きない。もっとゆっくり時間が流れていつの間にか時間が止まってしまえばいいのになと呟いた。
呟く自分の声はいくらか高くて、未だに恋をしている声をしていた。
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二日目に続く
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