キンモクセイ

れいまる。

第1話

 金木犀の香りが鼻腔をくすぐる。

 今年もこの季節がやってきた。

 俺はその香りを堪能するように、鼻から大きく息を吸った。


 就職を機に上京してからもう半年以上になる。


 東京でも金木犀の香りは変わらない。


 その甘く優しい香りは、庭に大きな金木犀が生えていた田舎の実家を思い出させた。




 その日、俺は仕事を終え、疲れた大人たちがひしめき合う電車に乗って帰路についた。


 好きなことを、やりたいことを仕事に選んだはずだった。

 でも待っていたのは、目を疑いたくなるほどの安月給とやりたくもない雑務。

 このまま続けていればいつかは軌道に乗れる日が来るはず……なんて、そんなことは今の俺からしたら幻想でしかなかった。


――すぅぅぅ。


 駅から降りて暗い夜道を歩きながら、俺は大きな溜め息を吐き出すために鼻から息を吸った。

 しかし――溜め息を吐く前に、はたとそれを止める。

 鼻腔に入ってきたのはただの空気なんかではなく――“金木犀の香り”だった。


 もしかしたらこのあたりに、実家にあったような金木犀の木が生えているのかもしれない。


 なんとなくそれが見たくなって、俺は嗅覚を頼りに歩き出した。




 香りの出所を捜すのは想像以上に難しかった。


 そもそも金木犀は香りを放つ範囲が広すぎる上に、近くにあるからと言ってそこまで香りが強いわけでもない。

 あたりをうろうろと何周かしてみるものの、なかなかその出所は見つからない。


 そろそろ、不審者と勘違いされてしまうかもしれない。


 そう思った俺は、仕方なく金木犀捜しを諦めてライトを点けるべくスマホを手に取った。

 街灯の少ないこのあたりの道は暗い。

 その上全然知らない道に来てしまったため、足下をよく照らそうと思ったのだ。


 スマホのライトをオンにすると、ぱっと眼前が明るくなる。

 目の高さに合わせてスマホを操作していたため、スマホのライトは足下ではなく俺の眼前数メートルを照らした。


 ……おや。


 ライトはすぐ足下に向けようと思っていたのだが、俺はその手をむしろ真逆――少しだけ、上に向けた。

 ライトの先には小さな公園があり、そこに1本の木が立っているのが目に入ったのだ。


 すかさず、ライトを向けながらその木に近づく。


 ……あった。


 可愛らしい小さなオレンジ色の花が、密集して咲き誇っている。


 実家の金木犀を見ているようで、懐かしい気持ちになった。




「こんばんは」


 少しの間金木犀を見上げていると、背後から女性の声が聞こえた。

 すかさず俺は振り返る。

 ひとりの女性が、俺に笑顔を向けていた。


 歳は俺と同じぐらいだろうか。

 ぱっちりとした目元。

 暗いからよくわからないが、緩く巻かれたおそらく明るめの茶髪が風になびいてふわりと揺れている。

 毛足長めのふわふわのカーディガンは、今しがた俺が眺めていた金木犀のようなオレンジ色だった。


 ……正直なところ、超タイプだった。


 女性は微笑むと、ついさっきまで俺がそうしていたように金木犀を見上げた。


「可愛いですよね、金木犀」


 君のほうが可愛いよ。


 ……なんて、もしこの女性が俺の彼女だったら言っていたのだろうか。


 我ながらキモいことを考えてしまった、なんて思いつつ、「そうですね」と適当に相槌を打つ。


「知っていますか? 金木犀の花言葉」


 女性が目線をこちらに移して問いかけてきた。わずかに首を傾けるその仕草も非常に可愛らしい。


 しかし花言葉なんて、疑問に思ったこともなかった。幼い頃から馴染みある花なのに。


「わかりません」と素直に答えると、女性は柔らかく微笑んで見せた。


「幾つかあるのですが、“真実”や“謙虚”などがあります。隠すことのできない強い香りを放つ一方で花は小さくて控えめであることからそう言われているそうですよ」


 へえ。


 純粋に、興味深いと思った。

 花言葉ってもっと適当なものだと思っていた。

 ちゃんと花の特徴から連想されて作られてるんだな。


「では私はこれで」


 女性はくるりと背を向け、歩き去っていった。

 俺も反対方向に背を向け、スマホを片手に歩き出す。




 一度嗅いだら忘れられない金木犀の香りのように、女性の笑顔が俺の脳裏に焼き付いて離れなくなった。

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