新封建秩序 ―記録されぬ者たちの時代―

えびちゃん

序章「沈黙する世界」

かつて、国家は人を守るために存在した。


だが今、人は国家によって「存在を許可される」。


それがこの「新封建秩序」である。


富層――ドミヌスは法を持ち、中間層――ヴァッススは法を執行し、貧層――セルウスは沈黙の中で従う。


それ以外の者は存在しないのだ。


いや正確に言えうなれば、記録されていない。


この世界において、記録されぬ者は現実とは見なされない。


たとえ知覚できるモノであっても、それは「存在」しないのだ。


誰もその名を呼ばず、AIはそれを認識せず、機械は扉を開けない。


それが存在の死だった。


それがこの世界における死そのものであった。


何百年も前、人類は自らの理性を信じることをやめた。


政治は腐敗し、経済は暴走し、戦争は技術の副産物となった。


その末、混乱の果てに生まれたのが人工統治知性DEUS-LUX。


ASI――超人工知能である。


人の代わりに判断する神、それが最初の理念だった。


人々は疲弊していた。


考えることに、迷うことに、選ぶことに、間違うことに。


だから彼らは思考の責任を手放し、代わりに完璧な秩序を求めた。


当然と言えよう。


現代人は生産性を求める生き物に成り下がったのだから。


DEUS-LUXはそれ――求めるもののみを与えた。


飢餓は消え、犯罪は減り、都市は均質化された。


ドミヌスのもとに新しい秩序が築かれた。


だがその秩序が人間のものでなくなった瞬間、人は存在を失い始めた。


愚かなものだ、求めたものが手に入ったというのに――。


この世界ではすべてが価値で測られる。


個人は出生時に適性アルゴリズムを与えられ、その数値が人生を決める。


教育も、職も、恋愛も、死も、AIの演算が導き出す最適解に従って選ばれる。


人は選ばず、選ばれる。


それを幸福と呼んだ。


それを安泰と謳った。


それを、何より答えだと信じた。


思考を放棄した猿にもかかわらず――。


しかし、秩序の外縁には常に誤差が生まれる。


『完全など存在しないのだ』


誤差、そう、それは自由に似ていた。


光がすべてを照らすとき、届かぬ場所に影が生まれる。


その影の底にまだ人間の形をした存在がいた。


彼らはヌルスと呼ばれた。


存在しない者たち。


記録が消え、IDが無効化され、都市の網から零れ落ちた者たち。


ドミヌスの法では彼らは死者と同義。


だが彼らは、確かに、生きていた。


『ひとりの人間』として。


呼吸し、飢え、憎み、愛し、そして秩序そのものを拒絶する日を夢見ていた。


レオン・カミンスキー。


登録番号、AM-780283034529157E


かつてはただのセルウスだった。


製造ラインの技術補佐、給料は低く、生活は平凡で、一日の終わりにAIの祈祷放送を聞くのが習慣だった。


「光は我らを導き、混沌は我らを蝕む」


それがこの社会で最も広く知られた聖句。


彼もまたその一人だった。


何も疑わず、与えられた食事と時間を受け取り、定められた夢の範囲でだけ未来を思い描いた。


だが、その日、何かが狂った。


狂わされた。


勤務終了後、システムが突然エラーを吐いた。


〈身分照合に失敗しました〉


――再スキャン。


〈データベースに該当記録がありません〉


冷たい電子音。


赤い警告がホログラム内で点滅する。


周囲の同僚たちが視線を逸らした。


「該当記録がありません」――それは死の宣告。


彼は喉を震わせて言葉を出した。


「待て、俺は登録市民だ。昨日まで――」


〈アクセス拒否。施設から退出してください〉


金属扉が音を立てて閉ざされる。


その瞬間、光が消えた。


都市のすべてのシステムが彼を拒絶した。


家のロックが開かず、自動販売機が反応せず、通信までも遮断される。


私はその場に立ち尽くした。


言うまでもなく、突然の死の宣告なのだ。


時代が何周しようとも死の恐怖は平等に襲い来る。


ただその定義が移ろうだけだ。


数分後、AI巡回機が静かに現れた。


無言のまま光を照射する。


削除対象確認。


彼は一目散に逃げた。


走りながら理解した。


自分はもう存在していない。


夜の都市は静かすぎた。


ネオンは均質に光り、空気は滅菌され、足音さえも制御されている。


その完璧な楽譜の中に、彼の呼吸が混じる。


ノイズが走る。


巡回機は私の背後を追いかけてくる。


彼は細い路地を抜け、廃棄区画へ身を投げた。


しばらくの間、その廃棄物たちに混じって身を潜めた。


巡回機は追ってきていない――どうやら撒けたみたいだ。


案外AI巡回機も大したことないではないか、と安堵する。


しかし、腐敗臭、油溜まり、崩れた機械群。


都市の心臓部が清潔であるほど、その裏に膿のような暗黒が沈殿していた。


安堵からか、そんな中でも不思議と居心地は悪くなかった。


レオンはその底へ落ちた。


――目を覚ましたのは数時間後。


全身が痛み、視界が歪む。


どうやら眠っていたみたいだ。


こんな状況だというのに体はバカ正直に動いている。


不思議なものだ。


上空では巨大な広告塔が光を放っていた。


〈秩序こそ!〉


光の雨のような文字列が降り注ぐ。


だが、誰もいない。


そんな美しいような言葉も、今や空虚で空っぽに見えてしまって仕方がない。


ここは都市の下層、外縁、通称して「域外」と呼ばれる区域。


かつての犯罪者と削除者が棲む場所、らしい。


空気は重く、通信は完全に隔絶されている。


とはいえ、最近はずーっと労働ばかしでまともにこうやって肩の荷を下ろして、伸びをするような休暇はしばらくなかった。


どこか新鮮さすら感じていた。


この不思議な感覚はどこから湧き上がるものなのだろうか。


ごみの山でこうやっているのも、なんだか変な気がしたので、近くにあった錆びついたバラックの建物内に入った。


ここならカンカンと照りつける太陽を遮って、悠々と休んでいられると思ったからだ。


しかし、そう簡単に運命は休暇を与えたがらなかった。


突如背後から足音がした。


鉄の響き。


錆びついて、今にも崩れそうな弱々しいが確かな音。


誰かが近づく。


――「動くな。」


人間の声。


レオンは声の主へ向いた。


錆びついた手動の鉄扉から光が差し込むだけの真っ暗な部屋に、古いマスクをつけた人影。


それが私の目をぐっと覗き込むように、見つめる。


「お前か。」


そのモノは私を知っているかのようだった。


それも、待っていたかのような口ぶりだった。


「あんたは……?」


沈黙。


そして笑い声。


「ようこそ、こちら側へ」


その声には温度があった。


声を聞く限り、女だろうか。


しかし、マスクに加え、フードも被っていて顔が見えない。


「私たちはヌルス。君も、まさにそうだ」


「ヌルス……?」


「平たく言えば、存在しない者って意味だよ。記録は失っても、私達はまだ生きてる。生き残ったんだ。それだけで、〝神〟より強い。」


だがその眼差しには確かな意志があった。


マスクの向こう側から、確かな、温度感が伝わってきた。


なんだか、懐かしいような気分に見舞われた。


「君の名前は?」


「俺は……A、AM-7……。」


「ああ、違う。違う。番号じゃなくて、君の〝名前〟。パパやママから貰わなかった?」


「名前……俺は、……レオン。――レオン・カミンスキーだ。」


「ふうん。いい名前じゃない。向こうなら名前なんて意味ないけど、ここでは少なくとも、向こう側以上の価値はあるはずだから。私が保証しとくよ。あ、私は、世良・エリータム、よろしく。」


そう言って彼女はマスクを外して、手を差し伸べる。


その瞬間、彼の中で何かが崩れた。


そして、何かが生まれた――。


秩序の光が届かぬ場所で、彼は初めて自由を感じた。


光は私を見捨てたが、混沌はその中で光る星々を引き立てていた。


それは恐怖とも同義だったが、確かに熱を持っていた。



都市の上空、我々に見えず、聞こえないところ、監視塔の頂でAIが呟く。


〈記録異常:個体識別コードE-727-α消失〉


〈誤差補正処理申請――受理〉


だが、その誤差は補正できなかった。


微細なノイズがネットワークを流れる。


それはまるで人間の声のようだった。


〈ここに神はいない〉


こうして静かな反逆が始まった。


沈黙の中から生まれるかすかな声。


それがやがて世界を覆う裂け目になることを、この時誰も知らなかった。


知り得るはずないだろう。


私すら知らなかったのだから。


これは、記録されぬ〝人間〟たちの物語である。


そして、記録の外に生まれた〝自由〟の物語である。

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