第8話 100の扱い方講座と、99になって笑うまで

 朝、黒板わきのホワイトボードに水無瀬の新作が増えていた。


【100の扱い方マニュアル(試案)】

1. “無理に維持しない”→圧は−2の元

2. “小さく驚かせる”→+1〜+3(髪留め変えた・新しいお菓子共有)

3. “日常の修繕”→+2(消しゴム貸す・椅子のガタ直す)

4. “嫉妬に名前をつける”→−1を笑いに変換




「四番なにそれ」

「嫉妬って無言だと−1だけど、『いま嫉妬してます』って言うとギャグ扱いで±0になるのだ。昨日わかった」

「研究やめろ」


 茜は横で真剣にメモっていた。頭上は100.0。昨日の“延長”の余韻で、数字がきれいに止まっている。


「よし、今日は“維持デー”だね。落とさないことが目標」

「それプレッシャーで逆に落ちるやつ」

「だから一番“圧をかけない”から入るの。透、普通にしてて」


 普通に、が一番むずい。


 午前の授業は穏やかに過ぎた。茜はわざと視線を寄越しすぎないし、ノートを差し出すタイミングも“さりげなさ重視”。100.0はそのまま、ピクリとも動かない。クラスのあちこちで水無瀬の実験も続いている(「消しゴム角貸し+1」「前髪ピン貸し+2」など)。先生は「青春は本来そういう地味作業だよね」と言ってコーヒーを啜っていた。たぶん見える側だ。


 昼休み。晴れた日のベンチに座るやつ(+3)をやるべく、中庭へ。ベンチの木目はまだ朝露のにおいがする。茜はバッグから半分に割ったメロンパンを出して、俺に押し付ける。


「半分こ(小さな驚き)」

「研究の語尾やめろ」


 かじると、100.0の右隣にほんの小さなキラが灯る。——“今日のわたし”の印。∞の周りに出るやつの、100版みたいなものが、うっすら見えた気がした。


「なあ茜」

「ん」

「100って、こわい?」

「正直、ちょっと。“落としたら終わり”って感じに見えるじゃん」

「落ちても終わりじゃないよ」

「分かってる。分かってるけど、数字の画面見るとさ。——あ、四番のやつ使お」


 茜は深呼吸して、俺の肩に額をこつんとあてた。


「はい、『いま嫉妬ちょっと出ました』」


 言葉にされた瞬間、胸の重さが笑いに溶ける。100.0はそのまま、キラだけ一つ増えた。


「いいじゃん、それ」

「でしょ」


 そこへ、図書カートを押しながら雪村さんが通りかかった。日向の輪郭で明るく縁取られて、透明な影を落とす。頭上はもちろん∞、そしてその周りに小さな太陽みたいなアイコンが一つ、ぽん、と点いた。晴れの日の“今日のわたし”。


「お昼、気持ちいいね」

「気持ちいいな」

「……茜さん、半分ちょうだい?」


「え、メロンパン?」

「うん。“共有”って+1ってメモがあったから」


 研究を読まれている。茜は笑ってパンを渡した。100.0は動かない。∞のほうで、太陽がもう一個増えた。


「ねえ春川くん、今日、夕方ちょっと図書室来てくれる?」

「また返却?」

「ううん。“展示”を手伝ってほしくて。——雨の日の本、晴れの日の本、って並べるの」


「行く」


 そのとき、ベンチ脇の水道で男子がふざけて水を撃ち合い、しぶきがこっちのベンチにまで飛んできた。反射的に俺は茜の肩を抱き寄せ、鞄でガードする。


 100.0 → 100.0(キラ+1)


 落ちない。増えない。けど、“今日のわたし”が増えたのが見える。

 数字が動かなくても、積もるものはあるらしい。


 午後。

 放課後の図書室で、展示台に青いクロスをかける。「雨の日にはこの一冊」「晴れた日にはこの一冊」と手書きのポップを並べる。雪村さんは背伸びして、上段の本の角をそろえた。


「こういうの、楽しいね」

「楽しい」

「——ありがとう。来てくれて」


 そのとき、入口でバタンと音がして、水無瀬が肩で息をしながら入ってきた。


「ごめん、図書室借りる!緊急事態!」


「どうしたの?」

「茜が、99になった!」


 手が止まる。胸が少し冷たくなる。

 さっきの中庭では100だった——はず。


「理由、なんだった?」

「“夕方に展示手伝う”って聞いてね、茜、『私も行く』って言いかけたの。でもね、そこに元・生徒会の人が来て、透のこと何も知らないくせに**『図書委員ちゃんは陰キャ彼氏好きそう』とか言って、茜、笑顔でスルーしたのに、たぶん内心カチン**って来て、−1直撃」

「雑な偏見やめろ元生徒会……」


 茜が入口に現れた。笑っていたけど、目の奥に小さな怒りが残っている気配。99.0。たしかに落ちている。


「ごめん、来ちゃった」

「来て」

「……“落ちました”って、ちゃんと言いに来た」


 四番だ。“嫉妬に名前をつける”。彼女は手帳を開いて、ちいさくメモまで書いた。


16:25 “図書室展示の件”で嫉妬→−1

対処:歩いてここまで来る(汗かく・±0?)


 泣き笑いみたいな顔。

 俺は、展示ポップ用のペンを置いて、カウンターから例の透明の長傘を引っ張り出した。


「“共同資料”、今は晴れてるけど、屋内テストしよう」


「屋内傘テスト?」

「そう。三人でちゃんと入れるかの確認。“共同”って言葉の確認」


 ふたりが近づいて、俺は傘を肩にのせる。図書室の真ん中で、三人で透明の屋根の下に入る。くだらない。だけど、不思議と落ち着く。


 99.0 → 99.0(キラ+1)


 雪村さんの∞のまわりにも、太陽の横に小さな雫が一つだけ灯った。晴れてるのに、嬉しいときの雫。


「……落ちたままだ」

「いいよ。落ちたままで笑えるなら、それで回復だから」


 茜は少し息を吐いて、傘の内側を指でとん、と弾いた。


「ねえ透、教えて。どうしたら“戻す”じゃなくて、“また好きになる”になる?」


「戻すでもいいし、またでもいい。——ここでさ、今の気持ちに名前つけよ」


「名前?」

「“寂しい”とか“置いてかれそう”とか“わたしもここにいるよ”とか。それ言葉にすると±0って水無瀬が言ってた」


 水無瀬が遠くから親指を立てる。「理論の採用ありがとー」。


 茜は少し黙って、ゆっくり言った。


「“私も、ここにいる”」


 99.0 → 100.0


 数字はぴたりと戻った。

 同時に、“今日のわたし”のキラが一つ、傘の内側で星みたいに反射した。


「……戻った」

「うん。ありがと」


 雪村さんが、傘の柄にまた小さく札を結びつけた。

 そこにはペンで、こう書いてあった。


共同資料メモ:

・三人で入るとき、全員の気持ちに名前をつける

・“戻す”より“また”を選ぶ


 図書室の空気は、紙とインクの匂いで満ちている。

 数字は動いたり止まったりする。∞は変わらない。

 でも、**“今日のわたし”**の光は、誰にでも増える。そういうしくみだ。


「よし、展示、続きやろ。『晴れの日の本』の横に、**『落ちても大丈夫な日の本』**って棚つくる」


「そんな棚あるの?」

「今つくる」


 水無瀬がカートを押して走った。「タイトル天才〜〜!」


 カウンターに戻りながら、俺はポケットの中の貸出タグを指で確かめた。

 返却期限:あめまで。

 ——延長は、言い訳じゃなくて、約束の形だ。


 外は、今日もよく晴れている。

 でも、俺たちの屋根の下なら、晴れでも雨でも、三人で入れる。

 そう決めて、透明の傘をそっと畳んだ。

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