第3話 拓かれる視界、魔法の存在

 ノヴァがこの世界に生を受けてから、七ヶ月を迎えようとしていた。身体は目覚ましい成長を遂げ、首は完全に据わり、寝返りも左右自在になった。そして何より、ついに彼はハイハイができるようになったのだ。


 (ついにハイハイまで出来る様になった!ここまで苦労したぜ!これからはもっといろいろ調べることができるぞ!!)

 初めて自分の意志で床を這い、目標に向かって進むことができた時、ノヴァの心には深い感動が込み上げた。前世の知識では当たり前だった移動の自由が、この世界で「赤ん坊」という制約を受けていた彼にとって、どれほど待ち望んだ能力だったか。視界は一気に広がり、これまで母親の腕の中や布団の上から眺めるしかなかった世界が、彼の目の前に、手の届く範囲にまで広がった。


「お、ノヴァ、すごいぞ! あっちまで行けたな!」


 父親の嬉しそうな声が聞こえる。母親も「よく頑張ったわねぇ」と優しい声で頭を撫でてくれた。親の喜びは、ノヴァ自身の達成感と重なり、胸の奥が温かくなった。


 ハイハイの習得は、これまで抱えていた赤ん坊のジレンマを、いくらか軽減してくれた。

 今までは客が珍しい書物を広げていても、歯がゆい思いで眺めるしかなかった。

 それが今ではよちよちとではあるが、その書物の近くまで自分で向かうことができる。もちろん、客の持ち物に手を伸ばして勝手に触ることは許されないが、少なくとも視覚で情報を得ることは十分に可能になった。


(あの旅人は、本を読んでるのか。よし、もう少し顔を近づけて、表紙の文字も確認しておこう。)


 床を伝ってハイハイで目標に近づき、周囲に悟られぬよう観察する。それは、前世の直樹が情報収集のために培った、ある種のプロの技だった。

 彼が目標に近づき顔を近づけ、真剣な眼差しで文字を追っていることに、客も両親や従業員たちは気づかない。彼らにとっては、ただ「好奇心旺盛な赤ん坊」が、目の前の物に興味を示しているだけなのだ。


(うう、やっぱり読めない。ようやくこの自由が手に入ったのだから、次はもっと色々な場所に移動して、この宿の全貌を把握しないとな。そして、どこかにこの世界の文字を学べるような物があれば……)


 好奇心は尽きない。ハイハイによって行動範囲が広がったことで、ノヴァの世界は飛躍的に拡張し始めた。

 厨房から漏れる香ばしい匂いの元まで這っていき、料理人のガンドルフが腕を振るう様子を間近で見たり、帳場の奥でセレーネと娘のリーリアが帳簿をつけたり客と応対したりする様子を、以前よりもずっと深く観察できるようになった。

「またいつのまにか勝手にこんなところまで来て!」

 背後で母親の声が響き、体を抱き抱えられ身柄を拘束されてしまった。

 

 (違うんだ、これは重要な調査なんだ!)

 

 手足をバタつかせるが、今の力では母親には勝てない。身柄をそのまま拘束されたまま定位置に連行される。

 

 (我が身の力無さに深い悲しみを感じる。あー。今回はここまでか。残念。)

 

 彼らが交わす言葉の裏に隠された、この宿の日常や、それを取り巻く人々の生活が、立体的にノヴァの脳内に構築されていく。


 そんなある日の夕暮れ時、広間には夕食を終えた客たちが談笑していた。しとしとと雨が降り始め、窓を叩く音が心地よいBGMとなる。その中で、一組の家族が旅立つ準備を始めた。若い夫婦と、まだ幼い娘だ。


「旦那さん、雨が強くなってきましたね。ランプの明かりだけでは足元が危ないでしょう」


 母親が心配そうに声をかけると、旅の男はにこやかに頷いて、腰のポーチから、何の変哲もない小さな石を取り出した。


(これだ……以前にも見た、あの光る石……!)


 男は石を両手のひらで包み込み、目を閉じて、まるで祈るように「ルーメン」と唱え深く集中した。その瞬間、ノヴァはまたも「異変」を目の当たりにした。男の掌からぼんやりとだが確実に淡い光が放たれ、それは石に吸い込まれるように収束していく。次の瞬間、石はまるで小さなランタンのように明るく輝き始めた。


 それを見たノヴァは思わず口をぽかんと開けしばらく固まった。


(なんだそれ!石の光が強くなった!「ルーメン」……? 言葉に反応したのか? 呪文?以前は、呪文らしきものは聞こえなかったが……それに以前より光が強い。詠唱することでより強い効果を発揮する、とかか?この世界の道具?電気があるのか?でも今まで見てきた中で電気の存在する気配はない! だとしたら、魔法か?それとも他の力?)


 ノヴァの幼い心臓が、ドクンと大きく跳ねた。不思議な力。その片鱗が、明確な形で見えた。光を放つ石、そして言葉による光源の変動。今まで得た情報では電気に類するものは無い。それは、この世界に確かに以前の世界には無い力が存在し、なんらかの法則でその力を発現させることを明確に示していた。


 ノヴァは、自身の身体の奥底に感じる漠然としたエネルギーの存在を、改めて意識した。それは、熱でもなく、痛みでもない。ただ、そこにある、という確かな感覚。


(ここは異世界!ということは魔法!?どうゆう理屈だ?道具とキーワードが必要なのか?道具はどんなものがあるんだ?……どんなことが出来る?)


 好奇心は、もはや抑えきれない興奮へと変わっていた。この情報はこの世界で生きていくのに重要な力になる。いつか自分も、あの不思議な力を扱えるようになる日が来るのかもしれない。いや、いつかではない。できることなら、すぐにでも。


 それから彼の生活はますます観察活動に対する活動が活発的になった。

 ハイハイの習得は彼に新たな自由を与え、宿の内部を探索し、これまで知らなかった場所や物にも触れる機会が増えた。魔法の存在は彼に知識への渇望を膨らませ、探求への活力となった。

 両親が目を離した隙に、帳場の裏に隠された古い地図を覗き込んだり、厨房の棚に並んだ様々な薬草の匂いを嗅いだり、彼の好奇心は尽きることがない。


 好奇心の赴くままに、ノヴァは旅館の隅々まで探索を進めた。床板の軋み、柱の木目、壁の染み1つにも、この宿の歴史や秘密が隠されているような気がした。特に興味を引かれたのは、ガンドルフが使う調理器具の数々や、セレーネが客から預かる品々だった。見たこともない素材で作られた飾り物や、異国ふの香りがする香辛料の入った袋。それらを視界に収めるたび、ノヴァの中で、前世の知識と異世界の風景が結びつき、新たな仮説が次々に浮かんでいた。


(この青い石は、もしかしたら魔力を持つ鉱石かもしれない……。あの香辛料は、この辺りでは採れないものだろう。貿易で手に入れたのか、それとも……)


 しかし、そうした探求の途中で、思わぬハプニングに見舞われることも少なくなかった。ある時は、帳場の机の下に潜り込みすぎ、セレーネが落とした硬貨に頭をぶつけて小さく泣いてしまい、慌てた彼女に抱き上げられた。

 またある時は、厨房の奥から漂う甘い香りに誘われ、隠し扉のように閉ざされた食料庫の扉に鼻をくっつけているところを、ガンドルフに「おや、ノヴァ坊。お前さんも菓子が食いたいのかい?」と笑われ、両親に報告された。

 そのたびに、母親に連れ戻され、優しい小言を浴びせられるのだが、ノヴァの探求心は衰えることを知らなかった。


 夜になり、客足が途絶え、宿が静寂に包まれると、ノヴァは自分の布団の中で目を覚まし天井を見上げた。昼間、客の会話の中で耳にした「魔物」や「セザム街道」といった言葉が頭の中を駆け巡る。そして、あの光る石の魔法。前世の知識だけでは到底説明できない現象が、この世界には当たり前のように存在している。


(この世界は、まだまだ俺の知らないことだらけだ。魔物、魔法、そして見知らぬ土地……。いつか、自分の足でこの広大な世界を探検してみたい。そのためにも、まずはこの身体を早く自由に動かせるようにしないと。そして、文字を読み書きできるようになれば、もっと深くこの世界を理解できるはずだ……)


 暗闇の中、ノヴァは小さな拳をぎゅっと握りしめた。好奇心と探求心は、幼い身体に閉じ込められた彼の魂を、未来へと強く駆り立てていた。いつか来るその日のために、ノヴァは今日も、全身でこの異世界を吸収し続けるのだった。

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