第十話「奪われた光」
リアムが騎士団本部から屋敷に戻ったのは、夕暮れ時だった。
今日の会議はマルコム侯爵派の議員たちによる執拗な予算削減案の追及で、やけに長引いた。今思えばそれすらも、奴の仕組んだ時間稼ぎだったのかもしれない。
「カイリは、どこだ」
自室に戻ったリアムは侍従に尋ねた。いつもならこの時間には夕食の準備をしているカイリが、厨房にいるはずだった。
「それが……。カイリ様は昼過ぎに『買い物へ』とお出かけになられたまま、まだお戻りになりません」
侍従の言葉に、リアムの胸を嫌な予感がよぎった。
あのカイリが一声もかけずに、こんな時間まで戻らないなどあり得ない。
「……何か、変わったことはなかったか」
「はあ。そういえば午前中に、カイリ様の故郷の村長と名乗る方が訪ねてこられていましたが……」
その瞬間、リアムの中で全ての点が線で繋がった。
マルコム侯爵。村長。カイリの外出。
「……あの、狐野郎(こりやろう)が」
リアムは低く唸るように呟いた。
カイリは罠だと分かっていながら村人を人質に取られ、一人で敵の元へ向かったに違いない。あの、お人好しで自己犠牲の塊のような青年なら、そうするだろう。
「副長を呼べ! 今すぐ騎士団の精鋭を集めろ!」
リアムの怒声が、屋敷中に響き渡った。
侍従たちが慌ただしく動き出す。
カイリを失う。
その可能性を考えただけで、リアムは全身の血が逆流するような感覚に陥った。
初めてだった。誰かを失うことを、これほどまでに恐ろしいと感じたのは。
彼は自分の番(つがい)だ。
この手で守り抜くと決めた、たった一人の存在。
それを、土足で踏み荒らそうとする者がいる。
許せるはずがなかった。
『カイリ、無事でいろ……!』
リアムは愛用の剣を手に取ると、黒馬に飛び乗った。
マルコム侯爵の屋敷は分かっている。すぐに部下たちが駆けつけてくるだろう。だが一刻も早く、カイリの元へ行きたかった。
リアムの体から怒りに燃えるαのフェロモンが、奔流のように溢れ出す。それは帝都の空気を震わせ、道行く人々を恐怖で凍りつかせた。
『帝国の氷盾』が今、ただ一人のΩのために怒れる『嵐』と化していた。
***
一方、カイリはマルコム侯爵の屋敷の地下牢に閉じ込められていた。
冷たく湿った石の床。鉄格子の向こうは、暗闇が広がっているだけだ。
馬車を降りた途端、屈強な男たちに取り押さえられ抵抗する間もなくここに放り込まれた。
「ようやくお目覚めかな。白銀のΩ殿」
暗闇の中から、ぬるりとした声がした。
松明の明かりに照らされて、マルコム侯爵がその姿を現した。
「……何の、つもりですか」
カイリは震える体を叱咤し、侯爵を睨みつけた。
「そう睨まないでくれたまえ。私はただ君の力を、確かめたいだけだよ」
マルコムは気味の悪い笑みを浮かべている。
「君のフェロモンはαの能力を増幅させるという噂は本当かね? もしそうならそれは帝国にとって計り知れない価値を持つ。リアムのような若造に独占させておくには、あまりにも惜しい力だ」
彼はカイリの力を、己の派閥の戦力として利用するつもりなのだ。
「さあ、私に見せてくれたまえ。その、伝説の力を」
マルコムが合図をすると牢の扉が開かれ、二人の大柄なαの兵士が入ってきた。彼らの目は欲望にぎらついている。Ωのフェロモンに当てられているのだ。
「やめろ……! 近づくな!」
カイリは後ずさった。
だが狭い牢の中、逃げ場はない。兵士たちがじりじりと距離を詰めてくる。
恐怖で息が詰まる。
昔のあの記憶がフラッシュバックする。父と母の悲痛な叫び声が、耳の奥で響いた。
『いやだ……!』
カイリが目を固く閉じた、その時だった。
ドオオオオオンッ!!
地下牢全体を揺るがすような、凄まじい破壊音。
天井からぱらぱらと土埃が落ちてくる。
「な、何事だ!?」
マルコムが狼狽した声を上げる。
すると地下牢へ続く階段の方から、兵士たちの悲鳴と金属がぶつかり合う音が聞こえてきた。
そして、ゆっくりと一人の男が暗闇の中から姿を現した。
その手には返り血で濡れた白銀の剣。
その身にまとうのは、絶対零度の怒気。
「……リアム、様……」
カイリは信じられない思いで、その名を呟いた。
彼が来てくれるなんて、思ってもみなかった。
「……よくも、俺のカイリに手を出してくれたな」
リアムの声は静かだった。
だがその静けさこそが、彼の怒りが頂点に達していることを物語っていた。
「き、貴様、どうやってここに……! 屋敷の警備はどうした!」
マルコムが震える声で叫ぶ。
「お前が雇った腑抜けどもか? もう、一人も残っていないぞ」
リアムは氷のような瞳で、マルコムを、そしてカイリに近づこうとしていた兵士たちを見据えた。
兵士たちは最上級のαが放つ圧倒的なプレッシャーに、完全に体を硬直させている。
「……カイリから、離れろ」
その一言が、合図だった。
リアムの姿が掻き消える。
次の瞬間、兵士たちの体がくずおれるように床に倒れた。意識を失っているだけのようだ。
リアムはマルコムには目もくれず、真っ直ぐにカイリの元へ歩み寄った。
そして震えるカイリの体を、力強く抱きしめた。
「……間に合って、よかった」
彼の腕の中、嗅ぎ慣れた冬の山の頂のような香りが、カイリを包み込む。
恐怖で凍りついていた心が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
「どうして……どうして、来たんですか」
「愚かなことを聞くな。お前を助けに来たに決まっているだろう」
リアムはカイリを抱きしめる腕の力を、さらに強めた。
「二度とあんな真似はするな。お前がいない世界など、俺にはもう考えられない」
彼の悲痛な声が、カイリの胸に深く、深く突き刺さった。
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