異世界内需活性化☆経済勇者!?
アオにネムレね
第1-1話 異世界の初出勤
セツモリ・シノブは、その日もコンピューターを切れなかった。
文書の端で、カーソルが静かに瞬いている。
「決算報告書(暫定)」
計算式はまだ終わらず、
同じセルの上にN/Aの文字が浮かび続けていた。
モニターの光が、紙の山を撫でるように流れていく。
こぼれた光は、コーヒーの染みに触れて一度止まり、
そこから、紙の繊維の中へと薄く染み込んだ。
机の上に積まれた紙の角は、夜の湿気で柔らかくなり、
乾いては、また湿った。
そのたびに、部屋の空気がわずかに揺れた。
窓の外。
押し潰された油膜のように、街の夜が光っていた。
電車が通るたび、ビルの骨格が一呼吸だけ震えた。
消えた窓は、海の底のように黒く、
灯った窓だけが、標識のように浮かんでいた。
都市の心臓は、止まり、また動いた。
止まり、また、動いた。
「今月は、黒字か。」
空になったカップを手に取り、口をつける。
喉を通る感触がなく、ようやく空だと気づいて戻した。
「暫定値だけどな。」
椅子が小さく軋んだ。
古い事務用。
昼には聞こえず、夜だけが拾う音。
静けさの中で、それだけが鳴った。
シノブは中小企業を助ける行政書士だった。
人の代わりに書類を書き、
印を押し、番号札を取る。
創業。税務。許可。資金調達。
紙の海は溢れていたが、
波の根は、いつも紙の匂いだった。
彼が渡した構造物の名は、いつも同じ。
様式。添付。証憑。
法律より事情。
規定より事情。
彼は「事情がある」という言葉を信じ、長く耐えた。
依頼人はそれを好んだが、
帳簿は、それを嫌った。
「先生、今度こそ失敗しちゃダメです。」
「分かってます。人に合わせた方が早いですから。」
その会話は、季節が変わっても初めてのように繰り返された。
春も。梅雨も。ボーナスのない冬も。
会議室の灯りはすでに落ちていた。
廊下のセンサーライトは、誰かを待ち疲れたように半分だけ灯っている。
コピー機は今日も働き続け、まだ微かに熱を残していた。
紙の匂いが静かに冷めていく。
隣の机には、厚い印刷物が整然と積まれていた。
『民願処理法改正案 意見書』
『小商人 内需活性化対策』
『業種別営業停止 損失算定ガイド』
タイトルは大きく、結論はいつも小さかった。
右上のメモに、見覚えのある筆跡。
〈来週締切/融資スケジュール再案/登記所確認〉
剥がした跡に、小さな糊の塊。
少し汚れ、少し乾いていた。
仕事の跡は、いつもそんなふうに残る。
画面の数字が揺れた。
気のせいだと装ったが、確かに揺れた。
シノブは目をこすった。
疲れすぎて、幻が見えたのか。
眼鏡の向こうで世界がずれ、
納税書の合計と「廃業届」の文字が重なった。
その文字が、かつて助けた人々を呼び起こす。
看板を替え、店を広げ、
客が来ず、夜通しチラシを貼り、
最後に担保を手放した人たち。
「売って潰れたんじゃない。売れなくて潰れたんです。」
冷えた油。古い換気扇。そして数字。
なぜ潰れたのか、誰も言えなかった。
宣伝が足りなかったのか。
制度が悪かったのか。
それとも、世界が速すぎたのか。
全部が正しく、どれも正解ではなかった。
シノブは小さく息を吐いた。
「結局、計算ってのは、誰が残るかの記録だ。」
印字された数字は冷たく、
乾ききらぬインクだけが、まだ温かかった。
その矛盾は、長く耐えるほど鈍くなる種類の熱だった。
+++
モニターの脇、小さな写真立て。
無意識のまま、指が伸びた。
社内旅行で撮られた一枚。
皆がそれぞれのカップを持ち、
偶然のように、ほとんどが白だった。
写真を戻す。
その時の記憶は、もうほとんど残っていない。
記憶は、できるだけ短く残す主義だった。
封筒が机の角から滑り落ちた。
『固定資産税 納付案内(訂正)』
開封口は歪み、
破る音だけが、耳の奥に残った。
考え込むシノブを、モニター下の自動保存の窓が照らす。
保存。
また保存。
保存。
保存されても、何も変わらなかった。
数字だけが、小さな拍子を刻んだ。
椅子を引く。
古いキャスターはまっすぐ転がれず、
細かい震えを残した。
耳の奥で、依頼人の声が重なる。
〈先生、今度は……〉
〈今度こそ……〉
〈今度だけは……〉
「今度」で始まる文は、いつも同じ頭で、
終わりだけが違った。
涙。
コーヒー。
その日の天気。
夜の十一時。
知らない番号から電話が鳴った。
「先生、ポスターが全部濡れちゃって……。」
あの時、何も言えなかった。
今日、窓を叩く雨が、あの夜の雨と似ていたから。
窓を少し開ける。
雨を含んだ街の匂い。
アスファルトの熱が冷める音。
トラックのブレーキの匂い。
コンビニの扉が開いて閉じる音。
感覚は計算のように規則的で、
けれど少しずつずれていた。
右の引き出しには常備薬。
ビタミンC、頭痛薬、胃薬。
パッケージを破りかけて、手が止まった。
胃が痛いわけじゃない。
指先が、少し震えていた。
指先は、いつも正直だった。
夜の事務所は影で満ち、
少し縮んで見えた。
昼は広かったガラスの壁が、
夜は鏡のように近づいた。
鏡の中の自分は、いつも似ていて、
少し違った。
変わるのは顔でも服でもなく、
顔に映る疲れた時間だった。
モニターの光が頬に当たる。
彼は言葉を減らし、
数字を増やし、
文を削った。
短い文が、仕事に向いていた。
説明は、長いほど信じられなかった。
「補正」タブを開き、数値を整える。
意味のない数字が、補正ひとつで意味を持った。
修正履歴の時刻は、二三時五八分。
その数行が、人生を積み上げていく。
決算は終わりではなく、
次の始まりへの扉だった。
ただ、ある夜は。
敷居だけが高くなり、
扉が開かない。
+
携帯が一瞬光った。
モバイルバンクの通知音が、小さく鳴った。
音はすぐに遠ざかり、
シノブは立ち上がり、水を半分注いだ。
疲れた夜ほど、水は甘かった。
カップの縁に唇をつけたまま、考える。
「今日も救えた。けれど、救えなかった。」
二つの文の間の読点は、いつも難しかった。
どちらが重いのか。夜ごとに変わった。
壁の時計は、五度壊れて、五度直された。
秒針は時に二度動き、時に止まった。
それでも、時針だけは正確だった。
報告書の締切は守れた。
人の期限は、気づかぬうちに過ぎていった。
机の右上。
黄色いファイルに、〈小商人カード手数料軽減(案)〉の文字。
かつて湿っていたインクは、今は乾いていた。
ファイルの中は、いつも乾いていた。
濡れるのは、現場だけ。
モニターの白い余白。
それは、人の顔に似ていた。
言いかけてやめた顔。
言おうとして諦めた顔。
どちらも、見慣れていた。
+
送信済みフォルダ。
差出人:セツモリ・シノブ。
件名は似ていた。省略記号が約束のように並ぶ。
「件」「再」「至急」。
人の言葉が、機械の単語に変わる瞬間は、いつも静かだった。
画面が止まる。
短い停電。
蛍光灯が一度消え、また灯る。
モニターが一度、息を吸う。
マウスを離し、背もたれに預け、左手を開いた。
指の下で血管が浮かび、沈む。
その脈が、今日の印鑑のように思えた。
インクは血で、捺印は疲労だった。
電話の鳴らない夜は、うるさかった。
頭痛の来ない夜は、重かった。
最後の報告書を保存。
自動保存の宣言が繰り返された。
保存。
保存。
保存。
どんな救いも、自動保存のように、いつも遅れた。
「それでも。」
机の角を撫でる。
「明日は、数字より人が残るように。」
祈り方を知らなくても、その言葉は自然に出た。
窓の前に立つ。
雨が強くなっていた。
ガラスを流れる水滴が、道を作り、
道を入れ替える。
それは、政策のようだった。
人はその中で散り、集まり、そして消えた。
開けっぱなしの窓を閉じる。
乾いた空気の中で、コーヒーの苦みが際立つ。
カップを三度回し、机に置いた。
もう一度、保存ボタンを押す。
モニターの時計が日付を越える。
00:00。
新しい一日の扉は、数字が触れ合う音で開いた。
古い椅子の軋みが、その敷居を代わりに鳴らした。
送信ボタンの上で指が止まり、離れる。
送れなかった文だけが、残った。
窓の灯が一つ、また一つ消えていく。
モニターも息を止めた。
機械の音が一斉に口を閉じる。
短く、確かな闇。
シノブは目を閉じた。
閉じなくても、闇だった。
掌を裏返し、脈を押す。
二度打ち、一度休む。
心臓も、書類のように働いていた。
暗闇の中で、モニターの枠を探る。
指がボタンに触れる寸前で止まる。
何もしない時間。
何もしないことが、時にいちばん難しかった。
椅子に座る。
音はなかった。
すべてが止まったように見えた。
止まったのではない。
響きが、少し後ろへ退いただけだった。
そして――世界が、落ちた。
+++
光が、降りてきた。
天井ではなく、空から。
紙を折るように、光がたたまれ、
その断片が、頭上で静かにほどけた。
乾いた紙が陽に当たって反る瞬間のように、
光の縁が丸まり、また伸びる。
静寂。
短い一呼吸の間に、匂いが先に届いた。
乾いた根の苦み。
灰の甘さ。
ほこり。
香炉をひっくり返したような匂いだった。
耳が遅れて開く。
鼓動の音。
それが自分の心臓だと気づいたのは、
別の音が重なってからだった。
鈍い震動が足元から這い上がり、
石が冷たく響く。
「勇者候補、一二八名、召喚完了!」
声は報告書の読み上げのように整っていた。
壇上の男は、金糸の文字を肩に掛けている。
「財務」と縫われた刺繍が、光をはじいた。
光が文字を追い、折れ、揺れる。
茫然とその文字を読んで、
シノブは思わず口を開いた。
「……財務? どこの省庁だ。」
男は聞き返すように瞬きをした。
「省……庁?」
「……いや、いい。」
理解を後回しにする。
それが、長く生きるための癖だった。
〈出口〉と書かれた門を抜けると、
低い陽が広場を濡らしていた。
切り取られた時間の中から来たような人々。
水着。スーツ。パジャマ。
キャリーケースを引く人。
タオルを肩に掛けた人。
皆、初出勤の顔。
あるいは、強制異動の顔。
シノブもその一人だった。
壇の背後の幕が、風に翻る。
〈王国第三十二次 景気刺激 勇者召喚プロジェクト〉
文字が風を受けて波を描き、
波が光を返した。
「魔王を討て」と人々は叫ぶ。
だが、どこにも魔王の名はなかった。
刻まれていたのは、小さな単語。
〈循環〉〈経済〉〈消費〉。
それは、文書の言葉だった。
「景気刺激……。」
シノブは唇をわずかに固くし、
手首を折り伸ばした。
さっきまでキーボードを叩いていた手の熱が、
まだ冷めなかった。
計算は、反射神経だった。
三十二次。
三十一回の失敗。
それでも続くのは、
続けねば食べていけない者がいるから。
広場の空気が熱かった。
陽のせいだけではない。
〈発表〉の熱。
〈イベント〉の熱。
〈予算〉の熱。
人が集まる場所の温度は、いつも同じ。
一人の妖精が羽をたたみ、壇上から跳んだ。
銀の鈴を手に、リボンが音に合わせて揺れた。
「勇者候補の皆さん、こちらへ!
初心者の村で経済活性ポイントが支給されます!」
「ポイント?」
「はい! ポーション、宿泊、食事、レンタル、寄付まで自由!
消費が増えれば、世界はもっと明るくなります!」
句点のない声。
呼吸のない説明。
群れの外で、シノブは一度目を閉じた。
額を押さえ、息を吐く。
「……死んでも、経済の宣伝はついてくるのか。」
足元の影が風に揺れ、
靴先に何かが触れた。
ぬるり。
ゼルの中に金貨が沈んでいた。
光が金に跳ね、一度、また二度揺れる。
拾い上げる。
指先に冷たさ。
掌に、粘る感触。
服で拭う。
指も服も、さらにべたついた。
「金貨より粘つくのは、仕組みだ。」
独り言は、空気より重かった。
歩くたび、足の裏が鳴る。
ぺた、ぺた。
広場を囲む建物に、幕がかかる。
〈勇者入国記念セール〉
〈ポーション半額〉
〈初心者用テント購入で占いサービス〉
文は柔らかく、数字は鋭かった。
空から風船が落ちる。
印刷された文。
〈消費は希望です〉
〈愛と購買で国は強くなる〉
柔らかな声の裏で、太鼓の音が硬かった。
壇の横に仮設の舞台。
木の足場に薄いカーペット。
角笛が、マイクの代わりに立っている。
妖精たちが一斉に頷いた。
「これより、王国の紹介をいたします!」
リボンのような声。
人々を集めるのに十分だった。
群衆が壇の前へ動く。
シノブは逆に歩いた。
壇と人の間で、数字を見た。
価格表。ポーション六ゴールド。宿八ゴールド(朝食付き)。訓練場五ゴールド/時。
「朝食付き」は、いつも罠の言葉。
世界が変わっても、言葉の罠は残る。
ポケットを探す。
携帯は、ない。
代わりに、首に薄い名札。
〈セツモリ・シノブ〉
指が、その角を撫でた。
新品の滑らかさが、異物のようだった。
広場の奥。
石柱の上の灰色の建物。
〈勇者収入庁〉
看板の下、小さな文字。
〈民願は毎週金曜 九〜十一時〉
シノブは、笑いとも溜息ともつかぬ息を吐いた。
「……それも変わらないな。金曜だけ働く部署。」
妖精たちの紹介が終わり、
列は村へ向かって伸びていく。
前は装備。
後ろは素手。
シノブは、そのさらに後ろ。
ほとんど最後尾に立った。
列が進むたび、首が同じ角度で縦に動く。
「こういう時は、頷くのが礼儀」――身体が覚えていた。
入口で妖精がウィンクし、扇を振った。
〈今買えば、後で本当に安くなります〉
「後で」はいつも安い。帳簿の上では。
「勇者様〜、これがなければ魔王は倒せませんよ〜!」
「魔王より先に、口座が死にますね。」
妖精が止まった。
表情に、小さなひずみ。
シノブは見逃さなかった。
「え?」
「いえ、何でも。」
風が広場を横切る。
紙の匂い。
計算の熱。
香炉の煙。
三つの匂いが、頭の後ろで混じった。
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