Dice of the God - 二丁目店

 外資系コーヒーチェーンの"Dice of the God"は、日本国内にも多数店舗を構えており、〈ル・フェルニッシュ〉の周辺、徒歩三十分圏内にも二店舗出店している。


 指定は”最寄りのダイス”とのことなので、徒歩十分の”二丁目店”だろうと解釈し、約束の時間よりもやや早めに、佐久間は到着した。

 

 店の外からガラス張りの店内を覗くと、視界の先にある席は全て埋まって賑わいを見せている。


 突き当りの壁際、二人用の席に、神谷が座っているのを見つけた。


 レジには数組が並んでいる。佐久間は入店前に、スマホの専用アプリからモバイルオーダーで注文から支払いまで済ませ、それからお店のドアを開けた。


 入店後まもなく、佐久間の注文が呼ばれる。モバイルオーダー専用の受け渡し口でカフェ・ラテを受けとり、神谷が居るテーブルへ向かった。


 佐久間の姿を見つけた神谷が片手を挙げて声をかけた。


「呼び出してすまない。――おれが出すよ」

 佐久間が手に持つカフェ・ラテを見て神谷が支払いを申し出る。

「大丈夫です」

 金銭の授受が面倒で佐久間は断る。


 テーブルを挟んで神谷の正面に佐久間が着席すると、さっそくと言わんばかりに、神妙な面持ちで神谷が本題を切り出す。


「マンションのことを調べている」

「はい?」

「おれは私立探偵なんだ」

「探偵? 神谷さんが?」


 思いがけないカミングアウトに佐久間は面食らった。


「探偵が住み込みで何をしているんですか?」

「住み込みの探偵って。佐久間くんは面白いな」


 神谷は高らかに笑って見せたが、佐久間はちっとも面白くなかった。神谷は咳ばらいを一つして、再び神妙な顔に戻る。


「何をしているのかは守秘義務で言えない」

「そうですか。では、他人の家のポストを覗き見ていたこと、大家さんに言います」

「待ってくれ。わかったから」


 おとなしそうに見えて意外と強情な奴だなと、神谷は内心で舌打ちする。


「依頼主はこのマンションの住人なんだ。で悩んでいて俺に依頼してきた」

ってなんです?」

「守秘義務だ。依頼主が誰なのかも言えないぞ」

「はあ」


 どんな反応をしたら良いのか。佐久間の口からは気の抜けた声が出た。


「佐久間くんはこのマンションの住人、全員と会ったことがあるか?」

「全員ですか? いえ、全員はないと思います」

「おれもだ」


 佐久間は頭の中で、面識のある住人の顔を順番に思い浮かべる。全部屋の住人を把握しているわけではない。共用スペースで会ったことがある人とは、多少なりとも会話を交わしたことがある。それだけだ。


 同じ二階の住人同士でも二階の共用廊下で鉢合わせすることは滅多になく、一階の共用スペースに居る時にばったり会うのが定石となっている。


「佐久間くんは、おれより後に越してきたよね」

「はい」


 佐久間が205号室に引っ越してきた時、神谷は202号室に先住していた。


「最後に賃貸契約を結んだのはおれなんだ。おれの入居が決定したときに『これで全ての部屋が埋まった』と言われてね」

「そうなんですか。ということは――」

「今、マンションは満室らしい」


 五階建てマンションの住居エリアには、各フロア四部屋ずつ設けられている。神谷の話ではそのすべての部屋が埋っているとのことだが――。


 住人全員と会わないことは、そんなに奇妙な事象だろうか?


「ぼくたちがまだ会っていないだけなんじゃないんですか?」

「おれはこの二か月間、朝昼晩、時間帯を問わず一階で過ごすことが多かった。もはや、一階に住んでいると言ってもいい」


 ただの暇人じゃないかと佐久間は思ったが、口には出さなかった。


「なのに住人全員と顔を合わせていない」

「部屋にこもって仕事をしたり、逆にほとんど家にいない、とかじゃないですか? 全員が常に一階の共用スペースを利用するわけじゃないでしょうし」

「キッチンの後藤さんにそれとなく聞いたけど、後藤さんも誰が何号室に住んでいるのか、全ては把握していないんだと」

「そりゃそうでしょうね」


 何を至極当たり前のことを言っているのだろう。佐久間には、話の先が見えなかった。


「おばちゃんは噂好きな生き物だぞ。なのに知らないのは変だ」

「それ神谷さんのただの偏見じゃないですか」

「食事は生活の要だ。つまり、住人の食事管理は、全て後藤さんがしていると言っても過言ではない」

「毎日自炊や外食してる人もいると思いますけど」

「その後藤さんが住人のことを知らないなんて変だろ?」


 神谷という人間はどうやら人の話を聞かないようだ。佐久間はため息を吐いた。

 

「それで、住人全員と会っていないことと、神谷さんが受けた依頼内容は、何か関係するんですか?」

「参ったな。これ以上は話せないんだ」

「それであなたを信用しろと言われましても」

「あいにく名刺は切らしている」

「名刺をくれと言っているわけじゃないんですよ。神谷さんが探偵かどうかは興味ないんで」

「そこは興味を持ってくれよ」


 両手を挙げ、オーバーリアクションをする神谷。

 対して、佐久間の表情は変わらないままだ。


「同じマンションに住む人間として、今とても、あなたへの信用が低いということです」

「わかった。わかったから佐久間くん」


 神谷は周囲を見渡してからテーブルの中央に向かって上半身を傾け、正面に座る佐久間の方へ身を寄せた。声を潜め、佐久間にしか聞こえないよう細心の注意を払い、囁く。


「――依頼主はストーカー被害に遭っている。犯人はここの住人である可能性が高い」

「えっ……。同じマンション内でストーカーですか?」


 佐久間は、少なからずショックを受けた。佐久間が出会った住人たちはそれぞれ、個性は強いが人当たりが良く明朗快活で、犯罪という後ろ暗いものに関わっているとは到底思えない。


 入居してまだ一ヶ月半しか経っていないが、〈ル・フェルニッシュ〉は佐久間にとって安寧の地となっていた。


「本当に残念なことにね……」

 なおも神妙な顔のまま、神谷は話を続行する。


「おれは郵便物の宛名を確認していたんだ。ポストに表札はないからね。けど視界が狭くて見えなかった。あれは、ポストの中が見えないように設計されているな」


 エントランスのポストには表札を掲示する部位がなく、部屋番号のみ記載されたプレートだけが設置されている。どの部屋に誰が住んでいるのか、ポストを見るだけではわからないように配慮されていた。


「……探偵だからって、他人のポストを覗き見てもいいんですかね」


 佐久間は素朴な疑問を口にする。自分の家のポストを見られたら、誰だって不快だ。


「そこは勘弁してくれよ佐久間くん。探偵っていうのは地道な調査の積み重ねで、すごーく地味で大変なんだ。かっこよく決めて『犯人はお前だ!』なんて言うのはドラマやアニメの中だけなんだよ」

「そうでしょうね」


 弁の立つ人だと佐久間は感心する。さりげなく論点をずらされていることには気付いたが、そのまま神谷の弁明を聞くことにした。


「住んでみてわかったけど、マンションのセキュリティはかなり厳重だ」

「そうですね」

「素晴らしいよ。外部から侵入することは難しいだろうね」

「それで内部の人間が怪しいと?」

「まあ、そんなところだね」


 エントランスの扉はオートロック式で、建物内に入るのにカードキーが必要なのはもちろん、エレベーター利用にもカードキーを使う。カードキーを所有する人が一階で迎え入れるか、外から一緒に同行しなければ、建物内部に入ることは難しい。


 また、佐久間が入居する際にオーナーから説明があったが、各階の共用部はほとんど死角なしに防犯カメラが設置されているという。異常事態があればすぐに警備会社に通報されるシステムとのことだった。


「一つ聞いても良いですか?」

「なんでも」

「神谷さんが住み込みで調査しているのも、外部から調査することが難しいと考えたからですか?」

「その通り。佐久間くんは理解が早くて助かるよ」


 神谷の話は一応筋が通っていた。もとより、不信感を払拭できないのは、神谷が敏腕な探偵に見えないからだ。


 間が持たなくなり、佐久間はテーブルの上のカフェ・ラテを手に取り一口含む。温かい液体がゆっくりと器官を通過し、コーヒーの香りは鼻から抜け、口の中では甘さの後に苦味が残る。


 ――人を見かけで判断するのはよくないな。


「事情はわかりました」

「わかってくれたなら嬉しいよ」

「神谷さんのこと、全ては信用できていませんが……」

「お互い出会ってまだ一ヶ月ちょっとだから仕方ないさ。今後とも仲良くしてくれると、おれは嬉しい」


 佐久間は無言のまま軽く頭を下げた。頷いて見える仕草を、神谷は肯定と受け取った。


「いつまでも会えない住人に厳重過ぎるセキュリティ。なにか変だ。きっとなにか秘密がある。佐久間くん、今おれが君に事情を打ち明けているのは、君が危険人物ではないと思っているからだよ。おれはね、あんな素敵なマンションで事件なんか起きてほしくない。心の底からそう思ってるんだ。おれたちのユートピアを一緒に守らないか?」

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