第3話 最悪の偶然
陶器の皿に盛られた眼球と舌。眼球は、細かな赤い血管が走り、白目の部分がスープの色に染まって、青銅色と茶色をにじませていた。これは、明らかに牛のものではない。牛肉ほど大きいものではない。
「うっ」
吐き気が込み上げてきた。
左隣には皿に顔を埋めてむさぼり食べるネズミ頭。ビチャ、ビチャ、ビチャ。奴の食べているものが視界をかすめる。首をめぐらせ、それを直視する。俺は悲鳴を上げそうになる。そいつが食べているもの。それは、スープが染み込むまでよく煮込まれてぱんぱんにふくれあがった脳みそだった。
俺は立ち上がった。反動でスツールが倒れた。獣人たちは構わず食事を続けている。逃げようと思った。ここにいてはいけない。奴らは人間を食べる。
振り向こうとした矢先、音もなくジャック・オー・ランタンが立ち上がった。伽藍洞の視線を俺に向け、マントから手を伸ばす。黄ばんだ骨で構成されたその手を。
空気が変わった。獣人たちは、食べるのをやめ、ジャック・オー・ランタンが指を向けた先――つまり俺に注意を向けた。口に肉の切れ端やスープの液体をつけた豚、猫、羊、犬ども。開いた口には唾液にまみれた
あああああッ!
俺も走り出した。闇に沈む木々の向こうへ。木の根でボコボコになった地面を革靴の底で踏みしめる。突き出た枝が俺の二の腕を、太ももを引っ掻いたり、えぐったりする。それでも俺は止まらない。心臓が破裂しそうなほど高鳴る。気道を行き来する吐息は熱い。もう限界だ。これ以上走れない……! でも背後に迫っている――獣人たちの叫び声が……!
ベッドで半身を起こした。裸の胸に汗が溜まっていた。心臓は高鳴り、シーツの端を両手が握りしめていた。
夢か。また、あの夢だ。立て続けに見るなんて、初めてのことだ。
起きた反動でベッドをきしませてしまったせいかもしれない。隣に眠っていた花枝がパチリと目を開けた。
「どうしたの……」目をこすり、それから花枝は目を見開いた。「哲治くん、すごい汗……また悪い夢を見たの?」
リネンのナイトガウンで包まれた体をベッドから起こして、花枝はベッドライトの紐を引いた。軽くウェーブがかった美しく長い髪。小顔に収まる茶色がちな瞳。その姿を目にしただけで、全身にこもった力が抜けていった。
ふくよかなその胸に俺は頭を
「よしよし、怖くないからね」
何も言えず荒い呼吸を俺は繰り返した。
俺はさっきまで確かに走っていた。森の中を走っていた。目を閉じれば、獣たちのいやらしいうなり声が耳の中で反響しているかのようだ。
――もうひとつの現実。
八木崎係長の言葉がリアリティをもって迫ってきた。
そんなわけがあるか。
まさか、そんなわけが。
現実じゃない。現実じゃない。あれは夢なのだ。間違いなく。
ベッドの横にある花枝の化粧台に目を移したとき、そこにあったものを見て、思わず俺は悲鳴を上げそうになった。
「あ、あ、あれは……」
オレンジ色のカボチャ。くり抜かれた目。あんぐりと開いた口。ジャック・オー・ランタンがそこにいた。
「これ? ああ。オーナメントだよ。ハロウィンが近いでしょ? 受付を飾りつけようってことになって、クローゼットから引っ張ってきたの。旦那の私物なんだけど、まあ、いいわよね」
テーブルの上には他にもオーナメントが並べられていた。服を着た動物たちが、読書したり農作業をしたりしているというものだった。その動物といえば、豚・ロバ・ウサギ・犬・猫……。ひときわ背の高いジャック・オー・ランタンの横で、それらがはべっているように見える。何か号令を待ち受けているような。ぶひひ。ふごおお。鳴き声が脳裏にこだまする声。冷えた体がますます冷えていく。
「哲治くん?」
花枝は、眉根を寄せ、首を傾げた。
「なんでもない」
声は震えていたと思う。目が離せなかった。どうしてこんなものがここに。すべてが俺の夢の登場人物じゃないか。あの夢の詳細を花枝に話したことはない。ジャック・オー・ランタンはおろか、獣人の話なんて一度もしたことがないのだ。
偶然だ。
俺は自分に言い聞かせる。
そうだ、偶然なんだ。
すべてが、偶然なんだ。
「今は、旦那さんのことは忘れて、俺のことを見てくれよ」
俺は笑顔を作って言った。
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