第2話 もうひとつの現実
革靴やハイヒールを身につけた何本もの足が、ピカピカに磨かれた青い大理石の床を踏みつけていく。彼ないし彼女らは回転ドアの入り口から中に入ってきて、エントランスホールを横切り、一直線にエレベーターを目指す。六台のエレベーターがビジネス・スーツ姿の人々を飲み込み、その扉を閉ざすと、上階へと運んでいく。
俺はというと、人の流れに逆らうように、ビルの受付へと向かう。そこには藍色のオフィスウエアに身を包んだかわいらしい女の子たち数人がカウンターに座っていた。長い黒髪の女の子と目が合った。
「哲治、おはよう。ネクタイ変えたの? ペイズリー柄なんて珍しいわね」
花枝が言った。
「係長からの誕プレなんだよ。趣味じゃないけど、一度くらいはつけておかないとさ。さすがに申し訳ないだろ」
「いい人じゃない。私なんて上司からプレゼントなんかもらったことないわよ」
「いい人なんだけど、ネクタイの趣味は合わないな。なんなら、ネクタイなんてものは締めたくない」
「その発言、会社辞めたいって言ってるように聞こえるわよ。会社の人に聞かれたら噂になるんじゃない?」
「噂させておけばいいんだよ。人の噂も七十五日だ」
「それにしても、ひどいクマね。また眠れなかったの?」
花枝は、その細長く白い指で俺の頬にふれた。ひんやりとした指先が心地よかった。
「そうなんだよ。また気持ち悪い夢を見ちゃってさ」
「きっと働きすぎなのよ。哲治もたまには休んだら?」
俺は、右腕に巻いたロレックスの文字盤に目を走らせた。時刻は八時ちょっと過ぎ。そろそろ行かなくてはいけない。
「今夜の待ち合わせは二十時だよね?」
「ええ。『コーラル・ガーデン』で会いましょう。私、あそこのパスタ大好き」
俺も群衆の作る川の流れの一部に加わり、エレベーターの扉の向こうへと飲み込まれに行った。
ノートパソコンに向かって、発注した部材が無事工場に入荷されたことを感謝するメールをタイプしていると、肩を叩かれた。振り返ると、八木崎係長の柔和な笑顔がそこにあった。
「哲ちゃんったらさ、まだ働くのかい。そろそろ昼時だぞ。ご飯、どうする?」
オールバックになでつけた髪。縁の太いメガネ。相変わらずの派手好きで、スーツの柄は紺色のチョーク・ストライプだ。
「これ書き終わったらいくつもりです」
俺は、キーボードを叩く指先を動かし続けながら言った。
「前に話した純喫茶に行こう。あそこの鉄板皿で食わせるナポリタンは絶品だぞ。おごるよ」
「いつも申し訳ないです。ありがとうございます」
そう言いつつ、送信ボタンをクリックした。
会社を出て、花壇の整備された通りを歩き、店へとたどり着いた。古きよき昭和の匂いがする木造の店内は、大勢の客でひしめいていた。ありがたいことに、俺たちがやってくると同時に、カウンターにふたつ空きができた。すぐさま案内され、俺たちは腰を下ろす。
「いつもどうも、八木崎さん」白髪頭の店主が頭を下げた。「いつものでいいですか?」
「そう、いつもの二つ」
係長は指を二本立てて言った。
「最近、例の夢は見ているの?」
二人でお
「好きっすね、その話」
「今じゃこんな仕事してるけど、俺って大学じゃ心理学やってたんだよ。もう二十五年前の話だけどね。夢分析しがいのある独創的な夢だよ、君の夢は」
「独創的ですか」
「ああ。ストーリーになっているところが面白い。断続的に夢の続きを見るってところもね。普通、夢というのは記憶の断片だったり、心の中のタブーが形になったりしたものばかりで、取り止めのないものばかりなんだ――心理学の知見によるとだね。で、最近は見てるの?」
八木崎係長の言うとおり、俺の夢はどこか普通じゃない。ストーリーみたいに一連のつながりがある。
最初は森の中にいる夢からはじまった。真っ暗で、地面には波打つように木々の根が張っていた。
そうしてさまよっていると、木々の向こうに明かりが見えた。誰かがいる。俺はそこに向かって、歩みを進めた。
すると、そこにいたのは動物頭の二足歩行の生き物だった。ここでシルバニア・ファミリーのようなファンシーな代物を想像してはいけない。もっと気持ち悪いやつだ。そいつらの目は血走り、口は耳まで裂けていた。忙しない呼吸、口元から垂れ流されるよだれ――吐き気がする。
やつらは俺を発見すると、何も言わずに手を引き、テーブルへと案内した。パーティに招かれたのだ。小柄なそいつらに周りを囲まれ、なすすべなく俺は椅子に座った。座席の真向かいに座っているのは、ジャック・オー・ランタン――そして、朝見た夢につながるというわけだ。
初めてこの断続的な夢を見たのは五年前。少しずつ話をつなげながら、夢の物語はつむがれていった。不気味で邪悪な悪夢の世界を。
朝見た夢に聞き耳を立てながら、八木崎係長はうんうんうなずいていた。
「心理学的な見地からみて、この夢は何を表しているんですか?」
俺は尋ねた。
「分からない」
「分からないですって?」
「ああ、分からない。だから面白い。なにか夢って感じがしないんだよ。さっきも言ったけど、連続したストーリーの中に置かれているんだもの、夢ってより〝もうひとつの現実〟みたいに見える」
店内のにぎわいはピークを迎える。自分と同じようなビジネス・スーツ姿の人間ばかりだ。店の立地は、駅から五分の好位置にある上に、青前スカイスクレイパーという街で一番大きなオフィスビルも近くある(俺の務める
「もうひとつの現実ですか。そう言われると、なんかしっくり来るところがありますね」
ジャック・オー・ランタンの恐ろしい両目を思い出す。確かに、あの夢はリアリティがある。現実を思わせるような。
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