三章 秘密の約束(四)なにひとつ負わせない

 千世は侍女を初めとする屋敷の者たちに、番が持つ言霊の異能について尋ねて回った。

 しかし成果ははかばかしくなかった。下男や庭師も、首を横に振るばかりだったのだ。


『なにしろ、番様がいらっしゃらなかったので』


 彼らは決まって、すまなそうにそう言った。

 長老でさえ、詳しいとは言い難かった。


「お前が気を揉まずともよい。祭祀が始まれば、番様には自然とわかるようになっとる」


 長老の家を辞した千世は、門を出たところでうなだれた。

 薄い水色の空では、千切れた綿のような雲が、傾く陽の光を背にして茜色に染まっている。日暮れが近かった。鱗雲の空気もぐっと冴えた気配を帯びる。


 蜻蛉がどこへ行こうというのか、薄翅を広げあちらこちらへと進路を変える。まるで千世自身のようだ。まっすぐ飛びたいのに、それができない。

 家々では夕食の支度中らしく、香ばしい匂いが漂ってくる。

 里の子らに誘われて出掛けた美耶も、銀牙に連れられて屋敷に戻っているころだろう。屋敷へ戻るべくとぼとぼと川辺まで歩くと、春乃と行き合った。


「足元が暗くなりますから、お迎えに参りました」


 春乃は手に行灯あんどんを提げていた。あたたかな明かりが、足元をほのかに照らしている。


「ありがとう。美耶は?」

「お戻りですよ。よく遊ばれたようで、今は眠っておられます」


 美耶の様子を思い浮かべて苦笑する。千世は春乃と連れ立ち、薄暗くなり始めた山道を上った。葉擦れの音に入りまじって、草履ぞうりの音が響く。

 祭祀直前の独特の雰囲気のせいか、鱗雲全体の空気が張りつめているように思う。

 刻々と色を深めていく空の下、行灯の明かりが揺らめく。

 そのさまは千世に、魂蛍を思い起こさせた。


「いよいよ明日は魂送りだけど、魂蛍を見かけないね」

「漣様が祭祀の通達をなさり、ほかの魂蛍も鱗雲にやってくることができるようになりましたから、魂蛍も明日には集まりますよ。それに、気の早い者はほら」


 春乃が指差した茂みには、拳大の魂蛍がいくつも浮遊し明滅している。

 それらはあるいは、夏祭りの夜店で見かける色鮮やかなヨーヨーが、あたかも内側から淡く発光しているかのようだった。


「あれが魂蛍? 美耶と見たものと色が違う」

「魂蛍は、日が経つにつれて色が変化するんですよ」


 常世にきて日の浅い魂蛍は、現世の蛍と似た単色の光を放つ。しかし徐々に、鮮やかな色が足されていくのだという。

 魂送り当日ともなれば、里は集まった魂蛍で百花繚乱ひゃっかりょうらんの様相を呈するらしい。


「ひとつとして、おなじ光はありません。生前の記憶が発光しているんです」

「だから鮮やかなんだ。春乃は詳しいね」


 そういえば、銀牙も魂送りの詳細を春乃から聞いたと言っていたのだった。千世は心がはやるままに春乃をうかがった。


「魂送りのときに番が異能を使うと聞いたんだけど……具体的になにをするのか、春乃は知っている?」


 千世は茂みでたわむれる魂蛍に手を伸ばす。

 ひとつが千世の手のひらの上に移り、淡い光を放った。


「心配なさらなくても、難しい祝詞のりとを口にする必要はありません。お気持ちをこめて魂の門出を言祝いでいただければ、魂は浄化されますよ」


 知りたかった情報が得られそうで千世は浮き立ったが、それもつかのまのことだった。


「想像がつかない……浄化って?」

「それはご覧になれば、おわかりになりますよ」


 千世が手の上の魂蛍に目を落とすと、春乃が行灯を近づけた。魂蛍は風に漂う風船さながらゆっくりと飛んでいく。

 夕闇に鮮やかな花が咲いては消える。現世では見られない存在だ。それこそ、言霊がなければどうにもできない。


「失敗したらどうなるの? 美耶が、魂を言祝ぐことができなかったら」

「そんな、あり得ませんわ」

「でも、教えて」


 千世が食い下がると、春乃は黙考したのち、ためらいがちに口を開いた。


「番様の言祝ぎがなくとも、先触れ様がいらした以上、祭祀は行われます。ただ漣様には言霊のお力はありませんから、おそらく漣様は魂の浄化と引き換えに……いえ、やはりあり得ません」 


 春乃がなにか言いかけたが、すぐさまかぶりを振る。だから、それ以上尋ねるのははばかられた。


「美耶様が龍王様の大事な番でいらっしゃることには変わりません。美耶様に危険が及ぶことはありませんよ」


 千世の質問が美耶への心配から来るものだと思ってか、春乃は千世を安心させるように言う。だけど千世はまったく別のことを考えていた。

 鱗雲にようやく現れ、先触れを見つけた番を、正面切って批判するのは難しいだろう。なにかが起きたとして、不安も不満もぶつけやすい相手に向かうはず。

 ちょうど鱗雲には、番でもないのに結界を越えた、凶兆という格好の標的がいる。


「つまりもし不備があれば、批難はわたしに集中するのね?」

「そうならないように、私たちもできるだけ――」

「ううん。美耶が責められなければ、それでいいの。美耶にはなにひとつ負わせない覚悟で、始めたことだから」


 覚悟を決めたつもりで諦めきれずに足掻あがこうとした自分を、いよいよ捨てるときが来たのだと思うしかない。

 だけど美耶に関してだけ諦めないで済むなら、いい。叶うなら、千世が罰せられても美耶には健やかでいてほしいけれど。

 春乃が物問いたげにしたが、千世はなにか言われる前に歩みを再開した。

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