二章 龍王(五)ほんの少しだからな

 美耶を龍の妻になんて、現実離れしている。

 断る以外の返答はなく、今すぐふたりで現世に戻るべき。

 そう思うのに、千世は漣の申し出から一週間が経っても返事を口にできないでいた。


(だって、戻ったところで誰も……美耶を守ってくれない)


 千世は美耶とふたりだけの朝食の場で、青菜の汁物を口に運びながら思案する。

 美耶の両親は顔も見せず生活費も渡さない一方で、千世が外で働くことを禁じた。開陽家や病院の外聞のためだ。

 どのみち、家政婦にも預けられない現状では、幼児をひとりで家に置いておくことなどできない。

 その状況は、現世に戻ったところで変わらないのが目に見えていた。

 千世だけでは、美耶にじゅうぶんなことをしてやれない。


(美耶を、またあの失望と無関心のなかに戻すの?)


 その上、隻眼の男のこともある。もしまたあの男に見つかったら、今回のように逃げおおせるのは至難の業だ。

 一方で龍王の妻として鱗雲に残れば、美耶の安全は保証される。


 しかも漣の申し出は、美耶に婚姻を強要するものではなかった。千世らには選択肢が提示されていた。

 なによりその姿勢が、誠実だと思った。


(ここに留まるには……この嘘をつき通すしかない。でも、美耶の痣はいずれ消えてしまう。どうしよう)


 痣が消えればどうなるか。想像するだけで、冷気が足元から這いあがる心地になる。

 現世に追い返されるだけならまだいいけれど、どう罰せられてもおかしくないのだ。


「チセぇ、ホネとってぇ」


 漣はあの日以降、食事の席に顔を見せない。

 侍女たちによればまつりごとに忙しいようだが、その言葉の端々からは、美耶がまず鱗雲に慣れるようにという漣の配慮がうかがえた。


「チセぇー?」

「あっ、ごめん。お魚ね」


 千世は塩を振って焼いた川魚の身をほぐしてやる。

 川魚の身は淡泊ながらふっくらとして、ぱりっと焼かれた皮のほんのりとした苦みとよく合った。美耶も忌避感を見せず口に運んでいる。

 左右の耳の高さで小さくお団子にまとめられた頭が、咀嚼そしゃくに合わせて揺れる。春乃が結ってくれたらしく、美耶は気に入って何度も触っていた。


「美耶は、ここをどう思う? おうちとどっちが好き?」

「んとねぇ、おうちー」

「そっか、そうだよね……」


 どんな両親であれ、美耶にとっては唯一の家族。比べるまでもない質問だったと千世は反省したが、そういう意味ではなかったらしい。

 美耶はご飯を口いっぱいに頬張り、もごもごさせてから続けた。


「ベッドのほうがいいー。あとねあとね、キモノをきるとき、じっとするのがタイヘンなの」

「それはきっとすぐに慣れると思うよ?」

「じゃあ、こっち。ハルノが、かわいいカミガタにしてくれるもん。チセも、ここならパパやリョコさんにおこられないもん」


 美耶にとっては現世もここも大差ない事実に、胸がつまった。同時に、鱗雲での暮らしに嫌悪感のない美耶の様子にほっとする。

 それに養父や、美耶がリョコさんと呼ぶ家政婦と千世の関係に気づかれていたとは。

 罵声ばせいが飛びがちな彼らとの話は、美耶の耳に入れないよう注意していたが。意外とひとをよく見ている。

 美耶なりに、千世を気にかけてもいたのだろう。

 なんともいえない気分になったとき、縁側に通じる障子が威勢よく開いた。


「番の御方がこちらにいると聞いて来たが!」


 千世より拳ひとつ分だけ背の高い少年が、足音も荒く部屋に入ってくる。

 人間でいえば、十三、四歳くらい。眼光はらんらん々として鋭く、平穏よりも戦いを好みそうな雰囲気がある。鈍色にびいろの着物に包まれた体はしなやかで、今にも駆け出しそうに見えた。

 突然の闖入者ちんにゅうしゃにたじろいだ千世だったが、すぐに少年のふつうではない姿に目をみはった。


 少年の短髪は、朝日を浴びた新雪のようにまばゆい白銀色をしていた。吊りあがった目の上、太く一直線に引かれた凛々しい眉も白銀だ。

 けれど、もっと驚くべきは。


「わんわん! わんわんだぁー!」


 顔を輝かせた美耶が、千世を押しのけて少年に駆け寄った。それもそのはず、少年の尻にはいかにも触り心地のよさそうな白銀の尻尾がついている。


「俺は白狼はくろうだ! 犬畜生と一緒にするな」

「わんわんだもん! しっぽあるもん!」


 白狼という言葉に驚く千世をよそに、美耶は今にも尻尾に飛びつこうとする。しかし少年は左右にとびすさって回避した。

 千世は慌てて美耶を捕まえる。ふたり分の自己紹介をすると、少年が愕然とした。


「この小っこいのが、漣様の番? いや、人間なんてすぐでかくなるものだが……」

「ねぇ、わんわんのおなまえは?」

「わんわんじゃねえわ。俺は漣様の側仕えの銀牙ぎんがだ。あのかたをもっとも近くでお支えする、名誉ある職を授かっている」


 口の悪さと裏腹に、漣への忠義の厚さと誇らしさがうかがえる。千世は時代劇に出てくる武士を連想した。


「銀牙様ですね。美耶もわたしも、漣様にはとてもよくしていただいております」

「ねぇ、わんわんはいくつ? ミヤはねぇ、ミヤはねぇ、えっと……」

「わんわんだの、ミャーミャーだの、好き放題に鳴きやがる。俺はミャーより軽く百年は生きてるぞ」


 千世が挨拶するそばからまとわりつく美耶に憤慨するわりに、銀牙は質問に対して律儀に答えている。憎めない少年だ。

 千世たちよりはるかに年上と知っても、傍目はためには美耶と兄妹のようである。


「よもや漣様の奥方が、こんな子猫だとは」

「いえ、美耶もわたしも人間です」

「今のは言葉のあやだが?」

「失礼しました……!」


 とんだ勘違いだ。両手で顔を覆った千世に、銀牙が胸をそびやかす。


「ははあ、あんた生真面目なんだな。だがあんたに、漣様の申し出を保留する権利はないぞ。あのかたが求めているのは、こっちの猫だけだからな」

「知ってます」


 念を押されなくても、理解している。偽とはいえ痣がある美耶とは違い、千世にはなにもない。

 と、銀牙の険しい表情に気づいたのか、美耶がしおれた顔で彼の着物の袖を引いた。


「ミヤは、わんわんのほうがスキぃ。わんわんのピンは、なくなっちゃったけどぉ……」

「はあ、ぴん? いや、待て、泣くのか? 泣く気なのか!?」


 銀牙がうろたえた。美耶の前をうろうろして、なだめすかす。ついには自分の尻尾を美耶に差し出した。


「少しだけだ。いいか、ほんの少しだからな?」

「わんわんのしっぽだぁ!」

「おい、掴むな。そっと撫でるだけにしろ! あと俺は白狼だ、銀牙と呼べ!」


 なんだかんだ言いつつ、銀牙は美耶の遊び相手になってくれている。本人は思いきり顔をしかめているけれど。

 なにより、美耶のはしゃぎようは滅多に見られないほどだ。


 その笑顔を見て、千世は心を決めた。

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