一章 幼子と少女(三)なにがあっても守る

 胸まで下ろした艶のない髪が乱れる。着古して生地が伸びきったTシャツも、一年じゅう履いて裾の擦れたジーンズも、雨を吸って泥のように千世の肌にまとわりついた。

 肩から斜めがけしたナイロンバッグが、千世が走るのに合わせて太ももを叩く。傘に収まりきらなかった肌に、冷たい雨が打ちつける。

 うなじの毛が逆立つ。ぜいぜいと喘ぐ音が、やけに大きく鼓膜を叩く。

 美耶と繋いだ手が震えだす。美耶を怖がらせまいと、千世は意志の力を総動員して震えを抑えこんだ。


 十一も年下の幼子を連れては、そう早く走れない。それでも千世は美耶と急ぎ足でいくつも角を曲がる。男から少しでも離れなければ。


(美耶だけは、なにがあっても守るんだから……!)


 千世は美耶がぐずり始めても手を引き続ける。開店前の居酒屋の軒下から辺りを窺うころには、ふたりとも息が上がっていた。


「チセぇ、つかれたー」

「そうだよね、ごめんね。もうちょっとだけだから、頑張って」


 雨はいくらか小ぶりになっている。差していたはずの傘は、どこかで落としたらしかった。

 千世は荒い呼吸を懸命にととのえながら、美耶の濡れた肌をハンカチで拭う。


(あの男は……いったい何者なの?)


 なぜ、美耶に痣をつけたのだろう。

 千世たちの前にふたたび現れたのは、偶然だろうか。「やり直さねば」と言っていたあの言葉と、関係があるのだろうか。

 もしも捕まったら、どうなるのか。


 想像するだけで身がすくむ。

 細い路地に並ぶ居酒屋はいずれも開店準備中らしい。雨にまじって、かすかに油の匂いが漂ってくる。黒い服を来た青年が現れてぎくりとしたが、青年は千世らを見やるだけで居酒屋のひとつに吸いこまれていった。

 つい今しがたまで大雨だったからか、ほかに人気はない。

 ふたりを追うような足音もない。

 千世はようやく大きく息をつき、美耶の手を繋ぎ直した。


「チセぇ、まだはしるのぉ? おうちかえろうよぉ」

「うん、そうだね。美耶、鬼ごっこはわかる? 鬼さんに捕まらないように逃げる遊び。今日は鬼ごっこをしながら帰ろうね」

「オニさんにつかまったらどうなるの?」


 千世は自分に言い聞かせるように、声に力をこめた。


「捕まらないよ。わたしが、ぜったいに美耶を捕まえさせない」

「わかった! ミヤ、がんばる」


 千世は安心した様子の美耶を背負い、いつのまにか潜っていたらしい線路下のトンネルを琵琶湖側へと戻る。


 開陽の家へは、バスなら十分弱で着く。

 普段は遠出をする機会もなく、節約のためもあってバスは滅多に利用しない。けれど、今日ばかりはそうは言っていられなかった。人目のあるほうが危険も少ないはず。

 しかしロータリーに出た千世は、目を疑った。隻眼の男が、なにかを探すようにしてロータリーをうろついている。

 千世はとっさに美耶を背負い直し、踵を返した。重い足を引きずり、肩で息をしながら、ひたすら遠くへと足を向ける。


(いっそ、大きな声を上げる? そうすれば誰かが助けて……)


 頭をよぎった考えを、千世はすぐに否定した。追われている気がするというだけでは、誇大妄想だと思われるのがオチだ。

 たとえ運良く保護されたとして、養親からあとで受ける仕打ちを思うと身がすくむ。千世はともかく、美耶がなにをされるか。


 千世はけっきょく、「子ども110番の家」というステッカーの貼られたクリーニング店を素通りする。助けを求める声は出せなかった。


「鬼さんに追いつかれる前に行こう」


 横断歩道を渡り、コンビニや銀行の並ぶ駅前のアーケード街も足早に通り過ぎる。

 新幹線も特急も停まらない駅前の街は平日昼間の長閑のどかさも手伝い、少し離れるだけで人通りもめっきり少なくなった。

 どう走ったかもわからない。背負うのに限界がくれば美耶を下ろして手を繋ぎ、美耶がへたりこめばふたたび背負う。呼吸はますます浅くなり、会話もままならない。

 そうこうするうち、千世たちは人気のない一本道に入りこんでいた。


(ここ……どこ? うそ、迷った?)


 道はゆるやかな上り坂だった。車が一台通るのがやっとという幅の両端には、ところどころ苔むした石灯篭いしどうろうが等間隔に並んでいる。

 舗装された道は、途中から石段に切り替わった。その石段を挟むようにして、木々が空を突いている。


 見たことのない場所。

 雑多なものが混在する街の匂いとは異なる、濃い緑の気配が鼻腔に流れこんでくる。空気の密度が違う。

 千世のTシャツの裾に、美耶がしがみついた。


「わたしがいるから大丈夫。なにがあっても、なんとかするからね」


 千世は呪文のように「なんとかする」と繰り返す。そう、自分がなんとかしなければ。ところが美耶の頭を撫でた千世は、来た道をふり返って息をのんだ。


(どういうこと……?)


 上ってきたはずの道が忽然こつぜんと消えている。

 代わりに、眼下には厚い霧の絨毯じゅうたんが広がっていた。まるで、山の上から下界を見おろしたかのように。


 くしゃみの音がして、千世ははっとした。雨の中を傘も差さずに歩き続けているのだ。このままでは美耶が風邪を引いてしまう。

 迷ったのは一瞬で、千世はふたたび美耶を背負い雨に濡れた石段を上る。

 今はとにかく、逃げきるのが先決だ。ふたりで逃げられなくても、美耶だけでも安全な場所へ連れていかないと。

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