第5話 リタイアを決めた日
私がこの世界に転生し、霧の魔女として
今は何度か目の引っ越しを経て、国の中心地から遠く離れた深い霧に閉ざされた辺境の森に住んでいる。
私は、今、二十五歳。
あれから生活できる程度に魔女の仕事をして、時折くる消えてしまいたい衝動に耐える日々を送っている。
何度か本当に実行しようとしたけれど、どれも上手くいかなかった。
これはもう自分で人生を終わらせることができないのだなと諦めて、今日まで生きてきた。
だけど今でも、一人暮らしの部屋のクローゼットの奥には、いつでも使えるようにロープがくくられている。
ゼノとはあれから普通に話せる程度にはなったが、一緒に暮らしていた時ほど親密ではなくなった。
そもそも彼は魔術師・魔女の統括業務があるため、異世界から来た私の監視業務のために時々様子を見に来る。
「ちゃんと毎月報告書も提出しているし、こんなところまで来るのも大変だろうから私が呼ぶまでこなくていい」と言っても、彼は「そういうことではない」と突っぱねる。
それならば物理的に来にくくしてやろうと、どんどん遠くに引っ越してこんな辺境にまで来てしまった。それでもやはり、月に1回は業務のため私の元へ来訪した。
来れば茶ぐらい出して、報告書の内容を説明したり、彼からの質問に答えたりするだけで、関係はそれ以上でもそれ以下でもない。
彼の行動や言葉の奥に、私への独占的な気持ちが潜んでいることには気がついていたけれど、私は気がついていないフリを続けた。ゼノが帰ると、森の精霊たちが私のことを見透かしたかのように「霧の魔女は淋しい人ね」と、クスクス笑うのが聞こえる。
転機が訪れたのは、消えてしまいたいという強い衝動に耐えるためベッドで泥のようになって眠った次の日だった。
ポストに政府からの定期の健康診断の結果が届いてた。軽い気持ちで開封した書類の、「要精密検査」の文字に、私の心臓は嫌な音を立てた。
そして、内容を詳しく読み進め、その原因を知る。
体内に蓄積された「瘴気の残留濃度」が、治療を要する水準を大きく超えていた。
「ああ……またこれか。」
思わず口から漏れたのは、呻きというより、静かな確認の言葉だった。
瘴気を浄化することを生業としている魔女にとって、体内に瘴気が蓄積することは宿命だ。
精霊たちと協力して瘴気を浄化し、世界の平和を維持する。その職務の代償として、浄化した瘴気の一部分を体に取り込む。
誰もがこの職業病のことを『魔女の毒』と呼んだ。
この転生先の世界では非常に魔法医療がすすんでいる。そのため、この病は早期に治療すれば死に至るものではない。治療を施せば、ほぼ治る。治療を施せばの話だ。放置していると普通に死ぬ。
実際のところ、私も一人暮らしを初めてすぐの頃にそれまで馬車馬のように働いていたツケからか、健康診断でこの数値に引っ掛かり治療を受けたことがある。治療事態も全く辛いものではなかった覚えがあるが、1ヶ月は医療院で入院生活をすることになるので非常に退屈だった。
健診結果通知書には、すぐに王都の医療院へ向かうよう指示されていた。
面倒だし早めに済ませてしまおう。
明日にも準備を整え、馬車を出すか……。
そう考えて私はカレンダーの前に立った。
しかし、私はカレンダーを見つめたまま、ふと立ち止まる。
「……別に、治療しなくてもいいんじゃないか。」
その考えは、泥沼のように、私の心に深く沈み込んだ。
治療を拒否すれば、やがて私は静かに死を迎える。
それは、誰のせいでもない、職務の過酷さによる不可避の結末だ。
合理的に私はこの人生からリタイアできる。
浅はかで、身勝手な誘惑だと分かっている。
だが、誰にも理解されない孤独の中で、私はもう、生きるための気力を絞り出せなかった。
これでいい。私は、心の中で自分に語りかける。
それにさっさと死んでいなくなれば、今も私を不器用に気にかけてくるあの氷の公爵を、解放してあげられる。私自身も、解放される。
私は、届いた診断書を丁寧に二つに折り、暖炉の熾火へと静かに滑らせた。
パチリという小さな音と共に、紙の端から炎が這い上がる。
今すぐ死ぬわけではない。自覚症状も全くない。
本当に死が怖くなったら、その時に王都へ向かえばいい。
そう決めたときの、鏡に映る私の目は、血走っていたわけではない。 ただ、酷く凪いでいて、もう何も映さない水面のような、そんな目をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます