第33話 第一章(続き)

 猫用リンスの入った湯桶につけられて、ボーッとしていたオレの耳には、ボクちゃんが再び扉を薄く開けて叫んだ声が突き刺さった。狭い空間で叫ぶなっつーの。

「お父さーん、洗い終わってバケツにつけたよ~。リンスも入れたよ~」

 オレは漬物か! なんて突っ込みを入れる気は途中で失せた。気持ちいいのにゃ。


 温かいお湯に立ち上る爽やかなリンスの香り。何とも極楽気分なのだ。まるで満点の星空の下、温泉に浸かっているようだ。これぞ天国にゃ~ふぬう

 更に昇天している(死んだわけじゃないぞ)と、リビングからお父さんが洗面所に入って来て、棚の引き戸を音もなく開く気配がした。


 ガタピシしないとは引き戸の進化版?……この家に引き戸が多いのはスペースを考えてのことかもしれないけどなあ。はにゃぁ、温くてぽやんとしつつどうでもよいことを考えていると、がさがさ何かを取り出す気配だ。

「タオル出すからちょっと待ってて……よいしょっと」


 引き戸の曇り硝子越しに、お父さんの影がしゃがんでタオルを広げている様子が透けて見えた。マジ? な、なんか、オレ、特別扱いじゃね?

「いいよー、出して」

 お父さんの返事があると、直ぐに、ボクちゃんがオレをバケツから取り出した。


 持ち上げられた正面に風呂の鏡があって、何かちょろりとしたものが映っている。ありゃ、コ、コレは一体何だ? ま、まさかのオレか? イタチのごときスタイルに、ちょっとばかりショックを受けた。はずだが、風呂場の床に置かれた途端、はうっ、オレは本能で体を左右に振っていた。 

 ぷるぷるぷるっ。しゅぱぱぱぱっ


「わー水滴がいっぱい。いつもよりすごいよー」

「肌まで濡れちゃったのかな? 振るの止めたら、扉を開けて」

「はーい……あ、もう終わったから出すね~」

 振ったところで、しっとりと情けない姿にはあまり変わりがなかったけどな。


 生きている頃は気を付けても気を付けても、筋肉が緩くなり腹が出てきたが、今のオレって案外痩せているのね……それはいいけど、マジでイタチみたい。くすん。風呂場に鏡って残酷だよな。くすん。考えたこともなかった衝撃がじんわりとオレをいたぶるが、一方で何を気にしてんだかと馬鹿らしく思うオレもいたりして……


「ありがと。オマエも肩まで浸かって30数えなさいね」

 などと言われているボクちゃんに、風呂場の外へと押しやられると、しゃがんで待っていたお父さんがバスタオルにきゅっと包み、やわらかく押すように拭き始めた。マジで気持ちいい……気分は王様か有閑マダムか、寧ろ赤ちゃんか。イタチ姿に凹んでいたのは誰だったのか、すっかりご機嫌さんだ。


 ほへー、ごしごし拭かれても気持ちいいなんて~なんてこった。

 水分をバスタオルで粗方ふき取ると、お父さんは洗面台に備えてあったドライヤーを手に取った。ほほう、次は乾かしてくださるわけね。オレはドライヤーの風に吹き飛ばされないように、両足を踏ん張って来たるべき暴風を待った。


 ところが、ここでもお父さんの優しさにジーンとしてしまった。直接強風が当たらないようドライヤーの吹き出し口に片手をかざして、風量を調節してくれている。いやあ、出来たプロの美容師さんのようである。

 ふぬう、夢見心地のオレ……にゃは~ん


 うん、何と言ってもお父さんは偉大だ。お父さんエライ、お父さんすごい、お父さん優しい。全部ニャアニャアだが、褒め倒す。影が薄いとか前言は早速撤回だ。オレの代わり身の早さは元からだ。誰かに非難されるでもなし、ちっとも気にならんぞ、ふんす。


 家庭内地位が低かろうが影が薄かろうが(ヒドイ⁉)、そっと両手で包むようなこの優しさは、はーたまらん。ええ人や~。ボクちゃんにとって頼りになる猫になろうと思っていたが、〈おとん〉には絶対勝てない気がするな。特に勝ちたいわけじゃないけどな。ふむう


 たかが風呂されど風呂。もしか、家人の優しさが沁みているのかもしれない。

 生前のオレは、意識を飛ばしてしまうぐらいおかしくなっていた。けれど、傷だらけで凍えた心は、いつの間にか温かくほぐされ、柔らかく包まれていた。



続く

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