黎明事変

由良ゆらら

黎明事変 増補版(完結編)

序章「邂逅」


――光が、皮膚の下で鳴っていた。


痛みも声もなく、ただ世界が裂けていく。

空気の境界がほどけ、骨の奥から赤い光が滲み出す。

それは炎でも血でもない――生きている光。

世界の裏側から呼吸のように脈打ち、彼女の体を内側から照らしていた。


指先を伝うのは、血ではなかった。

光だった。

爪の縁で震え、世界の輪郭をひとつずつ撫でていく。

触れるたびに音が消え、街の色が沈んでいく。


――見えてしまう。


目を閉じても、世界の“余白”が焼きついて離れない。

誰かの叫びが、風のように耳を掠めた。

それが他人の声か、自分の声かも分からない。


光は赤から白へ、そして灰へ。

まるで世界が、ひとつの息を吐くように崩れていく。

その奥で、微かな鈴の音が鳴った。


――怖いの?


誰かが問う。

それは耳ではなく、血の奥で響いた。


――壊れるのが、怖いの?

 それとも、“壊してしまう”ことが。


声とともに、胸の中で何かが弾けた。

世界の形が裏返り、視界が光に呑まれる。


赤光が走る。

時間が止まり、息が燃える。

その瞬間、紅は――笑っていた。


――怖いのに、嬉しかった。


世界が崩れていく音の中で、

胸の奥に、かすかな鈴の残響だけが残った。


光が音に変わり、音が風に、風が肌に触れる。

現実が戻ってくる。


最後に、鈴の音がひとつだけ鳴った。


紅は、静かに息を吐いた。

光の余韻が皮膚の下で脈打っている。

その温もりの中で、遠い記憶が微かに浮かんだ。


――あの夜、夢の中で誰かが言った。


「呼ばれたのは、君だから。」


今になってようやく、その意味を理解する。

世界は、確かに自分を“呼んだ”のだ。


だが――それは、望んでなどいなかった。

こんな呼び声なら、永遠に聞こえないままでよかった。


紅は掌を見つめた。

そこには、まだ微かな光が残っていた。

指先が震える。

胸の奥で、世界が静かに息をしている。


それが救いではなく、逃れられない“呼び声”だと、

彼女はようやく知った。


――――――


――――


――



崩れた光の残響が、ゆっくりと靄に変わっていく。

白とも灰ともつかない粒子が、目の前で漂っていた。

空気はまだ夢の中にあり、重力さえ曖昧だった。


世界は静かに呼吸していた。

吸うたびに、遠くで鈴の音が微かに揺れる。

吐くたびに、光が一筋、頬をかすめて消える。


靄の向こうに、ひとりの少年が立っていた。

幼い面立ちに、額から伸びる角。

その瞳は、赤い光を閉じ込めたように揺れていた。


私――神原紅は、息を呑んだ。

彼を見た瞬間、夢と現実の境界がひとつに溶けた気がした。

世界が誰かに“観測されている”感覚――

それが、懐かしさとして胸に広がっていく。


「ようやく、会えたね。……紅。」


その名を呼ばれた瞬間、

世界の靄が微かに震えた。


自分の名が、音のない世界で響く。

それは言葉というより、息に近かった。


「……だれ?」


紅の声は、自分でも知らないほど小さく震えていた。

夢の中だと分かっているのに、胸の奥が痛い。


「名乗る必要はない。呼ばれたのは、君だから。」


少年は笑った。

その笑みは、哀しみよりも静かで、どこか遠いものに似ていた。


「呼ばれた……?」


「そう。君の中で、世界が目を覚ましたんだ。」


その言葉に、紅は息を止めた。

自分の体が何かを覚えている――そんな錯覚がした。


「私が、世界を……?」


「君は、見えるんだろう? 誰も見ようとしなかった“余白”を。」

「見てしまった世界は、もう、ただの現実じゃない。」

「それでも、見ていい。」


その声が、靄の奥に溶けていく。

言葉の一つひとつが、遠い鈴の音のように胸に残った。


紅は答えられなかった。

声を出せば、何かが壊れてしまう気がした。


「……あなたは、だれなの。」


「君が“───”とき、きっと思い出す。」


少年の輪郭がゆらぎ、光の粒にほどけていく。

その姿は風のように儚く、世界の呼吸に溶けた。


風が吹いた。

髪が揺れ、耳元で鈴の音が鳴る。


世界が、ゆっくりと呼吸をはじめた。



目を開ける。

白い天井が、曖昧な光を返していた。

窓の外では鳥が鳴いている。

けれど、その声もどこか遠い。


夢だった――

そう思おうとしたが、胸の奥にまだ熱が残っていた。


皮膚の下で、黎明色の光がかすかに揺れているような感覚。

それは痛みでも、温もりでもない。

“存在が呼吸している”というだけの事実。


紅は手のひらを見つめる。

夢の中で光を掬った指先は、もう何の跡も残していなかった。


紅は手のひらを見つめた。


夢の中で光を掬った指先は、もう何の跡も残していなかった。


胸の奥に、あの声が微かに蘇る。


――*「呼ばれたのは、君だから。」*


その響きが、まだ耳の奥に残っている。


何かを思い出しかけて、紅は首を振った。


あの言葉の意味を考えようとすると、胸の奥がざらりと痛む。


「……呼ばれたのは、私……?」


呟いた声が、空気に溶けて消えた。


それが自分の声なのか、夢の残響なのかも分からない。


枕元の風鈴が、小さく鳴った。

ひとつの音が部屋の空気を撫でて、すぐに消える。


夏の風ではなかった。

どこか、夢の中と同じ鈴の音。


紅は机の上の時計を見た。

秒針が正確に進んでいる。

なのに、時間そのものがまだ目を覚ましていないように感じられた。


鏡の前に立つ。

髪を梳かす手の動きが、自分のものではないように思えた。

どこかぎこちない。

そして、鏡の奥に映る瞳の色が一瞬だけ揺らぐ。


赤い光の欠片が、瞳の底に残っていた。

それは夢の名残なのか、それとも――。


紅は目を伏せて、息をひとつ吐いた。

「……行かなくちゃ。」


鞄を手に取る。

ドアを開けた瞬間、冷たい風が頬を撫でた。

それは現実の温度だったはずなのに、

どこか、夢の延長のようにも思えた。


靴音が廊下に響く。

音があることに、少しだけ安心した。

音が在る――それだけで、今は現実だと信じられた。


玄関の扉を開ける。

朝の光が、霧のように流れ込んできた。


外は白く、世界がまだ息を整えている。

紅は一歩、坂道へ踏み出した。



――朝霧の坂道。


街の輪郭がまだ眠っている。

家々の影は霧に溶け、遠くの笑い声が白い空気の中へ消えていった。


紅はひとりで歩いていた。

同じ制服を着た生徒たちが、霧の向こうで列をつくる。

誰もが同じ方向を見て、同じ速度で、同じように笑っている。


その光景の中で、自分だけが――

一歩ずつ、違う時間の上を歩いているような気がした。


みんなと一緒にいる。

それなのに、耳に届く音が、少しだけ遅れて聴こえる。

笑うタイミングが、ほんのわずかに合わない。

言葉を出す前に、空気が冷めていく。


その“少し”が、紅を世界の外に押し出していく。


(目立たなければ、気づかれない。

 誰も、このズレに気づかない。)


紅は無表情のまま、隣の生徒と歩調を合わせた。

その小さな努力が、いつのまにか習慣になっていた。


孤立するのが怖いのではない。

見透かされるのが、怖いのだ。


自分の内側にある、他人とは違う“音”――

それを知られることが、何より恐ろしい。


信号が青に変わる。

周囲の人々が一斉に歩き出す。

紅もそれに倣って足を動かす。


その瞬間、視界の端で、世界がわずかに歪んだ。

看板の文字が整列しすぎている。

建物の影が、同じ角度で傾いている。


(……まるで、誰かがこの世界を設計しているみたい。)


胸の奥で、何かが跳ねた。

振り向いた先に、人影。

制服を着た誰か。けれど――顔が、ない。


瞬きをした瞬間、その姿は朝靄とともに消えていた。


世界が息をひとつ吸い込む。


紅は歩みを止めずに、そのまま坂を下りる。

空の奥で、鈴の音が微かに響いた。


(……あの声が、まだ残ってる。)


“*呼ばれたのは、君だから*”。


私は、その呼び声に――応えるのだろうか。


風が吹く。霧が割れ、朝の光が差し込む。


その光は、どこまでも優しく――

それでいて、どこか冷たかった。


紅は目を細めた。

まるでその光が、

世界という名の瞳に見つめられているような気がして――。


------

第一章「理」

ざわつく教室の空気は、朝の光よりも少し重かった。


その“重さ”の正体を、紅は知っていた。


夢の残り香がまだ、世界の隙間に息づいている。




黒板のチョークの粉が乾ききらず、


窓の外の風がそれを微かに揺らしている。


その音さえ、何かを囁いているように思えた。




紅はいつもの席に座り、


ぼんやりと机の木目を見つめていた。


周囲のざわめきは遠い。


隣の席の女子が、前列の男子と声を潜めて話している。


「また出たんだって。駅前の通りで、倒れてた人。」


「え、また? 眠ったままの?」


「そう。三日も起きないんだってさ。


 でも、息はしてるらしい。……夢でも見てるのかな。」


誰かが笑う。


けれどそれは、怖さを隠すための笑いだった。




紅は窓の外に視線をやる。


空は雲ひとつなく晴れているのに、光の粒が妙に濃く、


ひとつひとつが違うリズムで揺れていた。


眠り……夢……。


あの夜の光景が、ぼんやりと頭をよぎる。


胸の奥がわずかに冷えた。


鈴の音の残響が、ふと、記憶の底から顔を出す。


(――呼ばれたのは、君だから。)


夢の中の声が、一瞬、教室のざわめきに重なった気がした。


その瞬間、紅は自分が“見られている”と感じた。


窓の外の光が強すぎて、景色のほうが紅を観察しているようだった。




息が詰まる。


けれど、誰も異変に気づかない。


皆、いつも通りの朝を生きている。


担任の声が響いた。


「今日から転校生が来ている。――入りなさい。」


教室のドアが開く。


その瞬間、ざわめきがぴたりと止まった。


ひとりの少女が立っていた。


淡い栗色の髪を後ろで束ね、琥珀色の瞳が光を吸い込む。


立ち姿がまっすぐで、どこか厳かな雰囲気を感じた。


「蓮見澪です。よろしくお願いします。」


その声を聞いた瞬間、


紅の胸の奥で何かが微かに応えた気がした。


まるで、夢の中で聞いた“呼び声”が現実に形を持ったように。




澄んで、柔らかくて、それでいて触れられない。


その綺麗すぎる響きが、空気を震わせる。


紅の胸の奥で、何かが静かに軋んだ。




蓮見は小さく頭を下げ、空いていた席へ向かう。


教室の空気が静かに戻る。


しかし紅の中では、まだ夢の呼吸が続いていた。


――その日、授業はほとんど頭に入らなかった。


ノートに書いた文字が、自分の手で書いたものとは思えない。


紙の上の線が、世界の輪郭をなぞっているようで、息苦しかった。




放課後。


窓際の光が赤くなり始めたころ、教室に残っていた紅のもとへ、蓮見が近づいた。


「神原さん、だよね。」


「うん……そう。」


「少し顔色、悪いよ。」


「大丈夫。ちょっと、眠いだけ。」


蓮見は頷き、紅の机の上に置かれたノートを見た。


そこには、ゆがんだ線のような数式の断片が並んでいる。


紅が何も言えずにいると、蓮見がふっと笑った。


「この町、少し息苦しくない?」


「……うん。」


「私、ここに来てからずっと胸の奥が重くて。


 空気の中に“何か”が眠ってる感じがするの。」




紅はその言葉に目を上げた。


夕陽が蓮見の頬を照らす。


その横顔は、どこか遠い記憶に似ていた。


窓の外の校庭で、風が止む。


遠くの方で、鈴の音が微かに鳴った。


風はない。それでも音だけが、空気を震わせた。




「お願いがあるの。」


蓮見は、紅を見て続けた。


「明日の放課後、ちょっと付き合ってくれない?」


その声は、夕陽の色のようにやわらかく、


どこか取り返しのつかない響きをしていた。


紅は、その優しく厳かな響きを――拒否する術を知らなかった。







翌日の放課後。


紅は蓮見に校内を案内していた。理科棟の廊下は、日が傾くとほとんど無人になる。


「ここ、少し古いけど落ち着くよ。実験室も使われてるけど、奥の部屋は誰も入らない。」




「静かでいいね。」


 蓮見は微笑んだ。


「……でも、空気が少し冷たい。」


「冬が近いからじゃない?」


「ううん、そうじゃないと思う。空気が“見てる”。そんな感じがするの。」


紅は一瞬、足を止めた。


 “見てる”――その言葉が胸に引っかかる。


夢の中で、あの少年が言った声。


――世界が、君を呼んでいる。


廊下の先、角を曲がったところに、ひとりの女性が立っていた。




黒に近いグレーのスーツ。


白い指先。


眼鏡のレンズの奥の瞳が、どこか光を吸い込んでいる。


彼女が現れた瞬間、空気の層がひとつ増えたように感じた。


世界の奥行きが、ひと息ぶんだけ深くなった。


紅は立ち止まり、蓮見と視線を交わした。


蓮見の瞳にも、同じ戸惑いが映っていた。


誰だろう――見覚えがあるような、ないような。




通り過ぎた生徒の声が聞こえた。


「御影先生、さようなら。」


その言葉で、紅は思い出す。……御影先生。


物理の担当教師だ。けれど記憶のどこかが曖昧だった。


昨日まで確かに見ていたはずなのに、思い出そうとすると輪郭が滲む。




御影玲瓏。


その名を脳裏で呼んだ瞬間、紅の中の空気が、ほんのわずかに震えた。


名前という“観測”が、世界の形をわずかに変えるように思えた。


「転校生さん?」


御影が穏やかな声で蓮見を見る。


「はい。蓮見澪です。」


「そう。あなた、静かな雰囲気ね。」


その声は穏やかでありながら、妙に整いすぎていた。


人間の声というより、計算された音のよう。


御影の微笑みは美しいのに、温度を感じなかった。


「理科棟を案内してもらっていたのね。」


御影の視線が紅へ向く。


「もしよかったら、少し奥の部屋を見ていかない?


 準備室なんだけれど、古い実験資料があって静かで落ち着くの。」


「準備室……?」


紅が反芻する。


自分が言った“誰も使わない部屋”が、脳裏によみがえった。


「ええ。普段は鍵がかかっているけれど、私は許可をもらって使っているの。


 整理も兼ねてね。」




蓮見は一瞬だけ紅を見る。


その目に、ごくわずかな警戒が滲んだ。


紅も息を詰めたが、次の瞬間、なぜか安心した。


――この人の言葉は怖いのに、不思議と拒めない。


「……行ってみようか。」


蓮見が囁く。


御影が微笑み、静かに頷いた。




三人の間を風が通り抜ける。


その風が、何層もの時間を重ねたように鈍く響いた。


御影が先に歩き出す。


靴音が、廊下の奥で小さく反射する。


照明が一瞬だけ明滅した。


蛍光灯が“現実”と“何か”の境界を跨ぐように、微かにノイズを放つ。


紅の視界がかすかに歪んだ。


(……この人。世界の輪郭が違う。)


蓮見の肩が微かに強張る。


二人の呼吸が同期する。


紅は無意識のうちに息を潜め、御影の背中を追いかけた。


その奥に、“誰も使わないはずの部屋”がある。


なのに――


誰かが、ずっとそこにいたような気配がした。







夕暮れの理科棟。


空が橙から群青へと変わる。窓の隙間から入る光が、理科準備室の奥で淡く揺れていた。




棚には使われなくなった薬品瓶と実験器具。


古い計測機がいくつも並び、長い時間の沈黙を吸い込んでいる。


御影はその中に立っていた。白衣を羽織るでもなく、教師というよりは研究者のような佇まい。


机の上の古い観測装置に手を添え、針の微かな揺れを見つめている。




紅と蓮見は戸口に立ち、互いに視線を交わした。


空気が薄い。音がほとんど消えている。


世界がこの部屋の境界だけを残して、息をひそめているようだった。


「どうぞ、座って。」


御影が指で示す。二人は少し緊張しながら椅子に腰を下ろした。


その瞬間、御影は観測装置の横に置かれたスイッチを軽く押した。


――針が一度だけ震え、すぐに静まる。


「こんな時間に話すなら、温かいものがあった方がいいわね。」


御影は棚からティーポットを取り出し、カップを三つ並べた。


湯を注ぐ音が静けさを満たし、琥珀色の液面に細い光が揺れる。


彼女は銀の小瓶を開け、ミルクを垂らした。白が渦を描き、ゆっくりと溶けていく。


紅も、無意識のうちに同じようにミルクを注いだ。


その流れが美しく、理由もなく真似てしまったのだ。


蓮見は何も加えず、紅茶の表面に映る光を見つめている。




「入れないの?」


御影が穏やかに尋ねる。


「……このままが好きです。」


「そう。混ぜると、もう元には戻れないものね。」


御影がカップを口に運ぶ。


紅はその横顔を見つめながら、なぜか胸の奥に小さな痛みを感じていた。


ミルクティーの白が消えていく。


琥珀と乳白の境界はすでに見えない。


――世界がひとつの色になる瞬間のようだった。







「この町、奇妙な現象が続いているのよ。」


御影がカップを置いた。


小さな音が空気を揺らし、それが波紋のように静寂の中へ沈んでいく。


沈黙が、器具の金属よりも冷たく響いた。




「――眠り続ける人たちのこと、知っている?」


紅は小さく頷いた。


「はい。……噂で。息はあるのに、目を覚まさないって。」


「ええ。あれは“眠り”というよりも、意識が世界の外へ滑っている状態なの。」


御影は言葉を選びながら続ける。


「人の心が、現実と“余白”のあいだに引きずり込まれる。


そこに落ちた意識は、どれだけ呼びかけても戻らない。」


御影は言葉を切り、紅と蓮見の表情をゆっくり見渡した。




二人が沈黙するのを確かめると、再び口を開く。


「“理”というのは、世界の構造そのもの。


 人が見ることで形を保ち、人の視線が離れると、輪郭が揺らぎ始める。」


御影は棚の黒板に白いチョークを走らせた。


円を描き、そこに三本の線を重ねる。


「――これが世界の層構造。


 上が“現実”、下が“余白”。


 その境界をつなぎ止めている法則、それが“理”。」




チョークの粉が舞う。


光の中で白がちらつき、まるで呼吸するように揺れた。




蓮見が問いかける。


「つまり、“理”が乱れたせいで、現実と余白の境界が崩れている……?」


「そう。」御影は頷く。


「この町は、とくにそれが顕著なの。


 世界が“見られすぎた”結果、現実の定義が硬化している。


 人の視線、記録装置、監視、観測――無数の“見る”が重なり、


 世界そのものが、自分を守るために硬くなっている。


 その圧力のしわ寄せが、まだ“見られないもの”――余白の方へ流れこんでいる。」




紅が息を詰めた。


「見られすぎた、って……どういう意味ですか?」


「人は、見たいものばかりを“在る”と信じてきた。


 便利さ、記録、合理――見たい現実を増やすほど、世界は確定していく。


 でも“確定”は同時に、“揺らぎ”を押し潰す行為でもあるの。


 だから、押し潰された“余白”が歪みを起こす。」




御影は紅たちに一瞥を送り、薄く笑んだ。


「理の乱れ――つまり、世界が呼吸を乱している。


 それが、この町で起きていること。」


蓮見は黙り込み、服の上から腰を押さえた。


隠された黒革の下のモノがかすかに震えている。


御影の声がその震えを撫でるように続く。




「観測とは、存在の証明。


 でも、見続けることは、世界を削ることでもある。


 私たちは“見たいもの”だけを“在る”と定義してきた。


 ――だから、“見られなかったもの”が、眠りの底で目を覚まそうとしている。」


紅はカップの中を見つめた。


ミルクの白が渦を描き、琥珀に溶けていく。


その境界が、世界の構造のように見えた。


白と金の境が消えて、ひとつの色になる。


(見えない境界を、誰かが見ている。


 私が視ることさえ、その誰かの“観測の一部”なのかもしれない。)


御影は何も言わず、紅の視線の奥を見つめ返した。


その瞳の奥には、光でも影でもない――ただ“観測そのもの”の静けさがあった。







御影の横顔に、光が差す。


紅の脳裏に、靄の中の少年の姿がよぎった。


――世界が、君を呼んでいる。


(あれは、見てはいけないものだったのかな。)


紅茶の香りが静かに薄れていく。


部屋の空気が少しだけ澄んだ。


鈴の音が、遠くで微かに鳴った。




御影の視線が、ほんの一瞬だけ蓮見の腰元を掠めた。


蓮見は気づかないふりをして、紅茶に口をつける。


その手の指先が、わずかに震えていた。


まるで、見えない刃の記憶に触れたかのように。


「――面白いものね。」


御影は静かに言葉を置く。




「人は“祓う”ことで世界の形を守ろうとする。


 異常を否定し、未知を切り離す。


 でも、その行為が積み重なれば――いずれ“余白”は失われる。


 理は、守られすぎて壊れていくのよ。」


蓮見は唇を結んだ。


その言葉のどこかに、刃の冷たさと似た痛みを感じていた。


胸の奥で小さな迷いが静かに息をし始める。




紅はふとカップの底を見た。


白と金が混ざった液面に、自分の瞳が映っていた。


その奥で、何かがゆっくりと反射している――


それは、世界そのもののまなざしのようにも思えた。


「――つまり、観測という行為は、救いでもあり、同時に消耗でもあるの。」




御影は淡い声で続けた。


黒板の前に立ち、描かれた三つの円のあいだを指先でなぞる。


その動作は、音よりも静かだった。




「人は“見たいもの”を増やすことで、世界を守ってきた。


 けれど、守られすぎた理は硬化する。


 定義が重なれば、世界は形を保ちきれず、ひび割れてしまうの。」


彼女は指先についた白い粉を払う。


それはまるで、定義された世界の欠片を振り落とす仕草のようだった。




「……たとえばこれ。」


御影は紅茶のカップを示す。


乳白はすでに琥珀へ完全に溶け、境界が消えていた。


光がその中に沈み、ゆらゆらとひとつの色に収束する。


「混ぜたものを、もとに戻すのは難しい。


 観測も同じ。


 “見た”瞬間に、世界は以前とは違う形になってしまう。


 観測とは、再現できない一回性の連続なのよ。」


御影の声は、静けさそのものを定義するようだった。




紅はカップの底を覗き込む。


液面の反射に、微かに自分の瞳が映る。


その映像は、ほんのわずかに遅れて動いた。


(……ズレてる。)


私の動きと、鏡の像の呼吸が合わない。


世界の方が、私より先に動いている気がする。


まるで、私という存在が“観測されて”から時間を得ているみたい。


誰かの視線が外れたら、私は時間の外に置き去りになる。


そう思った瞬間――背中のあたりに、微かな寒気が走った。




装置の針が再び震え、金属音が細く響く。


御影の瞳が、紅の視線を正面から受け止めた。


「――理は、見られるたびに変わる。


 けれど、見られなかった“余白”こそが、世界の深呼吸の場でもあるの。


 “祓い”も“観測”も、本質的には同じ。


 どちらも世界を確定させる行為なのよ。


 その果てに何が起こるか――あなたたちは、もう感じているでしょう?」




その言葉に、蓮見が微かに肩を強張らせた。


服の下の何かが、かすかに共鳴する。


音は鳴らない。


だが空気が、その緊張の輪郭を描いていた。




御影は紅茶を見つめたまま、穏やかに微笑む。


「祓うことで、世界は守られる。


 けれど、守られすぎた理は、やがて壊れる。


 ――それが、この町で起きている現象の本質。」




沈黙が、ゆっくりと室内を満たしていく。


窓の外では陽が傾き、橙色が灰青に変わる。


音がひとつ、消える。


その瞬間、紅の耳に――小さな鈴の音が届いた。




風は吹いていない。


けれど、どこかで空気が震えていた。


装置の奥、誰の手も触れていないはずの場所で、


“理の呼吸”が一瞬だけ再開するような音がした。




御影は目を閉じ、その響きを聴く。


「……今、聞こえた?」


声は囁きのようで、それでいて世界の全層に染み渡る。


紅は頷けなかった。


頷けば、何かが確定してしまう気がした。


でも――確かに、世界がわずかに動いたと感じた。


(この音は……夢で聞いた鈴と、同じ音だ。)


御影は黒板に最後の線を引いた。


白い粉が舞い、夕光の中で淡く散る。




「まとめましょう。」


その声が、準備室全体を包む。


「観測は存在の証明。


 過剰な観測は余白を痩せさせ、理を硬化させる。」


紅はその言葉を聞きながら、胸の奥で何かが音を立てるのを感じた。


それは――世界のどこかが、呼吸を思い出す音だった。


御影はチョークを置き、振り返らないまま言った。


「今日はここまでにしましょう。」




静かな声。


それなのに、紅にはその一言が、世界の幕を一度閉じる音のように響いた。


沈黙のあと、三人の影が床に重なる。


針の揺れが止み、カップの表面が鏡のように凪いでいる。


紅はその表面に、自分の顔を見た。


その瞳の奥に、ほんのわずかに光が宿っていた。







扉が開く音が、静けさの膜を破った。


外の空気が、細い糸のように部屋の中へ流れ込んでくる。


硝子器具がかすかに鳴り、空気がわずかに軽くなる。


紅と蓮見は席を立った。




御影は背を向けたまま、黒板の前で動かなかった。


「先生。」


蓮見の声が沈黙を撫でた。


御影はゆっくりと振り返る。


その瞳に、いまの光景が確かに映っている――けれど、どこか遠くを見ているようでもあった。


「観測とは、存在の証明。」


御影の言葉は、部屋の奥でほどけた。


「それが、この世の理よ。」


蓮見は小さく頭を下げ、紅もそれに倣った。




扉を閉めると、金属の軋みが現実の音に戻ってきた。


廊下には、夕陽の残り火が伸びている。


足音を立てるたび、光の欠片が揺れる。


紅は歩きながら、胸の奥で自分の鼓動を数えていた。




音がある。それだけで、今はまだ“存在している”と思えた。


理科棟を出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。


橙と灰が混ざり合う空。


その色のあいだに、夢の黎明色がほんのわずかに差している気がした。


蓮見が隣を歩く。




その視線は真っ直ぐ前を向いていたが、紅はその横顔に一瞬だけ、御影と同じ“冷たい理性”の影を見た。


すぐにそれは消えた。


坂道の上から、風が吹き下ろしてくる。


街の輪郭が霞み、電線の影が霧に溶けていく。


紅は歩みを止め、ふと振り返った。


理科棟の窓が遠くに見える。


その硝子に、淡い光が映っていた。


まるで、世界そのものがこちらを見ているようだった。


(……あの視線は、まだ消えていない。)




世界が私を見ている。


そして、私は――それを見返してしまった。




紅は目を伏せた。


眼球の裏で、かすかな鈴の音が鳴った。


風に乗って、それは遠くへ流れていく。




「紅さん。」


蓮見の声が、風の中から届いた。


「……怖いの?」


紅は答えなかった。


代わりに、笑ってみせた。


それはきっと、他人から見ればいつもの笑顔に見えた。


けれど、その笑顔の奥では――何かが音もなく軋んでいた。


風が霧を割り、坂の先で灯りがともる。




街が、夜へと変わっていく。


紅は歩き出した。


(観測は、存在の証明。なら、“見なければ”どうなるんだろう。)


坂の途中で、再び鈴の音が鳴った。




それは確かに、夢で聞いた音と同じ響きだった。


紅は立ち止まり、空を見上げた。


灰青の空に、まだ溶けきらない朱色が滲んでいる。


その光は――


どこまでも優しく、それでいて、どこか冷たかった。




紅の心の奥で、ひとつの言葉がかすかに揺れた。


――“呼ばれたのは、君だから。”


-------

第二章「覚醒」

放課後の光は、どこか濁っていた。

 昏睡した生徒が担架に乗せられ、廊下をゆっくりと運ばれていく。

 息はあるのに、目を開けない。

 まるで世界から“見えなくなった”人のようだった。


廊下の奥まで、誰も声を発しない。

 ただ靴音だけが乾いた反響を返し、どこか別の次元へ吸い込まれていく。

 紅は教室の前で立ち尽くしていた。

窓の外に夕暮れが沈みかけ、硝子の向こうの雲が薄赤く染まっている。

 その色が、血のように見えた。

 触れれば、すぐに世界が滲み出しそうなほど脆く見えた。

「……また、眠ったままなの?」

 自然と紅の口から言葉が漏れた。

 声は、自分のものではないように聞こえる。

 喉からではなく、胸の奥の冷たい場所から絞り出された音だった。

「ええ。御影先生の言う通り、理が……揺らいでる。」

蓮見の声は低く、どこか遠い。

 彼女の瞳の奥に、映る光がふたつ揺れていた。

 祈りの残響と、恐れの欠片。

 どちらが本当の彼女なのか、紅にはわからなかった。

(空気の底で、何かが動いている。

  人じゃない、“在ってはいけないもの”が。)

紅は息を浅くする。

 耳の奥で、自分の鼓動と世界の脈動がずれるのを感じた。

 世界が呼吸を乱している。

 この町全体が、見えない“何か”に観測されているようだった。


そのとき、廊下の奥から足音が響く。

 乾いた音。

 一歩ごとに空気が引き締まり、光がわずかに変質していく。

白い指先、灰青の瞳。

 御影玲瓏が現れた。

 彼女の周囲の空気だけが微かに波打ち、

 見えない水面の上を歩くような気配をまとっている。

「理が、乱れているわ。」

静かな声。

 それだけで、廊下の空気が冷たくなる。

 紅の皮膚が、音もなく粟立った。

 声の温度に、理そのものの呼吸が混じっていた。

「……何でわかるんですか?」

紅が問う。

 声が少し震えた。

 問いながら、自分がそれを“知りたくない”と思っていることに気づく。

御影は微笑んだ。

 その表情は穏やかでありながら、目の奥だけが静かに濁っていた。

「見ればわかる。世界のほうが、私たちを見ている。」

その言葉に、紅の背筋がぞくりとした。

 “見られている”――その感覚が、胸の奥で冷たい脈を打つ。

 体温がわずかに奪われていく。

(私たちは、見る側じゃなかったの?)

いつの間にか、世界の中心から外へ押し出されている。

 私の視線が世界を作るのではなく、

 世界が私を、作り続けている――そんな錯覚。


御影の瞳が、紅の方へわずかに傾いた。

 その一瞬、時間が硬直する。

 彼女の灰青の眼差しが、紅の中に潜む何かを透かして見たようだった。

紅は息を呑む。

 胸の奥に冷たい痛みが走る。

 心臓の鼓動が、自分のものではないように感じた。

 見られるたび、存在が削られていく。

 その痛みが、ゆっくりと甘美に変わっていく。

夕焼けが燃え尽きていく。

 窓硝子に、赤と影がゆらめいて混ざる。

 風はなく、鈴の音だけが、遠くでひとつ鳴った。

その音が鳴った瞬間、

 紅は確かに感じた――

 “この世界は、いまも見られている”と。



昏睡の噂が広がった放課後、蓮見澪は、ひとりで校舎を巡っていた。

 陽が沈む前の光は、壁を鈍く照らし、廊下の床が微かな赤を吸い込む。

 世界の縁が、ゆっくりと呼吸を止めていく気配。


祓印刀の鞘が熱を帯びていた。

 腰背を這う脈が、自身の鼓動と重なる。

 鼓動は、世界の律動と微妙にずれている。

 それが“理の軋み”の証だと、身体が知っていた。


壁に指先を触れる。

 微かな震えが伝わる。

 それは音ではない――存在そのものの“ひずみ”の感触だった。

 冷たく、そして熱い。

 皮膚の下に、定義の欠片がざらりと流れ込んでくる。

刀を半ば抜く。

 刃の表面に、墨のような光が浮かぶ。

 黒に見えて、黒ではない。

 線と点が滲み、まだ言葉にもならない符号が息づいていた。

 まるで、世界が自分の名を思い出そうとしているかのようだった。


祓印刀――祓うとは、斬ることではない。

 歪みの縁を断ち切るための刃。

 世界を正すもの。

 その刃が呼吸を持つたび、

 人と世界の境界がわずかに動く。


蓮見は静かに呼吸を合わせた。

 刃が呼応し、淡い白光を吐く。

 光は音の粒となり、廊下を流れる。

 壁の影を撫で、床に落ちた埃がひとつ浮かび上がる。

 それは“見えてはいけないもの”の形をしていた。

(見えすぎる世界を、どう祓えばいいの。)

呟きが零れた。

 刃が震え、天井の蛍光灯がかすかに明滅する。

 空気が、言葉を持たない祈りのように共鳴する。


祓印刀が応答している。

 この場所で、何かが――息をしている。

 存在しないものが、呼吸を思い出そうとしている。

(始まった……誰かが“余白”を見た。)


蓮見は教室棟の方を見やった。

 空気が沈み、遠くで鈴の音のような波紋が微かに広がる。

 刃の内側で淡い光が脈打つ。

 名もなき振動が、体内の血と混ざり合う。


神原紅――。


その名が、理の震えと同じリズムで浮かんだ。

 音ではなく、世界が発した呼吸のような響きだった。

 蓮見は目を閉じる。

 胸の奥で何かが告げる。


(彼女が、呼吸を始めた。)


そして、廊下の遠くで――

 光の層がひとつ、わずかに“歪んだ”。



夜の校舎は、呼吸を忘れた生き物だった。

 紅は教室へ、ノートを取りに戻っていた。

廊下の灯が、一列ずつ、時間を思い出せないように点滅する。

 光がつくたびに影が伸び、消えるたびに、世界の奥行きがわずかに歪む。

 何度瞬きをしても、世界の縁が定まらない。

ガラスに映る自分の姿が、遅れて瞬いた。

 顔は同じなのに、目の奥の“時間”だけが違って見えた。

 その違和感が、皮膚の奥を撫でる。

(――誰かが、見てる。)


空気の粒がざらりと動く。

 音がわずかに粘る。

 廊下の奥から、何かがこちらを覗いている気配。

足音。

 ひとつ、余分な音。

紅は立ち止まった。

 廊下の空気が湿り、髪の毛が静電気のように浮いた。

 世界が呼吸するたび、肌の表面が微かにざわつく。

振り返る。

 誰もいない。

(……いる。)


空間が、わずかに膨らんだ。

 次の瞬間、蛍光灯がすべて落ちた。

暗闇。

 音が消える。

 沈黙が音を押し潰す。

――空気が、裏返った。

壁の影がざらりと動く。

 滑るように、床を這い、柱に沿って形を変えていく。

 人の形に似て、しかし“存在してはいけない何か”。

目も、口もない。

 けれど、確かに“見られている”。

見られる――

  その感覚だけが、生々しく皮膚を刺す。

  まぶたの裏まで誰かの光が入り込んでくる。

  世界の方が私を見ている。

  だから、私の呼吸は世界の呼吸に変わっていく。


「……誰?」

声が震えた。

 返事はなかった。

暗闇の奥から、低い囁きが滲み出す。

「……ミテル?」

紅は後ずさった。

「アナタ、ミテ。ミテ、ミテ、ミテ。」

影がかすかに波打つ。

 その声は、無数の視線を束ねたような音だった。

 人の声のはずなのに、耳ではなく、

 頭蓋の内側で直接響く。

「メ、アケルナ……アケテ……アケルナ……」

「ミナキャ、ナイ。ミタラ、コワイ。」

言葉が意味を持たない。

 けれど、意味よりも深く、脳に焼きついていく。

 紅は息を呑んだ。

 世界の中心が、彼女の瞳孔の裏にあるような錯覚。

――“見なければ在れない”という、歪んだ命の原理。


喉が焼ける。

 手足が痺れる。

 見られるたび、血がひとつずつ逆流する。

紅は踵を返し、走った。

 廊下が反転する。

 天井と床の境界が消える。

 影が、音もなく追ってくる。

 動いているのは紅だけではない。

 空間そのものが、彼女を追っていた。

階段を駆け下りる。

 息が乱れ、心臓が悲鳴を上げる。

 足音がふたつ、三つと重なっていく。

(逃げられない。見られている限り、逃げ場なんてない。)


扉を押し開けた瞬間、夜風が頬を叩いた。

 冷たい空気が肺に刺さる。

 紅は校庭へ飛び出した。

夜空は曇り、月のない闇が広がっていた。

 それなのに、地面に自分の影がある。

風が鳴る。

 鈴の音のような、かすかな共鳴。

 その影が、静かに――笑った気がした。



校庭は、息を潜めていた。

 街灯が遠くで滲み、校舎の窓が黒い鏡のようにこちらを見ている。

 その鏡の中で、紅の姿がわずかに揺れていた。

 風はない。

 なのに、夜気がどこかで波打っていた。

紅は膝に手をつき、呼吸を整えた。

 肺が焼けるように痛い。

 息を吸うたび、世界が自分を押し返してくる。


影が地面を這って近づいてくる。

 黒い波が、夜草を舐めるように蠢く。

 ざらりとした音――それは砂ではなく、“存在の摩擦音”だった。

 光が届かない領域で、理の繊維がほつれている。

紅は身を引いた。

 影が立ち上がる。

 輪郭が夜に溶けきらず、ゆらゆらと歪んでいる。

 人の形に似て、けれど違う。

“世界の余白”が、形を得ただけの存在――無貌の影。

 存在の副作用。

 誰かが見すぎた場所に、零れ落ちた“観測の残響”。


影が伸びた。

 冷たい衝撃が腹部を貫く。

 血の温度が、瞬時に世界へと吸い取られていく。

「……ドッチ、ミテル?」

声は、紅の内側から響いた。

 外ではなく、心臓の裏から。

 世界の奥行きが反転する。

 上も下も、近いも遠いも、すべてが混ざり合う。


呼吸が止まった。

 光が遠のき、世界の色が失われていく。

 その瞬間、紅は理解した――

 “見る”ことも、“見られる”ことも、同じ苦しみの裏返しだと。

(見たくないのに、見てしまう。

 見られたくないのに、見られてしまう。

 どちらも、私の中にある。)

闇の中で、世界がひとつ息をした。

 遠くで、鈴の音が鳴る。


視界が暗くなっていく。意識と無意識の狭間で、霧が広がる。

 その向こうに、少年が立っていた。

 額に角、瞳は深紅。

 夢で見た――あの童子。

霧の奥で、彼の輪郭は揺らぎながらも、確かに“在った”。

 それは理に拒まれた存在でありながら、世界の呼吸とともに在る。


「爪を見ろ。牙を見ろ。」

声は柔らかかった。

 それなのに、言葉の端に鉄のような冷たさがあった。

「それはお前の中にもある。

  恐怖を拒むな。

  恐怖は、生きている証だ。」

その言葉が落ちるたび、紅の体内に何かが目覚めていく。

 皮膚の下で血がざわめき、鼓動が速くなる。

 自分の中の“異物”が、自分と混ざり合っていく。


紅は息をした。

 肺が音を立てて広がる。

 血の匂いが消えていく。

 裂傷が、光で縫われていく。

 それは癒しではなく、存在の再定義。

世界が、ゆっくりと色を取り戻していく。

 白ではなく、黒でもない。

 ただ“生きている”という曖昧な色。


霧が割れ、夜が戻る。

 風が吹き、草が揺れる。

 紅はその場に立ち尽くした。

胸の奥で、まだ童子の声が残響している。

――恐怖を拒むな。

その響きが、紅の中で何かを静かに溶かしていった。



紅の瞳が開く。

 その瞬間、校庭の空気が震えた。

 空が低く鳴り、土の粒が跳ね上がる。

 風はない。

 なのに、世界が波を打つように動いた。

影が立っている。

 輪郭が、紅の姿を映すように揺れていた。

 まるで“もうひとりの自分”が、世界の裏側で呼吸しているかのようだった。


紅の髪が、風もないのに持ち上がった。

 血の色が光に変わり、宙に散る。

 皮膚の下で何かが熱を帯び、血管が淡い光を放つ。

体温が上がり、心臓が世界と同じ拍で打ちはじめた。

 胸の奥で、世界の鼓動と自分の鼓動が重なる。

 それが、何よりも美しく、恐ろしかった。

爪が伸び、皮膚の奥で何かが“目覚める”。

 それは怒りでも、哀しみでもない。

――ただ、“在りたい”という叫びだった。

「……来なさい。どうせ、見たいんでしょ……! じゃあ――見せてあげる!」


影が動く。

紅の体も、呼応するように動いた。

もはや“考える”のではなく、“世界が動くから動く”だけだった。

思考と肉体が分離し、すべての理が同じ方向へ流れていく。

爪が空を裂く。

 風が逆流し、夜気が螺旋を描く。

 足元の砂が跳ね上がり、光を孕んで散った。

 音が遅れて世界に届く。

紅の視界に、世界の輪郭が乱舞する。

 見えるすべてが――壊したくなるほど、美しい。

 その美しさは、痛みの形をしていた。

 壊れる瞬間にしか、世界は真実の姿を見せない。

(私は、誰の視線で存在しているの?)


視界の端で、光が歪む。

 自分の身体が、他人の夢の中で操作されているように感じる。

 見られている。

 世界そのものの眼差しが、私の骨を透かしている。

(ねえ――いま、私を見ているのは誰?

  影? 世界? それとも、私自身?)


影が迫る。

 紅の体が、それを迎え撃つ。

 指先が走る。

 空気を裂いた瞬間、風が光に変わる。

――衝突。

痛みも、重さも、音も――全部、遠のく。

 ただ“裂く”という行為だけが在る。

 それは、渇望そのもののようであり、破壊のようでもあった。

影を裂くたびに、血ではなく光が飛び散る。

 光の粒が頬をかすめ、肌に吸い込まれていく。

 世界の破片が、自分の呼吸と混ざる。


胸の奥で何かが歓声を上げた。

 生の音。

 ――ああ、壊せる。

 ――わたしは、生きている。

紅は笑った。

 それは戦いの笑みではなく、目覚めの笑みだった。

 全身が痛みに震えているのに、その痛みさえ歓喜に変わる。

(恐怖は、生の証。

  それを拒んできたのは、私自身だった。)

影の輪郭が再び揺れる。

 紅は腕を振る。

 爪が光の弧を描く。

 世界が、裂ける音を立てた。


夜が白く閃き、視界が反転する。

 紅と影――二つの存在が重なり合い、

 観測と観測がぶつかり合う。

その衝突の中で、紅は確かに感じた。世界が、自分の存在を“喜んでいる”と。

(見て、いい。私を、見て。)

風が爆ぜる。

 砂が舞い上がり、光が渦を巻く。

 夜が裂け、時間が止まる。

紅の爪が、最後の一閃を描いた。


閃光。

 音が消え、時間が止まる。

 空気が、目に見えるほどの静寂に変わる。

紅の腕が、空を切ったまま止まっていた。

 爪先に、淡い光が滲んでいる。

 その光は、血のようで、祈りのようだった。

無貌の影が揺らいでいた。

 輪郭が崩れ、内側から淡い粒子が溢れ出る。

 それは光でも闇でもない、存在の欠片。

「……ミエナク、ナッタ。……ヨカッタ、ネ。」

声が、風の中に散った。

 まるで、世界の底で誰かが安堵の息を吐いたように。

 黒い残滓が夜気に溶け、風に流れる。

 闇が、何事もなかったかのように閉じていく。


終わった。

紅はその場に立ち尽くした。

 肩が上下し、息が焼けるように熱い。

 手のひらが震えている。

 爪には、まだ光の欠片が残っていた。

 その光が、血のように滲んで落ちる。

(私が……これを……?)


意識が戻る。

 さっきまでの自分が、遠い他人のようだ。

 何をしていたのか、思い出せない。

 ――いや、思い出したくない。

胸の奥がざわめく。

 笑っていた。

 あのとき――確かに笑っていたのだ。

爪を見つめる。

 そこに残る光が、まるで“世界の目”のように思えた。

 見られている。

 まだ、見られている。

喉が締めつけられる。

「やだ……見られたくない……こんな私を……見ないで……!」

声が震え、空気に滲んだ。

 闇が震え、夜の風が一瞬だけ逆流する。

 爪の先に残った光が、涙のように落ちた。

 土の上で弾け、微かな音を立てて消える。

(あの瞬間、笑っていた。

 影を壊していたのに、壊れていたのは――私だった。)


頬に触れる風が、冷たい。

 それなのに、胸の奥だけが焼けるように熱かった。

 血がまだ、生きている証拠。

 それが痛いほど、わかってしまう。

世界のどこかで、誰かがまだ見ている気がした。

 その想いが、いちばん怖かった。

(誰? 誰が、いまの私を見ているの?

  御影? 蓮見? 世界? それとも――私自身?)


震える手を抱きしめるように胸に押し当てた。

 心臓が、そこにある。

 焼けるように脈を打っている。

 痛みと熱の境界が、もうわからなかった。

胸の奥で、光がまだ燻っていた。

 それは炎ではなく、残された熱。

 世界の内側から見られている――そんな錯覚。

紅は俯いたまま、息を整えられずにいた。

 夜風が頬を撫で、髪を散らす。

 静かな夜。

 遠くで鈴の音が鳴った。

(見られるのは、怖い。

 でも、見られなければ、私は消えてしまう。)


涙が頬を伝い、地に落ちた。

 光を帯びた雫が、夜草の先で静かに弾けた。

 その一瞬、世界が呼吸を思い出した気がした。

夜空は、何事もなかったかのように静かだった。

 けれど――もう戻れない。

 どこかが確実に変わってしまったと、

 紅は、体の奥で理解していた。



教室棟の上階で、空気が裂けた。

 金属が軋むような音――いや、世界そのものの悲鳴。

 蓮見はそれを追うように走り出していた。

祓印刀が震える。

 鞘の奥で、刃がわずかに鳴く。

 理が、乱れている。

 廊下のガラスが震え、光がねじれる。

 色と形の境界が混ざり、世界の線がぼやけていく。

(間に合って……!)

階段を駆け下り、扉を押し開けた瞬間、

 夜の空気が胸の奥まで突き刺さった。


校庭の中央で、光が脈打っている。

 淡く、血のような、呼吸する光。

その中心に、少女――神原紅がいた。

 彼女の体から、淡い赤光がこぼれている。

 その前方に、黒い影。

紅が腕を振る。

 爪が伸び、風が弾けた。

 影が裂ける。

 音が止む。

 影が崩れ、夜へ溶けた。


蓮見の耳には、しばらく何も届かなかった。

 ただ、世界の残響がゆっくりと消えていく音。

紅は立っていた。

 瞳が赤く光り、肩で息をしている。

 怯えた顔。

 恐怖と熱と、理解されない孤独。


祓印刀が震えた。

 理が告げる――もう“人”ではない。

 これは、伝承に記された鬼のそれだ。

(……そんなはず、ない。)

蓮見は刀を構える。

 刃が月光を弾き、白く光った。

 風が止み、世界が見守るように静まる。


紅が顔を上げた。

 その瞳が、蓮見を見た。

 赤く、揺れて、涙を含んでいる。

 怒りでも、憎しみでもない。

 ――人の痛みの色。

「……やめて。」

蓮見の声が漏れた。

 思考より先に、心が叫んでいた。

刀の光が弱まる。

 祓印刀の符が、音もなく剥がれ落ちる。

 紅の涙が、頬を伝い、夜風に光る。

(泣いてる……鬼が、泣いてる。)

世界の定義が揺らぐ。

 祓うべき“異形”が、人の痛みで震えている。

 その矛盾が、あまりにも真実だった。


祓えば――戻れない。

 祓うとは、切り離すこと。

 でも、この涙まで切れるだろうか。


蓮見は目を閉じた。

 刀を下げる。

 祓印刀の光が、最後に一度だけ瞬いて消えた。

光が静まり、群青の空が戻る。

 夜が、静かに息を吹き返す。

(祓わなければ――救えない。

  でも、斬れば――世界の痛みを増やすだけ。)


“祓う者”の理が、静かに崩れ落ちていった。

 蓮見の手の中で、刃が冷たく沈黙する。


夜の風が二人の間を通り抜けた。

 紅は俯いたまま、何も言わなかった。

 その肩がわずかに震えている。


蓮見はただ、その光景を見つめていた。

 彼女の涙が、地面に落ちて消えるまで――。



紅は、影の残滓の中で立っていた。

 空気がゆっくりと沈んでいく。

 夜風が、光の粒を攫いながら過ぎていく。

爪が短くなり、髪の光が消えていく。

 あれほど暴れていた世界の熱が、静かに冷めていくのがわかった。

 足元の土は、まだ温かい。

 その熱が、確かに“生きていた”証のようだった。


蓮見が駆け寄る。

 紅はうつむき、息を整えようとしていた。

 肩が震えている。

 その小さな背中が、まるで壊れた羽のように見えた。

「怖かった……。」

 紅の声は、かすれていた。

 「誰かを、壊してしまいそうで。」

蓮見の胸が痛んだ。

 祓印刀を握る手が震えた。

 理の光が、刀身の中でわずかに灯っては、すぐに消える。

(恐怖を抱くこと――それが、どれほど人間らしいか。)

夜空が沈黙を抱えたまま広がっていた。

 遠くで街灯がひとつ、瞬いた。

 世界が、また呼吸を始めている。


蓮見は一歩、紅に近づいた。

 彼女の顔が上がる。

 その瞳はまだ濡れていて、けれど確かに“見て”いた。

「……泣けるなら、それは人だよ。」

紅の瞳が微かに揺れた。

 涙が頬を伝い、夜風に光る。

 その一粒が落ちた場所で、土の匂いがわずかに立ち上がった。


二人の間を、夜風が抜けた。

 音はなく、ただ呼吸だけが残った。

その呼吸が重なる一瞬、

 世界の痛みと赦しが、同じリズムで揺れていた。


蓮見は祓印刀を鞘に戻した。

 その動作は祈りにも似ていた。

 紅の方を見たとき、彼女は小さく頷いた。

夜が、二人を包み込む。

 光も影も等しく溶けていく。

 世界は再び、沈黙の中で呼吸を続けていた。



夜が明けかけていた。

空はまだ眠っているように白く、校舎の屋根だけが冷たい光を返している。

紅は校庭のベンチに座っていた。隣の蓮見は黙り込んで空を見あげている。


指先の奥が、まだ熱い。

――あの影を斬った。

その感触が、皮膚の裏に焼きついて離れない。

けれど、何よりも怖かったのは――

その瞬間、自分が“笑っていた”という記憶だった。

胸の奥で、何かが蠢く。

それは恐怖の形をした熱。

燃えるほどに冷たい、怒りのようなもの。

(どうして……見たの。)

(どうして、私を――見たの。)

声にならない叫びが、喉の奥で跳ねる。

風はないのに、空気が震えた。

その震えに呼応するように、胸の奥で赤い光が明滅する。

世界の奥から、微かな鈴の音が響いた。

それは優しい音ではなかった。

まるで“見られる痛み”そのものが鳴っているようだった。


紅は息を荒げ、唇を噛みしめた。

視界の端が滲む。

涙か光かもわからない。

ただ、胸の奥で誰かが囁いた気がした。


――見返せ。

世界が私を見るなら、

私もその奥を見てやる。

壊されるくらいなら、先に壊す。

それが、恐怖の裏返し。

それしか、自分を守る術がない。


赤い光が指先から溢れた。

爪の根で、理がかすかに軋む。

世界の縫い目が――応えた。

(聞こえる……呼んでる。)

紅はゆっくりと手を開いた。

指先で揺れる光は、血でも炎でもない。

その色は、夜明け前の淡い赤。


風が吹いた。

鈴の音が、空の奥でひとつ鳴る。

世界が、わずかに呼吸を取り戻す。

紅はその音を聴きながら、低く呟いた。

「……まだ、上がある。」

その声は、願いでも希望でもなかった。

ただ、怒りと恐怖を飲み込んだ者の、静かな宣言だった。


そして――その瞬間、

神原紅という名の少女は、

“理の階梯”へと、確かに足をかけていた。


------

第三章「救い」

朝の光は淡く、硝子越しに曇っていた。

 教室の空気は昨日よりも重く、ざわめきも少ない。

 誰もが眠り足りない顔で、それでも平然を装っている。


紅は窓際の席に座り、机に置かれた紙コップを見つめていた。

 中には、ぬるくなった紅茶。

 舌の奥に、まだ昨夜の味が残っている。

 金属のような血の匂いと、焦げた空気。

 あの夜の光景が、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。


――影を斬った。

 鬼の爪のような手で。

 そして、笑っていた。


(あの瞬間、“怖いから見返した”だけなのに……)


思い出すたびに、胸の奥が冷たくなる。

 あの笑いは、ほんとうに自分のものだったのだろうか。

 心の奥で何かがずれている。

 「見られた」記憶だけが、皮膚の下で疼いていた。


そのとき。

 紅の机の前に、蓮見が立っていた。

 制服の袖をきっちりと整え、瞳はどこか、湖面のように澄んでいる。

 その静けさが、かえって怖かった。


「……神原さん。」


声は柔らかかった。けれど、芯がある。

 紅は顔を上げられなかった。

 呼吸が浅くなる。

 言葉にすれば、何かが壊れそうな気がした。


「昨日のこと、覚えてる?」


紅はうなずこうとしたが、喉が動かない。

 代わりに、指先を見た。

 爪の根に、まだ微かに赤い光が滲んでいた。

 消えない――昨夜の“証”。


「……私、あのとき……何をしてたの?」


「あなたは――戦ってた。

  でも、あれは人間の力じゃなかった。」


紅は小さく震えた。

 その言葉が、自分の内側の何かを照らす。

 まるで、誰かが鏡をこちらに向けているようだった。


蓮見は静かに息を吸い、制服の裾を持ち上げた。

 腰のあたり、黒革の鞘。

 そこに、祓印刀が眠っている。

 鋼の線が一瞬だけ光を返した。


「私は退魔士。退魔士の組織――祓刀院から、この町に派遣されてきた。

  理の歪みを鎮めるのが仕事。

  ――だから、あなたを監視下に置く。」


紅の胸が痛んだ。

 その言葉は正しい。

 けれど、悲しかった。

 (わたしは、また“見張られる側”になるんだ。)

 (誰かの視線の中でしか、生きられない。)


「……私が、危険だから?」


「危険、というより――不安定。

  あなたの中の“何か”が理を揺らしている。

  でも、私はあなたを祓いたくない。」


紅は顔を上げた。

 蓮見の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。

 そこに恐怖はなく、痛みのような優しさがあった。


「共に在るために、見届けたいの。

  あなたが何者であっても。」


言葉が、胸の奥にゆっくりと落ちていく。

 その響きは救いではなかった。

 けれど、孤独を少しだけ和らげる音だった。


紅は小さく息を吸い込んだ。

 硝子越しの空に、朝靄がまだ残っている。

 窓の向こうで世界が淡く滲み、形を変えていく。

 誰かに見られているような――それでも、もう逃げたくないような気がした。


(この人の視線なら、少しだけ……怖くない。)


朝の鐘が鳴る。

 その音は、どこか祈りに似ていた。



午後の理科準備室。

 陽光がゆらぎ、ガラス器具の影が壁に波を作っていた。

 フラスコの中で光が揺れ、液体の表面が微かに呼吸している。

 世界そのものが、ひとつの装置のように思えた。


御影は黒板の前に立ち、チョークを指先で転がしていた。

 その白が、細い音を立てて黒を裂く。


「――理とは、世界の構造そのもの。

  観測されることで初めて“在る”と定義されるもの。」


チョークが走る。

 黒板に三本の線が描かれ、層が現れる。

 現実、余白、そして理層。

 それらは、細い糸のように結ばれ、かすかに震えている。


「理が揺らげば、世界は呼吸を乱す。

  昨夜の“影”はその結果。

  余白から滲み出た、未定義の存在――」


紅は息を詰めた。

 黒い影の残像が、瞼の裏をかすめる。

 そのとき胸の奥で、なにかが“見られている”感覚を思い出した。

 ――あの夜と同じ。

 見えない視線が、自分の輪郭を撫でていく。


「……先生。」

 蓮見の声が響いた。

「あなた、わたしたちのことを知っているんですか?」


御影の指が止まる。

 そして、静かに微笑んだ。


「ええ、知っているわ。

  祓刀院、退魔の組織。

  あなたたちの“祓う”技術。

  理を安定させるための干渉方法。

  私たち観理院では、昔から議論の的だった。」


「観理院……?」紅が呟く。


御影は軽く頷いた。

 「理を観測し、記録するための組織よ。

  私はそこに“少しだけ”関わっていた。

  いまは独立して、理層の乱れを研究しているの。」


蓮見が眉をひそめる。

 「じゃあ、あなたも……理を知っている人なんですね。」


「知っている、でも理解しているとは限らない。

  理は、見るほどに遠ざかるものだから。」


御影の言葉は、柔らかく、それでいて不穏だった。

 紅は黙って聞いていた。

 自分だけが置き去りにされていく感覚。

 世界が、誰かの言語で書き換えられていくようだった。


御影は黒板にもう一本、縦の線を描いた。

 そしてそこに小さく数字を書き添える。


「理には階層があるの。

  人が住む層を第一層とするなら――」


チョークの音が静寂に溶ける。

 それは、呼吸の間に挟まる祈りのようだった。


「第二層には“神秘・伝承存在”。

  理の隙間、未定義の余白を覗ける存在。

  彼らは、観測されながらも同時に観測している。

  だからこそ、人に恐れられる。」


紅は思わず、自分の手を見た。

 爪の根が、わずかに光る。

 その光が、黒板に映る自分の影をわずかに染めた。


「第三層には“神”がいる。

  理の構造そのものを定義し、書き換える存在。

  人が作った物語では、彼らは信仰の対象だけれど――

  本当は、“観測そのもの”なのよ。」


蓮見が息をのむ。

 「じゃあ……神って、見てるだけの存在なんですか?」


御影は小さく笑った。

 「そう。見つづける存在。

  世界を“観測”し続けることで、世界を保っている。

  けれど、その視線が絶えた瞬間、理は崩れる。」


彼女の言葉に、教室の空気が微かに軋んだ。

 紅の脳裏で、鈴の音が一瞬だけ鳴った気がした。

 (――世界が、自分を見ている。)

 胸の奥が冷たくなる。


御影はチョークを置いた。

 手のひらの粉を払い、静かに言う。


「その上位には、もはや名もない層がある。

  世界そのもの――“観測の器”としての存在。

  私たちはその底面を歩いているに過ぎない。」


紅はその図を見上げた。

 層の線が、どこか遠い呼吸のように揺れて見えた。


「……夢を見るんです。」


紅の声は震えていた。

 「角のある子でした。

  綺麗な顔の――美少年みたいな子。

  “世界が君を呼んでいる”って、そう言ってました。」


御影の目がわずかに揺れた。

 その瞬間、空気の密度が変わる。

 彼女の瞳は、まるで遠い過去を覗いているようだった。


「美少年の鬼、ね……」

 小さく呟く。


「昔話の中に、そんな逸話があった気がするわ。

  大江山に住んでいたという鬼――

  源氏の武人に退治された、悲しい伝承。」


「……御伽噺、ですか?」紅が問い返す。


「そう。けれど、記録の残らない話ほど、

  本当は“理の底”に沈んでいるのよ。」


御影は微笑みを戻し、静かに続けた。


「夢があなたを選ぶのは偶然じゃない。

  理層は記憶をも持つ。

  人が“忘れたもの”を、世界が時々呼び起こすの。」


紅は目を伏せた。

 胸の奥で、鈴の音が微かに鳴った気がした。


御影の視線が、ふと紅の指先へ落ちる。

 爪の根に宿る微かな赤光――昨夜の名残。

 その色を見た瞬間、御影の表情がわずかに変わった。


「……その反応は、人間だけでは起こらない。」


紅は息を呑んだ。

蓮見も、御影を鋭く見た。


御影は声を落とし、黒板の層の図へ軽く触れながら続けた。


「神原さん。

  あなたは――鬼の血を継いでいるわ。

  理の隙間に触れたときにだけ反応する、第二層の血。」


紅の胸が跳ねる。

蓮見の手が、祓印刀へ無意識に伸びる。


「恐れることはないわ。

  鬼といっても、伝承のような怪物とは違う。

  理の余白を“見てしまう者”――それが本来の意味よ。」


御影の瞳は、淡い光を宿していた。


「理があなたを呼んでいるのかもしれない。

  それは恐怖でもあるけれど――進化の兆しかもしれない。」



放課後の街は、光が淡く濁っていた。

 空の下、どこか遠くで鈴の音が微かに鳴る。

 紅と蓮見は並んで歩いていた。


「昨日の夜から町がおかしい、靄がかかってるの。」

 紅が小さく呟く。

 蓮見は首を傾げた。

 「靄?」


「見えないの? そこ、ほら……あの向こう。」


蓮見には何も見えなかった。

 ただの空気。

 けれど、紅の目には確かに見えていた。

 光の粒が滞り、空気が折れ曲がる場所。


「理の余白が滲んでる……」


蓮見は息をのんだ。

 理の歪みは、痛みのように肌でわかる。

 見えなくても、世界の底で何かが軋んでいる。


「行ってみよう。」


夜の帳が降りる。

 理層の呼吸が、わずかに乱れていた。


町の外れ。

 朽ちかけた公園。

 滑り台の金属が冷たく光り、風が通るたびに軋む。

 世界の片隅で、時間だけが取り残されている。


「ここ、感じる?」

 紅が立ち止まり、空気を吸い込んだ。


蓮見には何も見えない。

 けれど、紅の瞳は焦点を結んでいた。

 光の粒が滞り、現実の縫い目が緩んでいる。


「理が……ほつれてる。」


紅の声はかすかに震えていた。

 蓮見は腰の祓印刀に手を添える。

 黒革の鞘が冷たく、内側で光が反応する。

 刃は理を修復するための器――しかし、それは同時に“消す”ための道具でもあった。


(私は、何を救ってきたんだろう。)


その疑問が、喉の奥で熱を持った。


「行こう。」


二人は靄の中に踏み込んだ。


音が消える。

 風が止み、世界がわずかに歪む。

 空気が、ぬるい水のように重くなる。


そこに“いた”。


影ではない。

 形を持たぬ人のような、声のようなもの。

 透明な靄の奥で、何かが蠢いている。


空き缶が転がる。

 看板が揺れる。

 見えない手が、空間を掴んで投げている。


「っ――来る!」

 蓮見が身を沈めた。

 祓印刀が光を帯びる。


白い光――理の歪みを断ち切るための刃。

 祓うためだけに磨かれた、澄んだ光だった。


「紅、下がって!」


だが紅は、動けなかった。

 風の奥から、何かが聞こえた。


――たすけて。


紅は息を呑む。

 蓮見の祓印刀が振り上げられる。


「待って!」


紅の声が割れた。

 「何か言ってる……これは、人の声……!」


「紅、それは――!」

 蓮見の言葉を、風が攫った。


靄が、彼女たちを包み込む。

 浮遊する影が複数に分かれ、物を宙に浮かせた。

 紅は反射的に腕を上げる。

 空気が裂ける。

 爪が、光を帯びていた。


舞い散る破片が月光を弾く。

 紅は、自分の動きが恐ろしくも美しいと思った。

 風が鳴り、血が燃える。

 破壊の快感が胸を満たしていく。

 世界が、透明に見える。


蓮見が叫ぶ。

 「紅っ! 戻って!」


紅は振り返る。

 瞳が赤く、光を宿していた。

 爪の先に、理の残滓が絡みついている。

 何かを斬った。

 けれど、音がない。


靄の奥、人の形のような半透明の塊が震えていた。

 風のような声が、再び響く。


――いたい。 ――さむい。


その瞬間、蓮見の動きが止まった。

 祓印刀を構えたまま、息を詰める。

 光が震えた。


(この声……苦しいだけの存在。

  でも、祓えば消える。

  祓うことは救いじゃない。

  それなのに――)


刃が下ろされることはなかった。


「……これ、人間なの……?」


紅が震える声で問う。

 蓮見は答えられない。

 胸の奥で、信じていた正義が軋んでいる。


紅は、爪を握りしめた。

 胸の奥に熱がこみ上げ、理性が悲鳴を上げる。

 斬りたい――でも、斬ってはいけない。

 その相反する衝動が喉を焼いた。


蓮見が言う。

 「祓えば、理は戻る。

  でも、その瞬間……この声の主は、消える。」


紅は首を振った。

 「……消したくない。」


蓮見は静かに刀を下ろした。

 その動作は、祈りにも似ていた。


靄の中の人影が、ゆっくりと形を失っていく。

 やがて、風が戻る。

 物の影が地面に落ち、音が戻った。


――理が、沈静化していく。


紅は膝に手をつき、荒い呼吸を吐いた。

 爪がまだ熱を帯びている。

 蓮見は刀を見つめ、震える声で呟いた。


「祓うことが、救いじゃない……

  そんなの、今まで考えたこともなかった。」


紅は顔を上げる。

 蓮見の横顔は、どこか遠くを見ていた。

 信じていた正義が、静かに音を立てて崩れていく。


夜風が二人の間を通り抜けた。

 鈴の音が、微かに鳴った。

 それは、赦しの呼吸のように優しかった。



夜が明けはじめていた。

 紅と蓮見は、公園の芝生に並んで座っていた。

 夜露が草の先で光り、冷たさが制服の裾にじんわり染みる。

 わずかに残った靄が風にほどけ、世界が色を取り戻していく。


「……理の歪み、消えたね。」

紅が呟いた。


「ええ。……でも、きっと、また起こる。」

蓮見は膝を抱え、ぼんやりと空の端を見つめていた。

夜と朝の境界が揺れ、世界が再び呼吸を始める気配が漂っている。


そのとき――

遠くで、始発電車がレールを鳴らした。

静まり返っていた空気が、わずかに震えた。


紅はその音を聴き、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。

異形の声でも、理の軋みでもない。

ただ、現実の音だ。


(戻ってきた……世界が。)


「私たち、何をしてるんだろうね。

  祓うことも、助けることもできないなんて。」


紅の声は、草の匂いとともに風に溶けた。

蓮見は少し間を置いて、静かに口を開いた。


「……ねえ、神原さん。」

呼びかけた声はいつになく柔らかかった。

「祓うことって、ずっと正しいと思ってたの。

  世界を守るために必要な行為だって。

  でも……今日、少し分からなくなった。」


二人の影のそばで、朝露がぽたりと落ちる。

その小さな現実の音が、この夜が終わったことを静かに告げていた。


紅が蓮見を見た。

 蓮見の横顔は、夜明けの光に淡く染まっている。

 祓印刀の痕が、制服越しにかすかに見えた。


「“祓う”って、正しさと同じ言葉だと思ってた。

  でも、祓うたびに世界は少しずつ静かになって……

  声が、減っていく気がするの。

  あの“たすけて”の声も、理の乱れも。

  もしかしたら、それもこの世界の一部だったんじゃないかって。」


紅は息を呑んだ。

 その言葉が、心の奥の何かに触れた。


「……それでも、祓わないと壊れるんじゃないの?」


蓮見は小さく首を振る。

 「壊れるのが怖いから、祓う。

  でも、“怖い”って、悪いことなのかな。

  恐怖って、生きてる証拠だよ。

  世界だって、私たちだって、

  きっと“揺らぎながら在る”ものなんだと思う。」


紅の瞳が揺れる。

 心臓の奥で、誰かが小さく頷いた気がした。

 (怖いまま、在ってもいい?)

 その問いが、まだ言葉にならないまま胸に沈む。


「……あなたは、怖くないの?」

 蓮見が問う。


紅は、しばらく黙ってから答えた。

 「怖い。

  でも、怖いまま見ていたい。

  そうしないと、何も分からない気がするから。」


沈黙。

 風が吹く。

 夜の匂いと朝の匂いが交ざる。

 その中で、鈴の音が微かに響いた。


二人は同時に空を見上げた。

 雲の向こうで、夜明けの光が世界を縫い始めていた。


蓮見の唇が、かすかに動く。

 「……祓うことが、正しさじゃないなら。

  私は、何を信じていけばいいんだろう。」


紅はその言葉に、ゆっくりと顔を上げた。

 「――信じるんじゃなくて、見届けるのかも。」


蓮見が目を瞬いた。

 紅の声は震えていたが、その震えの奥に確かな熱があった。


「壊れるのも、怖いのも、

  全部“在る”ってことだと思うから。」


蓮見は何も言わなかった。

 ただその言葉を、胸の中で繰り返した。


世界は、揺らぎながら在る。

 祓うよりも、見続ける勇気を持つこと。


屋上を渡る風が、ふたりの髪を撫でた。

 朝の光が差し込み、灰色の空が淡い青に変わる。

 それはまるで――新しい理が、静かに息をしているようだった。



深夜。

 御影玲瓏は、自室の机に向かっていた。

 モニターに流れる理波形の線が、呼吸のように揺れている。

 電子の光が、瞳の中で脈打っていた。


その横に、ひとつの鈴が置かれていた。

 古びた銀色。ほとんど音を失って久しい。


御影は指先でそれを弾いた。

 音は鳴らない。

 けれど、空気がわずかに震え、壁の向こうに波紋が走る。


その中心で、蝶のような黒い影が羽を震わせた。

 影は実体を持たず、理層の余白に浮かんでいる。

 世界の“裏面”を漂う観測の残響――それが彼女の“窓”だった。


「理視(りし)――起動。」


御影の声に応じるように、影が光を帯びた。

 世界の裏側が開く。

 夜の校舎。屋上。

 柵のそばに立つ二つの影――紅と蓮見。


御影は片目を閉じた。

 視界が反転する。

 もうひとつの世界が瞳に流れ込む。

 現実が溶け、余白の呼吸が視神経を満たす。

 音はなく、ただ理の律動だけが聴こえていた。


紅の姿が、遠い夢の中のように揺れている。

 肩のあたりで赤い光が脈打ち、

 理の乱流がまだ彼女を包んでいる。

 だが――崩壊はしていない。


「……安定している。」

 御影は小さく息をついた。

 


「鬼の血を……制御しはじめている。

  ならば、層を超える可能性がある。」


唇に、冷たい笑みが浮かぶ。

 それは祈りではない。

 純然たる歓喜――理を“理解する”ことを超えた、

 理と“同化する”ための衝動。


「進化の予兆。

  人が、観測される側から観測する側へ移行する。」


御影は息を吸い、胸の奥に微かな熱を感じた。

 かつて誰も見たことのない世界。

 神が存在証明を人に委ねた、空白の領域。

 そこへ至るために、彼女は自分の肉体すら要らないと思っていた。


モニターに映る紅の輪郭が、微かに滲んだ。

 瞳の奥で光が渦を巻く。

 その色は夜明けの色――光が映り込んだけ。

 けれど、御影にはそれが“理の啓示”に見えた。


「観測と実在が融合する。

  世界は次の段階へ進むわ。」


指先が、机の鈴を撫でる。

 金属の冷たさが皮膚に染み、

 感覚の境界がゆっくりと曖昧になっていく。


「――やはり、あなたが鍵。

  神原紅。

  あなたの進化が、世界を新しい観測へ導く。」


御影は鈴を弾いた。

 今度は、音が鳴った。


それは耳には届かないほどの微音だったが、

 理層の底で、波紋が確かに広がっていった。


窓の外で風が起き、カーテンがわずかに揺れた。

 理視の像がふっと消える。

 闇の中に残ったのは、わずかな鈴の残響だけ。


その響きの奥で、

 ――“何か”が、彼女を見返していた。


-------

第四章「獣」

夜明けの光は、世界の端を静かに縫い合わせていくようだった。

紅は芝生の上でゆっくりと息を吐いた。胸の奥のざわめきは、少しだけ和らいでいる。

けれど、その静けさはどこか脆かった。薄い氷の上に立っているような、不思議な不安が残っていた。


(……大丈夫。きっと、もう落ち着く。)


そう思おうとした瞬間、指先がわずかに疼いた。

爪の根に残る赤い光が、朝靄の中でかすかに揺れる。

飲み込んだはずのざわめきが、底の方で微かに蠢いた。


世界は呼吸を取り戻した――それでも、自分の内側はまだ揺れている。

そのわずかな揺れが、このままどこへ向かうのか。

紅はまだ知らなかった。


風が吹く。

芝生を撫で、紅の髪を揺らし、どこか遠くへと消えていく。

静かな朝の中に、誰にも聞こえないほどの低い残響――

理の底に沈む微かな呼吸が、確かに続いていた。



その夜、眠りにつく直前。

紅は窓の外にぼんやりと広がる闇に、言葉にならない違和感を覚えた。

朝には晴れたはずの靄が、いつのまにか薄く戻っている。


(……また、揺らいでる。)


胸の奥の赤い疼きが、静かな部屋の中でひとつ、脈を打った。


同じころ。

御影玲瓏の理視は、夜の底で微かな脈動を捉えていた。

沈静化したはずの理波形は、また細かく揺れはじめている。

その中心に、淡い残光のように――神原紅の名が浮かんだ。


「……紅が揺らげば、世界も揺らぐ。

 そして揺らいだ世界は、恐怖に“居場所”を与えはじめる。」


呟きは闇に溶けていく。

世界は静けさを装ったまま、再び小さな歪みを抱えはじめていた。



胸の疼きが落ち着かないまま、紅は布団に身を沈めた。

部屋は暗く、外の街灯だけが窓を細く照らしている。

靄は薄く戻り、夜の輪郭を曖昧にしていた。


(……眠れない。)


まぶたを閉じても、さきほどの赤い脈動が指先で微かに光る。

あの影を斬った夜の感触が、薄皮の下でゆっくりと目を覚ましつつあった。


そのとき、スマートフォンが静かに震えた。


――蓮見澪。


紅は息を飲んだ。

嫌な予感というより、“呼ばれている”感覚。

理の底から、何かがまたこちらを覗いている。


通話を開くと、蓮見の声が抑えた息に混ざって聞こえた。


「……紅? ごめん、こんな時間に。

  でも、ちょっと……変な気配がするの。

  町の北側。廃ビルの近く。

  あなたにも……感じるはず。」


胸が跳ねた。

確かに、遠くの空気が揺れている。

耳ではなく、骨の奥で聴く不自然な波――理の呼吸。


「行く。」

紅は自分でも驚くほど静かな声で答えていた。


怖かった。

でも、目をそらしたら、もっと怖くなる気がした。


靴を履き、家を出る。

夜の風は冷たいはずなのに、皮膚の内側の方が冷たかった。


街灯の光が揺らぎ、影がひとつ分だけ遅れてついてくる。

世界が深く沈むほどに、闇の気配は濃くなり、

町そのものが呼吸をひそめていく。


紅は歩きながら、小さく息を整えた。


(……大丈夫。

 怖いままでも、歩ける。)


そう呟いて、薄暗い路地を抜ける。


空は、もう夜でも朝でもない色に染まりつつあった。


やがて、蓮見の言っていた廃ビルが、静かな闇の中に姿を現した。



夜の底が、ゆっくりと色を失っていく。

 町の明かりがまだらに光り、何も無ければ美しさに見惚れていたかもしれない。


風が吹かない。

 鈴の音もしない。

 まるで世界そのものが、呼吸をやめているようだった。


神原紅は、廃ビルの屋上に立っていた。

 足元のコンクリートがわずかに震えるたび、理の歪みが肌を撫でていく。

 冷たい。

 それでも、彼女の内側の方がもっと冷たかった。


――また、あの夜が来る。


胸の奥がざわつく。

 あの影を斬ったときの、笑っていた自分。

 爪の感触、血の匂い、崩れた世界。

 思い出すたびに、心の奥が軋んだ。


(どうして――あんなに美しかったんだろう。)

 壊す瞬間、世界が光に満たされた。

 痛みも悲鳴も消え、ただ静かで、透きとおっていた。

 その静けさが、いまも指先に残っている。

 恐怖と安堵が混ざり合う。

 壊したくなかったのに、壊したことでしか、生を感じられなかった。


「……怖いの?」

 背後から、蓮見澪の声がした。

 彼女は祓印刀を腰に下げ、凛とした立ち姿のまま紅を見ていた。

 制服の袖を整えたその仕草だけが、まだ“人の世界”を保っている証のようだった。


「怖い、っていうより……戻りたくない。」

「どこに?」

「“壊すほう”に。」


蓮見は少しだけ目を細め、夜明けの方を見た。

 薄い雲が、まるで世界の皮膜みたいに流れている。


「怖いのは、生きてる証よ。

 怖くなくなったら、それこそ終わり。」


「……怖いまま、生きていてもいいの?」


「ええ。人も、鬼も。」


紅は小さく息をついた。

 胸の奥で、かすかに何かがほどける音がした。

 けれど、それはまだ遠い。

 恐怖は、形を変えながら心の底で息を潜めている。

 逃げても、拒んでも、世界のどこかで自分を待っている。


(怖いままでも、歩いていける?

 それとも――またあの光に呑まれる?)


――そのときだった。

 遠くで、空が裂けるような音がした。


乾いた光が走り、ビルの窓が一斉に震える。

 風が戻る。

 音のない風。

 夜の底から、理の“息”が吹き上がってきた。


紅と蓮見は同時に顔を上げた。

 世界の端で、何かが形を持とうとしている。



世界が、軋んだ。

 見えない境界がひとつ、音を立てて崩れる。


地平が波打つ。

 電線が泣き、街灯の光が膨らんでは潰れた。

 時間が止まり、空気の層が逆流する。


――理が、剥がれている。


灰赤の霧が、地面から滲み出した。

 それは、世界の裏面から血が滲むような感覚だった。

 闇の中に、光の糸が一筋だけ残る。

 その糸を辿るように、紅は歩み出した。


「……来る。」

 声が震えた。

 蓮見は祓印刀を抜き、結界を展開する。

 白光が空間を走り、無数の印が青く瞬く。

 だが風は吹かない。音も消えた。


霧の中心で、何かが立ち上がる。

 ――“人”ではない。

 それは、見られることを望む影。

 世界の焦点が一瞬だけぶれる。


灰赤の半透明の肌。

 そこに赤色の光脈が走っていた。

 一本折れた角。

 裂けた制服の断片。

 虚ろな白の瞳の奥で、血のような赤が燻る。


紅は息を呑んだ。

 それは、自分に似ていた。


「どうして、見てくれないの?」

「こわいの? わたしが、あなたと同じだから?」


恐怖の象徴、現代が生んだ鬼――飢鬼が口を開いた。

 その声は――紅の声に、酷似していた。

 音ではなく、心の底に直接届く。


「っ……あなたは、誰?」


「あなたよ。壊したいのに、壊したくない。」

飢鬼の口元に笑みが浮かぶ。

「見られたくないのに、見てほしい。

そんな矛盾を、飲み込めずにいる――あなた。」


紅の背筋を冷たいものが走る。

 否定しようとしても、胸の奥が痛む。

 飢鬼はゆっくりと、彼女の歩幅に合わせるように前に出た。

 鈴の音のような低い共鳴が、世界の奥で鳴る。


「わたしは飢えている。見られたい。見られて、確かめられて、壊れて、やっと“在る”と感じたい。」


その言葉が、紅の喉を締めつけた。

 胸の奥で何かが共鳴している。

 飢鬼の声が、内側から響いてくる。


「あなたも、そうでしょう? 斬るとき、気づいた。

 壊す瞬間が――息をしてるみたいに気持ちよかった。」


(違う……違うのに。)

 心が否定する。

 けれど、身体の奥のどこかが頷いていた。

 壊すという行為の中に、確かに“生”があった。

 怖かったのは、破壊じゃない。

 その快楽を、美しいと思ってしまった自分だった。


「……やめて。」

 紅は一歩下がる。

 だが、足が動かない。

 体が、熱に縫いとめられたようだった。


「あなたの手が震えたのは恐怖じゃない。喜び。

 世界を壊せるっていう、甘い予感。」


「黙って……!」

 紅が叫ぶ。

 その声と同時に、飢鬼が笑った。

 裂けた唇の奥で、白い歯が光を反射する。


「怖いんでしょ? でも、本当は“壊したい”の。

 理の檻も、自分自身も。だから、わたしを見なさい。」


灰赤の影が爆ぜるように広がる。

 蓮見が結界を張り直すが、光は一瞬で砕け散った。

 理の波が反転し、音がねじれる。


「紅、下がって!」

 蓮見の声が震えた。

 紅は返事をしない。

 ただ、見ていた。


――そこに立つ“自分”を。


飢鬼の瞳に、彼女自身が映っている。

 それは、見られる恐怖と見たい衝動の交差点。

 紅は唇を噛んだ。


「見て。それで、壊して。

 壊さなきゃ、あなたは“誰”にもなれない。」


(見たいのは、あなたじゃない。

 でも――きっと、私の奥にある“あなた”を見ない限り、世界も、私も、動けない。)


その瞬間、紅の胸の奥で理の音が跳ねた。

 赤い光が爪の先から滲み、皮膚を裂く。

 血の代わりに光が流れる。


「……っ――!」

 紅の瞳が赤く染まる。

 恐怖と痛みと、甘美な破壊の衝動。

 心臓が、世界の鼓動と同じ速度で打ちはじめた。


風が止む。

 鈴の音が途切れる。

 その静寂の中で、二つの影が動いた。



衝突。

 世界が、軋んだ。

 爪と腕が交差し、光と音が同時に弾けた。

 空間の裂け目から、数式のような紋が流れ出す。

 それは理そのものの悲鳴だった。


紅の視界が白く塗り潰される。

 痛み、熱、そして――高揚。

 息を吸うたびに、胸の奥で何かが脈打つ。

 恐怖と快楽の境界が曖昧になっていく。


「やめろっ……!」

 叫んだ声が自分のものかどうかも分からない。

 飢鬼の影が重なる。爪が頬を掠め、火花のような理波が飛ぶ。

 血の代わりに光が散った。


「嘘つき。斬るとき、あなた――笑ってたよ。」


「違う……あれは……」


「怖かった? うれしかった?


 どっちでもいい。どちらも“あなた”だから。」


声が頭の中で反響する。

 飢鬼が微笑む。その表情が、どこか悲しげだった。

 紅は爪を振り抜く。

 理の膜が破れ、光の雨が降る。


飢鬼の腕が紅の頬を裂く。

 熱い感触。

 痛みはあるのに、涙が出ない。

 胸の奥で何かが笑っていた。


(壊すことは、生きることと似ている。

 でも、壊してしまったら――何を“生きた”と言えるんだろう。)


「ほら、ね。壊すのは、怖くない。

 怖いのは、“壊したあと”に何も残らないこと。」


「……やめて。」


「あなた、見られるのが嫌なんでしょう?

 だから、自分を壊してでも“先に見えなく”なりたい。

 そうすれば、誰もあなたを知らない。誰も、傷つけられない。」


紅の指が震えた。

 胸の奥が、冷たい。

 飢鬼の声は、優しすぎて痛かった。

(この声を拒んだら、わたしは――わたしを否定することになる。)


「――黙れっ!」

 紅の叫びが響く。

 理層が波打ち、瓦礫が宙に浮く。

 飢鬼の身体が弾かれるが、すぐに形を取り戻す。


「でも、それじゃあ誰にも“赦されない”。

 ねぇ、紅。あなたは、赦されたいんじゃないの?」


その瞬間、胸がひどく痛んだ。

 赦し――その言葉に、心の奥がざわめく。

(赦されたい? 誰に? 世界に? あの夜の自分に?)


「赦されたい……?」

 呟いた紅の声は、震えていた。

 飢鬼が近づく。

 瞳の奥の赤が微かに揺れる。


「赦してほしいのは、自分自身。壊したいのも、自分自身。

 ねぇ、だから――わたしを斬ってよ。わたしを壊して、やっと“あなた”になれる。」


紅は息を呑む。

 その言葉は、刃よりも鋭かった。


「あなたを……斬ったら、私は――」


「あなたになる。」


飢鬼が微笑む。

 その笑みが、紅のそれと重なる。

 恐怖と安堵が入り混じった奇妙な感情。

 紅は拳を握り、爪が掌に食い込んだ。


頭の奥で、何かが軋む音がした。

 世界が、自分を見ている。

 飢鬼の瞳も、自分を映している。

 ――逃げ場が、ない。


理層の光が崩れ、周囲の景色が波打つ。

 紅の視界が滲み、世界が水面のように揺れる。


「壊して。見て。赦して。

わたしを――あなたを。」


その声が溶けた瞬間、紅の意識が断ち切られた。

 世界が白く染まり、音が遠のく。

 そして、彼女は“夢”を見る。



――静寂。

 世界が、ひとつの呼吸をやめた。

 紅は宙に漂っていた。

 上下も時間もなく、ただ光の粒が雪のように舞う。


その中で、鈴の音がした。

 遠く、幾重もの理層を越えて届く微かな音。

 耳ではなく、魂の奥で響いている。


光が、形を成す。

 見知らぬ宴の間。

 金襖の向こうには、影が揺れていた。

 人々の笑い声。盃を交わす音。

 酒の匂いと、血の匂いが混ざる。


紅は理解した。

 ――これは、誰かの記憶。


座敷の中央に、一人の男がいた。

 少年のような面差し。

 額から伸びる二本の角。

 美しく、哀しい眼差しをしていた。


大江山の鬼、酒呑童子。


その身に流れる血が、紅の中に流れている。

 彼の瞳が紅を見た。

 まるで最初から、そこに紅がいることを知っていたかのように。


「……きみが、見ているのか。」


声は、穏やかだった。

 彼はゆっくりと盃を掲げ、微笑む。

 その笑みは、敗北でも恐怖でもない――ただの“受容”だった。


彼の手には、頼光から渡された毒杯があった。

 盃の中の酒は紅く、月光を映している。


「人は、鬼を恐れる。だが、鬼もまた人を恐れている。

 恐れ合う世界で、いずれ理はひび割れる。

 ならば――この血を赦そう。

 憎み合う輪の外で、静かに沈むことにする。」


彼は盃を口に運ぶ。

 その瞬間、紅の胸が熱くなった。

 飲めば死ぬと分かっている。

 それでも彼は、穏やかに飲み干した。


毒が血を伝う。

 頬が紅潮し、唇が紫に染まる。

 それでも、微笑んでいた。


「壊すことしかできないなら――

 せめて、その壊れを赦してやれ。」


床が震える。

 扉の向こうから、頼光と四天王の影が近づいてくる。

 鬼は静かに立ち上がり、首を垂れた。

 その瞳は、夜明けの光を映している。


「頼光。おまえが斬るなら、わたしは笑おう。

 憎しみの果てにも、朝は来る。


 世界がまた、鬼を望むなら――。」


刃が閃いた。

 音はなかった。

 ただ、鈴の音だけが鳴った。


その瞬間――紅の手の中に“何か”が落ちた。

 細く、白く、光を宿した刃の欠片。

 彼女はそれを握りしめる。

 掌に刻まれたその名を、確かに感じた。


『鬼斬丸(おにきりまる)』


刀の記憶が流れ込む。

 血と赦しと沈黙の連なり。

 “斬る”ことではなく、“静める”ための刃。

 その意味が、紅の心の底に染み込んでいく。


酒呑童子が、紅の方を振り向く。

 首が斬られた後でさえ、その微笑みは崩れなかった。


「見なくても、在る。

 赦しとは、沈黙を受け入れること。」


その言葉が、紅の中に溶けた。

 光が弾け、宴の間が崩れ落ちる。

 紅の身体が浮かび上がり、再び現実の理層へと引き戻される。


鈴の音が、幻視の境を震わせた。世界が、現実の形を思い出す。

 ――世界が戻ってくる。

 風が吹いた。

 紅は、地面に膝をついていた。

 飢鬼の腕が、紅の肩を抱いている。

 紅の瞳の奥で、夜明けの色――黎明色が滲んでいた。


「……見て……」


紅の唇が動く。

 幻視の余韻が、声となって零れた。


「見なくても、もう在るよ。」


言葉は祈りのように溶け、世界が再び息をした。



「それで……いい。

 わたしは、あなたの中に戻る。」


飢鬼の声が微かに震えた。

 その輪郭が光にほどけていく――だが、消えはしなかった。

 まるで世界に拒まれるように、光は留まり、揺らめいている。


それは、赦されかけて止まった存在。

 消滅と再生のあいだで、まだ呼吸をしている。

 紅はその光を見つめた。

 恐怖も痛みも、すでに薄れていた。

 代わりに、胸の奥に“静かな痛み”が残る。


「……還れないの?」


応える声はなかった。

 ただ、光が一度だけ脈動した。

 まるで“赦しきれない”という、世界そのものの躊躇いのようだった。


紅は息を吸う。

 掌の中に微かな熱。

 童子の幻視で見たあの刃――鬼斬丸の欠片が、皮膚の下で鼓動している。

 黎明色の脈が指先を通って、世界へ溶け出す。


風が吹いた。

 光が揺れた。

 紅はその中心に、静かに歩み寄った。


「壊すんじゃない。静めるだけ――」


囁きながら、彼女は膝をついた。

 光の膜が指先を撫でる。

 その内側に、飢鬼の輪郭がまだ見える。

 苦しそうに、けれど穏やかに眠っているようだった。


紅はそっと手を翳す。

 光が応える。

 鈴の音がひとつ鳴る。


――赦しは、まだ終わっていない。


紅の胸の奥で、何かが形を取った。

 黎明色の線が絡まり合い、掌の上にひとつの刃を編む。

 透明な刀身。

 内部を流れる光は、静かな朝の息吹のように穏やかだった。


紅はその名を知っていた。


「――鬼切丸。」


名を呼んだ瞬間、風景が震えた。

 空の光が裂け、地平が応えた。

 理の層が音を立てて動き出す。

 世界が、再び呼吸を始める。


紅は刀を握る。

 刃先がかすかに震え、黎明色の光が脈打つ。

 まるで、世界そのものが彼女の手の中で息づいているかのようだった。


足元に残る光が、まだ形を保っている。

 飢鬼の名残――未定義の余白。

 それは赦しを待つように、ゆらゆらと漂っていた。


紅は刀を掲げた。

 斬るためではない。

 還すために。


「壊すんじゃない……静めるんだ。」


声とともに、刀が微かに鳴る。

 黎明色の光が奔り、空へと昇る。

 音が消え、世界が光に包まれる。


その一閃は、何も斬らなかった。

 けれど確かに、“境界”を断った。

 飢鬼の光が弾け、粒子が風に溶けていく。

 涙のような輝きが空に昇り、静かに消える。


理層の波が収まり、空間が穏やかに整う。

 光が静かに沈み、世界がひとつの呼吸を取り戻した。


鈴の音が、再び鳴った。

 それは遠くの祠で風に揺れる音にも似ていた。


紅は刀を下ろし、静かに息を吐いた。

 胸の鼓動と、世界の鼓動が同じリズムで響いている。


――見なくても、もう在る。


紅は微笑んだ。

 その笑みは、涙よりも穏やかだった。


空が明るむ。

 黎明色が空一面に広がっていく。

 風が吹き、世界が息をしている。


紅は刀を胸に抱いた。

 その刃は、もう光を帯びていなかった。

 けれど、確かに温かかった。


――赦しは、終わった。

 けれど、終わりではない。


黎明の光が街を包み込む。

 それは夜と朝の境界、世界が“自分を赦す”瞬間の色だった。


遠く――研究室。

 モニターの光がひとつ瞬く。

 御影玲瓏のレンズが、わずかに光った。

 その瞳の奥で、理層の波形が静かに反転していた。


「観測が、動いた……。」

「――層を越えたのね、神原紅。」


彼女の声は、歓喜にも似た震えを帯びていた。

 黎明の光が、まだ終わらない夢のように街を照らしていた。



静寂が、戻ってきた。

 空気が穏やかに揺れ、遠くで鳥の声がかすかに響く。

 風が地面を撫で、漂っていた光の粒がゆっくりと散っていく。

 それは、まるで世界が“呼吸”を取り戻した証のようだった。


紅はその場に膝をついた。

 力が抜け、全身が鉛のように重い。

 けれど、不思議と苦しさはなかった。

 胸の奥に残るのは、痛みではなく温もりだった。

 心臓がゆっくりと拍動するたびに、世界が応える。

 その感覚が、静かに胸を満たしていく。


ふと見ると、すぐ傍に蓮見が倒れていた。

 祓印刀の刃は欠け、結界符の一部が焦げている。

 紅は膝で這うように近づき、その身体を抱き起こした。


「蓮見さん……!」

 呼びかける声に、わずかに反応があった。

 蓮見が目を細め、かすかな息で笑う。


「……泣いて、たね。あの鬼。」


紅は何も言えなかった。

 ただ、頷く。

 言葉よりも先に、涙がこぼれた。

 その涙が蓮見の手に落ち、淡く光る。


「祓えなかった……でも、あの子、静かだった。」

「ええ。静かに、消えた。」

「……祓いじゃないね。たぶん、祈り。」


蓮見の声が途切れた。

 紅はその頭を支えながら、夜明けの空を見上げた。

 淡い光が雲の隙間を縫い、世界を薄く照らしていく。


黎明色――

 それは、すべてを赦す光だった。


風が頬を撫でた。

 鈴の音が再び鳴る。

 遠く、どこかで。


その音に重なるように、足音が響いた。

 紅はゆっくりと振り向いた。

 高台の向こう、黎明の光の縁に一人の人影が立っていた。


スーツの裾が風に揺れ、レンズが光を反射する。

 その人は、静かに微笑んでいた。

 御影玲瓏――紅たちの教師であり、観測者。


(……やっぱり。彼女が、辿り着いたのね。)


御影は静かに眼鏡を外し、ポケットにしまう。

 その動作は、まるで世界との境界を外す儀式のようだった。


彼女は言葉を発しなかった。

 ただ、その瞳は、鬼と同じ“赤色”だった。

 光が頬を照らし、彼女の輪郭が揺らぐ。

 黎明の空に溶け込むように。


「黎明色――理の外にある観測。……やっと、届いたのね。」


囁くような独白が風に混じる。

 その声は紅には届かない。

 けれど、確かに世界がそれを聴いていた。

 御影の眼差しは紅に注がれている。

 観測でも支配でもない――ただ、確認するような視線。


そして、微笑む。

 優しく、静かに。


「世界は、私を通して、自分を見る。」


その言葉とともに、御影の輪郭がふっと消えた。

 風だけが残る。


紅は立ち上がり、空を見上げた。

 黎明色が広がり続ける空の下で、鈴の音がもう一度鳴った。


蓮見が、息を整えながら呟く。

「……黎明って、怖いほど静かね。

 でも、綺麗……夜明けのような、素敵な色。」


紅は微笑んだ。

 その微笑みは、痛みでも安堵でもない。

 ただ、“在る”ということの静かな証。


風が髪を揺らす。

 空の光が、世界を撫でる。


世界は、確かに息をしている。

 彼女もまた、その中で呼吸していた。



飢鬼が斬られた場所に、光は残っていた。


紅の刃が通り抜けた軌跡――

 そこに漂うのは、黎明の色。

 世界がまだ“赦し”を思い出す前の、わずかな呼吸の余白。


御影玲瓏は、それを見つめていた。

 焦げたアスファルト。血と灰の匂い。

 その中心で、空気の層が歪む。

 指先を伸ばせば、何かが震えた。


――欠片。


掌に宿るそれは、光でも熱でもなかった。

 定義される前の理。

 紅が“観測をやめた瞬間”に生じた、世界の呼吸そのもの。


御影は微かに笑う。

「……美しいわね。沈黙が、形になるなんて。」


瞳に黎明の色が映る。

 理の揺らぎが、彼女の眼球を透かして世界に滲む。


遠くで鈴が鳴った。

 風もないのに、透明な音がひとつ。

 紅が消えた後も、まだ理は呼吸をしている。

 ――世界が、自分を見つめようとしている。


御影の胸に、ひとつの確信が生まれた。

 この欠片は、世界の観測構造そのもの。

 紅と飢鬼が互いを見て、存在を変えたとき――

 世界は“他者を通して自分を観測する”という、新たな理を生んだ。


「紅。あなたが見なかったものを、私は見てみたいの。」


声は、風よりも静かに夜へ溶けた。

 彼女の手の中で、欠片が微かに脈打つ。

 黎明の光がその肌を這い、まるで血のように透けてゆく。


その夜、彼女の研究室に灯りがともる。

 黒板に数式が走り、白線が円環を描く。

 幾何学模様の中心には、鏡と波紋。

 そして、ひとつ――黎明の欠片が埋め込まれる。


それは観測装置ではない。

 観測される“世界”を、逆に世界へ見せるための器。


御影玲瓏は、静かにその中心に立つ。

 光が彼女の瞳孔を通り抜け、理の層に逆流する。

 世界が、彼女の内側に映りはじめる。


「世界は、私を通して自分を見る。」


言葉は祈りのようであり、狂気のようでもあった。

 理層がわずかに波打ち、部屋の輪郭が曖昧になる。


彼女は微笑んだ。

 穏やかに、幸福そうに。


「――それが“理層反転”の正体。」


鈴の音が、最後にひとつ鳴った。

 風は止まり、光は閉じる。

 黎明の欠片が彼女の胸の奥で静かに脈を打つ。


それは、世界が再び“自分を観測する”ための心臓の音だった。


------

第五章「理層反転」


朝の光は、薄く曇っていた。

窓の外で木の枝が揺れ、影が白い壁に滲む。

世界は、静かに息をしていた。


紅は、椅子に腰を下ろしたまま動かなかった。

ベッドの上では、澪が眠っている。

包帯に覆われた腕と、薄い布団の下から覗く指先。

その指はまだ、祓印刀を握る仕草のまま固まっていた。


点滴の滴が、規則的な音を立てる。

そのリズムが、まるで“理の呼吸”のように聞こえた。


紅は目を閉じた。

瞼の裏に、あの夜の光がまだ残っている。

灰赤の霧、裂けた空気、そして――飢鬼の声。


――見なくても、もう在るよ。


自分が言ったのか、誰が言ったのかも曖昧だった。

ただその言葉だけが、静かに胸に残っていた。


「……世界は、戻ったんだよね。」


かすかに呟く。

誰に向けたのか分からない声だった。

けれどその問いに応えるように、風が窓を撫でた。

カーテンがひとすじ、ゆっくりと揺れる。


ベッドの澪が、わずかに眉を動かした。

「……紅?」


紅ははっとして顔を上げる。

澪の目がゆっくりと開く。

薄い光の中で、その瞳はまだ夢の残響を映していた。


「起こしちゃった……ごめん。」


「ううん……もう、朝なのね。」


声は掠れていたが、穏やかだった。

紅は小さく笑い、ベッド脇の紅茶を差し出そうとして――手を止めた。

紙コップの底に、乾いた茶葉がこびりついている。

どこか、もう別の世界のもののように見えた。


沈黙。

その静けさの中で、紅はふと問いかける。


「……祓印刀、もう使えないの?」


澪は目を伏せ、かすかに笑った。

「刃は欠けたまま。修復しても、もう“祓う力”は戻らないみたい。

 でも――それでいいのかもしれない。」


「……どうして?」


「祓っても、救えなかった。

 でも“静める”ことはできた。

 それを祓いって呼ぶのは、もう違う気がするの。」


紅はその言葉を、胸の奥で噛み締めるように聞いた。

昨夜、飢鬼を静めた瞬間のことを思い出す。

斬ったわけではない。

ただ、光と沈黙が交わり、世界が息を吹き返した。

祓いでも、勝利でもない――赦しのような感覚。


「……御影先生のこと、聞いた?」


紅の声が震えた。

澪は首を振る。


「行方不明。学校にも自宅にもいない。」


紅の胸が痛んだ。

「まるで、最初からいなかったみたいに。」


窓の外で、風が鳴った。

鈴の音のような高い音が、かすかに響く。

二人は同時に顔を上げた。

どこからともなく、理の残響が流れてくる。

世界の奥で、まだ“観測”が続いている気配。


「……まだ終わってないのかもしれないね。」


紅の言葉に、澪は目を閉じて頷いた。

「ええ。世界は息をしている。

 でも、その息が止まる前に、私たちはもう一度――見なきゃいけない。」


紅は立ち上がった。

カーテン越しの光が彼女の髪を透かし、淡く赤を滲ませる。

黎明の色。

それは、夜と朝の境界にだけ現れる“赦しの光”だった。


「見なくても在る。……そう言ったのに、

 結局、わたしはまた見ようとしてる。」


紅は微笑んだ。

その笑みは、痛みを受け入れた後の静かな光のようだった。


澪が小さく笑う。

「人は、見ないではいられないものね。

 でも――それを赦せるようになったなら、もう怖くない。」


紅は頷いた。

窓を開けると、冷たい風が流れ込む。

外の空は淡く滲み、雲の合間に黎明色が広がっていく。


「……世界が、呼吸してる。」


紅の言葉に、澪は目を細めた。

「そうね。あなたの息と、同じ音。」


紅は振り返り、微笑んだ。

その瞳に映る光は、確かに“赦し”の色をしていた。



夜の準備室には、風の音すら入ってこなかった。

暗がりの中でモニターの光が、薄く揺れる。

机の上に広げた理層波形は、

まるで凍った呼吸のように見えた。


御影玲瓏は、椅子に座ったまま動かない。

赤い瞳に、ゆっくりと波形を映し込む。


「……これは、何度見ても説明がつかないわ。」


飢鬼と紅。

ふたつの存在が、互いを“見合った”瞬間。

理層データは、ちょうど左右反転したように重なり、

中心で小さく途切れている。


観測の鎖が、一度だけ断たれた。


御影はその破断点を指先でなぞった。

爪先の冷たさが、理層の底に触れる。


「観測をやめた……いえ、観測の向きが逆転した?」


彼女は席を立ち、棚の上の銀の鈴を取る。

音はしない。

ただ、鈴の周囲の空気が細く震えている。


そこには、飢鬼の残光が、

そして紅の黎明色が、

どちらも“観測されずに残された欠片”として沈んでいた。


御影の視線が机の端へ移る。


そこには黎明の欠片――

紅が覚醒した際に生じた、微かな光脈の結晶が置かれていた。


触れた瞬間、指先が熱を持つ。


「……やはり、これは“反観測”の触媒。」


黎明の欠片は、観測を増幅するのではない。

“観測が向けられなかった余白”を集める力があった。


御影の瞳に、淡い金が差した。


「余白……未定義……。

 ああ、そうか。」


椅子に座り直すと、

彼女は古いノートを開いた。


そこには、彼女自身の細い字でこう記されている。


《観測者は、一方向性である。

 ゆえに観測者は独立であり、孤独である。》


御影は微笑む。


「孤独を消すにはどうすればいいか――

 紅は鍵を教えてくれた。」


モニターの波形が切り替わる。

紅と飢鬼の交差点。

そして、紅の内に現れた“黎明の光”。


御影の声は、囁くように静かだった。


「相互観測。

 飢鬼と紅は、一瞬、互いを“定義し合った”。

 観測の方向が閉じて、

 世界の定義がふたりだけの環になった。」


指先で欠片を持ち上げる。


金の光脈が、彼女の掌で脈動する。


「……ならば。

 私も、私自身を“観測”すればいい。

 複数の私が、私を見つめる。

 観測は閉じ、定義は揺らぐ。

 きっと、その渦の先に――」


そこまで言って、御影は息を呑んだ。


脳裏に、奇妙な光景が走る。


黒板に書いていた数式が、

鏡に映る自分の瞳が、

机に置かれた鈴の輪郭が、


どれも、“同じ自分”として重なった。


「……分体。

 余白に投影した“私の断片”。

 複数の私で、私を観測する。」


声が震えた。

歓喜にも似た震えだった。


「そうすれば――第三層を越えられる……!」


鈴がひとりでに震えた。


チ……


音にならない音。

けれど確かに理層が応えた。


御影の瞳に、金の光がゆっくりと伸びていく。

影が二つ、三つと彼女の左右に生まれた。


それはまだ、形にならない。

ただの揺らぎ、ただの余白。


けれど御影にははっきりと分かった。


この影たちは、いずれ“私”になる。

 私が私を観測し、

 世界の視座へ至るための――導線。


御影は静かに立ち上がった。


「ありがとう、紅。

 あなたの黎明が、私を導いた。」


指先で、黎明の欠片をそっと胸元にしまう。


「……次は“本体”が、余白へ降りる番。」


研究室の灯りが消えていく。

鈴が小さく鳴った。


その瞬間、御影の影がふたつに裂けた。


まだ声を持たない影たちは、

それでも彼女を見つめていた。



放課後の図書室は、息を潜めたように静かだった。

窓の外から射す夕陽の線が、本棚の背を細く照らす。

人の声も、ページをめくる音もない。

ただ紙の匂いが、わずかに漂っていた。


紅は扉を閉め、澪とともに歩き出した。

靴底の音すら吸い込まれるように消える。

世界が、ゆっくりと輪郭を薄めていく感覚――

それは、飢鬼の夜と同じだった。


「……変だよね。」

紅が小さく呟く。


澪はあたりを見回した。

「授業が終わったばかりなのに、誰もいない。」


二人はカウンターへ向かった。

司書の女性が、古いカーディガンを羽織ったまま資料の整理をしていた。

静かで、どこかぼんやりしている。


紅は勇気を出して口を開いた。


「すみません……御影玲瓏先生の資料って、ありますか?」


司書は手を止め、ゆっくり顔を上げた。

その表情には、見覚えのある疲労と穏やかさがあった。

けれど――次の一瞬、彼女は小さく首を傾げた。


「……御影先生?」


「はい。物理の先生で……」


「物理……?」

司書は眉を寄せ、遠い記憶を探るように視線を泳がせた。

そして、ぽつりと呟いた。


「そんな先生……いたかしら。」


紅の心臓が跳ねた。

澪も小さく息を呑む。


「いえ、ここ数ヶ月は確かに……」

澪が言いかけると、司書は苦笑のような笑みを浮かべた。


「ごめんなさいね。

 最近は年のせいか、記憶が曖昧で……名前を聞いても、顔が浮かばないの。」


紅と澪は顔を見合わせた。

嘘ではない――本当に“思い出せない”顔だった。


(消えてる……?

 先生の記録が、この世界から。)


司書のお礼を言って離れると、紅は小声で呟いた。


「……どういうこと?」


澪は唇を噛んだ。

「わからない。でも、皆の記憶から御影先生が消えてる……そんな気がする。」


紅は震える指で、棚の奥に手を伸ばした。

教員名簿ファイルが、埃をかぶって眠っている。

ページをめくると、歴代の教職員の一覧が並んでいた。


しかし――どの年度にも、御影玲瓏の名はなかった。


「……おかしい。」

紅の声がかすれる。


「……まさか――最初から”御影先生”なんて居なかった?


 偽理法――存在を偽装する術。そういうものを聞いたことがある……。


 だとしたら、あの人は何者なの……」


澪の肩が震える。


動揺と失望、そして疑問が空気を揺らす。


「……理科準備室に行こう。あの人と一番長く居た場所に」


澪の肩を抱き、紅は歩き始める。


主人を失った理科準備室。


静寂が寂しげに響く。

準備室の奥で、本棚がわずかに軋んだ。

風はない。

誰もいない。

なのに、背表紙がひとつ揺れた。


紅は息を呑む。


奥の棚に向かって歩くと、古い木製キャビネットの引き出しが半ば開いていた。

覗き込むと、封をされた灰色のファイルがひとつだけ収まっている。

埃の降り積もり方が不自然に浅い。


澪が囁いた。

「……最近まで誰かが触ってた。」


紅はそっと封を破った。


中には、数枚の紙束。

表紙には見慣れない筆跡でこう記されていた。


《理層反転計画 ― 観測の構造転位について ―》


紅の背筋に冷たいものが走った。


澪が肩越しにのぞき込む。

ページをめくると、緻密な理層図、相互観測による存在の再定義、そして――


《対象:神原紅》


その一行が、紅の心臓を締め付けた。


「……どうして、私の名前が……」


澪の声が震える。

「御影先生、あなたを……何に使うつもりだったの?」


紙束の奥に、手書きのメモが挟まっていた。

御影の独特の文字が、細い線でこう綴っている。


《御影の残したメモ》


――世界は人を観測していない。

 だから人は孤独だ。


――ならば、私が世界の眼になる。

 “理想反転”とは、その第一歩である。


 その中心地は、あの場所がいいだろう。


 封鎖された観理院の実験施設……。


神原紅。

 あなたの因子――黎明の欠片が、その鍵になる。


紅の手から紙が落ちた。

床に触れた音は、まるで世界から“誰かが欠けた音”のように響いた。


澪が紅の肩に手を置く。

「紅……大丈夫?」


紅は答えられなかった。

胸が痛い。

息が浅い。


(私を……“反転”の鍵に?

 世界を――裏返すために?)


その瞬間、図書室の奥で何かが鳴った。


――チリ……


どこか遠くで、鈴の音が揺れた。

誰も触れていないのに、音だけが確かに響いた。


紅は振り返る。

誰もいない。

夕陽の線だけが、わずかに歪んでいた。


澪がそっと囁く。

「……御影玲瓏は、もう“ここ”にいないのかもしれない。」


紅は首を振る。

「ううん。いる。

 私たちを待ってる。そんな気がする。」


夕陽が沈む。

準備室の影が長く伸び、世界の端がぼんやりと揺れる。


紅の胸の奥で、鈴の音がもう一度鳴った。


それは――

“反転”の始まりを告げる音だった。


校舎を出たあと、

紅と蓮見はほとんど言葉を交わさなかった。


名簿から消えた教師。

存在しない記録。

そして、《対象:神原紅》と記された計画書。


歩くたび、足元の影がわずかに揺らぐ。

世界の“視線”がずれている。


山から吹き下ろす風は冷たく、

紅は腕を抱いた。


(……御影先生は、私を使って世界を裏返そうとしてる。)


澪が言う。


「紅……いったん帰ろう。

 頭を整理しないと、飲み込まれる。」


紅は頷いた。

いまは何も見通せない。


二人は校門前で別れた。

紅は自宅へ帰りついたものの、

心の中心がざらついて眠れない。



夜風が、窓ガラスを薄く震わせていた。


世界の“視線”がずれているような、落ち着かない風だった。

紅はベッドの上で、ただ天井を見つめていた。


名前のない名簿。

司書の「そんな先生いたかしら」。

計画書に記された《対象:神原紅》。


そのひとつひとつが胸の奥に沈殿し、

息を吸うたび、胸骨の裏側を爪でひっかかれるような痛みが走る。


(……御影先生は、私を“鍵”にしようとしている。)

(世界を……裏返すために。)


その考えが浮かぶたび、

身体がじわじわと冷えていく。


瞼を閉じた瞬間――

世界が音を落とした。


光が反転するように視界が沈み、

紅は靄の底へと降りていった。


──気がつくと、灰白の空間に立っていた。


影が落ちない。

床も空も、すべてが“観測されていない”色をしている。

世界が自分から目をそらしている場所。


その中心に、角の少年がいた。


幼い面立ち。

額に小さな角。

瞳は深い赤で、それなのに不思議と静かだった。


紅は息を飲む。

声が自然にこぼれた。


「……また来たの?」


少年は淡く笑った。

その笑みは、夜明けの手前に差す光のように儚かった。


「来たね、紅。

 ここは、“見られない場所”。

 世界が、君からそっと目をそらしている。」


「目を……そらしてるの?」


「うん。

 誰かを見るってことは、

 誰かの形を削るってことでもあるからね。」


紅の胸がひりついた。

飢鬼に見られた夜の息苦しさ。

御影に視線を向けられたときの、身体の芯が軋むような痛み。


紅は震える指先を胸の上に置き、

吐息を押し出すように呟いた。


「……怖いの。

 見られると自分じゃなくなるみたいで。

 誰かを見るのも……怖い。

 私が、その人を壊しちゃうかもしれないから。」


少年はその言葉に割り込まず、

ただ静かに聞いていた。


「怖さを否定しなくていいよ、紅。」


紅は目を瞬く。


「……え?」


「恐怖は、生きている証。

 壊れたくないって願う気持ちは、

 誰よりも“生”に近い。

 だから、そのままでいい。」


紅の胸がじんと温かくなる。

怖さを抱えている自分を、そのまま肯定されたのは初めてだった。


少年は歩み寄り、紅の視線の高さに合わせるように顔を上げた。


「御影玲瓏は、

 まだ“観測の痛み”を知らない。

 彼女は孤独を消したくて、

 世界そのものを見ようとした。」


紅は息を呑んだ。


「……御影先生は、間違ってるの?」


「ううん。

 人はね、自分が見たものしか信じられないんだ。

 御影玲瓏も、そう。

 彼女は彼女なりに、ずっと孤独だった。」


少年の瞳が悲しげに揺れた。


「でもね、見ることで世界を傷つけることもあるんだよ。

 彼女は……まだそれを知らない。」


紅は下唇を噛んだ。

胸の奥に、痛みと憐れみが混ざったような感情が満ちる。


「……じゃあ、私はどうしたらいいの?」


少年はそっと紅の指先に触れた。

その触れ方は痛みを確かめるように、優しかった。


「紅。

 赦しとはね、沈黙を受け入れること。

 声にならない想いを、無理に形にしなくていい。

 “見なくても在る”と、信じる強さ。」


紅の瞳が揺れる。

胸の痛みがすっと和らぎ、

代わりに静かな光が差し込んだ気がした。


「でも……私は、怖いままだよ。」


少年は微笑む。


「いいんだよ。

 怖さを抱えたままでいい。

 恐れる自分を赦せたとき――

 君は曖昧さを抱きしめる。

 そしてそれが……“黎明”になる。」


その言葉が落ちた瞬間、

靄が淡い光に満たされ、

鈴の音が世界の奥へ染み込んでいった。


足元が崩れ、紅の身体がふわりと浮き上がる。


最後に、少年の声が響いた。


「世界は裏返る。

 そのとき、紅は選ぶんだ。

 見るか、見ないかを。」


光が弾けた。


紅は息を吸って目を開いた。

暗い天井。

夜の気配。

胸の奥には、鈴の残響がまだ微かに響いている。


(……私は、怖いままで、いていいんだ。)


その小さな理解が、

紅の心を確かに押し上げていた。



休日の夕方は静けさに満ちていた。


校門の前に澪は居た。


「……行こう。あのメモが示していた場所へ。」


二人は歩き出す。


それでも、胸の奥の冷たさは消えなかった。

赦しを知ったはずなのに、まだ“怖いまま”だった。

だからこそ、行かなければならないと思った。


風が頬を切った。


世界の呼吸が――乱れている。


遠くの山から、かすかに鈴の音が響いた。


風が運んだのではない。


**理そのものが鳴っている音。**


澪は震える声で言う。


「……あれが、呼んでる。」


紅は目を細める。


その方向には、


古い防空壕跡へ続く山道が伸びていた。


御影玲瓏のメモが示した場所。


世界が、そこへ沈んでいく。


二人は言葉を交わさず、山道へ向かった。


紅の胸で、


なにかが小さく鳴った気がした。


鈴の音とも、心臓の音ともつかない振動。


――あの場所で、世界が裏返ろうとしている。


灰色の空を裂くように、


ひと筋の光が落ちていった。


鉄扉は、わずかな軋みを残して開いた。

その音はまるで、こちらへ来ることを知っていたかのようだった。


防空壕の内部は、風のないはずの地下なのに、

どこかで空気が擦れ合っているような気配があった。

風ではない。

理の表面がこすれる音――そんな錯覚を紅は覚えた。


澪が小さく肩を震わせる。

「……紅。ここ、“世界が息をしてない”。」


紅は頷いた。

胸の奥に冷気が溜まっていくような感覚。

光も影も、呼吸を忘れた空間。


そのときだった。


チ……ン……


風もないのに、

鈴の音だけがひとつ落ちた。

それは、地下を貫くほど澄んだ音だった。


闇が、揺れた。


御影玲瓏が、静かにそこへ現れた。

空気が彼女の形をなぞるように震えている。


御影玲瓏の髪は、もはや灰青ではなかった。

かつて色を宿していたその髪は、

理層の光を受けて“薄い金色”へと転じていた。


光脈が流れているわけでもないのに、

一本一本が黎明の光を溶かし込んだように輝いている。


瞳は深い黎明色で、

瞳孔は人のものではなく、

円環状の“観測紋”が静かに回転していた。

神格へ至った証であり、

それでもわずかに残る彼女自身の意志の揺らぎだった。


変成していた。

外側は闇を溶かすように黒く、

内側は深紅の理光がわずかに滲み、

金の刺繍が脈動するたびに宇宙の回路のような紋が走る。

その姿は、人ではなく――

世界が人の形を借りて立っているように見えた。


「来たのね、紅。澪さんも。」


澪は祓印刀に手を伸ばすが、

刃は震え、抜き放つことすらできない。


紅は一歩前へ。

「先生……ここで何を?」


御影は微笑んだ。

その微笑みは、温かいはずなのに、どこか底に氷を抱えていた。


「――進化の話よ。」


そう言った瞬間、

御影の足元の影が揺らぎ、盛り上がった。


ひとつ。

またひとつ。

影は“御影の思考”そのものが形を持ち始めたように、

光を帯びて立ち上がる。


紅が息を呑み、澪が後ずさる。


御影は、ただ静かに言う。


「余白に投影した“私”よ。

 ――観測を、閉じるための。」



最初に立ち上がった影は白く、鏡のように無表情だった。御影の分体――理智(りち)。

黒板の数式がその身体に薄く浮かんで見える。


「玲瓏。

 観測とは進化の必然だ。

 世界を理解するとは、世界を観測すること。

 だから我々は“観測の王”になるべきだ。」


御影はゆっくりと頷く。

「そうね。世界を知りたかった。すべてを。」


理智はさらに続ける。


「理解こそ救い。

 未定義のままでは、誰も存在を許されない。

 ――観測こそ、人が在るための条件だ。」


紅には、その論理が

“世界の鎖”のように聞こえた。


闇の隅で、小さな影が膝を抱えて現れた。

声はあまりにも幼く、震えていた。御影の分体――孤影(こえい)。


「玲瓏……寂しかったよね。

 誰も私を見てくれなかった。

 家族も、観理院も……世界の隅で消えていく人の気持ちなんて、誰も理解してくれなかった。」


御影の表情がわずかに揺れた。


「……そうね。」


「だから“世界そのもの”に見てほしくなったんだよね?

 誰でもなく世界が、

 あなたを必要だって言ってくれたら……

 玲瓏は孤独じゃなくなる。」


御影の呼吸が震える。


「……私は、ずっと……見られたかったのね。」


紅は胸を押さえた。

先生の孤独が、痛いほど伝わってきた。


紅の前に立つ影は、淡い赤い瞳を揺らした。

その色は紅の瞳に似ていた。御影の分体――執着(しゅうじゃく)。


「紅。

 あなたは玲瓏にとって奇跡そのもの。

 飢鬼と響き合い、黎明を生んだ。

 あなたを観測することで、玲瓏は世界へ触れられた。

 それは愛よ。」


御影は震える声で遮る。


「違う……

 それは、愛なんかじゃ……。」


「いいえ。

 あなたは紅のすべてを観測し、

 紅を通して世界を見ていた。

 それは歪んでいても、紛れもなく――愛よ。」


御影の瞳に涙が浮かぶ。


紅は息を飲んだ。

(先生……そんな気持ちで……)


防空壕の奥の闇が鋭く裂け、黒い影が現れた。

声は怒りと冷たい理性に満ちていた。御影の分体――断罪(だんざい)。


「玲瓏。

 観理院はお前を捨てた。

 理を見ろと言いながら、真理を恐れた。

 だから彼らの段階など越えればいい。」


御影の表情が変わる。

悲しみが消え、強い意志が現れた。


「ええ……私は、止まりたくなかった。」


「ならば進め。

 世界の上位構造へ。

 観理院が恐れた“理の外側”へ。」


御影の瞳は、もはや人の色ではなかった。


最後に現れた影は、もはや“影”と呼ぶことすらためらわれた。最後の分体――黎視(れいし)。

輪郭は曖昧で、金の光脈が脈打ち、

身体には世界地図のような模様が淡く流れている。


瞳は――黎明色だった。


「玲瓏。」


声は風でも、金属でも、呼吸でもない。

理層そのものが震えて発語しているようだった。


「あなたが求めていたものは、

 愛でも、赦しでも、理解でもない。」


御影は一歩近づいた。

まるで自分の未来へ触れようとするように。


「……なら、私は何を?」


黎視は優しく告げる。


「“世界が自分を観測する場所”へ行くこと。

 孤独を終わらせ、存在を完成させること。

 あなたはずっと、

 世界の視座へ行きたかった。」


御影の胸が波打つ。

五つの声が、五つの感情が、

一本の線となって、彼女の奥へ沈んでいく。


澪は紅の腕を握りしめた。

「……紅。あれ、もう“人じゃない”。」


紅は答えられなかった。

御影を見ていると、

涙と恐怖と理解が同時に胸を焼いた。


五体が、御影の周囲に円を描くように立つ。

その姿は、まるで儀式の中心に

“ひとりの人間の心臓”を置いたようだった。


理智

「進化せよ。」


孤影

「孤独を終わらせて。」


執着

「紅を観測して。」


断罪

「過去を越えろ。」


黎視

「世界へ至れ。」


五つの声が、御影へと収束する。


観測の向きが閉じ、

御影が中心となって

“観測する側”と“観測される側”の両方に立つ。


それは、紅が飢鬼と向き合ったとき――

黎明を得た瞬間にも似ていた。


だがこれは、遥かに歪で、痛く、美しい。


御影は震える声で呟く。


「――私は、私を観測する。」


光脈が強まり、空気が揺れる。


「五つの私が、

 私を定義し、

 私を壊し、

 私を創り直す。」


影が弾け、御影の身体へ吸い込まれる。


紅には見えた。

御影の“内部”に、世界の断片が映っていた。

夜明け、山影、海、子供の泣き声、

人の記憶、理層の余白、

紅と出会った日の光。


「私は……世界を見たい。」


御影の瞳が、完全に黎明色へ染まった。


「そして世界は、

 私を通して自分を見る。」


御影は、

ゆっくりと、まるで祈るように手を広げた。


「だから――」


声が震えた。


「第三層すら、もういらない。」


その瞬間。


世界が、

音を失った。


空気が揺れ、壁が波打ち、

防空壕の天井の輪郭が溶けていく。


澪が悲鳴を上げる。

「紅、危ない……!!」


紅が振り返る。


御影の周囲には、

“存在圧”としか呼べない圧迫が生まれていた。


世界が、御影ひとりを中心に沈んでいくような感覚。

重力でも風でも音でもない、

ただひとつの“定義”の力。


紅は――

見てはいけないものを見ていると理解した。


御影の輪郭が、光の粒になり、

世界の地図を反転させるように膨張する。


澪が紅の腕を掴む。

「紅! 行くよ!!」


紅は頷き、走り出す。

振り返れば、もう“観測される”気がして怖かった。


追いつくように、風も音も消えていく。

紅と澪は階段を駆け上がった。


背後で、

御影玲瓏が世界と重なった。


チ……ン……


鈴が鳴る。

だがその音は、

世界が逆再生されるような“異音”になっていた。


防空壕の天井が白光に貫かれた。


地上の土が裏返り、

古い木々が音もなく倒れ、

その上の空が、

ひっくり返った。


無音の爆心。

光だけが、世界を焼いた。


紅は澪の手を握りしめたまま、

ただ走った。


息を吸うたび、肺に“存在”が流れ込んでくる。

世界が自分を観測し始めた証拠。


紅は涙を零しながら叫んだ。

「先生……やめて……!」


だが御影は振り返らない。

振り返れば彼女は、

もう人ではなくなってしまうから。


世界が、

御影玲瓏という観測者を通し、

 二度目の夜明けを迎えようとしていた。


白光が地下を焼き払い、

地表を吹き飛ばし、

地形を塗り替えた。


紅と澪は地上へ飛び出す。

背後で、

巨大な理波が夜空を割った。


そして――

世界の呼吸が反転し、世界は「黎明」へたどり着く。


------

第六章「黎明」


世界が反転した直後、 紅はほんの一瞬、時間の“継ぎ目”を見失った。


白光が地上を呑み込み、防空壕の構造が書き換わり、 地形そのものが上へ裏返る。


――存在圧による爆心。


だが、その爆心はまだ“外側の変動”にすぎなかった。


中心にいた御影玲瓏は、物理世界の爆心が収まるより早く、 すでに“別の位相”へと沈んでいた。


まるで神話の中で、 ひとりの人間が世界の側へ召し上げられていく瞬間のように。 衣服は理の裏布へ変質し、 金の光脈が体内を走り、 視線はどこにも向かず、 それでいて全方向を“見ていた”。


紅が呼びかけたときには、 御影は“地上という物差し”で測れる存在ではなくなり、 彼女の影だけが、最後にふっと揺れた。


そして御影が完全に理へ沈んだ瞬間―― 紅たちが立つ“こちら側の位相”にも、遅れて反転が到達した。 それは爆心の“第二波”――位相内部への侵食だった。


鈴の音が―― 逆方向に鳴った。


チ……ィ……ッ。


防空壕で起こった白光の奔流が、 時間差で紅たちの“立つ層”へ押し寄せた音だった。


すでに砕けた空間の“残響”だけが、遅れて紅たちの層へひしゃげながら届いた。


次の瞬間、 理層の裏返りが、紅の位相へ到達した。


「紅、伏せて!」


澪の叫びと同時に、 先に地上へ噴出した爆心の“裏側”が、内側から紅をさらう。


鏡が砕けるように視界が裂け、 上下が消え、 観測の方向がひっくり返る。


(上も下も、ない……。)


紅は澪の腕をつかむが、 指先が“見え”なくなった瞬間、 触覚が消えた。


(観測が……切れてる……!)


澪の姿は地上の瓦礫の向こうへ遠ざかり、 紅だけが“もう一段深い裏側”へ引きずり込まれる。


空は黒い球体の裏側のように歪み、 雲がひっくり返り、 世界が吸い込まれる。


視界の中心で、鈴の残響だけが浮かんだ。 ――世界が、自分を見始めている。 紅の身体が白と黒の狭間へ落ち、 地上の景色が完全に剥がれ落ちる。


そして―― 世界の色が消えた。 白と黒だけの“反観測空間”が広がり、 足元が定義されないまま揺らめく。 その中心に、 御影玲瓏が立っていた。 瞳は黎明色。 輪郭は揺らぎ、 もはや人の形ではない。


「……待っていたわ、紅。」



世界は、白と黒だけだった。


白は“観測”、黒は“未観測”。

その境界は液体のようにゆらめき、

誰かの一瞥だけで形を変える。


空も地も、上も下も、遠近の感覚さえ――

すべてが“視られること”によって決まる世界。


紅はその中心に立っていた。

足元の影が、天へ向かって逆流している。

影が“地”として定義されていないからだ。


息を吸おうとしても、空気は流れ込まない。

呼吸という仕組みそのものが、この世界には存在しなかった。


(……息が、できない。)


喉が軋む。

胸の奥がひどく冷たい。


そんな紅の前に、御影玲瓏は静かに立っていた。


彼女の輪郭は絶えず揺らぎ、

細胞という単位ではなく――

無数の“観測点”がたまたま人の形に集まっているだけの存在。


ただ、瞳だけが人間のものだった。

深い黎明色。

朝と夜の境界を閉じ込めたような光。


「紅。」


御影の声は距離を超えて直接胸に届いた。

音ではない。

理層そのものの“振動”だった。


「あなたが来てくれて、嬉しい。」


紅はかすかに息を漏らす。


「……ここが、先生の見ている世界……?」


御影は微笑んだ。

その笑みは穏やかで美しいのに、

どこか“手放す人”の静けさを帯びていた。


「ええ。

 世界は私を通して自分を見ている。

 観測は、いま完全な形で循環しているの。」


紅は周囲を見渡す。

白と黒が波紋のように広がり、

存在と非存在が絶えず混ざり合う。


(ここでは……

 “私”という形さえ、誰かに見られなければ保てないんだ……。)


その理解が胸に落ちた瞬間、

紅の身体にじわりと痛みが走った。


皮膚が剥がれるような痛みではなく――

“形が削がれていく”痛みだった。


御影が静かに告げる。


「見られない部分は、存在できない。

 あなたの影も、あなたの息も――

 “定義されない部分”から溶けていく。」


紅の足元にひびが入り、

手の輪郭が白黒の境界に溶け始める。


御影の瞳がかすかに揺れた。


「怖がらないで。

 これは、進化の前段階。

 あなたが感じている消失は――

 “世界があなたの余白を取り込み始めている”証。」


「……進化なんて、してない。」

紅は震える声で言った。

「もし……誰かの痛みを置いたまま進むのなら……

 それはただ、壊れてるだけだよ……。」


御影の表情に、ほんの一瞬だけ哀しみが差した。


「壊れるのは、弱さではないわ。

 観測されることは、生きること。

 あなたは、ただ“見られている”だけ。」


紅の胸が締めつけられる。

“見られている”という痛みは、

飢鬼との戦いよりずっと強かった。


胸の奥で、童子の声がかすかに揺れる。


――見ることの痛みは、生きている証。


紅は歯を噛みしめた。

ゆっくりと顔を上げる。


「先生……。」


御影が静かに手を伸ばした。

白黒の空間が、その動きに応じて大きく波打つ。


「なら、教えて。

 紅。

 あなたが“生きる”ということを。」


白黒世界の中心で、

観測と存在の思想がゆっくりと交差する。


御影の瞳が、紅をまっすぐに射抜いた。


紅は一歩踏み出した。

足元の影が揺れ、

崩壊していた時間の流れが、わずかに戻る。


そして――静かに告げた。


「……先生。

 いまのあなたは、“誰か”じゃなくて……

 世界そのものみたいだ。」



世界そのもの――。


その言葉が落ちたとき、

御影の瞳の黎明色が、ほんのわずかに揺れた。

白と黒の境界が、彼女の足元から薄く震える。


「世界そのもの、ね。」


静かに繰り返す声は、もう“誰か”のものではなかった。ただ、観測の中心から放たれる振動のように、淡々と響く。


御影の声は、世界の呼吸と重なった。

その瞬間、紅の視界が焼けた。


光が降る。


いや――光ではない。

“視線”だった。


見えない無数の観測点が、天から落ちてくる。

一粒触れるごとに、世界は定義され、空間が固定され、物質がひしゃげる。

紅の頬をかすめた瞬間、皮膚が痛んだ。


見られただけで、存在が削られる。


「っ……!」


紅は咄嗟に身を翻したが、逃げ場はなかった。

どの方向にも“目”があった。

光線のような視線。

観測の雨。


その中心で、御影が立っている。

その瞳は、焦点を持たない。


代わりに、世界の層が彼女の瞳孔へ滲み込み、

 まるで“世界そのものが眼の奥で呼吸している”ようだった。


「見られるほど、あなたは確かになる。

 確かであることは、痛みなく在るということ。

 定められた形の中で――静かに眠りなさい。」


紅の足元が崩れる。

観測された瞬間、空間が“定義されすぎて”砕けた。

破片は宙に浮き、光に透け、存在を維持できずに溶けていく。


紅は飢鬼との対話を思いだす。


――見なくても、もう在る。


紅の瞳は黎明色に染まり、その手には一振りの刀――鬼切丸が握られていた。


刃が黎明色に淡く脈動する。

世界の呼吸と共鳴し、鈴の音がひとつ鳴った。


御影の声が空を渡る。


「観測とは、愛よ。

 でも愛は、すべてを定義する。

 君が誰かを“見た”瞬間――もう、その在り方を選べなくなる。」


「……あなたの“見る”は、支配だ。」


紅の声は震えながらも静かだった。

「私は、見なくても在ることを知ってる。」


御影の瞳の奥で、観測点の並びが“ほんの一瞬だけ”ノイズを孕んだ。

揺れというより、理波のわずかに乱れ――。


紅は踏み出す。

鈴の音が鳴った。

鬼切丸の刃先が、光の雨を裂く。


斬った――瞬間。

空気がひっくり返り、視線が一度断ち切られた。


“見られる”という痛みが消える。

しかし同時に、世界の輪郭も曖昧になる。


「見ないことで、世界は消える。」


御影の声が響く。

「君が斬れば斬るほど、世界は“定義”を失うのよ。」


「……それでもいい。」


紅は息を吸った。

「在る」と「見られる」の境界を、胸の奥でそっと抱きしめるように。


「見なくても、もう在る。

 あなたも――私も。」


空が震えた。

光の雨が止み、代わりに鈴の音が広がる。

その音は、理の呼吸のようだった。


御影が顔を上げる。

瞳の奥に、黎明色のきらめきが一瞬だけ宿る。


空が震えた。


空が白く、すべての焦点が失われた。



光が散っていた。

空中に残る観測点の残滓が、砂のように崩れ落ちていく。

紅の頬に、ひと粒の光が触れ、静かに弾けた。


音はしない。

ただ、紅には世界が――かすかに“息”をしているのがわかった。


御影は静かに立っていた。

視線の焦点がどこにも合っていない。

だがその存在が、あらゆる方向から紅を“見ていた”。


黒い外套の内側で金の刺繍がわずかに脈動し、

そのリズムに合わせて、世界の層から無数の観測線が滲み出している。


彼女の瞳孔では、円環状の“観測紋”が静かに回転していた。

まるで世界が、ゆっくりその中へ吸い込まれていくかのように。


「もう“こちら側”にはいないんだね。」

紅の声は低く、息に似ていた。

「いまのあなたは、“見る”という仕組みそのもの。」


御影は微笑んだ。

その笑みは美しく、そして痛々しいほど静謐だった。


「人が理を見上げるように、私は世界を見上げてきたの。

 でも――見上げ続けていたら、いつの間にか私は理の中にいた。」


紅は沈黙する。

鬼切丸が静かに脈打ち、黎明色が刃の根元へ滲んでいく。

周囲の空気が、息を飲むようにわずかに揺れた。


「見ないと、壊れる。

 誰も観測しない世界は、存在できない。

 だから私は――すべてを見ようとしたのよ。」


その声に、かすかな哀しみがあった。

紅は、その理由を責めることができなかった。


「でも、先生。」


紅はゆっくりと一歩を踏み出す。

足元で黎明色が揺れ、影が淡く震えた。


「見すぎても、壊れる。

 誰かを“理解したい”って思っても、

 その全部を覗こうとしたら……

 その人の形は、きっと失われる。」


御影の瞳が、ごくわずかに動いた。

観測紋の回転が一瞬だけ鈍る。


そこに初めて、“人の反応”が宿った。


紅は静かに言葉を置いた。


「見ないことも、優しさなんだと思う。

 息をしているだけで、在るって信じること。

 それが――赦し。」


その瞬間だった。


御影の輪郭が、ふっとほどけた。

外套の金刺繍がわずかに乱れ、

観測点の並びが一瞬だけ散り、また収束する。


胸の奥で、光脈がわずかに脈動した。


揺れというほどではない。

ただ、理の層に触れた“曖昧の残響”が、

彼女の中へ静かに波紋を落とした。


「……優しさ……?」


御影の声が、一拍だけ“ひとつの声”に戻った。

人間だった頃の玲瓏に最も近い響き。


しかし次の瞬間には、観測紋が再び円環を広げ、

声は複数の位相へとほどけていく。


「そんな曖昧さで、世界を“理解”できるの?」


紅は首を振った。


「理解しなくていい。

 ただ――在ることを、認めるだけ。」


その声は鈴の音のように柔らかく響いた。

御影の視線が、初めて紅を“正面”から捉える。


焦点が合った瞬間、空間が波打ち、

世界の層がひとつ震えた。


黒外套の内側で、金の紋が脈動を強める。


「曖昧は、理を壊す。」


御影の瞳が黎明色に強く光る。

空の奥で、再び無数の観測点が生まれた。


それは怒りでも憎しみでもない。

“理解したい”という、悲しいほど純粋な本能の輝き。


「優しさは、理を曇らせるだけ。」


御影の声とともに、空間が反転する。

黒と白が入れ替わり、紅の身体がふっと浮いた。


紅は刀を構える。

黎明色が揺らめき、理の層を照らしていく。


「それでも、私は信じたい。

 優しさが、世界を呼吸させるって。」


瞬間、御影の周囲に白い霧が立ちこめた。

音が消え、世界の輪郭が溶けはじめる。


黒外套の内側の金刺繍が開き、

観測線が反転して白へ溶け込んでいく。


空気から“観測の気配”そのものが剥がれ落ちていく。


御影が、静かに指を弾いた。


「なら、見られなければどうなるか――見せてあげる。」


光が反転し、紅の視界が真白に染まる。

音も、色も、方向も奪われていく。


世界が――“観測を拒絶する”。



――音が、消えた。

空も地も、輪郭を失う。

白が、世界を呑み込んでいく。


紅は息を呑んだ。

その息の音さえ、空気に届かなかった。

音が、世界から“定義”を奪われている。


目を開けても、何も見えない。

見えるのは、光でも闇でもなく――“余白”。

それは、何も書かれていない世界の原稿のようだった。


「見ないこと。

 それは、私が最も恐れてきた“無”よ。」


御影の声が、どこからともなく響いた。

距離の概念が崩れている。

その声は近くにも遠くにも感じられた。


黒外套の金刺繍が、白の中でわずかに光子の残滓を撫でる。

円環状の観測紋が瞳孔でゆっくりと回転し、

その度ごとに白い空間へ“観測が戻ろうとする律動”が波紋のように広がった。


「観測されなければ、存在は維持できない。

 “在る”ということは、“見られる”ということ。

 それ以外に証明はない。」


紅は腕を見た。

手の輪郭が溶けていく。

白の霧に飲まれ、形を失っていく。

その部分に“存在の感覚”がない。

確かに、消えていた。


御影の声が続く。

「それが、理の構造。

 あなたが見ないものは、定義されずに消える。

 だから私は、見続ける。

 誰も、忘れないように。」


紅は震える声で呟いた。

「……違うよ。

 見なくても、消えない。」


御影の観測紋がわずかに軋むように揺れた。

「証明できるの?」


紅は首を振った。

「証明なんて、いらない。

 息をしてる。それだけで在る。

 あなたが見なくても、私は消えない。

 世界も……あなたも。」


世界が震えた。

白の中で、微かな鈴の音が響く。

紅の胸の奥から、黎明色の光が滲み出す。


それは光ではなく、“呼吸”だった。

世界の、理の、余白に残された“呼吸の音”。


御影が息を呑む。

観測紋の回転が一瞬だけ止まり、金刺繍の紋がわずかに脈打つ。

「……音? この空間で?」


紅の輪郭が、かすかに戻る。

鬼切丸が黎明色を帯び、手の中で震えた。


紅は静かに目を閉じた。

見えない世界の中で、確かに“在る”ものを感じる。

音も光も要らない。

ただ、世界がここに“息づいている”という感覚だけが、確かだった。


「見られなくても、在る。

 ――それが、赦し。」


紅が刃を振る。

黎明色の光が白を裂く。

無数の余白が反転し、世界に色が戻る。

空気が流れ、光が走る。


御影が後ずさる。

瞳の観測紋が大きく開かれ、紅を見つめる。

「ありえない……観測されていないのに、存在が――!」


紅は微笑んだ。

「世界はね、誰かが見ていなくても、

 ちゃんと息をしてる。

 あなたが見ないことも、もう怖くない。」


御影の顔に、初めて“動揺”が浮かんだ。

その揺らぎに、外套の金光がわずかに乱れる。


そして、微かに震える声で呟く。


「……じゃあ、私が見てきたものは、

 いったい何だったの。」


紅は答えなかった。

ただ、刃を下ろし、

その一瞬に満ちる静寂を、赦しのように受け止めた。


黎明色の光が消え、空間が揺れる。

御影が目を伏せ、指先で空を撫でる。

その動作に合わせて、黒外套の金刺繍が反転し、

世界の“観測回路”が逆流を始める。


時間が一瞬だけ軋む。


「……なら、試してみよう。

 本当に、“息をしている”のか。」


御影の周囲の空気が反転する。

世界の光が固まり、動きが止まる。


紅が瞬きをする間に、

風が、音が、時間が――止まった。


理層の針が、完全に静止する。



――世界が、息をやめた。


光が止まる。風が固まる。

塵が宙に浮いたまま、永遠の形で固定される。

動かない。流れない。

まるで空気そのものが、意識を失ったようだった。


紅の髪が空中に漂い、

その揺らぎが途絶えた瞬間――

時間が、完全に“観測された”。


黒外套の金刺繍が、静止した空気の中でわずかに脈動する。

御影の瞳孔――円環状の観測紋がゆっくりと回転し、

その度に世界の“次”が凍りついていった。


「時間は、観測の呼吸。」

御影の声が響く。

観測紋の回転がさらに深くなり、世界の律動がひとつ、またひとつ凍結していく。


「人は“次”を望むから時は流れる。

 でも私が“今”を見続ければ――世界はもう傷つかない。」


瞳が黎明色に光る。

その視線の先で、紅の身体が軋む。

心臓の鼓動が遅れ、血流が凍る。

息を吸っても、空気が入ってこない。

呼吸が“観測”によって固定されている。


紅は喉を押さえ、わずかに声を漏らした。

「……これが……あなたの、優しさ……?」


御影は微笑んだ。

その笑みは、美しくも恐ろしいほど穏やかだった。

黒外套の金刺繍が、光脈のように淡く明滅する。


「動けば壊れる。

 だから止めるの。

 流れない世界なら、誰も形を失わない。」


紅の目が震える。

鬼切丸は微かに輝くが、

刃を振るための“空気”さえ固定されてしまった世界では、動かすこともできない。


(このままじゃ……世界ごと、止まってしまう。)


紅は、動かぬ胸の奥へ意識を沈める。

音のない静寂。

そのさらに奥――


聞こえた。


鈴の音。


遠く、かすかに小さな呼吸があった。

風でも声でもない。

それは“理の鼓動”だった。


紅は目を閉じ、言葉を使わずに想いを伝える。

(世界は、まだ息をしてる。

 あなたが止めても、呼吸は消えない。)


鈴の音が、二度、三度と鳴った。

静止した時間の膜が、ゆっくり震えはじめる。

御影の頬に、驚きの影が走る。

観測紋の回転が一瞬だけ乱れた。


「――どうして……音が動くの。」


紅が瞳を開く。

黎明色がそこに宿っていた。


「この鈴の音は観測じゃない。

 聴く前から、もう在る。」


その瞬間、鬼切丸がふるえる。

黎明色の光が紅の身体を包み、

停止していた時間の粒へ“呼吸”を流し込んだ。


ひと息。


光が走る。


空気が震え、雲が形を変え、風が吹いた。

凍っていた塵が落ち、世界が音を取り戻す。


御影が後ずさり、唇を震わせる。

「……そんな……理を超えて……?」


紅は微笑む。

「理を止めても、世界は動きたい。

 だって……理も、生きてるから。」


御影は顔を伏せ、声を掠らせる。

「……優しさは……理を曇らせるだけ……。」


紅は一歩踏み出す。

黎明色の光が足元に広がり、

固まった理層をゆっくり溶かしていく。


「優しさは壊さない。

 ただ、赦すだけ。

 止まるのは、終わりじゃない。

 ただ……呼吸を思い出すだけ。」


御影が顔を上げる。

瞳の奥で、光と闇がせめぎ合う。

薄金色の髪が静止と揺らぎの境界で揺れ、

それは理と人間の最後の境界だった。


紅は刀を下ろし、まっすぐに言葉を投げた。


「完璧にならなくていい。

 ただ――在ればいい。」


沈黙。

その一瞬、御影の顔に苦しげな表情が浮かぶ。

瞳の奥で、黎明色の“揺らぎ”が震えた。

涙ではなく、記憶の奥底で眠っていた“揺れの残響”。


「……どうして……あなたはそんなに、曖昧を受け入れられるの……。」


「それが、人だから。」


御影の瞳が微かに見開かれ、世界が震えた。

空間が折れ、理層の光脈が暴走を始める。

黒い裂け目が空を走り、

光の中心で御影が両腕を広げた。


「なら、見せてあげる。

 曖昧を拒んだ理の“完全な形”を。」


紅が息を呑む。

空の中心に、暗い渦が現れる。

それは、観測のすべてを吸い込む焦点。


御影の声が重なり、空気を震わせる。


「理層反転――開始。」


世界が裏返る。

すべての光が吸い込まれ、紅の影が天へ伸びていく。

黒が黎明色を呑み込み、

遠くで鈴の音が揺れた。


――世界は、いま、自分を見ている。



――世界が裏返った。


黒が空を満たす。

すべてがひとつの“瞳”の内側に吸い込まれていく。


世界は、御影の眼の中で回転していた。

薄金色の髪は光の帯となり、

黒い外套の金刺繍が理脈のように揺らめいている。

瞳には円環状の“観測紋”が回転し、

そのたびに世界の焦点がねじれ、反転した。


あらゆる方向に“観測の焦点”が生まれ、

紅を中心に収束していく。


空間が波打ち、

存在そのものが光と情報に変換されていく。

“見られる”という行為が、肉体を削いでいく。

紅の輪郭が、定義書の行間のようにひび割れた。


「これが、世界の完全観測。」


御影の声は、もう一人分ではなかった。

無数の声が重なり、波形となって響く。


「すべての粒子が、私を通して自分を見る。

 世界は、自分自身を余さず理解する。」


御影の身体は、もはや人の形をしていない。

光脈と理層のコードが交錯し、

外套の金刺繍が世界の回路と同期して脈動し、

その中心で、黎明色の心臓が脈打っていた。

御影玲瓏という個は、世界の仕様書へと溶け込んでいく。


紅は震える息を吐く。

鬼切丸の柄が手の中で熱を帯びた。


「……先生、それじゃ……世界は、動けなくなる。」


御影は笑った。


「動く必要なんてない。

 完全であれば、それでいいの。」


空に亀裂が走る。

そこから零れ落ちるのは、光ではなく――定義。


言葉、記号、数式、意識、時間。

世界の構造そのものが雨のように降り注ぎ、

紅の身体に突き刺さる。


それは痛みではなく、“理解”の侵入だった。


過去、現在、未来――

紅の心が、あらゆる観測結果に晒される。


「これが、完全な理層。」


御影の声が響く。


「あなたの感情も、記憶も、すべて観測された。

 もう未知は存在しない。

 世界は――完成したのよ。」


紅は片膝をついた。

視界が白と黒の狭間で滲む。

それでも、心の奥で、何かが確かに“息をしていた”。


(違う……。これじゃ、世界は息ができない。)


紅はゆっくりと顔を上げる。


御影は空の中心にいた。

薄金の髪が光を集め、

黒い外套は闇の布をまとったように揺れ、

金刺繍の理脈が世界の回路と接続している。


彼女は、もはや神でも人でもなかった。

理層そのもの。


紅は息を吸い、囁くように言った。


「先生――それは、“見ること”じゃない。

 ただ、“閉じている”だけだよ。」


御影の瞳が、わずかに揺れる。


「閉じている? 違う、これは救済。

 誰も、見られない苦しみから解放されるの。」


紅は首を振る。


「見られない苦しみを恐れて、

 あなたは“見すぎた”んだ。」


光が弾け、衝撃が走る。

紅の足元の地面が反転し、

観測データの奔流が押し寄せる。


紅は鬼切丸を構え、黎明色の刃を振るった。


刃が空間を裂く。

観測点が断ち切られ、世界の光脈が火花を散らす。


「あなたが止められるなら、やってみなさい!」


御影の声が、世界そのものの振動として響く。

巨大な瞳が空を覆い、紅を見下ろす。

視線が光線となり、空気を貫いた。


紅の身体が軋む。

背骨の奥で“見られている”という痛みが弾ける。

観測そのものが拷問だった。


それでも、紅は歩いた。

白と黒の中を、黎明色の残光を曳いて進む。


「……あなたの見てる世界は、

 きっと、綺麗なんだと思う。」


御影の声が重なる。


「なら、理解して――私の中へ。」


紅は首を振る。


「でも、息ができない。

 あなたの世界には、呼吸がない。」


その言葉に、御影が一瞬立ち止まる。

瞳の観測紋がきしむ音を立てた。


「――呼吸……?」


紅は微笑む。


「理が動くたびに、世界は音を立ててる。

 風の音、鈴の音、心の音。

 それが“在る”ってこと。

 見なくても、世界は息をしてる。」


その瞬間――


御影の輪郭がひび割れた。

人と理の境界が千々に揺らぎ、

声がいくつもの位相に裂けては、すぐにひとつに戻る。


「理解できない……。」


世界がざわめいた。

白と黒の層が騒ぎ、

まるで彼女の悲鳴を代わりに上げるようだった。


「紅……。

 なぜ、あなたはそんなに、世界を赦すの……?」


問いとも嘆きともつかない声。

御影玲瓏だった頃の声にいちばん近かった。


紅は答えない。

ただ、黎明色の刃を握り直す。


御影が両腕を広げた。

周囲の空間が沈み、

黒い外套の刺繍が反転して光を吸い、

巨大な黒の渦が紅の足元から立ち上がる。


あらゆる情報、光、理、生命、意識がそこへ引きずり込まれていく。

紅の足元も崩れ、身体が沈んでいく。


意識が剥がれ、

視覚も聴覚も消えていく。

すべてが無音、無光。


ただ――世界の中心に、御影の声だけがあった。


「――世界は、私を通して自分を見る。

  だから、完全になるの。」


その言葉が響いた瞬間、

紅の中で何かが“止まる”。


静寂。

しかし、沈黙ではない。


胸の奥で、鈴の音がひとつ鳴った。


――世界は、いま、自分を見ている。


紅は、闇の底でそっと息を吸った。

まだ、呼吸は消えていなかった。


(だったら――私は、その“見ている世界”ごと、赦す。)


闇が閉じきる直前、

鬼切丸が黎明色にわずかに光った。



紅は、微かに口を開いた。


「……先生。

  観測は、終わりにしていい。」


鬼切丸が黎明色に光を帯びる。

余白を裂く音が響き、光が広がる。


紅が刀を振るった。

一閃――。


黒が、砕けた。

世界が、呼吸を取り戻した。


光が、静かに降っていた。


黎明色の粒子が空を満たし、

止まっていた世界が、ふたたび“息”を思い出していく。

風がゆるやかに流れ、

凍っていた音の輪郭がひとつずつ溶けていった。


御影の身体が、崩れていた。

肉体ではない。

黒外套の金刺繍が淡くほどけ、

薄金の髪は、一本一本が光の粒へ変わり、

黎明色の風に乗って空へ舞い上がる。


理層に結ばれていた定義が剥がれ、

世界との境界が淡く消えていく。


“見られなくなる”ということは、

世界と区別がつかなくなるということだった。


紅は刀を下ろし、静かに息をつく。

黎明色を宿していた刃は光を失い、

ただの金属の冷たさへ戻っていた。


「……観測が、止まった。」


風がその声を運ぶ。

世界がその言葉に、呼吸で応えた。


御影は、紅の方を見た。

瞳にはまだ黎明の微光が宿っている。

しかしその奥には、もう“定義”がなかった。


「見なくても、在る……。」

御影が呟く。

その声は薄く揺れ、波打つようにほどけた。


「そうね……あなたの言った通りだったのかもしれない。」


紅は歩み寄り、崩れゆく御影の前で膝を折る。


「先生。

 あなたは、理を愛しすぎたんだと思う。

 でもね……理もあなたを愛してた。

 だから――今も、息をしてる。」


御影の唇が震え、微笑が浮かぶ。

それは数十年分の静寂を含んだ、温かい微笑だった。


「愛なんて……理にはないはずなのにね。

 でも……いまは、少しだけ分かる気がするの。」


光が強くなる。

薄金の髪がすべて粒となり、尾を引く光の川のように流れ出す。

黒い外套は外側からほぐれ、金の刺繍が煌めきながら空中に溶けていく。


御影は、紅の名を呼ぶ。


「紅。」


その声は、どこまでも穏やかだった。


「ありがとう。

 あなたが、“見ないでいて”くれて。」


紅は瞳を閉じる。

頬を撫でる風が、御影の指先のように優しかった。


その時だった。


御影の瞳から、

ひと粒の光がこぼれ落ちた。


涙か光脈か判別できない、透明な滴。

それもまた粒子となり、黎明の空へ溶けていく。


人でも理でもない存在が、

最後に見せた“曖昧の涙”。


「……紅。

 私は……ずっと、息の仕方が分からなかったの。」


紅はそっと答える。


「大丈夫。

 世界が息をしてくれるから。」


鈴の音が、ひとつ鳴った。

世界の深層が、それに呼応して震える。


御影の声が、風へ溶けていく。


「おやすみなさい……紅。

 そして――ありがとう。」


光が静かに収束する。


御影の姿は、最後の輪郭を残して揺らぎ、

黎明色の粒となって空へ吸い込まれ、

完全に消えた。


しかしその消失は、喪失ではない。


ただ“在ることを赦された存在”が、

静かに余白へ還っていっただけだった。


空は黎明色に染まり、

世界がゆっくりと呼吸を始める。

風が流れ、街の輪郭が戻り、

遠くから、誰かの息遣いが聞こえた。


紅は立ち上がり、

鬼切丸を胸の前で握りしめる。


刃の奥で、かすかな声が響いた。


――紅。

 あなたが見ない世界を、私は……好きになれそう。


紅は微笑む。

黎明の光を宿した瞳で、空を仰ぐ。


風が吹く。

鈴が鳴る。

黎明色の空が、世界の息吹で満ちていく。


そして――

紅の姿が、朝の光の中で淡く揺れた。

理の赦しの残響が、静かに彼女を包む。


鈴の音が、ひときわ強く響いた。


世界は、再び呼吸を始めた。



崩壊していた空間が、ゆっくりと結び直されていく。

反観測洞の黒が薄れ、黎明の光が差し込んだ。


――世界が、現実へ戻っていく。


風が吹いた。

紅は目を開ける。


足元には、砕けたコンクリートの瓦礫。

そこに横たわる澪が、かすかに胸を上下させていた。


「……澪。」


紅は、そっと膝をつき、

眠る彼女の肩を抱き起こした。


澪の睫が震え、ゆっくりと開いた。


「……紅……? 生きて……」


「うん。大丈夫。」


澪は、紅の顔を見て息を呑む。

紅の瞳に宿る光が――もう、人のものではなかった。


「御影先生は……?」


紅はしばらく黙ってから、

微笑むような、祈るような表情で言った。


「……もう、苦しまなくていい場所へ行ったよ。

 見なくても在るって、やっと信じてくれた。」


澪はそっと目を伏せる。

その瞳の奥に、深い哀しみと、静かな敬意が揺れた。


「紅……あなたは……」


言いかけて、言葉を失う。

紅の輪郭が、少しずつ光へと薄れていたからだ。


紅は首を振り、澪の手を取る。


「私ね……いまはもう、人じゃなくて、

 世界の呼吸に近いところにいるみたい。」


澪は震える声で問う。


「……行ってしまうの?

 まだ、話したいことが……あるのに。」


紅は空を見上げた。

黎明の光が、ゆっくりと町を照らし始める。


「見て、澪。

 空の色……綺麗だね。」


澪も、同じ空を見上げる。

淡い紅と金の混じる黎明色――まるで紅自身の瞳のようだった。


「……あなたの、色ね。」


紅は微笑んだ。

風が、鈴の音のように鳴った。


「世界は息をしてる。

 御影先生も……私も……その中にいる。」


澪は涙をこらえ、紅の手を強く握る。


「忘れない。

 あなたが赦した世界を――

 私は、祈りとして残すから。」


その言葉を聞いた瞬間、紅の表情がふっと柔らかくなった。


「それが、澪の“祈り”なんだね。

 ありがとう。」


光が、紅の周囲に満ちていく。

まるで世界が紅を包み、呼吸の中へ迎え入れているようだった。


「またいつか、

 世界が……鬼を欲したら。」


紅の声が、朝の光に溶けていく。


「そのときは……呼んでね。

 私は、ここにいるから。」


光が散り、紅の姿が淡く揺らめき――

やがて完全に消えた。


澪はひとり、その光の残滓の中で立っていた。

涙は流れない。

ただ静かに息を吸い、世界の呼吸と重ねる。


その姿は、もはや祓う者ではなかった。

紅の“赦し”を記憶し、

世界に響かせる――祈る者、蓮見澪だった。


黎明色の空が揺れ、

鈴の音が遠くで響いていた。



黎明色の光が、瓦礫の上にゆっくりと広がっていく。

澪は、消えた紅の残響を胸に抱きながら、静かに立ち上がった。


——世界は、まだ震えている。

けれどその震えは、恐怖ではなく“呼吸”の揺らぎだった。


ふと、足元で何かが微かに光った。


澪は視線を落とす。

瓦礫の影の間で、ひとつの小さな欠片が明滅していた。


黎明色――

紅が世界を赦したとき、刃から零れた光そのもの。


澪はひざを折り、そっと指先でそれを拾い上げた。

冷たくはない。

胸の奥に触れたときと同じ、あの“静かな温度”がした。


かすかに鈴の音が鳴る。

それは風でも理でもない、紅が残した呼吸のひとかけらだった。


澪は欠片を手のひらに包み込む。

失われたのではない。

きっと、ここに“在る”。


ゆっくりと目を閉じ、

澪はひとつ息を吸い、空を見上げた。


紅が消えていったあの光の向こうに、

確かに“在る”世界の続きがあった。


鈴の音が、ふたたび、かすかに鳴る。


その音に導かれるように、

澪はゆっくりと歩き出した――。


-------

終章「残響」


朝の光が、やわらかく街を包んでいた。

誰もいない通り。


路面に積もった夜露が、

黎明色の空を反射して淡く光る。

風が吹くたびに、

鈴の音のような微かな共鳴が、遠くで響いた。


それは、もう誰の音でもない。

世界そのものが、静かに息をしている音だった。

蓮見澪は、校舎跡の丘の上に立っていた。


あの日、空が裏返り、

光も音も消えた場所。

いまは、ただ穏やかな風が流れている。

両手を合わせ、ゆっくりと目を閉じた。


指先が触れると、掌の中で小さな“欠片”が光を放つ。

――紅の黎明の欠片。

世界が崩れた夜、

彼女が拾い上げた唯一の形見だった。


澪は微笑む。

その笑みは、涙と呼吸のあいだにあった。


「……紅。

あの日、あなたは“見ないこと”を選んだ。

そして、世界は“息をすること”を思い出した。」

風が吹く。

黎明の欠片が、微かに鳴った。


「私には、あなたのように赦すことはできない。

でも――

赦しがあったことを、忘れないでいようと思う。」

彼女の言葉が、空に溶けていく。

風がそれを攫い、遠くまで運んでいく。


「祈りって、そういうことだよね。

赦しをもう一度願うんじゃなくて、

赦しが在ったことを、

この世界に、残しておくこと。」


澪の瞳に、黎明の欠片の色が映り込む。

その光はどこかで紅と同じ色をしていた。


――見なくても、在る。

その言葉が、心の奥に静かに響く。

理も、人も、鬼も、赦されたこの世界で。


丘の向こうに、朝日が昇る。

雲の隙間から漏れた光が、

まるで“呼吸”のように地平線を染めた。


澪は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

世界と同じリズムで。

風の中に、鈴の音がひとつ鳴った。


それは、遠く――

けれど確かに“あの人たち”の声のようだった。

「またいつか、世界が鬼を欲したら――」


そのとき、風が変わった。

冷たくもなく、暖かくもなく、

ただ、世界のどこかが“息を始めた”ように思えた。

街の空気がゆっくりと動く。


石畳の隙間に溜まっていた露が、

ひと粒、陽に溶けて消える。

――その瞬間、世界が微かに脈打った。


まるで、

誰かの心臓が、

世界の奥で再び鼓動したかのように。


澪は空を見上げる。

そこに誰の姿もない。

けれど、風が確かに“彼女”の声を運んでいた。

「息をしているよ――もう、見なくても大丈夫。」


朝の光が、彼女の頬を照らす。

風は優しく、澪の髪を撫でて通り過ぎた。

その余韻の中で、世界は静かに呼吸を続けていた


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黎明事変 由良ゆらら @yura_yuraraj2a

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ