無音の夜

@24gigako

第一章

 最寄り駅に着いたとき、私はひどく耳が痛かった。凍てついた風が頬を刺し、遠くの谷底から、なにかが返事をしているような微かな響きがした。

「来るんじゃなかった……」

 口をついて不満が漏れる。

 私はスキーになど興味はなかったのだ。わざわざ山に登り、滑り降りるという行為にはなんの生産性もないではないか。

 生来の流されやすさが災いしサークル旅行に参加する羽目になったのだ。

 民俗学サークルとスキーに一体なんの関係があるというのか。

 ましてやこの悪天候である。スキーなどはできそうにない。

「そんな事言うなよ」

 山岸先輩が俺の背中を叩く。

「何もないところだけど、俺の故郷なんだから」

 この集落出身であり、今回の宿泊先にツテがあるというこの男のせいで、我々は今、吹雪の中で立ち尽くしているのだ。

 山荘からの迎えが来る手筈になっているのだが約束の時刻を過ぎても現れず、我々は無人駅の前で待ちぼうけを食っているというわけだ。

 それでも俺が山岸という男を嫌いになれないのはこの男が持つ誠実さのなせる業であろう。

「……あいつらは気に入ったみたいですね」

 俺はロータリーとも呼べぬ駅前の道路にちらと目をやる。

 同期の高橋と二年生の冬風先輩が雪遊びに興じていた。

 高橋が雪玉を空高く投げ、冬風先輩が手を銃に見立てて狙いを定め、風を起こして撃ち落とす。さながらクレー射撃である。

 南の出身である高橋は雪が珍しいのか子供のようにはしゃいでいる。あの小柄な体躯のどこにそんな体力があるのかと感心する。対する冬の怪である冬風先輩にとってはこの程度の天候などは寒さのうちに入らないのだろう。

 獲物に狙いを定める彼女の銃の先に、細い刃の光がのぞいていた。




「いやぁ、待たせちまって悪かったな。峠で除雪車に引っかかっちまってよ」

 悲鳴のようなエンジン音とタイヤチェーンのジャラジャラという音の中、運転席の男がけたけたと言った。

 車は駅を出て坂を登り、街道沿いの通りへと出た。

 山間に抱かれたこの町には目立った産業も有名な観光地もなく、冬の間に訪れるスキー客で成り立っている。

 そのスキー客もこの吹雪では出歩いてはいないのだろう。通りを歩く者はまるでいない。

 曇ったガラス越しに外の景色に目をやると、飲食店も兼ねた土産物屋にはレトロなブリキ看板がかかり、猫又の女がビールジョッキを片手に錆にまみれている。通りの向こうにはバブルの頃に建てられたであろう、日本の山奥には似つかわしくない地中海風の元はホテルであったであろう廃墟が地中海に似つかわしくない雪に埋もれている。かつて町おこしのために作られたゆるキャラのポスターも色褪せて元がどんなキャラクターだったのか判然としない。コンビニの明かりだけがやけに現代的ではあるが、雪国仕様なのであろう、出入り口が建物から飛び出していて二重扉になっておりささやかな異国情緒を生んでいる。

 冬の観光地などという華やかさはなく、静かに冬眠している町——そんな印象である。

 車体が大きく揺れるたび、どこかボルトが緩んでいるのであろう、ガチャンと金属の音が響く。

「わりぃなぁ、ボロい車で。新しいのもあっけど、こんげ人数乗れんのはこっちのがなんだわ。」

 なるほど、確かにこの車はきれいとはお世辞にも言い難い。けれども、5人も載せなければならないのだ。贅沢を言ってはいけない。

「大丈夫ですよ。こういうのも味があっていいと思います」

 冬風先輩は高橋の手に消毒液を塗りながら社交辞令を返した。どうやら高橋は尖った氷で手を切ったらしい。

「絆創膏を指に貼るときはこうやって切り込みを入れると剥がれにくくなるんだよ」

 そう言って冬風先輩は指先の刃物を使って器用に細工を施し、それを高橋の指に巻いた。その上から冬風先輩が手を重ねると薄っすらと光が滲む。

「あれ?お嬢ちゃん、妖かい?」

「かまいたちの家系なんですよ。傷を作りもするけど治しもするんです。」

 かまいたちは三身一体で行動し、転ばせ、切りつけ、そして薬を塗って傷を癒やすと言われている。……もっとも彼女が塗っているのは薬壺に入った秘薬などではなく、ドラッグストアで買える普通の消毒液だ。なんとも現代的で、少々情緒に欠ける気がするのは俺だけだろうか。

「お前も親父さんみたいな能力が使えたらこの車でもラジオが聞けたのにな。」

「俺は親父みたいに"音のより分け"ができないからね。雑音ごと再生しちゃうんだよ。」

 今まで気にしたことはなかったが、山岸先輩も妖怪の血筋らしい。

「ラジオが聞けねかったせいで、天気荒れるのわかんねくて遅れちまったんだぞ!」

「それはおかしいでしょ!さっき除雪車のせいって……まったく笹井のおっちゃんは相変わらずだなぁ。」

 運転席にいる笹井と呼ばれた男は、長身にヒゲを蓄えた無骨な容姿には似合わぬ無邪気な笑顔で笑った。

 坂を登りきったところで、右手に古びた建物が姿を表した。看板の文字は雪に埋もれ、かろうじて「ドライブインこまち」と読める。

「あそこ、閉めちまってもう1年くらいになるか」

 ハンドルを握る笹井さんがフロントガラス越しに目を細めて呟いた。

「店がうまくいかねぇとか、奥さんの体調が悪かったとか……なんだかんだ聞いたけんどよ」

「……そうですか」

 山岸先輩が短く返す。助手席側の窓の外、吹き荒ぶ雪をただ見つめていた。

 ガラスが割れても直す者もいないのだろう。店内でカーテンがはためいている。

「あそこの娘さん、お前の同級生でなかったか?」

「え?ああ……そうですね」

 山岸先輩は曇った窓を指先でなぞり、そっけなく答えた。

 それきり、車内に少しの沈黙が落ちた。

 吹雪の音だけが外から叩きつける。ドライブイン小町の影は吹雪の中に飲まれていった。




 街道沿いの家々の多くは、窓を板で打ちつけている。

 雪に覆われた看板は読めず、屋根から垂れ下がる氷柱だけが時間の流れを示していた。

 街灯の明かりが雪に滲み、あたり一面をぼんやりと照らしているのに、そこに「生活の匂い」はなかった。

 まるで、人のいなくなり凍りついてしまった町を探索しているかのようだ。

「そういえば先輩、この辺って、なんか変わった言い伝えとかあるんすか?」

 高橋がぽつりと訊いた。

 唐突な質問ではあるが、なるほど、我々は民俗学サークルだ。スキーよりもよほど我々の活動としてふさわしい談義である。

 もとよりこの手の話題が好きな人間の集まりだ。車の中は興味の色に染まった。

 そんな皆の期待に応えるように——いや、少し煽るように——山岸先輩は返した。

「ああ、あるよ。」

 口元が緩んでまるで悪戯を仕掛ける少年のような表情を浮かべている。この話題になることを待っていたのであろう。

「え、どんな話?」

 冬風先輩も小さく身を乗り出した。

「それは着いてからのお楽しみってことで。」

 もったいぶった調子に、車内は一気に明るくなった。さすがはサークルリーダー、人を転がすのが上手い。

「期待していいぞ!」

 運転席の笹井さんも調子を合わせながらアクセルを踏み込む。

 先程までは雑音としか思えなかったエンジンの唸りとチェーンの音も、これから始まる何かの前触れのように聞こえてくるから不思議なものである。

 高橋は目を輝かせ、冬風先輩もくすくすと笑う。

 スキーには乗り気でなかった俺もここで始めてこの旅行に少しだけ期待を抱いた。




 やがて車は人里を離れ、雪に沈んだ森の中へ進んでいく。

 曇ったガラス越しに雪景色を眺めていると、やがて建物が近づいてきた。



——————今回の宿泊先『山彦荘』である。

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