伊澄恒弥、女の霊に遭いて。

上下ろかす

1

 社会人になってからも、個人的な話をする機会というのは当然、何度も訪れる。

 仕事の最中に隣のデスクの事務の女性社員と。一週間に一、二度気まぐれに誘ってくる総務部の上司と。稀に参加する飲み会で同僚と。

 家族の話はなるべく避けたいので、一人暮らしをしていると言うと、自炊や生活の話に持っていけるので気が楽だ。

 伊澄恒弥は社交的ではない。話をするのも、聞くのもあまり上手ではないだろう。なるべく他人と関わらないように意識したとて当然、会話は避けられないものだ。


 例えば『好きなものはあるか』と人から問われるたびに、明快に答えることができずに薄ぼんやりとした返答をする羽目になる。答えにくい回答だからではなく、単純に思いつかないからで、「趣味は?」という質問に対しても同様のありさまだ。

 周囲は困ったように考える恒弥に慣れたもので、恒弥が嫌がらない程度に根掘り葉掘り、手を変え品を変え、様々なことを聞いてくる。数ヶ月前よりもほんの少し社交的になった恒弥の様子を、同僚たちは密かに喜んでいた。


 例えば今日の質問はこうだった。


「高校生の時に旅行で行った鳥取砂丘の光景がな〜んか忘れられないんだよね。あの視界いっぱいに広がる砂と青空がね、たまに思い浮かぶ。恒弥くんは好きな風景とかある?」

 うーんといつも通り首をひねったところ、ひとつだけ思い浮かぶ光景があった。

 風景でもなく、好きでもなく、ただ自分の中に常にある想像上の景色。どうしようもない不安感に襲われたとき、縮こまらせた自分の周囲を赤くて大きな傘が覆うイメージ。真っ赤な傘が自分を包み、うずくまった体をすっぽりと囲んで、守ってくれる。

 そんな想像。

 

 ――伊澄恒弥という人間はごく普通の人間だ。少しでも人と違う点があるとすれば、幼少期から悩まされる、身の回りに発現する怪現象だった。

 恒弥はありていに言えば、霊感があった。


 霊感といえどお祓いができるとか、話ができるとか、そんな便利なものでもなく、さらに言えば視えたり聴けたりするわけでもない。

 ただ『よからぬものに好かれやすく、人間ではない超常の存在の気配を感じることができる』だけだ。


 大して視えもしないのになぜ『よくないものに好かれている』なんてことがわかるのか?

 自分の周囲にだけ事故や怪我が絶えず、そういう時は決まって指先から頭に嫌な予感が駆け抜けるのだ。痺れる感覚が十本の指先からじわじわと腕、胸、頭、と伝い上ってくる。そういった感覚がはしるときはたいがい、あやしげな影が視界を歩くのだ。『そんな気がする』が幼いころから何百回も続けば、受け入れもする。


 いやいやそんなものはただの偶然だと笑うだろうか?

 恒弥も笑い飛ばしたかった。そんなものを信じるなんてバカらしいと言いたかった。すべてはただの偶然で、自分が撒いた種が芽吹いているだけの自業自得で、人間の一生に起こる不幸な出来事なんてたいがい、そんなものだと。でも、そうじゃなかった。


 ……そうやって『視えないのに、確かに自分を蝕むもの』から身を守りたくて、気がついたときには頭の中で、赤い大きな傘を持つイメージを持つようになっていた。


 なぜ赤い傘なのかはわからない。『赤い』なんていかにも不吉そうなのに?

 でも、赤って強そうじゃないか。自分の攻撃性とか、そういうものなのだろう、たぶん。日曜日の朝に放映されている子供向けの特撮番組でだって、主人公や中心にいる存在のイメージカラーは赤になっていることが多いのだ、赤という色には勇気をもらっているのかもしれない。


 傘の理由も知らない。傘を広げて空を飛んでいる女性が印象深い、あの映画のこと――映画自体は観たこともないのだが――が脳の片隅に残っていたからかも。もしかしたらバス停のそばで大きな謎の生物が姉妹に傘を貸してくれるあの映画の影響――こちらは観たことがあった――もあるのかも。

 

 感覚に無理やり意味を与えるために、無茶苦茶な論理付けなんて行う必要はない。

 姿の見えない、立ち向かい方さえわからない理不尽で恐ろしいものから目をそらし続けるには、同じだけの力で虚勢を張りながら戦わなければならない。目をそらすことさえできない。そのために作り上げたものが、赤い傘と、それに必死にしがみつき体を覆う自分という姿だった。





 仕事終わり。定時の十七時半からいくらも経たないうちに、恒弥は地下鉄の駅へと通じる階段を降りようとしていた。

 退勤するサラリーマンたちで周辺がにぎわっていてもおかしくないにもかかわらず、階段には人気がなかった。


 ――おかしい。自分は車通勤のはずなのになぜ駅に?


 ふと我に返った。恒弥は職場までの通勤を電車ではなく自家用車で行っている。真っすぐ家に帰るだけなら駅には何の用もない。

 そして日々の生活の中で自家用車で真っすぐ帰宅する以外の行動をとったことは、就職してから三年の間に数えるほどしかなかった。それもすべて忘年会や新年会など断りづらい飲み会に参加したときだけだ。八月半ばの今、そういった行事とは無縁だった。


 我が事ながら到底信じられないが、考え事をしていたせいで駅まで歩いてきてしまったのかもしれない。

 ひとまず職場の駐車場まで戻ろうと振り返ると、入り口に人影が見えた。逆光で姿はよく見えない。腕には人影の半分ほどもありそうな大きさの長方形の箱を抱えている。


 この付近にあんな逆光になるような強い光を放つ建物があっただろうか? 今はまだ陽も落ち切っていないのに、姿が見えなくなるほどの光など放つ場所があっただろうか?

 

 不意に、その人影は手に持った大きな箱を振り上げた。まるで階段の最上段から下段にいる恒弥に向かって落としてやろうとでもいうかのように。そう考えた瞬間ぞっとする。


 もしあの重そうな箱が当たったら!


 避けるために体を動かすこともできず思わず目をつむる。だがいつまで経っても衝撃は襲ってこない。恐る恐る階段上、自身の周囲を見渡すが、誰もいない。人影など見間違いだったかのように、ひっそりと静まり返っている。


 仕事の疲れが出ているのか。はたまた、異常気象が叫ばれるほどの昨今の夏の気温の高さに、ありもしないものを見てしまったのかもしれない。

 恒弥が気を取り直し暗い階段を登ると、駅への階段の入り口脇にスーツ姿の女が立っていた。髪をアップにし、さっぱりと清潔感のある印象の女だった。

 グレーの上品なスーツを着た女は片手にスマートフォンを持ち、もう片方には細長い包みを抱えていた。同僚とでも待ち合わせをしているのだろうか。と、そこで片手の包みを見て先ほどの人影を思い出す。あれは先ほどの人影が振り上げた箱と同じサイズではないだろうか。

 もしかしてこの女性が先ほどの悪趣味な悪戯をしたのか。

 背筋にうすら寒いものを覚え、黙って脇を通り過ぎようとすると、声を掛けられた。

「あの。今からどこかへ行かれるのですか?」

「……俺でしょうか? 家に帰るだけですよ」

 突然見知らぬ女性に、声を掛けられ、しかもナンパですらないような簡素な問いかけに困惑しない人間はいるだろうか。いくら先ほどの悪戯の犯人と疑わしくとも、彼女を無視し立ち去ることは恒弥にはできなかった。

 やや気味の悪さを覚えつつも足を止めると、彼女はひとつ頷き、手に持った包みを差し出した。


「不躾ながら、あなたにお願いしたいことがあるのです。この包みをある女性に届けてくれませんか? 届けてくれるだけでかまいません。今日の二十二時頃、沼田公園の入り口で待っている女性に渡すだけでいいのです」

 包みの中身が気になりますか? これはね、箱なんですよ。届けてくれたら、その場で開けてもらってもかまいませんよ。待っている人間の顔写真や名前? そんなものは必要ありませんよ。とにかく公園の入り口にいるのですから、何も問題はありません。

 

 使用感のある、あまり綺麗には見えない布の中身は、最初の印象通り、やはり箱であるようだった。

 そして明らかに怪しい頼み事。届け先は人間で、名前も顔も教えてもらえない。

 運び屋、という言葉がよぎる。どう考えても断る以外の選択肢がない。

 しかし恒弥の脳裏にふと思い浮かぶ記憶があった。


 今も恒弥の家でごろりと好き勝手に過ごしているだろう男。恒弥を大切に思っていると公言してはばからない、うさんくさい男。

 半年より少し前、この男との初対面を思い出す。

 見るからに不審だったのに放って置けず手を差し伸べてしまった。善人ぶる気はないけど、助けたいと思った時に目の前の人の手助けができる人間でありたいと思ってしまった。その結果の出会いと出来事は、恒弥を大きく変えることになっていった。


「…………わかりました。今日、その女性に届ければいいんですね」

「ああ! 本当にありがとうございます、優しい方。ではよろしくお願いしますね。先ほども申し上げましたが、やましいものでもありませんので、箱は開けても構いませんよ」


 まばたきをすると、恒弥は職場の駐車場に立っていた。手には大きな包みを抱えている。


 あれ、さっきまで何をしていたんだっけ。ああ、包みを届けるよう頼まれたんだった。とにかく家に帰ろう。今日は遅かったね、などとやましいこともないのに、またうさんくさい笑みを向けられてしまう。


 恒弥は手に持った包みを慎重に後部座席に置いた。運転席に乗り込みシートベルトをつけると、自宅玄関のドアを開けたときの安心感が、一足早く体を覆うような気がした。



「遅かったね」

 帰宅早々、落ち着いた、しかし笑みを含んだ声音が恒弥を迎えた。

「……定時から一時間も経ってない」

「職場から家まで車で三十分くらいでしょ。どこに行ってたの? デート?」

「今までだって帰宅が遅れたこともあるし、デートをするような関係の人はいない……わかってて言ってるだろ、ナキさん」

 ふざけた態度の男との、ともするといくらでも続きそうな不毛な茶番に恒弥がうなだれると、「そうだったかな」と男は悪びれなく笑った。語尾に意地の悪い含んだ笑みを絶えず湛えている。実際、意地は悪い。


 意地の悪い男――ナキは、他人の部屋にもかかわらず我が家のようにくつろいでいた。

 クーラーの風を循環させる扇風機の風がよくあたるソファの上に陣取り、のんびりと恒弥を出迎えた。恒弥より九つ年上だが、年長者らしく振る舞うこともなく、常時ひょうひょうとした男だった。

 穏やかな大型犬を思わせるゆったりとした仕草で立ち上がり伸びをした。普段はやや曲がっている腰が伸び切り、背の高さが際立つ。

 くせのある黒髪が目元を覆い、ひねくれた印象を持たせるような笑みを浮かべたナキは、恒弥に「夕ご飯できてるよ」と玄関とキッチンに続く背後の扉を示した。


「ありがとう。用意は俺がするから、ちょっと待って」

「いいよ座ってて。ボクが準備するよ」

 ナキはすれ違いざまに恒弥の前髪をそっと二本の指で挟み、毛先まですべらせた。髪を擦る、かすかな音が耳を打つ。

 平素は繊細さとは無縁です、というような態度を取っているにもかかわらず、恒弥に触れるナキの指先は慎重さに満ちていた。


 ひそやかな接触に緊張している自分を自覚する。脇をするりと抜けキッチンに立ったナキの横顔を見ていられず、目線を逸らし、意識して深く息を吸った。

「ところで恒弥くん。ソレ、なに?」

 手に持ったままだった包みをそっとデスクに置く恒弥の背中にナキがシンクの前から声を投げた。

「ああ……会社を出たところで、女の人に会ったんだ。今日の二十二時に、中区の沼田公園にいる女の人にこれを届けてほしいって」

「へえ。それで預かったの」

「……そうだよ」

 わかっている。明らかに怪しい頼み事だったし、不審人物から不審物を引き受けることが恒弥の身に危険を招く可能性が高いということも。


 それでも手を差し伸べてしまったのは、あんたとのことが頭をよぎったからだ。


 ……などということは口が裂けても言えない。もとよりナキへ理不尽な責任転嫁をするつもりもなく、なにより自分の行動がおかしいことは承知の上だ。

 体質のせいで”よくないもの”を惹きつける恒弥を守るために尽力してくれているのに、庇護対象の迂闊な行動で危険を招いてしまっては、ナキが怒るのも仕方のないことだ。


――だがやってしまったからには筋は通す。なぜだかあの時は「頼みごとを聞かなければ」と思ってしまったのだから。


「ふうん。食べ終わったら行くの」

「うん」

「そっか。ならボクも着いて行っていいかな」

「……怒らないのか?」

「その聞き方はずるいね。怒られたいんだ?」

 見透かすように笑うナキの目を直視できず斜め上の天井を眺める。天井と壁の間の壁紙、ゆがんでる気がする。

 恥ずかしさにとぼけていると、「こっち見て」と言うようにゆらゆら振られる手のひらが視界に入り込む。

「責めてないって。キミはキミの思うように行動すればいいよ。ボクはボクで好きにするから」

「でも、あんたに迷惑がかかる。迷惑をかけるとわかっているのにやるのは……悪いことだ」

「前にも言ったかもしれないけど。ボクは好きでキミの手助けをしているし、キミに害を成すものは排除したいからそうしているだけ。これからずっと”そう”なんだから、気にしなくていい」

 思わず俯いた恒弥の後頭部にナキの穏やかな声が降る。いつもより声が近い。

「……変な人だ。気になるに決まってるでしょう」

 でもありがとう、と小さく付け加えると、ナキは押し殺した笑いを漏らした。頭上で毛先が揺れるのを感じた。


 手を洗い席につくと、ナキが並べ終えた料理が恒弥を待っていた。ニラ肉味噌丼と赤味噌の味噌汁、きゅうりとトマトのサラダは冷蔵庫でよく冷やされていた。

 一見ものぐさな雰囲気を漂わせているナキは、恒弥の家に出入りするようになってからというもの、手料理を頻繁にふるまってくれた。

「手の込んだ料理じゃないし、レシピサイトで目についたモノを作っているだけ」と本人は謙遜するが、初めて手料理を作ってくれたときはあまりの意外さに彼の顔をまじまじと見つめてしまい、大笑いされた。


「そぼろ、おいしい。マリネもいい……」

「よかった。好きなだけ食べてくれていいよ」

 ありがたさと同時に、執拗に料理を振る舞ってくれるナキに困惑もする。

 執拗という言葉は比喩ではない。ナキが恒弥の家に来るようになってからというもの、平日はもちろん予定がない休日も必ず朝食と夕食を作り、昼は弁当を持たせてくれる。

 しかも料理を手伝おうとすると頑なに拒否され、自らの料理の腕は信用ならないのかと落ち込みかけた事もあったが、「ボクの手で作ったものだけをキミに食べてもらいたい」と告白まがいの言葉を貰ったためなにも言えなくなった。ナキは恒弥が困惑する言葉を吐いて、煙に巻くのが得意だった。

 とはいえ、平日の仕事が終わって帰宅した際に夕食ができていることが嬉しく、ありがたくナキの好意を受け取っている。


 ……ナキと自分の関係性とはどう表せばいいだろう。ただの知人か、友人と呼んでよいのか。

 先ほどのようなさりげない接触を臆さず行うナキも、それを拒まない自分も。

 彼の言動のひとつひとつと受け取る自分の言動から、ソレを表す言葉は自然と導き出せるはずなのに。

 この距離感を当然のものと享受しているのに、明確な形を与えたくなくてわざと言語化を避けている。少なくとも自分は、そう思っている。自分自身の感情だというのにいつまで経っても掴み切れず、茫洋とした関係のまま、ナキと過ごす時間だけが増えていた。

 ナキはどうだろうか? なにを考えているのか表に出さない男だから、彼が恒弥のことをどう思っているのか……わからない。その好意の正体を知りたいが、知りたくない。この曖昧で心地よい関係を、そのままにしたいという自分勝手な感情を自覚しかけ……恒弥は目を逸らした。



 夕食を食べ片付けまで終えてから、預かった包みを抱えて家を出る。

 どう考えても運び屋だが、いったんそこは置いておこう。また仮に、霊的に危険なものであればナキが指摘してくれるだろうが、何も言及する気がないようであくびをしている。それならば人間的な恐怖にだけ気をつければいいはずだ。


 車に乗り込み、指定された沼田公園に向かう。少し離れた場所にコインパーキングを見つけ駐車した。エンジンを切りドアを開けた途端、湿気を伴った重い暑さがまとわりつく。

 降りた直後にナキは「コンビニ寄りたいから、恒弥くんは先行っててくれる?」とふらりと消えた。

 いつも通りのナキのペースだった。


 公園の付近は繁華街のほど近くでやや治安の悪い地域だった。女性が二十二時に一人でいて平気な場所でもないだろうに、なぜここなのだろうか。

 日付は跨いでいないとはいえこんな夜に、お世辞にも安全とはいえない場所で、人にモノを届けるよう依頼される。いくら考えても『特殊詐欺の受け子』という言葉が脳裏をよぎるが、強く一度頭を振りマイナスの思考を追い出す。ここまできたらもう、いくしかない。


 半ば意地のような思考とともに歩いていくと、公園の入り口が見えてくる。街頭のおかげで入り口付近は明るいが、中はほとんどが闇に沈み、うっすらと遊具の輪郭を見て取れる程度だった。


 街灯の頼りない灯りの傘の中、入り口脇の車止めに体重をかけるようにして一人の女性が立っていた。


 よかった、本当にいた……。

 恒弥は内心ホッと息をつき、小走りで女性のもとへ近寄った。この公園に他の入り口はなく、周囲には彼女しか気配もない。両手で抱え直した包みを差し出した。

「あの、……あなたのお知り合いの方にこれを預かりました」

「ああ、ふふ。ありがとう」

 女性はたおやかにほほえみ、古びた布に包まれた箱を受け取った。重量は大したことはないが、恒弥の身長でも両手でないとバランスがとりづらい大きさだ。女性が持って運ぶには少々苦労しそうだった。


「あら? 見ていないのね、あなた?」

 女性が車で来ているのであればそこまで手伝おうか、それとも何事もなかったように立ち去るか。

 恒弥が懲りもせず考えあぐねていると、目の前の女性が楽しそうに声をあげた。

 まさか包みの中身のことだろうか。

 ふと駅で会った女性に「箱の中身を見ても良い」と言われたことを思い出す。まさかそんな非常識なことをするわけがないが、彼女らはそういった経験があるのだろうか。

「ねえあなた。箱の中身を見ていかない?」

「え? いえ、ええと……」

 初対面の女性に届け物を頼まれ、引き受け、またも初対面の女性に届けることができたと思ったら品物の中身を一緒に見る? わけがわからないだろう。おかしなことはもう終わらせて、帰ってのんびりとしたい。


 誘いを躱す方法を考えながら視線を泳がせたとき、ようやく女性の不自然な服装に気がついた。

 半袖でいることすら不愉快になる気温だというのに、女はチェスターコートを着てハイネックのセーターを着ていた。どこか初対面の時のナキを思わせる服装だった。だがあれは冬だった。

 懐かしさに浸る余裕もなく、恒弥の指先が恐怖の予兆で痺れだす。


 こわい。

 この状況は、きっとおかしい。


 夏とはいえ長袖を着ること自体は不思議ではない。日焼け防止であったり、そも日光を浴びることができない人だっているだろう。だからといって熱中症のリスクも高い中、ここまで厚着をするだろうか。ましてや今は夜だ、太陽が地平線に沈んで何時間も経っている。


 いいや、それだって些末な話だ。もっとおかしいのは、先ほどまでことだ。


 人は意識を向けていること以外のことに、案外気づかないものだ。朝食バイキングの料理を取ることに意識がいき、取り皿の間近にあった箸の置き場に気づかないことだってある。

 だが今回に限っては当てはまらない。届け先の女性の名前や顔すら教えてもらえなかったため、目的の人物かどうかを見極めるために女性を注視しており、普段なら気に留めないようにしている他人の言動に気を払うよう努めていたのだから。

 

 気づいて当たり前の違和感に気づくことができない。おかしいと思うことができない。

 その状況自体が最も大きな異変であり、恒弥の経験上、『よくないもの』に干渉されている際の特徴の一つだった。

 

「た、他人の方の私物を見るのは気が引けますから。確かに品物はお届けしたので、失礼します」

 会釈をしてその場を去ろうと片足を半歩下げた。途端、女の手が恒弥の手首を握りしめた。夏の夜だというのに、冷え切った肌の感触に鳥肌が立つ。周囲に彼女が乗ってきたかもしれない車もない。先ほどまでどこか屋内で涼んでいた様子もない。不自然に低い体温が恒弥の指先から頭の先まで恐怖を伝播させた。


「見ていきましょうよ、優しいあなた」


 やけに上機嫌な女の声がする。なにがそんなに嬉しいのか、ふうっと満足げな吐息が耳にかかる。ぞわりとした。人の息には感じられる生ぬるさがない。妙に冷たい空気。

 振り向きたくはないのに、操られるかのようにぎこちなく体が女の方に向かう。

 女は古びて汚れた布から、大きな箱を取り出していた。片手では持ちづらいだろうに、平気な顔をして左手で抱えている。

 箱は蓋がやや浮き、少し力を入れて上に引けば簡単に中身が見えてしまいそう。

 

 あの中身。

 あの中身は、どうしても見たくない。

 恐怖が全身を支配していて動けない。

 見たくない。

 冷えた手に握りしめられた右腕は痺れたように感覚がない。

 見たくない。

 女が青白い右手で蓋を持ち上げる。

 見たくない。


「いっしょにいきましょう」


 真っ暗な箱のなか。

 夜の公園の入口。

 箱の中身が明かされる。見てはいけないものがそこにある。


 咄嗟に頭の中で、赤い傘を広げて体を覆い隠す自分を思い浮かべた。真っ赤な傘はその緩やかな円形の中に恒弥を取り込み、外から触れようとするおぞましいものの侵入を防いでくれる。

 無数の手形が恒弥のいる内側へ入ろうと押し寄せてくる。柔軟性のある傘の生地は手の形をそのままに伝えながら恒弥の間近まで迫ろうとする。

 薄い傘の生地一枚を挟んだ距離に恐ろしいものが在ることに、恐怖で動けなくなりそうになり、走り出した。走って走って。ぜ、ぜ、と乾いた喉に空気の詰まる音がする。視界の端に映った公園の木立の影に飛び込んだ。手に持った傘のなるべく上の方を持ち、全身を傘が覆ってくれるように願いながらうずくまる。

 どこからともなく草を踏みしめる音がする。近づいてくる。傘の内側で、吐き気を必死に耐える。乾いた喉が張り付いて今にもえずきそうだ。必死に口を抑え少しでも唾液を出して飲み込もうとするがうまくいかない。

 音は徐々に近づいてくる。見つかりたくない。見つかるのも時間の問題だ。


 なら、今すぐ立ち上がってここを飛び出した方がいい。

 

 いいやできない。なぜなら、……


 急激に傘の外側が真っ暗になった気がした。

 箱の中の暗さと同じだ。


 ――俺は想像でさえも自身を守り切れない。それはそうだ、抗うこともできず現実逃避をしているだけだから。いま目の前にあるものから目を逸らし遠くを見つめることしかできない。この世界にそのおぞましい中身を吐き出そうとする箱を視界に捉えながら、恒弥は想像の中にただ一人の男を思い浮かべ――


「そこまで」


 開きかけた箱の蓋が、とん、と軽い音を立てて閉じられる。

 背後から伸びた腕の先で長い手指が、キーボードを打つようになにげない力で、閉じた。

 その途端、恒弥の脳内の赤い傘がぶわりと浮き上がり大きく長く、広がった。


 背中に感じた熱に無意識のうちに安堵し、恒弥は全身の力を抜いた。抜きすぎて膝から崩れ落ちかけたところを、背後の男が受け止めた。

 ナキは両腕で大事そうに一度恒弥を緩く抱くと、面倒そうに正面の女を見つめた。


 爛々と激しい眼光をたたえた女の視線は、取り逃がした獲物からその背後のナキに向いたところで、固まった。


 ……『蛇に睨まれた蛙』とはこのことかもしれない。

 恒弥は数秒前まで怯えきっていた自分のことを忘れてのんきにそんな事を考える程度には、見事な硬直っぷりだった。


「邪魔だよお前。ボクの、見えない?」

 先ほどまでの鋭い眼光を宿した狂気じみた表情が抜け落ちた女の顔は、こちらを脅しているようにも、恐れているようにも見えた。その視線は恒弥ではなく、恒弥の背後のはるか上――ナキの頭のさらに上を向いていた。


 ナキの抱えた呪い。ナキを死に至らしめるその日のために、ナキを守る力。


 威圧感。そう言って差し支えない重圧が、女の目の前にいる恒弥にも感じられるようだった。ナキの背負ったモノはそれほどまでに大きく、そして女の持つ力よりも強かった。

「見えないのって言ってるんだけど」

 声を荒げることなく告げるナキが、先ほど恒弥を救った右手を再び、箱に伸ばす。


 女は身を引いた。ナキの頭上から視線を外さないまま箱を抱えなおすと、素早く身を翻し暗闇に沈む公園の中へと音もなく歩き去っていった。


 女の後ろ姿が暗がりに溶け、恒弥は深呼吸した。ようやく緊張が解け、こわばった体が痛む。

「……あれ、人間だったのか?」

「つまらない事を考えず、夜食のことを考えよう」

 背中を預けていたナキから体の自由を取り戻そうと前に重心を掛けると、逆に引っ張られさらに体重をかけさせられた。腹の前に回った手に力は入っていない。顔の前に差し出された手にはスマートフォンが握られていた。

 暗がりに慣れた目には暴力的な輝度をした画面には、自宅の食卓の上で撮影されたプリンが映っていた。ラベルの貼られていないカップに入っているところを見るに、そしてわざわざ写真にとってあることを加味すると、ナキの手作りと思われた。

「さすがにまだ腹は減ってない」

「明日の朝食べようか」

 腕をやんわりと押しのけると、抵抗もなくするりと背後の熱は離れていった。自身の体温すら煩わしい夏の夜に、ふしぎとナキの体温は不快ではなかった。

「もしかして、最初から分かってたのか。あの箱が怪しいってこと」

「嫌な気配しかしなかったからね」

 ひょうひょうと言ってのけるナキに動揺する。そして無意識に『ナキは恒弥を最も大切に思い、そう振る舞うことが当然』として受け止めていたことを自覚してしまう。

「……いつもなら、危険があるなら教えてくれるのに、どうして」

「嫉妬ってやつ?」

 のんびりとした口調で返され、今度は困惑する。嫉妬? なにに対して? 

「仕事からやっと帰ってきたと思ったら、見知らぬ他人の荷物を持って帰ってきちゃって。しかもおかしな荷物。ボクとの食事もそこそこに知らない女のところに届けに行こうとしてる。これはもう浮気かなって思ったら嫉妬で胸が熱くなって」

 徐々に恒弥の目が座っていくのが見えたのか、ナキは言葉を切った。

「嘘、嘘。開けなきゃ危険はないって分かってたから」

 ごめんね、と笑うナキの手首を握った。いつも通りの平然とした態度に少し悔しさを覚えながら、恒弥はわざと釣りあげていた眉を下ろした。

 

 おかしなものを呼び寄せる恒弥は、いつも想像で、現実で、逃げ回るしかなかった。今だってそうだった。その恒弥を生身の体で助け、周囲に降りかかる不幸を払いのけるナキの存在に、いつのまにか背を預けすぎていた。

 目をそらし続けるために戦っていたところに、この男が平気な顔して恒弥の持つ赤い傘を引っぺがしたのだ。自分勝手に、「困りごとを解決できる」なんてうそくさくて軽い言葉で傘の内側にいつの間にか居座った男。

 いつも恒弥を助ける男こそを、恒弥だって救いたいのに。


「……ナキさんの中で納得してても、俺にはわからないんだ。もちろん信用してくれてることはわかっているけど、本当はもっと信頼してほしい。いつも助けてもらっといてわがままかもしれないけど。聞いて理解できなかったとしても、ナキさんが考えてることを、教えてほしい。あんたの話をもっと聞きたいよ」


 俯きかけ、それでも顎を上げ真っすぐと自分に眼差しを向ける恒弥に、ナキは深く息をついた。欲しかったものが手に入ったときのように満足そうにゆるく口の端をあげる。

 

「そうだね。結果的にキミを守れればそれでいいと思いあがっていたようだ。なにより大事なキミを不安にさせていたら意味がないね」

「……いつもながら、あんたは恥ずかしいセリフを堂々と……」

 ナキはほほ笑み、ひとつ頷いた。眼鏡の奥で懐かしそうに細められた瞳に、恒弥は気がつかない。



「箱の中身を見てたら、キミは死んでたかもね」

 車に戻り、「帰りはボクが」と運転席に乗り込んだナキが軽く放った言葉に恒弥は顔をひきつらせた。

 先ほどの「危険ではない」発言とはなんだったのか。そう考えたところで、「開けなければ」という注釈付きだったことを思い出す。危険であることに変わりはなかったのだ。

「それは、どういう」

「キミを箱の中身にしようとしていたんじゃないかな。ああいやだいやだ。キミを取り込もうとする怪異なんて、ろくでもない」

「中身……?」

「あー。『今昔物語集』って知ってる? 芥川龍之介の『羅生門』のもとになった話も入っている説話集なんだけど」


 今からまあ、大体九百年くらい前に書かれた『今昔物語集』に『美濃国紀遠助値女霊遂死語みののくにのきいとおすけおんなのりょうにあひてついにしにたること』という話があってね。

 紀遠助という男が橋で、たいそう美しいがぶきみな女に、別の橋の袂で待つ女のもとへ絹に包まれた箱を届けるよう頼まれた。「決して箱を開けるな」と言われたものの、家に箱を持ち帰った際に男の妻が「夫が浮気をしているのか」と嫉妬心で箱を開けてしまう。その後、橋へ行き女へ箱を届けるが箱の中身を見たことがバレて、いくらもしないうちに男は亡くなってしまう……。

 まあざっくり要旨だけ話すと、こんな感じのお話。


「……つまりその話に出てくる箱が、俺が預かった箱だったってことか? 平安時代とか、そのあたりに書かれた話に出てきたものが、実在していたってことでいいのか」

「この橋の女たちという現象が実在していたかどうかは不明だけれど。恒弥くんにちょっかいをかけてきたモノの正体とは少し違う。この話が知れ渡ることで〈橋の女と箱〉という概念が生まれ、人々の頭の中に奴らが存在し得る余白が生まれた。その余白と恐怖から〈箱〉と、〈箱を運ばせる〉女という怪異が実際に目の前に現れることができるようになった。と言ったほうが正しいだろうね。もちろん、そういう発生の仕方ではないモノもいる」

「……聞いておいてなんだけど、よくわからない。すみません」


 素直にうなだれた恒弥にナキは静かに笑う。いつも通り笑みを含んだ笑いだが、そこにはからかいも嫌味もなかった。

 学生時代の成績は悪くなかったと思うが、ナキの語る人ならざる者の起こす怪異の機序は、何度聞いても理解しがたい。

 ……だからナキは恒弥に語りたがらないのか。信頼してほしいなどと言いながら、いざ話を聞いたら理解できない、わからない。なんて、情けないことこの上ない。


「作り話を広めることで真実になることもあるかもね、って、今はそれだけでいいんだよ」

 理解できなくても、キミが必要なら何度だって話すから。


 そうほほ笑むナキの顔を見る。視界を確保するためか、前髪がややサイドに避けられている。眼鏡のフレームから一瞬垣間見えたナキの瞳が見える。なんとなく気恥ずかしくなり、視線を逸らしてフロントガラスを見つめる。遠くで信号が黄色から赤へと変わり、静かにブレーキが掛けられ停車した。

 蒸し暑い夏の夜に間近にある体温を心地よく思うことや、穏やかな笑みを見て胸の奥がしめつけられるように感じること。この感覚の正体をまだ直視したくなくて、恒弥は静かな車内に声を落とす。


「さっきの夜食のプリン。帰ったら食べたい」

「いいね、食べよう。写真に撮るのを忘れていたけど、黒ごまプリンもある」

「どれだけ作ってるんだ……なら今日は黒ごまのほうを食べようかな」

「了解。嬉しいね。キミに取り込んでもらうために作っているから」

「あ、ごめん、なんて言った? いまバイクが……」

「なんでもないよ」

 車を発車させたナキは恒弥を安心させるように、口端に控えめな笑いを乗せた。



「ちなみに、箱の中身は目玉と切り取られた陰茎が大量に入っていたそうだよ」

「……そんなの聞かせないで……」

 理解しなくていい話もあるのかもしれない。

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伊澄恒弥、女の霊に遭いて。 上下ろかす @jougrks

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