放課後、花咲日和
@mobuko_923
第1話「風が告げる名前」
朝の弓道場には、張りつめた空気と矢の音だけが響いていた。
まだ陽も高くない時間。木の床を踏みしめるたび、ひんやりとした空気が足元を抜けていく。
校舎の方からは、遠くで鳥の声と、生徒たちの笑い声がかすかに混じり合っていた。
けれどこの場所だけは、まるで別世界のように静かだった。
弓を引く望月蓮の動きは、無駄がなかった。
呼吸のリズム、手の角度、放つ瞬間の迷いのなさ。
彼にとってそれは努力ではなく、習慣のようなものだった。
誰かに褒められたいわけでも、試合で勝ちたいわけでもない。
ただ、あの時見た、真っすぐでいたい。
――あの日見た、弓を引くあの人の真っ直ぐ矢を放つ背中は、いまも自分の弓の中に生きている。
「今日も完璧ね」
隣から穏やかな声がした。
弓道部の部長であり、生徒会副会長の篠原琴羽が、弓を構えながら立っている。
朝の光が射し込み、彼女の黒髪を淡く照らした。
同じ弓を引く姿でも、蓮と琴羽ではどこか違って見える。
彼女の動作には芯の強さと優しさがあった。
「そういえば、今日あなたのクラスに転校生が来るらしいわよ」
矢を番えたまま、蓮はほんの一瞬だけ眉を動かした。
「そうなんですね」
それだけ言って、再び的へと意識を戻す。
彼の中で、他人の存在は弓の軌道ほどに重要ではない。
放つ矢の先にしか、彼の興味は向かない。
「たまには人に興味を持ちなさいよ」
琴羽は少し呆れたように笑う。
「いつも無関心じゃ、風通しが悪いわよ」
蓮はわずかに肩をすくめた。
「風が吹いても、的は動かないですよ」
「……ほんと、そういうところ」
琴羽は苦笑して首を振る。
「的は動かなくても、人は動くものよ」
その言葉にも、蓮は反応を示さない。
ただ矢を放ち、また一本、また一本と同じ動作を繰り返す。
無駄のないその背中は、誰も寄せつけない静けさを纏っていた。
ふと、外の風が吹き抜ける。
開け放たれた道場の端から、桜の花びらがひとひら舞い込んだ。
それは蓮の足元に落ち、淡く光を反射する。
彼はそれに気づくこともなく、次の矢をつがえる。
的を射抜く音が響くたび、世界は少しずつ澄んでいく。
その音は蓮にとって、誰かの声よりも確かな“日常”の証だった。
「……本当に、風通しが悪いわね」
琴羽がぼそりとつぶやく。
けれどその声も、蓮の耳には届かない。
弦が鳴り、矢が放たれる。
その瞬間、また風が吹いた。
花びらがひとつ、空へ舞い上がる。
――この朝の風が、彼の運命を変えることになるとは、
まだ誰も知らなかった。
その転校生との出会いが、望月蓮の放課後を変えるなんて。
このときの彼は、まだ思いもしなかった。
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