パラドックス・ブレイカー

黄黒真直

第1話 アキレスと亀と、猫

 たとえ命の危機が迫っていようとも、逆瀬さかせ祈理いのりは冷静だった。

 薄暗い細い道には人の気配がない。祈理と、祈理を追いかけてくる男だけがいた。

 祈理は男を観察し、その意図を読み取っていた。


 男は三十代くらい。上下とも黒いジャージを着ている。肌や髪には清潔感があり真面目そうな印象を受けたが、夜中に女子高生を追いかけているのだから、真面目な人間ではないだろう。

 そして、右耳には白い大きなピアスをつけていた。それは真珠のような色味で、ときどき街灯の光を反射して虹色に輝いていた。


 男は全力を出していない、と祈理は直感した。祈理をわざと捕まえず、長々と走らせ続けることで、疲れさせようとしているに違いない。疲れさせ、恐怖させ、それからじっくり……。


 祈理は、アキレスと亀の話を思い出していた。「足の速いはずのアキレスが、自分の前を走る亀に決して追いつけない」という、昔の哲学者が言い出した話だ。いまの自分は、永久にアキレスに追われ続ける亀のようだ。


 絶対に思い通りになってやるものか、と祈理は決心した。体力には自信がある。ほとんど毎日、配達のバイトをしているからだ。


 それに、勝算もある。


 祈理は角を曲がると、そこで立ち止まって、男が来るのを待つ。

 肩掛けのスクールバッグを下ろした。バッグの中には、辞書や折り畳み傘が入っていて、ずっしりと重い。祈理は、その持ち手をギュッとにぎりしめた。


 荒い息をなんとか抑えて、男の足音に耳をすませる。

 だんだんと近づいてきた。あと数秒で、この角から男が出てくる。


 三秒。二秒。一秒。


 男の体が、ついに見えた。

「どりゃあああっ!」

 およそ女子高生とは思えない雄叫びをあげながら、祈理はスクールバッグを振り上げた。体を一回転させ、男の側頭部にバッグの角を激突させる。


 だが。

 手ごたえは、全くなかった。


「あれっ!?」


 バッグは外していない。間違いなく、男の頭に当たっている。

 なのに、手ごたえがない。男も、痛がる様子は全くない。バッグは、男の側頭部ギリギリのところで、ぴたりと止まっていた。

 男はバッグ横目で見て、にやりと笑った。


「なるほど。これが『能力』か」


 祈理は一歩引いた。バッグが男から離れ、ずしっとした重さが祈理の腕に伝わる。祈理は、バッグの持ち手をもう一度にぎり直した。


「能、力……? いったい、なんの話をしているの?」

「だから、能力の話だよ。この世の理に逆らう力だ……そうだよな、パンドラ?}


 男が誰かに話しかけると、どこからともなく女の声がした。


『それは少し違います、アキラ様。私の力は、を起こす力です。もしそれがこの世の理に逆らうのなら、間違っているのは理の方です』


 パンドラは落ち着いた口調だったが、思想は強かった。アキラと呼ばれた男も、虚を突かれたようだった。


「……ま、そういうことだ。ついでに、俺の能力について教えてやってくれ」

『はい。アキラ様に与えた能力は、【アキレスと亀のパラドックス】です。誰もアキラ様にたどりつけなくなる能力です』


 祈理はスクールバッグを振りかぶった。


「なにわけわかんないこと言ってるのっ!」


 バッグが、男のあごに直撃する。だが、やはり手ごたえはない。


「人の話は聞くもんだぜ、逆瀬祈理。俺の能力は【アキレスと亀のパラドックス】。この能力がある限り、誰も俺に攻撃できない」


 祈理は初めて、この男に恐怖した。バッグから手を離し、震える足であとずさる。

 バッグはアキラのあごに貼り付くように止まっていたが、アキラが払いのけると地面に落ちた。


「あなた、いったい何者? どうして私の名前を知ってるの? パンドラって誰!?」

「悪いが、俺も詳しいことは知らない。今朝突然、能力を渡されたんだ。この能力で、お前を殺せと言われてな」

「ころ……」

「お前を殺したら、この能力を強化してくれるそうだ。そしたら俺は、殴られないだけじゃない。絶対に誰にも捕まらなくなる。アキレスから逃げ続ける亀のようにな」


 アキラが一歩、祈理に近付く。


「そもそもお前、アキレスと亀のパラドックスって、知ってるか? ゼノンっていう大昔の哲学者が言った話だ。足の速いアキレスとノロマな亀が徒競走をすることになった。亀にはハンデとして、アキレスより少し前からスタートすることになった。その結果、アキレスは決して亀には追いつけなくなった……なんでかわかるか?」


 アキラがさらに祈理に近付く。右ポケットから、一本のナイフを取り出した。


「アキレスが亀に追いつくためには、必ず『いま亀がいる場所』に着かなきゃいけない。だがそこに着くころには、亀はほんの少し前にいる。そのとき亀がいる場所にアキレスが着くと、そのころにはやっぱり、亀はほんの少し前にいる。これが無限に繰り返されるから、アキレスは決して亀に追いつけない」


 右手ににぎったナイフを、自分の左手に近付ける。力を込めているように見えるが、その刃は全く左手に食い込まなかった。


「俺の【アキレスと亀のパラドックス】は、こういう能力だ。誰かが俺を殴ろうとしても、その拳は決して俺にはたどりつけない」


 アキラは手を止めると、祈理を見てにやりと笑った。


「だが、俺からはお前にたどりつける」


 アキラがナイフの刃先をこちらに向けた。

 祈理は背を向けて、全速力で走り出した。



 いったい、なぜ。どうして、自分は命を狙われているのだ。

 祈理はごく一般的な高校一年生だ。特筆すべき点があるとすれば、少し変わった過去があることくらい。だが、殺される心当たりなんてない。

 しかしあのアキラという男は、はっきりと自分の名前を呼んだ。人違いではないだろう。


 アキラは、誰かに頼まれたと言っていた。いったい、誰に?

 それに、あの不思議な能力。

【パラドックス】とは、いったいなんだ?


 パラドックスという言葉で、祈理は息苦しくなった。

 自分の特殊な過去を思い出してしまったからだ。


 祈理は、中二病だった。それもかなり重度の。

 中学時代は、女探偵や女冒険家が活躍する小説をこよなく愛し、量子力学や相対性理論の本も意味もわからないまま読んでいた。パラドックスやジレンマなども大好きで、それらを扱った本も片っ端から読んでいた。

 クラスメイトと話すときも小説のような格式ばった口調でしゃべり、一人称は「ボク」。わざと難しい言葉を使うこともあったため、クラスの輪にほとんど馴染めていなかった。


 当時のことを思い出すと、あまりの恥ずかしさに死にたくなる。「アキレスと亀のパラドックス」と聞いて、祈理はまさに、当時のことを思い出していた。


(うぐぐ、死にたい! でもこんな形で殺されたくはない!)


 矛盾した思考を抱えたまま、祈理は細い道を走り続ける。

 闇雲に走っているわけではなかった。祈理には、ある作戦が思い浮かんでいた。


 祈理は角を曲がった。その先に、大きな建物が見える。

 数年前に閉店した家電量販店――その脇にある、立体駐車場に目をつけた。

 祈理は「立ち入り禁止」のバーを乗り越え、立体駐車場を駆け上がった。


 最上階の六階で、柱の陰に身を隠す。アキラの足音はまだ聞こえない。祈理は大きく息を吸って、呼吸を整えた。


 あの能力が「アキレスと亀のパラドックス」と同じ性質を持っているなら、アキラを行動不能にする方法がある。

 問題は、どうやってその方法を実行するか、だ……。


 すぐ背後で、カツン、と足音がした。

 祈理は体を震わせて振り返った。まさか、もうアキラがここまで……!?


「えっ……誰!?」


 祈理の前に立っていたのは、アキラではなかった。

 女だった。四十代か五十代くらいの女だ。目じりや首周りにしわが目立つ。カジュアルスーツを着ていて、その胸ポケットには、真珠のように白いボールペンが入っている。

 どこかで見たことのある女だ。だが、いつどこで見たのか思い出せなかった。


 女の方も、驚いた顔をしていた。祈理をまじまじと見て、言った。

「ほ、本当に来れた……」

 祈理は眉根を寄せる。

「誰? どこから現れたの?」

「あっ、待って、そんなに警戒しないで。私はあなたの味方よ。助けにきたの」

「助け? あの男を、どうにかできるってこと?」

「あの男……?」


 女は首を傾げた。


「ごめん、詳しいことは聞いてないの。ただ、この箱を渡せって頼まれて」


 女が差し出した手には、指輪ケースほどの大きさの箱が乗っていた。立方体で、真珠のように真っ白だった。隣の建物の明かりを反射して、虹色に輝いている。


「これを渡せば、あなたを助けられるって言われて」

「これは……なに?」

「パンドラ、と言うらしいわ。嫌よね、なんで箱にパンドラなんて名前つけるのかしら」


 アキラが、「パンドラ」という名前を口にしていたのを思い出した。パンドラというのは、人の名前ではなく、箱の名前だったのか。すると、アキラもこの箱を持っているのか。

 女は祈理の手を取ると、その上にパンドラを乗せた。


「その箱を開けて。そうすればあなたも、能力を手に入れられる」

「能力って……」

「パラドックスの力よ」


 アキラが使っていた、あの力のことに違いない。

 だが、この女の言葉を信じて大丈夫だろうか。

 祈理は不安に思ったが、今の状況では他に頼れるものもない。

 意を決して、箱を開けた。


 箱から、まばゆい光が放たれた。

 どこからともなく女の声がした。さっきアキラと話していた声だ。


『初めまして。私の名前はパンドラ。あなたの名前を教えてください』

「はぁ? ……逆瀬さかせ祈理いのり

『祈理様ですね。では、あなたに相応しい能力を検索いたします』


 パンドラは一秒ほど黙った。

 そして、『決定いたしました』というと、告げた。


『祈理様の能力は、【シュレディンガーの猫のパラドックス】です』


 祈理は、そのパラドックスも知っていた。量子力学に登場する有名なパラドックスだ。

 ある実験装置の中に猫を入れる。すると、論理的に考えて、その猫は生きてる状態と死んでる状態を取ることができる、というパラドックスだ。

 パンドラが説明を続けた。


『この能力は、複数の状態を同時に取ることができます』

「どういう意味?」

『簡単にいえば、分身できます』

「分身……?」

『では、私は携行モードに移行します。ご質問があればいつでもお尋ねください』


 光が箱の中に納まる。

 すると、箱は変形しながら宙に浮かんだ。祈理の目の前で、リボン形の大きなバレッタに変わる。真珠のように白く、虹色に輝くバレッタだった。それは祈理の背後に回ると、セミロングの髪を後ろでまとめた。


「……いったい、今のはなに?」

 祈理は、女に尋ねようとした。だが、女はすでにいなくなっていた。

「……」


 祈理は半信半疑のまま、バレッタに手を伸ばした。


「【シュレディンガーの猫のパラドックス】」


 そうつぶやいた瞬間、目の前に人が現れた。

「ひっ」

 と祈理は短い悲鳴を上げた。


 現れたのは、自分だった。

 癖のあるセミロングの髪に、猫みたいに丸みを帯びた吊り目。ペタンとした胸と、対照的に筋肉のついた腕と脚。白いバレッタのリボンが頭の後ろから飛び出し、猫耳のようになっている。制服のセーラー服を着た自分が、無表情でそこに立っていた。


「あ、あの……こんにちは?」


 顔の前で手を振ってみるが、分身は微動だにしない。

 もしかして、これだけ? 動かない分身を作る能力? せめて表情を動かすとかできないの?


 そう思ったとき、分身の表情がわずかに笑った。


「……そういうこと。私が念じると、思った通りに動かせる分身か」


 祈理は試しに、分身に色々な表情をさせてみた。


 それを見るうちに、祈理はようやく思い出した。

 さっきの女の人を、自分がいつ、どこで見たのか。


 いつ?

 毎日。

 どこで?

 鏡の中で。


 あの女の人は、自分にそっくりなのだ。

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