誰だ?

雨湯うゆ🐋𓈒𓏸

誰だ?

 朝若く、湯咲ゆさき 冴結さゆが自室のベッドから起き上がる時は、いつもご機嫌なアラームから始まる。まだ寝ぼけ気味の視床下部が目覚め越しの異常なほど冷えた血流を感じ取って、どっと指先の毛細血管を拡げた。季節は一月の、夢より淡い早朝だった。


 羊膜に視界が覆われている感覚、うすら目だった。以前骨董屋で買った壁掛けのウィリアム・ターナーの「嵐」のコピー品が、こちらを覗く誰かの目に見える。ドライフラワーの下には乾いた花弁が数枚の絨毯を敷いていた。やはり飾ったばかりではよく落ちるか、と諦めを心の中で冴結は口にする。


冴結は目を閉じて瞼の奥に目を返した。今日は彼女の引っ越したばかりのこの家での、初めての起床だった。


 しかし瞼の陽光透過性は冴結にとって非常に大きな障害たりえていた。安物カーテンよりも光をよく通す自身の薄い皮膚に、虹彩周りの存在しない葉緑体が活性化されたような気分に陥る。惰眠はこれ以上できなかった。


「ダメだ。起きるか」


 冴結は徐にスマホとタバコを手に取った。

母方由来の射干玉より黒々とした虹彩が現在時刻を反射する。五時半。なんとはなしに浮かぶ、睡眠をとったという勿体無さを噛み締めながら冴結はベッドを降りた。


 勉強机上のラジオを1番ダイアルに合わせて起動する。弱い砂嵐音と共に、陽気なナレーターの声が朝を知らせた。


『——ようございます。こちらはNBCBホームサービスです。ニュースをお伝えします。読み手は——』


 これは冴結の独特な習慣だった。FENTA社——二一世紀史上最高のラジオ会社!——の二〇世紀風アンティークラジオを操作して、原稿に向き合うナレーターから今日の天気と空気質の情報を聞き流す。この瞬間だけは今はもう百年ほど前の、一九〇〇年代はアメリカご婦人気分になれたのだ。対して懐古主義というわけではないけれど、こういう気分が好きなのはきっと前世のホームシックなのだろうと思い込むことにしている。


 服を着替えるまでに時間はあまりかからなかった。寝起きの身支度ほど憂鬱なものもないと聞くけれど、朝ご飯は抜く派だし、美容やファッションをとってもあまりこだわりのない冴結には、朝はそこまで苦を伴うものじゃないのだ。

もちろんホットビューラーで軽くまつ毛をあげたり、化粧水や乳液を塗ったりといった些事もあるが、結局はそれも数分で終わる出来事で。どれも日常的で叙述的だった。


 ふと聞こえた鼻歌。風呂場からだった。冴結は足を向ける。


『———ただ喜びを感じるためだけに、私はこんな場所に留め置かれているのでない。

暗闇の世界から、何か身の毛のよだつ恐怖が迫ってくる。———』


 ゲーテの『ファウスト』、塔守リュンコイスの詩だったか。ラジオのニュースは、すでに天気予報から雑多な朝の朗読コーナーに変わっていた。それは昔読んだ本の中、よく聞いた一節で、今振り返って目する節でない。けれどそれが、冴結の聴神経の上を芋虫が這うように刺激した。


 脱衣場に着いた時、風呂場の中から聞こえる声が自身の声であることに気づいた。


 鼻歌が止まる。


 しばらくの無言は、風呂場と脱衣場を隔てる一枚の戸の間で行われていた。鼓動が速くなる。風呂場の電球は昨日と同じ。消えているままだった。


『息子よ、動揺しているように見える。まるで、狼狽しているかのようだ。しっかりなさい。』


 はじめに言葉を発したのは風呂場の声だった。冴結は小さく口で息を吸い込む。湿気た空気はいつもより空気を重く感じさせる。分子量は十分軽いはずなのに。


「シェイクスピアの『テンペスト』、確かそれは、そう、プロスペロの台詞だ。」


『優秀だね。いつだって君は、一度読んだ本の内容は、全て暗誦できた。』


 風呂場の声は言うと同時にうっとりと、感心したように拍手する。そして続ける。


『君は今もこの状況をまるで、そうだな、ボルヘスにこんな話があったな、と思っている。』


 冴結は無意識的にうなづいた。その行為を観察できたものは誰もいない。

冴結は直感的に声の主が自分ではない何者かであると気がついた。


「誰だ。」


 冴結の声と同時に、浴槽から水を纏って立ち上がる音が聞こえる。短い滝のような落下音。湯船に水を貯めた覚えはない。冴結は常にシャワーを浴びるだけのバスタイムだった。


『それに対する返答を私はよく知っているとも。常に悪を欲して、そして常に善を成す力の一部、とね。』

「さながらメフィストと?冗談。」

『冗談は好きだろ?エドワード・リアの詩みたいな。』


 ため息。冴結のついたものだった。


「好きだけど、あなたのは嫌い。」

『どうして?』

「意外性、デペイズマンが足りない。何の縛りもないくだらない本を読んでいるようにしか感じないわ」


 人生が欲するのは常に驚きと充足感だった。それを風呂場の声は知らない。


「あなたはただ昔の本の一節を話すだけ、創造性に欠けるわ。つまるところ、」


「知恵のない化け物ね」


『化け物。』風呂場の化け物は反芻しながら笑う。『どのような?』

冴結はこたえる。


「夢の化け物。決して空想の化け物ではない。名付けもできない、しかしそこに存在する。まさしく夢ね。」

『知識と認識は常に共有されないものさ。キャロルのバンダースナッチ、宮沢賢治のクラムボン、それにカフカのオドラデクだって。どれも空想の化け物だ。私だってそんな空想のキャラクターと変わりない。何がおかしいと?』


 冴結は風呂場の戸に手をかける。


「空想はね、理性に抑されて成り立つの。あなたはただ、他人の作った空想の一節を多々語って身分を偽る夢。理性的でも叙述的でもない現実があなたよ。」


 再び無言が場を支配した。化け物は肺に入りすぎた空気を抜くように、ゆったりとした口調で険しく話す。


『フランシスコ・デ・ゴヤの作品であったよね。理性の眠りは怪物を生む、だったかな。沈黙の理性が生むのは無知蒙昧で、過剰な空想。それは君の言う叙述的でない現実に繋がる』


 冴結は戸に力を込めた。


「ごもっとも。何者の言葉で自分を表現できるあなたは、結局のところ何者にも定型されない化け物。」

『じゃあ私はどこにいる?この小さな二千字余りの小説とも言えない文字列の中?それとも君の目の中か?確固としたキャラクターを持たない私は、一体、誰だ?』


 冴結は戸を開けた。新鮮な現実が化け物の前を掠める。

勢いよく開けたばかりか、戸と向かいの壁にかけてあったシャワーヘッドが床に落ちた。鏡に自身の姿が反射される。透明で乾燥し切った空気を通して。

冴結は胸ポケットからタバコを取り出して吸い始める。ボックスの赤台紙に書かれてある中国語の喫煙警告文句は、彼女が味を嗜まないニコチン中毒の倹約家であることを示していた。

風呂場には怪物なんていなかった。

冴結の目覚めは始まったばかりだった。

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