第32章 限界

シュンには、異動の調整という名目で、数日間の特別休暇が与えられていた。

ぼんやりとテレビをつけてはいたが、内容は頭に入らない。

画面の中の笑い声だけが、現実から浮いて聞こえる。




(まだ……大丈夫だ。俺たちは、ここからまた——)




「ねぇ、シュン」

不意に声をかけられて、振り向く。

ユイが、リビングの入り口に立っていた。




「ん?」


「さっきね……リナが夢に出てきたの」


「……そっか」


「すごく元気で、『ママ、頑張ってね』って……言ってた気がするの」

ユイは微笑んだ。



その笑みは、久しぶりに見る“穏やかさ”のようで、どこか不自然でもあった。




その夜——

ユイが外出の支度をしていた。




「大丈夫か?」とシュンが声をかける。

「大丈夫。ちょっと散歩。なんか……リナのおかげで、頑張れそう」




声の奥がわずかに震えていた。


「待って。俺も行くよ」


「一人に……してほしいの」




ユイは笑った。

その笑顔が、あまりにも綺麗すぎて、シュンは言葉を失った。


——まるで、その笑顔だけをこの家に残していこうとするみたいに。




「……そうか」




カラ元気でもいい。

前を向こうとしているのなら、信じたかった。


玄関で、ユイはリナの髪留めを手にした。

ユイはそれをポケットに入れて、ふらりと出ていった。


扉の閉まる音が、妙に遠くに聞こえた。







その一時間後——

警察からの電話が鳴った。


ユイの死を知らせるものだった。




雪がちらつく静かな夜。

現場は近くの歩道橋。




目撃者の証言では、

「歩道橋の上で傘もささずに、空を見上げていた」と。




運転手は「急に現れた」と語った。

階段の足元の段差に気づかず、バランスを崩した彼女を避けきれなかったのだという。


白い髪留めは、今もユイの手の中にあった。



指先が、それを手放さなかった。


警察は「不慮の事故」と処理した。

けれど——シュンには、どうしてもそうは思えなかった。





シュンは、今でも考えてしまう。




ユイは——

心の奥底で、


もう“これ以上は持たない”と、気づいていたのかもしれない。




看護師から渡された白い髪留め。



“壊れてさえいなかった”それを見たとき、

シュンは、何も言葉を持てなかった。




「もし…あのとき俺が引き留めてたていたら…」

「もし…あの時無理にでも一緒に行っていれば…!!」




そう思わない日は、なかった。f

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