アインス帝国史 ー廻ー

ひのき

序章ー上ー 必然

 この世界に最初に渡航してきた異世界人が誰だったか、誰も知る由もない。

 だが記録上残っている最初の異世界人はアインス帝国の創設者だという。

 彼がこの世界に現れた時、10代前半から20代後半の男女約50名で構成されていたと記録されている。

 その中で一際存在感を示していたのが、ラインハルト・アインスという青年だった。

 彷徨う彼らを森の中で最初に発見した中年男性の日記には、こう記されていた。

【1503年5月7日】

 ー丁寧に織られて汚れのない服や荒れていない手先を見ると、最初はどこぞの上流階級の子供たちが森の中で遊んでいた挙句迷ってしまったと思った。だが彼らの話を聞いているうちに、この世界ではない何処からか迷い込んでいるのだと気づき、バラバラだった彼らを率先してまとめていたラインハルトとという青年に助言をした。

「このまま北に真っすぐ進むと、オズキュルク共和国の検問所がある。そこで人を頼りなさい」

 ラインハルトと名乗る青年は気持ちの良い笑顔を浮かべ、感謝の言葉を囁いたのを今でも思い出すー

 ラインハルトととの出会いを数日の内に書き記した彼の日記には、その隣にこう綴ってあった。

 ー今思えば、あの深海のように吸い込まれるような蒼黒の瞳には、私の浅はかな行動と思慮深さに欠ける眼差しに、神様が最後の忠告をしてくれていたのかもしれないー

 そう書き出された日記は後のアインス共和国の国立歴史民俗博物館に贈呈されることになるが、書き足された筆記体はラインハルトへの最初の印象を記した物とは裏腹に、震えた手で書いたであろう文字は曲線を描き、インクは掠れていて読み解くのに苦労を要するものであった。

 森を抜け彼らが向かったオズキュルク共和国は、民衆による選挙を行う、共和制政治を主体とする国家であった。

 ラインハルト達は、当時外交大臣を務めていたアブドゥル大臣により【異界からの親善大使】という法的に記載のない不安定な身分を用意された。

 アブドゥル大臣が用意した身分によって、慎ましやかな生活であったものの、この世界に来たばかりの彼らが途方に暮れ、路上生活を強いられる事は無かった。

 当時、ラインハルトは21歳である。

【1503年11月】

 オズキュルク共和国は500年の歴史を持ち、その実態は世襲政治家による汚職にまみれていた。

 その年は、ハリケーン等の自然災害が頻発したことで作物等の収穫量が昨年よりも減り、オズキュルク共和国の経済は一時的な不況に陥っていた。

 だが、経済が不況に陥る原因はそれだけでは無い。

 常態化している議員による汚職や、それを暴くための諜報活動。それに伴う資金は政府機関からの財政で賄われ、共和国の北に位置するラーヴェンストヴォ連邦との軍拡競争も主な原因であった。

【1504年1月】

 年を改めても作物の値段の高騰が続いたオズキュルク共和国では、民衆の生活は決して裕福とは言えなかった。

 民衆の募った不満は民会や元老院の前でデモ行為に現れ、それに対して政府は貯蓄してあった穀物を切り崩しながら、辛うじて民衆の不安を抑える政策を行った。

 しかし、より自体を悪化させる引き金になったのが、一部暴徒化した民衆による農家への略奪と暴行である。

 自体を深刻に受け止めた共和国政府は、民衆に対する不満の受け皿に仕立て上げるための、都合の良い駒を用意した。

 ラインハルト達は、政府にも民衆にも属さず、また不安定な立場にあり、双方の需要を満たすことのできる駒であった。

 共和国政府は新聞社に、異世界人による贅沢とそれに伴う財政圧迫。といった記述のある新聞を発行せよと命令。新聞社はそれに対して多額の賄賂を請求し、共和国政府はそれを払わざるを得なかった。

 1504年2月、ラインハルト達の立場を決定的に決める新聞が発行された。

 ラインハルト達の身分を決めたアブドゥル大臣は自身の立場を案じ、最後まで新聞社の説得を試みたが、助長した彼らを満足させる金額を用意することは最後まで出来なかった。

【1504年2月末】

 アブドゥル大臣は辞職。

 ラインハルト達の身分を剥奪しようとした共和国政府だったが、憲法にも法律にも存在しない【異界からの親善大使】という身分を剥奪するには、共和国憲法第4条【共和国市民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が市民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の市民に与へられる。】と記されている事もあり、裁判ではラインハルト達を共和国市民として受け入れられるのかが争点となった。

 この時、共和国の権力は裁判所まで及んでいなかったため、裁判を受けている間はラインハルト達の生活は保証されていたが、依然として残るラインハルト達への抗議活動は、細やかなものながらも、ラインハルト達の住む宿舎前で行われ続けた。

 ラインハルトが元住んでいた世界で、彼は歴史と地政学に秀でていた。そのため、この状況の打開策は彼の頭の中に既に浮かんでいた。

 それはいずれラーヴェンストヴォ連邦との間に起こる戦争を早め、軍事的成功を収めることにあった。だが共和国の軍隊は、市民権を持った国民による志願制だったため、それは制度によって憚られた。

 この時期、彼と時を同じくした他の異世界人には、何か使命感や焦燥感に駆られ焦っている様子が各々の日記に記されている。

【1504年7月】

 まだ判決の出ない裁判の帰り道。

 彼は裁判所前広場にある、噴水の縁に立つ少年を見て啓示を受ける。

【1504年8月】

 翌月、ラインハルトは町外れにある劇場に立っていた。

 裁判中の身であったラインハルト達はその立場上、主体的に動くことは自身の立場を危うくする危険があり、スキャンダル等を共和国政府に与えかねない手段であった。それを理解していたラインハルトは劇場へ足を運び、整った容姿と弁舌を用いて、民族童話に出てくる犯罪者という役を与えられた。

 金曜の夜のこと。

 足を運んだ市民は、異世界人が演劇をするという噂を聞きつけ、町外れの劇場へと集まった。

 ラインハルトに向けられる視線は期待ばかりではなく、むしろ石を投げつける為に向けられていると言っても過言ではなかった。

 だが、ラインハルトの演技は市民に衝撃を与えたのだ。

 顔のよく見える髪型は、ラインハルトの美しい顔の輪郭を浮き彫りにし、何ものにも染まらない白い肌は、彼の蒼黒の瞳を際立たせた。

 彼の才は容姿や演技だけに留まらず、その透き通った声は、劇場に集まった市民の耳をパイプオルガンのように震わる。

 何より彼に対し喝采を浴びせたのは、演技の中で魅せた彼のアドリブ力にあった。

 恋人に対しての逆恨みをし、復讐の執念にある少年の役を現体制への痛烈な皮肉として加工し直したのだ。

 当時主人公役を務めていたとされるエルネンストの日記には、こう綴ってある。

 ーラインハルトに覚えた最初の印象は、年に似つかぬほど大人びた笑顔を振りまき、腹の中を見せない若造というのが、私が彼に抱いた印象だった。

 探偵である私を通り越し、その横にいるラインハルトに集まる視線は私を嫉妬させ、同時に、私と彼との間には、努力した年月では決して埋められない才能があるのだと、苛立ちと無力感を感じせざるを得なかったー

 後に、ラインハルトが皇帝と名乗る際にエルネンストは賓客として饗されることになる。

 ラインハルトの噂は瞬く間に広がり、演劇界の新星として一躍時の人となったのだ。

【1505年1月】

 長く続いたラインハルト達の裁判に判決が下る。

 それはラインハルトを満足させる物ではなかったが、在留資格が発行され、市民権やそれに伴う権力は得られないものの、追放されず、基本的人権は保証される身となった。

 当時執政官を務めていたエルナンド四世は、ラインハルトに下された判決に不満を持っていたのが日記に綴られていたが、当時、彼がそれを公にする事は無かった。

 最初こそ、町外れの小さな劇場で細やかな役を演じていたラインハルトだったが、彼の演技力、そしてその容姿から女性からの支持を獲得し、演者としての道を切り開きつつあったのだ。

 民衆の中で漂うラインハルトに対するブームは一時的な物で終わると思われたが、時折見せた現体制への皮肉は、労働階級の代弁者として民衆に受け入れられ、彼の出演で膨大な利益を出している劇場は、口をつぐむ事を選び続けた。

 ラインハルトの名が歴史に刻まれつつある中、ほかの異世界人達も沈黙を守ってはいなかった。

 ある者は辺境の過疎地に赴き、農家の解体や林業で富を作り、ある者は自身の現代知識を利用し、知的財産権を主張した。

【1519年9月】

 労働や納税を怠らなかったラインハルト達に正当な手続きの下、市民権が与えられた。

 時を同じくしてラーヴェンストヴォ連邦では、異世界人の知識により急速に発展する共和国に危機感を示す動きがあった。

 連邦は共和国との国境沿いでの軍事演習を繰り返し、自身の軍事力を示し続けた。

 両国の緊張間を高めるとして批判する貴族も現れたが、当時国家元首の座に就いていたゲルマンはそれに不満を顕にし、軍事行動に反対意見を示す上流階級や貴族を腰の低い愚者と断じ、貿易権の停止をチラつかせ圧力をかけ続けた。

【1521年6月】

 ラーヴェンストヴォ連邦は、オズキュルク共和国軍による演習中の国境侵犯を理由に宣戦を布告。

 連邦による諜報活動により、共和国と連邦における技術的格差が開きつつあるのは明白であった。

 共和国がこのまま助長し、大陸内で覇を築いてからでは遅いと判断したゲルマンは、気候的にも安定し、侵攻に適した6月を侵攻時期に選んだのだ。

【1521年8月】

 連邦は被害を出しながらもその物量から軍事的成功を収めつつあり、徐々に共和国領土を掌握しつつあった。

 共和国政府は危機感を示し、16歳以上の男性を徴兵させる法案を可決。既に市民権を得ていたラインハルト達もまた、共和国軍へ徴兵されることになった。

【1521年11月】

 2ヶ月弱の簡易的な訓練を終えたラインハルトは、北方最前線にある前哨基地へと派遣された。

 連邦との国境沿いにあるマリネスク要塞は、既に連邦により陥落し、連邦はマリネスク要塞を補給の拠点としながら共和国への遠征を続けていた。

 しかし冬が到来したこともあり、1521年3月までは、両者の間に大規模な戦闘があったと記録されていない。

 寒く補給物資が枯渇しやすい時期での侵攻は、短期的な軍事的成功を収めたとしてもいずれ物資が枯渇し破滅に向かうことは明白であった。

 連邦軍はその物量から、補給線に多大な負担を負っていたが、補給物資を占領した農地から現地調達することで、辛うじて兵站と士気を保っている状態であった。

 また共和国軍も兵員に余裕がないことから、反転攻勢を主張する者は短絡的だと揶揄され、軍内でも少数派の意見であった。

【1521年12月24日】

 この世界にクリスマスという文化が歴史に現れたのは、おそらくこの日が最初である。

 歴史や地政学に惹かれたラインハルトにとって、神は信じるに値すべき物では無かったが、歴史を学ぶ上で宗教が文化や法律に与えた影響を論文に記す際、避けては通れない道であった。

 その日は雪がさんさんと降り積もり、両軍の頭上を平等に白く染めたという。

 ラインハルトは前哨基地にて折れた枝を手に取り、彼が覚えている限りの聖書の内容を口から綴った。

 その物語は、本を読む習慣のない平民兵士達にとっては新鮮なものであった。

 ラインハルトは最後に、上着の右ポケットからブランデーを取り出して、その場にいた兵士達に振る舞ったという。

 前哨基地に駐屯する兵士は8000人ほどで、ラインハルトの話に耳を傾けたのは200人ほどだったが、度重なる連敗と冬の寒さに疲弊した兵士達の傷を癒すのには、十分過ぎるもてなしだった。

 後に彼の右腕と称される帝国陸軍ハルトマン上級大将も、彼の語りに救われた人物だ。

 当時、彼の階級は少尉である、

 ハルトマン少尉が戦場の最中恋人へ記した手紙には、ラインハルトという芸者を目の前にした高揚感が綴られており、手紙の最後にはラインハルトという好青年が、この国を変えてくれるかもしれないという希望が語られていた。

 クリスマスの夜以降、前哨基地内でのラインハルトの噂は広まり続け、毎晩、来る日も来る日も人を入れ替えながらラインハルトは物語を語り続けた。

【1522年2月】

 年を改め春が近づきつつある季節。

 両軍は騎馬兵による哨戒を活発に行い、北方前線では緊張が高まっていた。

【1522年3月初頭】

 哨戒隊同士による、偶発的な戦闘が頻発する中、ラインハルトはハルトマン少尉を仲介に、ケスラー准将への意見具申を求めたという。

 当時二等兵でしか無かったラインハルトは、本来上官に意見を出すことは出過ぎた行為であり、忌避されることはあっても受け入れられるものではなかった。

 ケスラー准将にとってラインハルトは決して穏やかな存在ではなかった。それを理解していたハルトマン少尉の口からは、ラインハルトの名が出ることはなかった。

 ハルトマン少尉が示した作戦は、ケスラー准将の倫理観を試させるものであった。

 それは、余力のある内に撤退を行い、連邦軍の進行上に存在する畑や家屋を焼却、連邦軍に物資の現地調達を困難にさせ、補給上の負担を強いるものであった。

 つまりは、焦土作戦である。

 ラインハルトは連邦の物量や当時の物資の輸送手段に加え、作物の収穫量を予想した。

 現時点で連邦は2万弱の編成による行軍を続けている事から、2万人を毎日食わせるだけの物資は冬の間に枯渇しかけるのではないかと仮説を立て、早ければ明日、遅くとも一ヶ月以内に起こる侵攻再開を提言。共和国軍が疲弊する前に早期撤退を行う旨が記してあった。

 ケスラー准将は度重なる連敗から、撤退を受け入れる事を一時は拒んだ。しかしハルトマン少尉の作戦を冷徹に、そして徹底的に行えば勝てると理解していたのだ。

 翌日ハルトマン少尉は呼び出され、ケスラー准将の権限で大尉に昇進、参謀補佐という形で作戦立案を任されることとなる。

 ケスラー准将は大まかな作戦をハルトマン大尉にまとめさせると、速やかに共和国軍参謀本部に電文を送った。

 参謀本部は、ケスラー准将によるハルトマン少尉の大尉への昇進に不信感を覚え、その作戦を人道上の理由から承認する事は無かった。

 しかし、騎兵による電文でも片道でも3日間、往復でも1週間はかかるため、ケスラーの元に作戦否決の報が届く頃には手遅れであった。

 連邦軍が侵攻を再開したのである。

 ケスラー准将は作戦決行の決断を迫られ、場当たり的な指揮で兵員を消耗させつつあった。

 ラインハルトは戦闘の最中、ハルトマン大尉が指揮できる最大限の騎兵を用いて、焦土作戦を実行するよう指示を出した。

 ラインハルトの指示は軍の命令系統を無視するものであったが、混乱する前線とハルトマン大尉のラインハルトに対する過剰な信頼が彼を動かし、ケスラー准将の頭を越えての作戦決行となった。

 ラインハルトの所属する部隊は左翼前方の防衛を任され、中央の約4000に対し、1000人弱の兵員しか与えられていなかった。

 連邦は2万の兵を3つに分け、包囲殲滅を試みるもケスラー准将の懸命な指揮により、包囲が完成する前に、連邦軍との距離を保ち続けた。

 辛うじて組織的抵抗を保っていた共和国軍だったが、ハルトマン大尉は歩兵の撤退速度と騎兵が焦土作戦を遂行する速度を考慮し、戦闘開始から数時間が経ったところで、焦土作戦を遂行していた事をケスラー准将に明かした。

 ケスラー准将の額に汗が流れるも既に選択肢はなく、8000いた兵士は7000を切ろうとしていたため、共和国軍は速やかに撤退を余儀なくされた。

 予想より早い連邦軍の侵攻にラインハルトの作戦は失敗するに思えたが、ケスラー准将の懸命な指揮と抵抗により、その撤退が焦土作戦であると連邦軍が見抜くことはなく、結果的にラインハルトにとって望ましい形での戦局推移となった。

 7000を数えるばかりのケスラー准将を率いる兵は後退を続け、燃え尽きた家屋や畑を踏みながら行軍を続けていった。

 戦術や戦略に長けていたラインハルトだったが、当時39歳であったラインハルトにとって、戦闘後の行軍は決して楽なものではなく、後に「行軍など二度と経験するものか」と、ハルトマン大尉の結婚式場にてぼやいたという。

 連邦軍は撤退する共和国軍を追撃しようと行軍すも両軍の距離は縮まらず、お互い、哨戒する騎兵越しに、位置を確認し合うだけにとどまった。

 道中、参謀本部直属の騎兵隊に現状報告を急かされたケスラー准将であったが、焦土作戦の事実は喉の奥に隠し、敵兵力差による撤退を文に綴った。

 ケスラー准将の報告に遺憾の意を示した参謀本部だったが、最前線が崩れては自身の安全を脅かすとして、援軍を送らざるを得なかった。

 だが参謀本部直属の軍は共和国の首都に温存し、ケスラー准将に送られた兵は、新兵を中心とした混合兵隊4000であった。

 同じ頃、連邦軍を指揮するニコライ大将は、連邦軍参謀本部に撤退を具申。

 それは、進路上に存在する焼けた家屋を目の当たりにし、自身が共和国軍による焦土作戦の掌の上にいると見抜いたからである。

 だが戦線が伸び切りつつある連邦軍は、騎兵を使ってでも連邦軍参謀本部は片道1週間以上かかる位置にあった。

 だがここで撤退をすれば、侵攻という命令に逆らった汚名を着せられ、良くて左遷。最悪の場合、敵前逃亡による粛清がニコライ大将を待つ未来であった。

 それを理解していたニコライ大将は撤退の腹をくくれず、おごそかな侵攻を続けていた。

 連邦軍の再侵攻から1週間が経ち、ニコライ大将は戦線が伸び切る前に共和国領内で戦線を維持するための防衛拠点を築くことを選んだ。

 彼にとって最善の策であったが、共和国軍にとっては、連邦軍が疲弊したという都合の良い合図にしかなり得なかった。

 連邦軍が防衛陣地築いているのを察知した共和国軍は、新兵4000という新たな兵力を合わせ1万1千の兵力を持って連邦軍2万を包囲するべく反転攻勢に赴いた。

 敗走が続いた共和国軍の士気は決して高い物ではなかったが、それ以上に連邦軍は補給の不足により、満足な食事もままならない状況にあった。

 ケスラー准将は騎兵からの報告により防衛陣地の詳細を地図に書き記し、ハルトマン大尉とラインハルト二等兵を作戦本部に招集。

 それは、ハルトマン大尉がラインハルトの操り人形でしかないと見抜いていたものであったが、それ以上に、参謀本部に虚偽の報告をしている以上、ケスラー准将にとっては勝つ以外の選択肢がなかったためとも言えた。

 この時、ケスラー准将がラインハルトを評価していたかわからないが、後にラインハルトが皇帝を名乗るのに際し、帝都防衛責任者の地位にケスラーを据えた事から、両者の間には立場を超えた利害の一致や信頼関係が築かれていたと思われる。

 ケスラー准将はラインハルトの階級を自身の権限内で大尉に内定させた。軍学校を出ているハルトマン大尉とは違い、幹部候補生ではなかったラインハルトを二階級以上特進させる事は出来なかった。そのため、正確には内定に留まったラインハルトの昇進だったが、この時初めて、ラインハルトが戦場において実質的な立ち位置を占める事は叶ったのだ。

 一方連邦軍はニコライ大将の指揮の下、定期的な哨戒を繰り返し、敵の奇襲を怠らず、参謀本部からの報を待っていた。

 だがそれは、杞憂に終わると事になる。

 連邦軍が防衛拠点を築いている事を受け、ラインハルトは反転攻勢を拒否。死角から迂回し、連邦軍の補給部隊を叩く作戦を提案したのだ。

 疲弊しきった連邦軍とはいえ、2万の兵士で構成された防衛陣地を1万の兵士で破ることが困難である事は明白であった。

 ケスラー准将はラインハルトの助言を受け入れ、騎兵隊50の部隊で連邦軍の防衛陣地を包囲し、迂回を悟られぬよう指揮を行った。

 もしこれがラインハルトが独断で行った作戦であったのなら、ニコライ大将に見抜かれ、共和国軍の致命傷になり得たであろう。

 だが彼の知見と机上の論理は、ケスラー准将という現場を知る見識者によって完成したのである。

 連邦軍は共和国の騎兵が現れる度に陣形の変更を余儀なくされ、後に捕虜の身となったニコライ大将は、まるで見えない幽霊と戦っているようだった。それに振り回される自身に腹が立った。と語っている。

 共和国軍は迂回し、連邦軍の後方にいる補給部隊を襲撃。

 既に掌握したはずの領地に共和国軍が待ち構えているとは知る由もなく、5000を数える補給部隊は1万1千の共和国軍に瞬く間に包囲殲滅された。

 ニコライ大将は後方から上がる煙を見上げ、自身の敗北を悟っただろう。

 だが処罰されるべきは指揮を執った自分だけであると信念を貫き、連邦軍参謀本部からの撤退承認を待たず、連邦軍は撤退を開始。

 それを視認した騎兵は連邦軍の到着よりも早く、ケスラー准将の元へ連邦軍襲来の報を伝えた。

 ケスラー准将率いる1万1千の共和国軍は、兵力を3つに分けた。

 ケスラー准将が率いるのは6000からなる兵士で、中央を固めた。

 ハルトマン大尉は右翼を3000の兵士で構成され、左翼は大尉になったばかりのラインハルトに任された。

 その兵力は2000。

 補給部隊を圧倒的数と戦力で翻弄した共和国軍の士気は高まっていた。

 一方、連邦軍は長い防衛と行軍の果てに見せつけられた補給部隊の屍の山に打ちのめされ、そこにいた兵士一人一人が死を肌で感じていたに違いない。

 数の上では連邦軍が上回っていたことから、ニコライ大将は兵力を分散させず中央突破の陣形を取り、一番兵力の薄い左翼に布陣するラインハルトへの狙いを定めた。

 連邦軍の前衛はマスケット銃に銃剣を装備させ、突撃態勢を整える。

 ラインハルトはそれを確認すると、後退しながら自身の陣形を崩した。

 散開陣形である。

 1000人で連なっていた陣形は点々とし、包囲上の空白が生じた。

 この時代において、マスケット銃は命中精度において信頼性を欠いており、集団での一斉射撃が基本であった。

 しかしそれを知らないラインハルトではなかった。

 相手は中央突破の陣形を用いており、密集している。

 狙いを定めずとも命中するのだ。

 それを見越したラインハルトはあえて兵を散らばらせ、部隊の損害を減す狙いであった。

 ケスラー准将はラインハルトの陣形に目を疑ったが、考える余地もなく連邦軍が突撃。

 ハルトマン大尉は、自身の部隊に右翼からの片翼包囲を命令しながら、自ら馬に乗り、ケスラー准将へ片翼包囲に加勢するよう具申した。

 ケスラー准将は自身を理屈で納得させるよりも先に、中央の兵を敵側面に対して一斉射撃を行わざるを得なかった。

 ハルトマン大尉が指揮する右翼部隊も加わり、側面に対して一斉射撃を行う。

 ニコライ大将は最初から撤退する事に目標を絞っていたため、側面からの攻撃反応を示すことはなかった。しかし、中央突破をする際の射撃はラインハルトの陣形の隙間を通り抜け、十分な威力を発揮できていなかった。

 ラインハルトは連邦軍前衛のマスケット銃を撃ち切らせた後、自身の兵1500を敵前衛に突撃させた。

 ニコライ大将は選択を迫られる事になる。

 自身の兵を巻き沿いにし一斉射撃を行うか、近接戦に加勢するか、もしくは見捨てて撤退を続けるか。

 ニコライ大将は息を呑み、味方前衛の救援を迷いなく選択した。

 しかしラインハルトはそれを読んでおり、残った500による兵士を集結させ、距離のある敵後衛に火力を集中させたのだ。

 連邦軍は側面からの一斉射撃とラインハルトが用いた混戦により、数的有利を十分に発揮できなかったが、辛うじて全面敗走は免れ、約9000人の兵士達は撤退に成功した。

 しんがりを務めたラインハルトの部隊は7割を超える損耗率だったが、ヘルナス街道の撤退戦と呼ばれるこの戦いでは、共和国1万1千の兵力の内、死者は1000人にも満たなかったという。

 この戦いにおける教訓は、補給路の確保と防衛、そして合理的に戦略目標を貫く戦闘指揮というものだった。

【1522年5月】

 ニコライ大将含め、連邦軍2500名が捕虜となった。

 時を同じくしてラインハルトとケスラー准将は参謀本部に出頭。

 ケスラー准将は虚偽の報告と職権乱用の罪に問われたが、戦いの重要性とその功績から、南方への左遷へと処罰はとどまった。

 ケスラー准将に対して寛容を示した共和国政府であったが、ラインハルトに対しては違った。

 それはラインハルトの功績が国民に知れ渡り、政界に転じるのを恐れてのものだった。

 共和国政府内には、ラインハルトを前線に派遣させ戦死させようとする者もいたが、二等兵であった彼が既に武勲を立てている事を考慮し、これ以上武勲を立ててもらっては困ると、彼を最前線に戻す事は最後まで無かった。

 武勲を立てた軍人が政界に転じれば、何が起こるかは明白であったからだ。

 この時の共和国政府が己の保身のためにラインハルトを前線から遠ざけた事は事実であるが、反転攻勢に反対を示し続けたイサム経済大臣は、日記にこう綴った。

 ー今でも町外れの酒屋で、彼を英雄視する声が響いてくる。ラインハルトという青年は灯火だ。それは認めよう。だがそれが群衆という薪を焚べる事で取り返しのつかない事態になろうとしている。その灯火はいずれ、共和国を飲み込み、最悪の場合、民主主義その物も焼き尽くすであろうー

 イサム大臣もまた、汚職に浸っていた政治家の一人であったが、議会において、彼は一貫して和平交渉を唱えた良識のある人物として記録されている。

【1522年6月】

 共和国はこれを機に全兵力をもって反転攻勢を強め、占領された領地の奪取を決定。

 しかし連邦軍の防御は固く、お互いに兵力の損耗が拡大。

 連邦と共和国は、共に経済的安定を失いつつあった。

【1522年11月】

 第五次マリネスク要塞攻防戦では連邦軍に4万、共和国軍に2万の被害を出し、同月末、共和国軍は連邦への和平を打診。

【1523年3月】

 暖かくなる季節の前になんとしても和平交渉を形にしたい共和国政府は、連邦との間に停戦という形を設け、さらには連邦が既に占領している地域の所有権の譲渡を約束した。

 結果として、春先の侵攻を恐れた共和国政府は連邦に譲歩する形での和平となった。

【1523年7月21日】

 ラインハルトは共和国首都にある、ラーベン劇場の壇上に立っていた。

 だが、その日に公演の予定はなく、平日の夜に行った突発的な公演にも関わらず、ラインハルトを一目見ようと約2万席あった劇場は満席であり、そこには歴史の流れに抗いたい者、歴史の熱に浮かされたい者、そしてラインハルトという人物に希望を託す市民で溢れかえっていた。

 彼が民衆に対して行った演説は遺された資料によって異なるが、後にハルトマン上級大将彼の書斎にあったメモにはこう書かれていた。

 ー共和国市民よ、共和国政府は我々の犠牲など見向きもしない。戦時下においても権力争いや派閥抗争に明け暮れ、あまつさえ連邦による国境侵犯を食い止めたケスラー准将を左遷させた。もはや共和国政府は我々市民の味方ではない。元老院は汚職にまみれ、大臣は権力を維持することしか考えていない。もし次に、連邦が攻めてきたらどうする。また家族を差し出すのか。領土を差し出すのか。私は問いたい。死んでいった将兵や私の命令によって散っていった命は、何のために命を捧げたのかと。共和国政府のためか。それとも、我々市民のためか。私は次の選挙で君達に問う。我々は何のために犠牲を払ったのかとー

 ラインハルトがメモの内容を一字一句違わず語ったかは定かではないが、この日の演説の内容についての記録は、ハルトマン上級大将の所持していたメモに沿うものであった。

 共和国政府はこれを受け、劇場での政治活動を禁止。しかし、ラインハルトは公共の広場等で演説を続けたという。

【1523年10月】

 終戦後初めての選挙であった。

 ラインハルトの派閥は各地域において立憲主義を掲げる派閥や、元老院や政府の権威を絶対とする保守派さえも凌駕し、圧倒的な得票数を誇った。まさに民衆の代弁者として、期待の眼差しを一身に受けるのであった。

【1524年1月】

 ラインハルトは腐敗した共和国政府を浄化するべく、議会における定数削減を提出。

 議会において3分2を占めるラインハルトの派閥は、何の妨害もなく法案を成立させるかに思えたが、ラインハルトによる独裁を恐れた元老院が否決。

 これが、翌日に市民によって行われる抗議活動の引き金となった。

 ラインハルトは市民に喝采の中見送られ、元老院へと赴き事態の説明を試みた。だがそれは説明と表現するには厳しく、苦いものであった。

 元老院に対し、汚職やその証拠を晒すと脅したのだ。

 民主主義が崩壊する事を恐れた議員の中には、やれるものならやってみろ。と反抗心を顕にした者もいたが、元老院に属するほとんどの人物がラインハルトの提案を受け入れざるを得なかったという。

【1528年10月】

 軍拡の調整や、さきの戦争における遺族年金といった法案の調整。さらには上流階級を優遇しない税制を整え、ラインハルトは支持基盤を強固なものとして確立していった。

 議席の減った議会では9割がラインハルト派を占め、事実上一党独裁状態であったが、ラインハルトは憲法に戦時下や大規模な災害時における速やかな政策の決定をするため、いわゆる緊急事態条項とされる憲法を提出。 

 元老院の中でも意見が割れたこの法案は、辛うじて半数の可決を得ることになり、その後の国民投票により過半数を占め可決される事になった。

 1528年11月21日の出来事である。

【1534年12月】

 当時52歳であったラインハルトは汚職にまみれることを知らず、軍部大臣を任せているハルトマン上級大将と共に共和国にその身を捧げていた。

 腐敗していた共和国政府とは違い、新聞社に圧力をかけるラインハルトではなかったが、ハルトマン上級大将は、新聞記者に対し決して良い感情を抱いているとは言えなかった。

 ラインハルト派の勢いは当時ほどではないものの、8割の議席を確保していた事から、内政に支障が出ることはなかった。しかし硬直した権力構造が腐敗を生むのは歴史的必然であり、ラインハルト派の内閣もまた、例外ではなかった。

 保守派やリベラル派議員による汚職は記事にならないと判断した新聞社は、こぞってラインハルト派の汚職のみを報道した。

 それは捏造ではなく事実に基づく物であったが、ハルトマン上級大将はラインハルトの意に沿って、沈黙を保ち続けた。

 ラインハルトの統治者としての振る舞いは満点に近いものであったが、民衆はそうではなかった。

 新聞社による報道を捏造と決めつけ、国家に対する反逆行為だとだと批判したのだ。

 かつて新聞社と旧共和国政府との間に賄賂という既成事実はあったが、ラインハルトによって排除された議員に、継続的に新聞社を動かす資金を用意する事は困難であった。

 次第に民衆は、ラインハルト派を批判する新聞社やそれを書いた記者を晒すようになり、痛めつけた者は英雄視された。

 ラインハルトの視線には、民衆がどう映っていたかはわからない。

 しかしハルトマン上級大将の前でさえ、ラインハルトは笑顔を浮かべることはなくなっていったという。

【1535年1月】

 この年ラインハルトの手によって新たに憲法が改正する事になる。

 それは皇帝を国家元首とし、元老院、大臣、そして最高裁判所長官の任命権さえも、皇帝に与えるというものであった。

 ある歴史家は言った。

 ー蒼黒の冷たい眼差しが彼を讃える民衆に向いた時、どう思っただろう。もしかすると、彼は民衆に問いたかったのかもしれない。権力の監視構造を否定する民衆に、自由と権利を売り飛ばす覚悟はあるかと。彼の言動は、常に共和国市民に対して責任感を持つものだった。逆説的だが彼の共和国市民に対する使命感が、共和国を滅亡へと導いたのかもしれないー

 間もなく、オズキュルク共和国は崩壊し、ラインハルト・アインス皇帝による、アインス帝国が誕生することになった。

 1535年3月の事である

 

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