第5話 神のインベントリ

「承知いたしました。では、依頼主であるバルガス商会へ向かってください。場所は東区画の倉庫街にあります」


 受付嬢は心配そうな顔を崩さないまま、俺に依頼請負の羊皮紙を手渡してくれた。俺は深々と頭を下げ、それを受け取る。


「ありがとうございます」

「……どうか、ご無事で」


 彼女の心からの言葉に、少しだけ胸が温かくなった。

 俺はギルド中の冒険者たちの嘲笑と好奇の視線を背中に浴びながら、重い扉を押し開けて外へ出た。雨は小降りになっていたが、空気はまだ冷たい。


(バルガス商会……倉庫街だな)


 握りしめた羊皮紙だけが、今の俺の命綱だ。

 東区画は、活気のあるギルド周辺とは違い、荷馬車と労働者たちが行き交う、煤けた雰囲気の場所だった。石造りの巨大な倉庫が立ち並ぶ一角に、目的の『バルガス商会』と書かれた、古びた木の看板を見つける。


 意を決して扉を叩くと、「開いておるぞ」という、しわがれた声が中から聞こえてきた。

 ぎぃ、と錆びた蝶番の音を立てて扉を開ける。倉庫の中は薄暗く、様々な商品の匂いが混じり合っていた。その奥、帳簿らしきものが山と積まれた机で、一人の老人がランプの灯りを頼りに何かを書きつけている。


「……あの、冒険者ギルドから、医薬品輸送の依頼を受けに来ました。アインと申します」

「おお、来たかね!」


 老人は顔を上げ、人懐っこい笑みを浮かべた。柔和な目元、豊かな白髭。いかにも人の良さそうな好々爺といった風貌だ。彼が依頼主のバルガスさんらしい。


「よくぞ引き受けてくれた! わしはバルガス。この商会の主じゃ。いやはや、あの依頼はもう誰も受けてくれんものと諦めておったところよ。ささ、こっちじゃ」


 バルガスさんはそう言うと、俺を倉庫の奥へと案内してくれた。

 そして、俺は目の前の光景に絶句することになる。


「……これが、運ぶ荷物、ですか?」

「うむ。これ全部じゃ」


 そこには、俺の背丈ほどもある木箱が、壁のように積み上げられていた。一つ一つが屈強な男でも一人で運ぶのは骨が折れそうな代物だ。それが、ざっと数えても三十箱はある。


(無茶だ……)


 物理的に、ではない。俺の【収納】スキルを使えば、この千倍の量だって問題なく運べる。だが、この圧倒的な物量を前にすると、報酬が銅貨五十枚という事実が、改めて異常に思えてくる。


「これを見て、尻尾を巻いて逃げ帰った冒険者は数知れんよ」

 バルガスさんは苦笑いを浮かべた。

「馬車も通れん悪路じゃからな。人力で運ぶしかない。まともに運ぼうとすれば、屈強な荷運び人が十人は必要じゃろう。護衛もつければ大赤字。誰もやりたがらんわけじゃ」


 その言葉を聞いて、俺は逆に確信した。

 これは、俺にしかできない仕事だ。


「やります。やらせてください」

「ほう……?」


 俺の即答に、バルガスさんの柔和な目が、すっと細められた。その奥に、まるで獲物を品定めするような、鋭い光が宿ったのを俺は見逃さなかった。

(この人……ただの人のいい爺さんじゃないな)


「威勢のいいことじゃ。して、どうやってこの量を一人で運ぶというのかな?」


 試すような視線。

 俺は言葉で答える代わりに、一番手前にあった木箱に手を触れた。そして、意識を集中する。


「――【収納】」


 俺の呟きと同時に、目の前にあった巨大な木箱が、何の予兆もなくフッと消え失せた。


「なっ……!?」


 バルガスさんの喉から、驚愕の声が漏れる。

 俺は構わず、次々と木箱に意識を向けていく。二つ、三つ、五つ、十……。山と積まれていた木箱が、まるで幻だったかのように、瞬く間に姿を消していく。

 わずか数十秒後には、あれほどあった木箱の山は跡形もなくなり、がらんとした倉庫の床だけが残されていた。


「……終わりました」


 俺がそう告げると、バルガスさんは呆然とした表情で、木箱があった場所と俺の顔を交互に見比べている。そして、わなわなと震える指で俺を指さした。


「い、今のスキルは……まさか、空間魔法の類か!? いや、詠唱も魔法陣もなかった……! 固有スキルかっ!?」

「はい。俺の固有スキル【収納】です」


 淡々と答える俺に、バルガスさんは数歩よろめきながら駆け寄ってきた。その目は、先ほどの鋭さを通り越し、狂気にも似た熱を帯びていた。


「ま、待て若いの! 一つだけ、一つだけ答えい!」

「は、はい?」

「お主、そのスキル……まさかとは思うが、中に入れた物の時間はどうなっておる!?」


「……え? 時間、ですか?」


 思ってもみなかった質問だった。

 時間は、どうなっている? 考えたこともなかった。ただの物入れだと思っていたから。物を入れて、出す。それだけだと。


(時間は……どうなんだ……?)


 俺はバルガスさんの問いをきっかけに、初めて自分のスキル空間の『内部』に意識を深く沈めていった。

 いつもは、ただアイテムのリストが頭に浮かぶだけだった。だが、もっと深く、もっと奥へ――。


 その瞬間。

 俺の脳内に、奔流のような情報が流れ込んできた。


 ――ピコンッ。


 まるで、今までロックされていた機能が解放されるような感覚。


`《スキル:【収納 (インベントリ)】詳細情報を開示します》`


`【収納空間:∞ (インフィニット・ストレージ)】`

`・容量、重量ともに制限は存在しない。`


`【内部時間停止 (タイム・ストップ)】`

`・収納空間内部の時間は完全に停止する。`


`【自動整理 (オート・ソーティング)】`

`・思考に応じ、収納物を自動で分類・整理する。`


`【簡易鑑定 (シンプル・アプレイザル)】`

`・収納した対象の基本情報を読み取る。`


「あ……あ……」


 声にならない声が漏れる。

 なんだ、これ……?

 役立たずの、【収納】スキルじゃなかったのか……?

 容量無限? 自動整理? 鑑定……?

 そして――。


(時間が、止まる……?)


 それはつまり、入れたものが腐らない、ということか? 熱いものは熱いまま、冷たいものは冷たいまま、保存できるということか?

 今までただの便利な荷物入れだと、俺自身が思い込んでいた。その『自己認識』こそが、このスキルの本当の力に蓋をしていたのか……!


 俺は、震える唇で、目の前の老人に真実を告げた。

「……時間は、止まって……いる、ようです」


 その言葉を聞いた瞬間、バルガスさんの全身から力が抜けたように見えた。彼はよろめき、近くの壁に手をついて体を支える。そして、天を仰ぎ、絞り出すような、しかし倉庫全体に響き渡るほどの声で叫んだ。


「神よ……!」


 その声は、歓喜と畏怖が混じり合っていた。


「これは……これはただの収納スキルなどではないッ! 物流の理を覆し、国家の経済すら左右する……いや、世界そのものを支配できる、神の権能だッ!!」


 神の、権能。


 その言葉が、雷のように俺の全身を貫いた。

 役立たず。ノロマ。面汚し。

 そう罵られ、蔑まれ、全てを奪われた俺の力が。

 世界を、支配できる……?


 灰色だった世界に、色が戻ってくるような感覚。

 降り続いていた心の冷たい雨が、止んだ気がした。

 俺は、自分の両手を見つめる。この手に、そんな途方もない力が宿っていたというのか。


 絶望の底で掴んだ一本の蜘蛛の糸は、天へと続く、黄金の梯子だったのかもしれない。

 俺の本当の人生は、今、この瞬間から始まるのだ。

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