第4話 絶望の底の仕事
降りしきる雨は、容赦なく俺の体温を奪っていく。
肌着一枚になった体は芯から冷え切り、歯の根が合わないほどガタガタと震えていた。
(寒い……腹が、減った……)
泥水の中に転がった、なけなしの銅貨。
レオンが最後の情けだと投げ捨てた、俺の三年間分の価値。
それを拾う気力さえ、今の俺にはなかった。
このまま、ここで立ち尽くしていればどうなるだろう。
きっと、この冷たい雨が俺の意識を奪い、誰にも看取られることなく、惨めに凍え死ぬのだろう。
(……それも、いいかもしれない)
一瞬、そんな考えが頭をよぎった。
もう、頑張らなくていい。罵倒されることも、殴られることも、見下されることもない。
全てから、解放される。
だが――。
「……っ!」
腹の虫が、ぐぅ、と情けない音を立てた。
生きている。俺の体はまだ、生きることを諦めていなかった。
(死んでたまるか……。あんな奴らのせいで、こんな所で、死んでたまるか……!)
心の奥底から、小さな、しかし熱い怒りの炎が燃え上がるのを感じた。
理不尽に全てを奪われた。屈辱にまみれた。だが、だからこそ、このまま終わるわけにはいかない。
生きなければ。生きて、見返してやらなければ。
俺は震える手で泥水の中から銅貨を拾い集め、それを強く握りしめた。
行く場所は一つしかない。
(冒険者ギルドだ……)
今の俺に何ができるかはわからない。それでも、日銭を稼ぐなら、あそこしかない。
俺はふらつく足取りで、冒険者ギルドへと向かった。
道行く人々が、俺の姿を見てヒソヒソと噂し、嘲笑う。
「なんだ、あの格好……」
「浮浪者か? 衛兵を呼ばないと」
その視線が、針のように全身に突き刺さる。俺は俯き、ただひたすらに足を動かした。
冒険者ギルドの重厚な扉を開けると、喧騒と酒の匂い、そして暖かい空気が俺を包んだ。暖炉の火がパチパチと音を立て、屈強な冒険者たちが酒を酌み交わしながら武勇伝を語り合っている。
雨に濡れたみすぼらしい姿の俺は、その活気ある空間の中で、あまりにも異質だった。
「おい、見ろよあれ……」
「げっ、『竜の牙』に寄生してた荷物持ちじゃねぇか。アインだっけか?」
「マジかよ! Sランクパーティから追い出されたって噂は本当だったんだな!」
すぐに、俺の存在はギルド中の注目の的になった。
好奇、侮蔑、憐憫。様々な感情のこもった視線が、容赦なく俺を射抜く。
「ひでぇ格好だな。装備も全部剥ぎ取られたのか?」
「そりゃそうだろ! スキルもただの【収納】だって話だぜ? 戦闘能力ゼロの雑魚が、Sランクパーティの稼ぎを横取りしてたんだからな!」
「あはは! 自業自得ってやつだ! もう冒険者ギルドに用はねぇだろ! 物乞いなら教会に行きな!」
浴びせられる罵声に、奥歯をギリリと噛みしめる。
違う。俺は寄生なんてしていない。三年間、必死で彼らのために尽くしてきたんだ。
だが、そんな叫びが誰かに届くはずもなかった。俺は唇を固く結び、彼らの嘲笑を背中で受け止めながら、クエストボードへと向かった。
ボードには、多種多様な依頼書がびっしりと貼り出されている。
『ゴブリン討伐(パーティ推奨) 報酬:銀貨3枚』
『街道整備のための土木作業 報酬:銅貨80枚』
『薬草「月見草」の採取 報酬:銅貨60枚』
どれも、今の俺には不可能だった。
討伐依頼は武器も防具もない俺には自殺行為だ。土木作業は体力勝負だが、何日もまともに食事をしていない俺には荷が重い。採取依頼も、薬草の知識や採取道具が必要になるだろう。
(ダメだ……俺にできる仕事なんて、どこにも……)
絶望が再び心を覆い尽くそうとした、その時。
ボードの隅っこ、誰も見向きもしない場所に、一枚だけ古びて黄ばんだ依頼書が貼られているのが目に留まった。
『緊急依頼:辺境の村への医薬品輸送』
俺は、吸い寄せられるようにその依頼書に近づいた。
『依頼主:バルガス商会』
『内容:辺境の集落『エルム村』へ、急を要する医薬品を輸送すること。荷物は木箱で三十箱』
『目的地までの日数:片道約五日』
『特記事項:道中、オークなどの魔物が出没する危険性あり。護衛を強く推奨』
『報酬:銅貨50枚』
「……銅貨、50枚?」
思わず声が漏れた。
片道五日、往復で十日以上。オークが出る危険な道。それなのに、報酬はたったの銅貨50枚。
近くにいた冒険者たちが、依頼書を覗き込む俺を見て鼻で笑った。
「おいおい、まさかあの依頼を受けるつもりか?」
「やめとけよ。あれは街一番の不採算クエストだ。馬車も通れない悪路だから荷物は人力で運ぶしかねぇ。護衛を雇えば大赤字。一人で行けばオークの餌食だ」
「そもそも木箱三十箱なんて、どうやって運ぶんだよ。誰もやりたがらないから、ずっと貼られたままなんだ」
彼らの言う通りだ。普通の冒険者なら、絶対に受けないだろう。
だが。
(……運ぶだけ、なら)
俺には、【収納】スキルがある。
どれだけ大量の荷物でも、俺一人で運ぶことができる。物理的な重さも感じない。
(戦闘は……なんとか、隠れてやり過ごすしかない。でも、これなら……これなら、俺にもできるかもしれない……!)
それは、暗闇の底でようやく見つけた、一本の蜘蛛の糸だった。
他の誰にもできない。他の誰もがやりたがらない。
でも、俺の『役立たず』スキルなら、可能かもしれない。
「……決めた」
俺は震える指で、その依頼書をボードから剥がした。
「うおっ、マジかよ!?」
「あの雑魚、本気で受ける気だ!」
「死にに行くようなもんだな! まあ、せいぜい頑張れや!」
背後から聞こえる嘲笑を振り切り、俺は受付カウンターへと向かう。
受付の女性職員は、俺のみすぼらしい姿と、俺が差し出した依頼書を交互に見比べて、困惑した表情を浮かべた。
「お、お客様……。本当に、このクエストでよろしいのですか? 失礼ですが、その……装備もなしに、お一人で向かうのは、あまりにも危険です」
彼女の言葉は、純粋な心配からくるものだとわかった。
俺は、彼女の目をまっすぐに見つめ、乾いた唇で、しかしはっきりと告げた。
「はい。やらせてください。これしか、ないんです」
その言葉には、もう迷いはなかった。
受付嬢が何かを言いかけた、その時。
ギルドの隅の薄暗いテーブル席で、一人静かにエールを飲んでいたフード姿の老人が、ピクリと顔を上げた。その鋭い眼光が、まっすぐに俺を射抜いていたことに、俺はまだ気づいていなかった。
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