第三章 曇り空

太陽は昇らない。

ただ、わずかに灰色が薄らぐだけだった。




——夜明け。


アルは念入りに強化スーツを調整し、静かに装着する。

腰に短剣を携えると、無言のまま拠点の門へと歩を進めた。




(……そうだ。ユーシンに声をかけるべきだろうか——)


(いや、あいつにこの任務は危険すぎる。)



アルはもう、任務のたびに仲間が死ぬのも、誰かが追放されるのも、見たくはなかった。



それにもし、上位個体と遭遇したことを考えると、むしろ犠牲は自分一人で済む。

文句を言われてもいい。——それでも、一人で行く。いつも通りに。




内門の前には、無表情な門兵たちが立っていた。

もっとも彼らは外出を止めるわけではない。万が一、門を突破してきた異形に備える予備兵だ。

外に出て資材を回収するのは自由。そして、すべては自己責任だった。




門の前に立つ。

誰も喋らない。

誰も目を合わせない。




任務区域は西部廃墟群。


異形の活動が活発化している危険地帯だ。




門が、ギィ、と音を立てて開く。


腐った空気が、拠点の中に流れ込む。




アルは、ひとつだけ深く息を吐いた。

そして、灰色の大地へ、足を踏み出した。




外は、相変わらず死んだ風だけが吹いていた。

崩れたビル群の影が、地面に黒い縞模様を描いている。


瓦礫の隙間に、干からびた死体が転がっていた。

人か、異形か、どちらの仕業なのか。


もはや区別はつかない。


異形の目的は誘拐だが、その過程で命を奪うこともある。


アルはふと…


かつて仲間の回収人たちと危険な西区から、ズタボロの状態で帰還したときの記憶を呼び起こしていた。


あのとき、彼は仲間たちの集団から少しだけ距離を取りながら歩いていた。

その日はめったにないひどい砂嵐の日で、数メートル先の視界もかすむ程だったが、アルは気にしなかった。




隊列を組む必要などない。


視界に集団が見えていれば十分だ。



「……っ」


前を歩いていた一人の回収人が、何かに躓き、地面に倒れ込んだ。

だが、誰も手を貸さない。




疲労困憊の上、この砂嵐だ——他人に構っていられる余裕などないのだろう。


倒れた回収人は、なかなか起き上がらなかった。疲れていたのか。




あるいは、極限の生活に、ついに心が折れてしまったのか。


アルも無表情で、突き進む集団に歩調を合わせた。



だが胸の奥では、穏やかではいられなかった。


(なぜ……誰も手を差し伸べない?)




そう思いながらも、この時のアルも——砂嵐を突き進む集団に置いていかれてまで、倒れた仲間に駆け寄る勇気はなかった。




そして——彼は置き去りにされた。




その回収人が拠点に帰ることは、二度となかった。




アルの脳裏に焼きついているのは、あの時の彼の姿だ。

うつむき、両手を地面についたまま、動かない。


なぜ、自分はあの瞬間、手を差し伸べなかったのか。



「自己責任」——そう頭をよぎった言葉は、本当に正当な理由だったのか。


もし、あの時助けていたら…



ふと、意識が現実に戻る。

一時間ほど歩いただろうか。




強化スーツのおかげで、すでにかなりの距離を稼いでいる。


空はいつまでも灰色で、そこには一片の祝福も感じられない。



アルは顔を上げた。曇天の下——そのはるか高みに、黒い月が異様な存在感を放っていた。


拠点では、あの黒月(こくつき)こそが異形を地に放つ元凶だと語る者がいる。

その神々しさに魅入られ、信仰している者もいる。




アルにとってはどうでもよかった。


(ただの自然の一部だ。)



——だが、この日ばかりは、祈らずにはいられなかった。


アルも死にたいわけではない。上位個体に見つかれば生存は絶望的だ。




やがて、目的地の輪郭が現れる。

——西部廃墟群。




倒壊した高速道路。半ば沈みかけたショッピングモール。

骨のように突き出た鉄骨群。


アルはふと、空気の異変に気づいた。


——静かすぎる。




瓦礫の軋みも、風の唸りも、どこか遠くに押しやられたように感じる。


本能が、警鐘を鳴らしていた。


異形がいる。

だが——いつもの奴らとは、違う。




皮膚の下を這うような、得体の知れない圧迫感。


アルは背中に冷たい汗を感じながら、短剣に手をかけた。



ヴンッ——。


強化スーツの駆動音が戦闘モードに切り替わり、空気を震わせるように強く響く。




遠く、瓦礫の陰から、何かがこちらを見ている——そんな気配。


突如、瓦礫の山が音もなく崩れ落ちた。

その音にアルが振り返る。瓦礫の向こうに——“それ”は立っていた。

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