第一章 生存本能
曇天の空はいつも通りだった。太陽を拝めることはめったにない
何百年も昔に、人類の文明は崩壊した。
それがどんな文明だったか、知る者はもういない。
当時の大崩壊の瓦礫は今も、風化したまま誰にも取り除かれていない。
崩壊の原因とされる異形が外を徘徊しているからだ。
アルが拠点とする集落の人口は、わずか5万人ほど。
他に人の営みが残っているのかどうかさえ分からない。
衰退しきった人類には、もはや広範な調査を行う余力など残されていなかった。
骨のように白く風化した瓦礫を踏みしめながら、アルは疲弊した身体を奮い立たせ、資材回収の任務に就いていた。
背後には、朽ち果てた異形の死骸が二体。
強化スーツの補助がなければ、とても一人で引き摺れるものではない。
文明は前時代と比べ急速に衰退したと言われる。
だが異形の死体から得られる技術と、前文明の遺物、そして拠点の技術班の執念によって、戦闘分野だけはむしろ研ぎ澄まされていた。
アルが身にまとう強化スーツもその産物である。
薄手のインナータイプながら、全身を強靭に支え、瞬発的な力を引き出してくれる。
このスーツがあれば、アルは異形を一、二体ほどなら何とか撃退できる。
しかし——ここはすでに異形の領域。
もし群れに遭遇すれば、あるいは上位個体と鉢合わせれば、生きて帰れる保証などどこにもない。
異形——
崩壊の元凶とされ、あるいはそう信じられてきた、未知の存在。
下位個体は全身を白銀のアーマーに覆われ、人型の輪郭を持ちながらも、
関節が不自然に反り返り、四足歩行に近い姿勢で蠢く。
顔は能面のように無表情で、わずかに首を傾けながら、音もなく獲物を見据える。
そして何より恐ろしいのは——
その装甲を剥がしたときに現れるものだ。
中にあるのは、人が干からびたような、どす黒い何か。
生と死の境界を、嘲笑うかのように蠢いている。
そして乾いた地を這い、風に乗って人をさらう。
やつらは人を殺すのではない。さらうのだ。
それがこの長年続く戦いが「誘拐戦争」と呼ばれている所以だ。
だがもう、この戦いの詳細を誰も覚えてはいない。
外に出て見つかれば、即座に狙われる。
それが「今」のこの世界の当たり前だった。
アルは、必死に身をひそめながら、その灰色の地を歩いていた。
拠点に戻ると、空気はさらに冷たかった。
瓦礫を積み上げた粗末な壁。
鉄板を打ち付けただけの門。
その内側に、数百人の人間が身を寄せ合って暮らしている。
瓦礫と泥で作った小さな家。
煙を吐き出す錆びた煙突。
腐った野菜の匂いと、乾いた血の臭いが、湿った風に乗って漂っている。
アルは、門番に黙ってうなずき、拠点の中へ入った。
誰もが、互いを見ない。
誰もが、互いに関わろうとしない。
生き延びるだけで精一杯だった。
食料の配給列に並ぶ子供たちの背中は、骨ばっている。
路地裏では、商人崩れが錆びた武器を売りつけようとしていた。
そのすべてが、当たり前だった。
——生き延びるためには、何も感じないことだ。
アルは、自分にそう言い聞かせる。
「やぁ、アル」
肩を軽く叩かれる。
「……ユーシン」
振り向いた先に立っていたのは、幼馴染のユーシンだった。
慈愛の微笑みには下心がなく、その瞳にはどこか温かさが宿っている。
昔から体が弱く、争いごとには向かない性格だが、その優しさに、アルはいつも救われていた。
天涯孤独なアルにとって、ユーシンは幼馴染であり、唯一の親友のような存在だった。
ユーシンはアルが引き摺る異形を見て言った。
「アル、また一人で異形を持って帰ってきたの?」
「…ああ」
「外に一人で行くのは危険だと、あれほど言ったじゃないか?なんでいつも一人で行くの?」
アルは視線を伏せ、かすかに肩をすくめる。
「…そのほうが早いだろ?気を使わなくていいし。」
その答えに、ユーシンはため息をつく。
「こんなこと言いたくはないけれど——ここにいる誰も、君の無茶な単独行動に感謝なんてしないよ。」
「…わかってるよ」アルは小さく息を吐いた。
「別に…感謝なんていらない。」
その声は淡々としていたが、奥底に宿る決意の硬さを、誰よりも知っているのはユーシンだった。
正論をぶつけたところで、彼がこう思ってしまえば、どんな言葉も届かない。
「…うちの母さんも心配してる。だからせめて次からは、僕にくらい声をかけてよ。役には立たないかもしれないけど…荷物持ちくらいできる。」
アルはゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、疲労と——ほんのわずかな不安がにじんでいた。
「…ああ。わかったよ。次からは…声をかける」
その返事を聞いて、ユーシンはようやく小さな笑みを浮かべた。
アル。この拠点で誰よりも働き、最も優秀な男。
だが、ふとユーシンの胸に影が差す。
アルの極端な単独行動——その源泉はどこにあるのか。
人付き合いが苦手な上に、家族も恋人もいない。
ユーシンは、アルが誰かと肩を並べて笑う顔を、もう何年も見ていない。
数年前まではこんな無茶な行動をとる男ではなかった。
何が彼の胸に棘を植えつけたのか、いつそれが芽吹いたのかは分からない。
ただ確かなのは、このままではやがて彼自身が燃え尽きるということだ。
そう思うと、ユーシンの胸は言いようのない不安で満たされた。
その場を後にするアルの背中は、不思議なほど小さく、そして頼りなく見えた。
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