その翡翠き彷徨い【第63話 残された者】

七海ポルカ

第1話





「歯が痛むわ」





 扉を開けるなり女王がムスッとした様子でそんな風に言った。

「歯……にございますか?」

 側近の近衛隊長であるオンディーヌ・イリディスが戸惑ったように返す。

 女王アミアカルバは頬の辺りを押さえている。

「何かしら朝からずっと痛いの」

「御気分が優れぬようでしたら午後の会議を取りやめましょう」

「いいわ。出るから。ただ苛々してるから大神殿側がまた派兵反対意見なんか出して来たら、私はキレて暴れるかもしれないわよ」

「……釘を刺しておきましょう」

 女王は歩き出す。


「エデン聖教会からラーシェン国境警備団及び、前回のリュティス殿下によるベイルード平原の戦闘に対し、ザイウォン神聖国での褒章を授与したいと申し出が出ておりますが……」


「リュティスがキレて暴れるわ。あとラーシェン国境警備団に今やこの私が何と呼ばれてるか分かってんのかしらね?

 辺境の民は切って捨てる【冷酷非情な氷の女王】よ」


 イリディスは側にいたもう一人の秘書官を睨んだ。

「下らぬ噂話を陛下のお耳に入れるな」


「申し訳ございません」


「いいのよ全く気にしてないから。残念ながら今、危機にさらされてるのはラーシェンの国境だけではないわ。どうあったって援軍要請には応えられない。

 ……全く、リュティスが戦功を挙げてくれてるのだけが救いね。ベイルード戦線が強固である限り、不戦派はとりあえず黙らしておける」


 アミアカルバは立ち止まった。

 山の上に立つサンゴール城から外を見つめる。


 あの日から、ここからの景色は一変してしまった。


「……鬱陶しい霧……」


 太陽と風を好むこの女王にはさぞやこの霧は気に障るだろう。

 それを振り払う力の無い自らを、イリディスは心の中で恥じて詰った。


「本気でただ神に祈っていればこの霧が晴れてくれるとでも思っているのかしらね」


 その日も連日続く国内の会議、各国の使者との謁見にと目まぐるしい忙しさだった。

 途中で義弟リュティスの帰還の報せを聞いた気がする。

 このところ多発を続ける不死者退治に、宮廷魔術師団を引き連れて第二王子リュティスはサンゴール国内を活発に動き回っていた。


【エデン天災】が始まるとリュティスはあれほど厭がっていた宮廷魔術師団の指揮権を呆気なく手に取り、女王であるアミアカルバの許可を得ると、宮廷魔術師団を細かく小隊に編成し直してサンゴールの各区画へと送り込んだ。


 沈黙の第三勢力と呼ばれ【知恵の塔】で研究三昧だった深緋の魔術師達は、リュティスが指揮杖を握った途端、戦う集団へとたちまち姿を変えて、サンゴール騎士団、サンゴール大神殿という二大守護職のお株を奪ってしまった。


 現在【知恵の塔】には一握りの宮廷魔術師しか残っておらず、彼らはサンゴール騎士団が扱う為の魔法剣の開発が目下第一の使命となった。


 第二王子の専横が甚だしい、このままでは主権を取られるのではないかとアミアカルバに余計な進言をし、彼女が激怒して殴り飛ばした大神殿の人間の数はもう十人を越えた。


 サンゴール騎士団は不死者相手にはやはり劣勢を強いられるが、軍部大臣オズワルト・オーシェが退いた後、彼の後任として新しい軍部大臣に着任したバルトロメオ・ゴルディオンが霧の派生に際し、乱れ始めた国内治安の安定に騎士団を動かし、今のところ取り留めている。



 結局このような本当の危機の前で、最も頼りにならなかったのが神に祈ってばかりの連中だった。



 その中でアミアカルバにとっては国防の面で、第二王子が最も活躍目覚ましいのが一種の驚きであり、喜びでもあった。

 あの放っておけば辛気臭い奥館に二ヶ月も三ヶ月も半年間も籠っていた義弟とは思えない働きぶりである。


 彼は王宮を出ても持ち前の、あの意にそぐわぬことをする者への容赦の無い怒雷のような怒りを発揮し、色んな方面でとにかく怒りまくっているらしいと現場の怯えた声が入って来て、それはさすがにアミアカルバを笑わせた。


 しかしそんなにも暴れ回っているわりに彼の【魔眼】による余計な負傷者は一人も出ておらず、やっぱり城に引きこもらせていたのが良くなかったのかしらねと女王に溜め息をつかせる。


(もっと早く、リュティスを表に出していれば……)


 そんな風に思い、そうすれば食い止められたかもしれない幾つかの事象を思い、アミアカルバは首を振った。


 過ぎ去ったことだ。

 どうすれば良かったなんて考えることは無意味だった。


(リュティスと一度ちゃんと話しておきたいわね)


 今ならサンゴールの対等な王族同士として国のことを話せる気がした。


 扉が鳴る。

 以前は寝所に下がれば起こされることなど無かったが、今はそうも言っていられない。

 オンディーヌ・イリディスが入って来る。


「申し訳ありません陛下、お手紙が……急ぎで参りましたので。アリステア王国からのようです」


「そう、ありがとう。多分この前の会議のことだわ。

 使えるものは実家でも使わないと。

 あ、それとイリディス。

 明日リュティスと話す時間を取ってちょうだい。帰って来てるでしょ」


「はい。では、そのようにお知らせを……」





 ――――パアンッ!





 一礼し 退出しかけたイリディスは顔を上げた。


 グラスが割れている。

 一瞬遅れてイリディスは走った。


「陛下! お怪我は!」


 顔を覗き込んで驚いた。


 アミアカルバが震えている。

 手紙を握りしめ、眼を見開いたまま。

 その顔には彼女が見せたこともないような狼狽があった。


 グラスの破片の中へと崩れかけた女王を慌てて抱きとめる。


「陛下!」

「……、」

「どうなさいました、御気分でも……」

「……だ……、」

「え?」




「……――オルハが死んだ」




◇    ◇    ◇




 扉が叩かれる。



 リュティスは瞳を開いた。

 身を起こして上着を羽織る。


「……殿下……、ご無礼を……」


 聞き覚えのある女の声だった。

 寝室を出て次の間に行き扉を開く。

 そこにいたのはアミアカルバの側近だった。

 彼女はよく弁え、扉を開いたそこへ顔を伏せて跪いていた。


「なんだ」


「申し訳ございません……どうか、本城へお越しを、女王陛下が大変なことに――」




◇    ◇    ◇



 女王の寝所に入るとまず、床一面が酷いことになっていた。

 グラスや装飾品、壁に掛けてある絵画までとにかくありとあらゆるものが投げられ、打ち付けられ、砕かれていた。

 まるで子供が癇癪を起こして暴れたような、つまりそんな表現が合う。


 寝台に伏せている女王の背は見栄も体裁も、もはや無かった。


 彼女は背後に立ったリュティスの気配には気付いたのだろう。

 ベッドに顔を伏せたままその肩を震わせる。


「……オルハが死んだわ、殺された……、街が襲われたのよ……不死者に――」


「……。」


「何故、あの子がそんな目に遭うの?

 あの子は私の為に夫を失った。だから絶対に幸せに……、世界がどうなろうとあの子にだけは必ず幸せになってほしかった」


 ベッドに置かれた、真っ二つに破られた手紙を取り上げる。

 ぐしゃぐしゃだったがアリステア王国からの正式な親書だった。

 オルハ・カティアは女王アミアカルバがアリステア王国の王女だった頃から、彼女に遣えていた。

 その為、その存在は今でも王家に重んじられている。

 だから彼女の死は国として、正式にサンゴール王国へと伝えられたのだった。


「エドアルトはもうすぐ国に戻って来るはずよ。

 ……母親が殺されたなんて報せられない……!」


 アミアカルバは泣き崩れた。


【有翼の蛇戦争】では、まだ正式に嫁いでもないサンゴール王国の軍を率いて、戦の元凶となったエルバト王国王妃にして、実姉であるエヴァリスを一騎討ちの末に討ち取った蛮勇アミアカルバ・フロウである。


 夫グインエル王が死んだ時も、彼女は公の場所では涙を見せなかった。

 その後にあったいかなることでも、これほど彼女を萎れさせた出来事はない。


 そのアミアカルバが人目も憚らず泣きじゃくっていた。


 リュティスはその背を見下ろしていたが、手紙を側のテーブルに置くと背を向けて去ろうとした。


 その手を後ろから掴まれる。

 アミアカルバは打ちひしがれている人間とは思えない力でリュティスの腕を引いた。

 体勢を崩したリュティスがよろめき寝台の端に手を突く。

 アミアカルバはリュティスの胸に飛び込んで、わあああっとおおよそ大人とは思えない泣き方をした。


 巻き付かれた腕の力が強すぎて背骨が軋むようだ。

 痛みと、そう縋られる不快感でリュティスは眉を潜めた。


 侍女は入って来ない。

 もう慰める術を無くしたのだろう。

 アミアカルバの親しい人間が去るのはこれで三人目だ。


 ……いや、四人か。


 哀れみなどという感情を当の昔に捨て去ったリュティスだったが、背に爪が食い込むほどの力で抱きしめられたのを、どうにかしようと躍起にならなかったのは多分、諦めからだった。


 昔からこのがさつで五月蝿い隣国アリステア王国の末の姫が嫌いで仕方なかったが……兄の選んだ女だから付き合うしかなかったと諦めて来たのと同じように。


 リュティスは小さく息をつく。

 ベッドの端に腰を下ろした。

 アミアカルバはリュティスの手を握りしめ、彼の膝に顔を伏せて思いきり泣いた。



◇    ◇    ◇



 ……明けたのか明けてないのか、分からないうっすらとした明るみの中でリュティスの膝にもたれかかった女王は、ようやく一晩中握りしめていたリュティスの手を放した。


 何かが大丈夫になったとか、何かに納得したからとか、

 そういうことが理由ではない。

 二人はもはや、気ままに立ち止まって過ごせるような時間を持つことは許されない立場だったからだ。


 いかに打ちひしがれようと結局立ち上がり、この死の霧の世界で戦わなければならない。



「……リュティス。貴方は、……絶対に私より先に死ぬんじゃないわよ。」



 女王アミアカルバは必死にどこからか引きずり出したような、しかしはっきりした声でそう言った。


「絶対よ」


 リュティスはアミアカルバを膝からどかせると、毛布を彼女の身体に掛けて立ち上がった。



◇    ◇    ◇



 奥館へと戻る道。


 雪が微かに舞っていた。

 リュティスは立ち止まる。


「……あの厚かましい女が俺より前に死ぬことなどあるのか」


 白い息と共に吐き出す。

 ふと石柱路の通路の向こうから、頭の上に一つ髪を結い上げた少女が元気良く駆けて来た。


 ふわ、と側を風が駆け抜ける。



『リュティス叔父様、メリク様早くー。お母様に怒られちゃうよ!』


『レイン、そんなに走ると危ないよ』



 栗色の髪の少年が彼女を追うようにやって来て、リュティスとすれ違う一瞬彼の方を見上げた。


 一瞬その幻と、視線が合ったような気すらした。


 振り返ったそこには誰もいない。

 しん……と静まり返っている。


 厚い霧という大きな災いは小さな過去も小さな苦悩も覆い尽くす。

 思いがけず思い出した顔だった。

 ずっと、忘れ去っていたのに。


 リュティスは舌打ちをすると歩き出す。

 消え失せた今でさえ、忌ま忌ましい子供だった。


(俺は誰が消えようと、心など揺らすものか)


 霧が派生してからもうずっと、胸の奥に憤怒の炎が渦巻いている。

 今になってこの大きな災厄を与えた運命に。

 あのアミアカルバと手を携えるしかない状況に追いやった災厄。


 結局この霧はリュティスが幼少期から耐え忍んで来た不幸の全てを、無きものにしただけだった。


 無意味なものに。

 戦うしかない運命へと彼を突き進めさせたのだ。


 リュティス・ドラグノヴァは天を呪った。

 災厄を与えた神を。


 今となって全て無意味な下らない苦悩をひたすらに描き続けていた、自らの人生を。




(俺はもう、神には二度と祈らない)


 


 彼は心にそう、強く願った。




【終】


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