王妃候補ですが定時で帰ります~溺愛王は毎日午後6時に転移陣で待っています~
月祢美コウタ
第1話 午前4時の鬼教官と転倒23回の笑顔
第1話:午前4時の鬼教官と転倒23回の笑顔
プロローグ:聖女から王妃候補へ
静寂の塔での出来事から、1週間が経った。
サクラは、王城の自室で窓の外を見つめていた。
朝日が、街を照らし始めている。
街並みに色が戻り始め、人々に笑顔が戻り始めた。
あの「沈黙の呪い」から、この国を救うために——
サクラは、ここに残ることを選んだ。
——3週間前、ギャップ女神の依頼でこの国を訪れ、2週間の調査と奮闘の末、初代王妃セラフィナの呪いを弱めることに成功した。
しかし——呪いは完全には解けなかった。
サクラの魔力が、この国に常駐する必要がある。
「君にこの国に残ってほしい」
アレス王のその言葉に、サクラは答えた。
「はい。私、残ります」
美咲先輩との別れ。故郷への想い。
それでも——サクラは、この国を選んだ。
そして、数日前——
大広間で、アレスが宣言した。
「サクラ殿を、正式に王妃候補として迎える」
フィオナ秘書官が、分厚いスケジュール表を差し出した。
「初日は、明後日の午前4時30分から、近衛騎士副団長オスカー・アイアンハートによる基礎体術訓練となります」
「よ、4時30分!?」
サクラの悲鳴が、大広間に響いた。
こうして——聖女サクラの、王妃候補としての生活が始まった。
そして今日。王妃教育、初日。
時刻は、午前4時15分。
サクラは、深呼吸をした。
(大丈夫。頑張ろう)
(この国を、守るために)
(セラフィナさんの悲しみを、繰り返さないために)
(そして——アレス様を、支えるために)
◇◇◇
午前4時30分。訓練場。
薄暗い。冷たい空気が肺を刺す。松明の炎が、サクラの白い息を照らし、石畳に影を落としていた。
サクラは、訓練用の服に着替えて、訓練場の中央に立っていた。
周囲には、誰もいない。静寂
「……誰も、いない……?」
不安になったその時——
「遅い」
背後から、低い声が響いた。
「!」
驚いて振り返ると、そこには——一人の男が立っていた。
年齢は30代前半。鍛え上げられた筋肉質な体。短く刈り上げた黒髪。鋭い眼光。傷だらけの顔。
オスカー・アイアンハート。近衛騎士副団長。
ガレス団長が温厚な騎士なのに対し、オスカーは「鬼の副団長」として騎士団の中でも恐れられている存在だった。剣の腕は騎士団一。そして、訓練の厳しさも騎士団一。
「お、オスカー様!」
サクラは慌てて礼をした。
「午前4時30分と言ったはずだ」
オスカーは、冷たく言った。
「今、4時31分だ。1分、遅刻だ」
「す、すみません!」
「謝罪は不要。罰を受けろ」
「ば、罰……?」
「腕立て伏せ、100回」
「ひゃ、100回!?」
「今すぐ、始めろ」
オスカーの声に、有無を言わせぬ威圧があった。
サクラは、慌てて腕立て伏せの姿勢を取った。
「1、2、3……」
数を数えながら、腕立て伏せを始める。しかし——
「30……31……32……」
腕が、震えてきた。
「あと、68回だ」
オスカーの声が、冷たく響く。
「が、頑張ります……!」
必死に腕立て伏せを続けた。
50回。60回。70回……
「もう、限界……」
サクラの腕が、ガクガクと震えている。
「限界など、存在しない」
オスカーが、冷たく言った。
「お前の限界は、お前が決めるものではない。私が決める」
「……っ」
歯を食いしばった。
(負けない……!)
80回。90回。そして——
「100……!」
最後の1回を終えた。そして、その場に倒れ込んだ。
「ハァ……ハァ……」
息が、荒い。全身が、汗でびっしょりだ。
「休憩時間、30秒」
「え……」
「次は、剣の訓練だ」
オスカーが、木剣を投げてよこした。
「え、ちょ、ちょっと待って——」
「待たない」
オスカーも、木剣を構えた。
「来い」
◇◇◇
剣の訓練。
サクラは、初めて剣を握った。
「重い……」
木剣とはいえ、サクラにとっては重かった。
「構えろ」
「は、はい!」
必死に剣を構えた。しかし——
「その構えでは、3秒で死ぬ」
「え」
「やり直せ」
オスカーが、サクラの剣を木剣で弾いた。
バチン、という音と共に——サクラの剣が、手から離れた。
「あ……」
「拾え。もう一度」
剣を拾った。そして、また構えた。
「まだ、甘い」
オスカーが、再び剣を弾いた。
バランスを崩して——地面に、倒れた。
「痛っ……」
「立て」
「は、はい……」
立ち上がった。そして、また剣を構えた。しかし——
またも、オスカーに剣を弾かれ、転倒。2回目。
「立て」
「はい……」
3回目。4回目。5回目。
サクラは、何度も何度も転倒した。
「10回目だ」
オスカーが、冷たく言った。
「お前は、剣の才能がない」
「……っ」
「諦めるか?」
その言葉に、サクラは首を振った。
「諦めません!」
また立ち上がった。
「もう一回、お願いします!」
オスカーの目が、わずかに動いた。しかし、彼は何も言わず、また剣を構えた。
11回目。12回目。13回目。
サクラは、転倒し続けた。
全身が痛い。手のひらは、血がにじんでいる。服は、泥だらけだ。しかし——
サクラは、立ち上がり続けた。
15回目。17回目。20回目。
「……もう、限界では」
訓練場の隅で見ていた側近が、心配そうに呟いた。
「放っておけ」
オスカーは、冷たく答えた。
21回目。22回目。そして——
23回目の転倒。
サクラは、地面に倒れ込んだ。
「ハァ……ハァ……」
もう、体が動かない。
「……諦めるか?」
オスカーが、冷たく言った。
サクラは——ゆっくりと、顔を上げた。
その顔には、泥と汗と血が混じっていた。しかし——その表情は、笑顔だった。
「大丈夫です!」
満面の笑みで言った。
「もう一回、お願いします!」
その瞬間——訓練場の空気が、変わった。
オスカーの目が、大きく見開かれた。
(この娘は……)
彼の胸に、何かが込み上げてきた。
(23回も転倒して……それでも、笑顔で立ち上がる……)
(なんという……強さだ。私が忘れていた、あの日の誇りを、この娘は持っている)
オスカーは、剣を下ろした。
「……もう、いい」
「え……?」
「今日の訓練は、終了だ」
背を向けた。
「明日も、午前4時30分。遅刻するな」
そう言って、オスカーは訓練場を去ろうとした。しかし——その目には、涙が浮かんでいた。
◇◇◇
訓練場を出たオスカーは、廊下で立ち止まった。
「……」
拳を握りしめた。
(なんという……娘だ……)
オスカーの脳裏に、サクラの笑顔が浮かんだ。
23回転倒しても、諦めなかった。泥だらけになっても、立ち上がった。そして——笑顔で、「もう一回」と言った。
(この国を、守るために残った聖女)
(故郷も、仲間も、全てを捨てて)
オスカーは、自分の過去を思い出した。
かつて、彼も若き騎士だった頃——何度も挫折し、何度も倒れた。しかし、師匠は言った。
「立ち上がる者だけが、武人と呼ばれる」
オスカーは、その言葉を胸に、立ち上がり続けた。
そして今——目の前の少女が、同じことをしている。
(あの日の私と、同じだ)
(いや——私よりも、強いかもしれない)
(なぜなら、彼女は笑顔だったから)
(私が失った何かを、この娘は持っている。それは——純粋な誇りだ)
オスカーの目から、一筋の涙が流れた。
「……サクラ様」
彼は、小さく呟いた。
「私は……お前を、認めた」
その頃。訓練場では、サクラが一人、座り込んでいた。
「ハァ……疲れた……」
全身が痛い。しかし——サクラの心は、満たされていた。
(オスカー様……すごく厳しいけど)
訓練場の出口を見つめた。
(でも、きっと、優しい人なんだろうな)
立ち上がった。
(この国を、守るために)
(セラフィナさんの悲しみを、繰り返さないために)
(私、頑張らなきゃ)
自分の手のひらを見た。血がにじんでいる。
(痛いけど……これは、私が選んだ道)
小さく微笑んだ。
(アレス様も、きっと見守ってくれてる)
◇◇◇
午前8時。
サクラは、王城の転移陣の前に立っていた。
全身が痛い。特に、手のひらと膝が
しかし、サクラは、いつものように笑顔を作った。
「行ってきます!」
誰に言うでもなく、転移陣に足を踏み入れた。
光が、サクラを包む。そして——
次の瞬間、サクラは異世界演出部のオフィスにいた。
「……ただいま」
懐かしい場所。紙とインクの匂い。微かに漂うコーヒーの香り。そして、転移陣が発する僅かなオゾンの匂い。
その全てが、サクラの心を優しく包んだ。いつも美咲先輩が座っていたデスクは、今は空いている。受付カウンターでは、田村さんが相変わらず営業スマイルで書類と格闘していた。
「おはよう、サクラちゃん!」
同僚たちが、笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます!」
元気よく答えた。
「ねえねえ、王妃候補ってどんな感じ?」
「大変そう!」
同僚たちが、興味津々で尋ねてくる。
「えっと……すごく、大変です……」
苦笑した。
「でも、頑張ってます!」
「そっか! 頑張ってね!」
同僚たちが、励ましてくれた。サクラは嬉しくなった。
(みんな、優しい)
しかし——同時に、少し寂しくもなった。
(美咲先輩……)
相棒の顔を思い出した。
美咲は、数日前、異世界演出部に帰還した。
「サクラ、無理しないでね」
別れ際、美咲はそう言ってくれた。
「たまには、連絡してよ。水晶通信で」
「はい!」
(寂しいけど……これは、私が選んだ道)
小さく頷いた。
(この国を守るって、決めたんだから)
(美咲先輩の分まで、頑張らなきゃ)
午後6時。サクラは、演出部での仕事を終えた。
「お疲れ様でした!」
「お疲れ様ー!」
同僚たちと挨拶を交わし、転移陣に向かった。光が、サクラを包む。そして——
次の瞬間、サクラは王城の転移陣にいた。
「ただいま戻りました!」
元気よく言った。しかし——転移陣の前には、誰もいなかった。
「……あれ?」
少し寂しくなった。
(そっか。まだ初日だし、誰も迎えに来ないよね)
自分の部屋に向かおうとした。その時——
「おかえり、サクラ」
低い、優しい声が聞こえた。
「!」
驚いて振り返った。そこには——アレス王が、立っていた。
「あ、アレス様!?」
「お疲れ様。今日の訓練は、どうだった?」
アレスが、優しく微笑んだ。
その笑顔を見て——サクラの目から、涙がこぼれた。
「え……あ……」
慌てて涙を拭った。
「ど、どうしたんだろう……涙が……」
「サクラ」
アレスが、近づいた。
「無理をしていないか?」
「だ、大丈夫です! ちょっと疲れただけで……」
「手を見せてくれ」
アレスが、サクラの手を取った。そこには——血がにじんだ手のひら。
「……っ」
アレスの表情が、変わった。
「オスカーのやつめ……」
「違います!」
慌てて否定した。
「オスカー様は、私のために厳しくしてくれてるんです!」
「サクラ」
「私、頑張りたいんです。この国のために」
真剣な目でアレスを見つめた。
「セラフィナさんの悲しみを、繰り返さないために」
「そして——アレス様を、支えるために」
その言葉に、アレスの胸が熱くなった。
「サクラ……」
「だから、大丈夫です。私、強いですから!」
満面の笑みで言った。
アレスは、その笑顔を見て——深く、サクラを抱きしめた。
「え……あ……」
「ありがとう、サクラ」
アレスの声が、震えていた。
「君が、ここにいてくれて……本当に、ありがとう」
「アレス様……」
二人は、しばらくそのまま抱き合っていた。温かい時間だった
そして——アレスの心に、強い想いが芽生えた。
(この人を、守りたい)
(誰よりも、大切にしたい)
◇◇◇
その夜。王の執務室。
アレスは、一人、窓の外を見つめていた。
月明かりが、王都を照らしている。呪いが弱まってから、街は少しずつ活気を取り戻している。しかし、まだ完全ではない。
(サクラの魔力が、この国を守っている)
深く息を吐いた。
(彼女は、故郷を捨てて、この国に残ってくれた)
(美咲殿との別れも、乗り越えて)
(それなのに——私は、まだ彼女に何も返せていない)
アレスの拳が、強く握りしめられる。
(今日、オスカーの訓練で、彼女は23回も転倒した)
ガレスからの報告で、アレスはその光景を知っていた。
(それでも、彼女は笑顔で立ち上がり続けた)
アレスの目に、涙が浮かんだ。
(なんと、強い人だ)
(なんと、優しい人だ)
窓に手をついた。
(私は……この人を、愛している)
その自覚が、アレスの心を満たした。
(王としてではなく)
(一人の男として)
月を見上げた。
(だからこそ——)
(私は、彼女を守る)
(全力で、支える)
(そして——)
アレスの目が、優しく輝いた。
(いつか、必ず——幸せにする)
その夜、アレスは決意した。
サクラを、全身全霊をかけて守ると。たとえ、王国全てを敵に回しても——サクラだけは、絶対に守り抜くと。
それは——愛する者への、誓いだった。
そして——この後、サクラはまだ知らない。
アレスの決意が、どれほど深いものなのか。
これから始まる波乱が、どれほど激しいものなのか。
保守派の貴族たちとの対立。守護者たちの陥落。そして——アレスが彼女に贈る、運命の言葉を。
しかし、今はまだ——サクラは知らない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
(私は、頑張る)
(この国を守るために)
(アレス様を支えるために)
そして——いつか、必ず。
彼と並んで、この国の未来を築く日が来ると。
温厚なガレス団長。厳格なオスカー副団長。完璧主義のフィオナ秘書官。
まだ見ぬ守護者たちが、やがて彼女の味方となる。
そして——三百年前の悲劇は、繰り返されない。
なぜなら——サクラには、彼女を守る人がいるから。
(第1話・終了)
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