第十一章 鏡の巨像(前編)
「この期におよんで父親あつかいされようなんて思ってないさ」
彼は右手を左ひじに、左手を右ひじに添えて、ため息をついた。
「いきなり訪問されたとはいえ、娘とその学友をひどいかたちで歓迎したんだ。父親として恨まれて当然だろう」
通路の、闇と光のぼやけた境界に立って、クーゼナスもといアリアンがほほえむ。
ソーラが一歩だけ彼に近づく。それにともない、通路の照明の範囲が奥へと少し広がる。かたやアリアンは、ぼやけた境界線と共に後退する。
僕は彼女の斜め後ろに立ち、二人の様子を注意深く見ていた。
「勘違いにも限度があるわ」
乱れたチュニックを整えながら彼女が笑う。
「それ以前の話よ。本拠地に踏み込まれたあなたがわたしたちをまともに迎え入れないことは最初からわかっていた。父親としても恨んでいない。ただのどろぼうとして恨んでる」
さらにソーラはチュニック越しに自身のスパッツをはたいた。
「あなたは、鏡の巨像。世界中の宝物をたくさん盗んだ犯罪者。『娘に不法侵入された』と誰かにうったえることができる立場じゃないのよ。ともかくわたしたちは殺されかけた」
「そうだね、多くの剣が君たちに切っ先を向けた。エレベーターが真下から君たちを押し上げ、剣の攻撃をサポートした。この基地の防衛をになう魔法装置によるものだ」
「少しの差でアロンもわたしも死んでいた」
「一方、わたしはソーラとアロンくんの侵入に気付いていた。装置を解除できる立場にもあった。それをせず、故意に見捨てた」
「話し合いの余地はないわ。わかったらお母さんの、ケイル・クラレスの遺髪を返しなさい」
「伴侶だったわたしが彼女の形見を持っていて、なにが悪いのかね」
「母の遺言は『自分の遺髪をアリアンにだけは渡すな』というものだった。知っているくせに」
さらに彼女は二歩進む。
アリアンも、そのぶんだけ後ろにさがる。
「ひどいじゃないか。本拠地を突き止められたことで、わたしはかえって踏ん切りがついたんだよ。真っ向から娘と向き合う勇気がふつふつと湧いてきた。なのに、悲しいことだ」
「笑わせないで。あなたの今の姿は寮長クーゼナス・ジェイのものでしょう。目の色だけを赤に戻しても、顔が違う」
ソーラはアリアンの立つ、闇と光の境界に視線をやる。
「通路の照明も反応してないわね。あなたは虚像魔法で出したお人形ってわけ。その人形にしゃべらせ、本体はまだどこかに隠れてる」
「……ところでアロン・シューくん」
ソーラとの話を打ち切って、いきなり彼が僕に話しかけてきた。
「クーゼナス・ジェイがアリアン・クラレスであることを君はしっかり娘と共有してくれたようだね。礼を言うよ。ただ、『わたしをさがし出せば、君たちは必ず後悔する』というわたしからの忠告については娘にちゃんと伝わっていないらしい」
残念だよとアリアンは小声で言って、まばたきを連続させる。
「ここまで来られたのは君のアイディアのおかげかね。素晴らしいじゃないか。巻紙の無敵に関しては虹巻紙で対処したが、どうやって巻紙を無敵にし、そしてどんな方法でわたしを見つけたのかな。よければ教えてほしい。後学のために」
「答えません。青巻紙」
僕は「反動」をなぞったうえで後方に水を噴射し、彼をめがけて一直線に飛んだ。
「わかってると思うけど、ソーラ! やつはわざわざ僕たちのもとに現れて会話で時間をかせいでいる。後ろの出入り口がひらくまで待って、僕たちをはさみうちにするつもりだ!」
そのまま僕はアリアンにぶつかり、通路の奥に吹っ飛ばした。
が、やはり虚像。霧散するようにクーゼナスの姿は消え、赤い瞳が二つだけ宙に残った。
「アロンくん、君はそんなに好戦的な学生だったかな」
彼は眼球をふるわせ、どこからともなく声を出す。
「ソーラに感化されたのかい。疑うばかりじゃ争いのたねをまくだけだよ。まあアロンくんの読みどおり、適当に会話を進めて君たちを確実にしとめるのが、わたしのねらいだったが」
「虹巻紙は、どこですか」
「君のお父さんの形見か。答えないよ」
きらめく赤い目が瞳孔をこちらに向けたまま通路の奥へと逃げていく。闇のなかにあっても、その輝きは光源のようにまばゆかった。
(ついに肉迫したんだ。逃がさない)
走って周囲の照明をともしながら、僕は彼を追う。
ソーラも僕の右隣でゆかを蹴りつつ、ワープを連続させている。
僕たちは彼の本拠地に侵入するだけで疲弊していた。アリアンが自分に有利な場所へと僕たちをさそっているのもわかる。
しかし本当に追いつめられているのは彼のほうだ。
アリアンは今、逃げるのが困難な状況にある。
彼は僕たちと対面する前から、侵入されたことを承知していた。とはいえ本来なら、気付いた時点で黙って地下から逃げるべきではないか。僕たちのもとに虚像を向かわせる必要もなかったはずだ。逃亡の時間かせぎをするにしても、やり方が露骨すぎる。
今までずっと身を隠してきたのに、ここにきて律儀に姿を現すのは不自然。ケルンストのときは、まだ本拠地が突き止められていなかったからよかったが、現在は悠長に構えている場合ではないだろう。
つまり、アリアンは逃げたくても逃げられない状態ということ。もちろん、そう見せかけている可能性も否定できないが。
(なら、手の平の上でおどっているふりをして、向こうの油断をさそうまでだ)
僕は走るのをやめ、青巻紙の「滞空」「推進」で飛行する。ソーラもワープの速度を上げる。
ここで、前方の二つの赤い瞳が上下に分かれた。
左目は上に、右目は下に消えた。
もう、通路は横に続いていない。上と下に道が分かれている。
互いになにも話すことなく、僕は上の通路に飛んで、彼女は下の通路に沈んだ。
単独行動が危険なのはわかっている。アリアンは僕たちをここにさそって分断したのだ。
彼はすでに僕たちとの戦いをシミュレートしていたのではないだろうか。そう思わせるほど、両目の動きには迷いがなかった。
(おそらくカディナ砂漠で僕とソーラが戦ったことも彼は知っていた。砂漠の下にアリアンの本拠地があったのだから見られていても変じゃない。そして僕が寮に帰ったその日、彼は寮長として僕と食事を共にした。それは、こちらの真意をさぐるためだった)
この通路も一辺が十メートルの正方形のかたち。曲がりかどは多いが、分かれ道は現れなかった。僕は一本道を上下前後にくねくねと曲がりながら進む。
ダカルオンでは、ひものついたミサンガという制限が存在した。それが取り払われた今、思った以上に飛べるようになっている。
そして次のかどを曲がったとき、赤い左目を前方に捉えた。
(思えばクーゼナスもといアリアンはダカルオンを観戦していなかった。最終結果を寮で聞いただけだろう。わざわざケルンストで接触してくるほど警戒している僕たちに対してお粗末な態度。でもダカルオンの場には学園長と先生たちがいた。だから近づけなかったのか)
すかさず黄巻紙をひらき、僕は赤い目をねらって「雷撃」を発動させる。
(加えて現在、アリアンは僕たちの侵入を把握していたにもかかわらず、僕に巻紙の無敵について聞いてきた。あの三角柱の空間で交わされた会話を追っていれば、なんとなくわかるだろうに。無敵を上回る剣を僕たちとの接触前に用意できたのも、盗聴していたからじゃないのか)
雷撃をかわす赤い瞳を追い続け、僕は二発目、三発目を撃ち込む。
(もしくは僕たちの行動の一部しか観察していない? 確かにあの空間は無敵状態を無視して攻撃する剣でうめつくされていた。虚像魔法を使用してその場にこっそり近づいたとしても、自身が剣の雨に巻き込まれるおそれがあったというわけか)
横向きに雷撃を飛ばすには「指定」の文字もなぞる必要がある。そのぶん雷撃と次の雷撃のあいだには、わずかに隙が出来る。この時間を上手く使って赤い瞳は攻撃をかわし続ける。
(よってそのとき、監視用の弱い虚像を送り込むことしかできず、僕たちの会話や戦闘データをはっきり収集できなかったのでは。拾えたとしても断片的なワードくらいだろう)
僕はここで青巻紙の飛行に加え、「反動」も使用して一気に赤い目との間合いをつめた。
(つまり僕たちに対するアリアンの認識は、カディナ砂漠のときのデータでとまっている可能性が高い。もちろん寮長という立場から、ダカルオンや僕たちの特訓についての伝聞くらいは耳にしているだろう。しかし、それでもアリアンは僕とソーラをなめている)
全速力で逃げようとする左目を、「膨張」させた「水」で「砲撃」する。
命中したところで「滞空」をかけ、赤い瞳を水で囲む。
(ここでダメージを与え、少しでも本体の魔法の力をけずっておく。ケルンストでは虚像相手になにもできなかったけど、あのまま対策を考えないで敵の本拠地に乗り込むほど、こっちも抜けてるわけじゃない)
瞳を捕らえた水に向かって、僕はもう一度だけ「雷撃」を使用した。
赤い瞳は焦げて黒くなり、内部の水分がジュッと音を立てた。
雷撃には「混線」を乗せておいた。
虚像も魔法という現象の一つ。したがって虚像自体に魔法による情報を流し込むことは可能。そもそも情報を受け取れない場合、アリアンは虚像を介して会話することすらできない。そこに「混線」した情報をそそぎ、虚像自体を混乱に落とし込む。
さらにもう一つ、僕は「砲撃」の直前、水に「弱化」をかけていた。
本来、青巻紙から生じた純粋な水は電気を通さない。しかし「弱化」させれば、周囲の影響を受けやすい水となる。そこに空気中の不純物が即座に溶け込む。結果、電気を通しやすい水に変化する。
混線を乗せた雷撃をその水に撃ち込めば、なかの虚像はまともに魔法のダメージを受ける。
ダカルオンでは青巻紙と黄巻紙を上手く複合できていなかった。純水と電気の相性が悪いと思っていた。競技後、そこを反省した。
どうすればよかったのか。
答えは単純なもの。純水を純粋でない水に変えればいい。そうするだけで青巻紙と黄巻紙の相性は最悪から抜群に転換する。
攻撃を食らった左目は、しばらくけいれんしたのちに水中で溶けた。
僕は、赤い瞳が逃げていた方向へと進み続けることにした。
引き返してソーラと合流する選択もあった。だが僕にも対応できた赤い瞳を彼女が倒せないわけがない。また、この先にアリアン本体がいる場合、ここで引き返せば彼を逃がすことにつながる。
やはり上下前後に曲がりくねった一本道を飛んでいく。途中の罠を警戒し、僕は前方に水を撃ちながら飛んだ。しかし最後までそれらしいものには、ひっかからなかった。
そして白い正方形の通路をようやく抜けた僕は、巨大な直方体の空間に出た。
(横長の直方体。ファカルオンの百メートル四方のグラウンドよりも広い)
空間と通路をつなぐ出入り口は、壁の上方に設けられていた。ゆかまでの距離は、八十メートルといったところか。僕は滑空しつつ、あたりを見回した。
ゆかは薄い青。そこから続く壁も途中まで、ゆかと同色。青が、光を受けた水のようにきらめいている。
ただし、天井高の半分くらいの高さから壁の色は白に変わる。天井も白。
そして見覚えのあるオブジェが空間の中央にある。
銀色のオブジェ。とんがり帽子の先端を八つに裂き、各先端をねじって倒せば出来上がる造形。同色の台が、輪のようにそれを取り囲む。
(教室棟の中庭の噴水そっくりだ)
水が噴き出ていないところまで同じ。
ただし違うのは二点。この空間のオブジェは中庭の噴水よりも巨大で、高さが二十メートルくらいある。二メートルほどの高さを持つリング状の台も、「巨人のベンチ」あるいは「壁」と言いなおしたほうがよさそうだ。
また、中庭のほうは上から見て八つの先端が時計回りに倒れていたが、こちらの先端はそれとは逆で、反時計回りに倒れている。
僕は直方体の底におりて、ゆかをなでた。白い通路や黒い三角柱の空間と同様、つるつるの石が使われていた。空間内の壁や天井もそうだが、やはり石そのものが発光しているようだ。
オブジェとそれを取り巻く壁は、濃すぎず薄すぎない影をゆかに落としていた。
この空間において、ほかに特筆すべき点はない。出入り口は、僕がとおってきた八十メートルの高所にあるもの一つだけ。壁や天井に取り付けられているものも一切ない。ゆかにはオブジェ以外のなにも置かれていない。ドアや窓も見当たらない。
それらの事実を僕が確認したときだった。
壁のかげから足音がして、「彼」が姿を現した。
「君は『あたり』を引き当てた」
僕から少し離れた場所に立ち止まり、赤い瞳のアリアンが両手をうち鳴らす。
「以前まで君に飛行能力はなかったはず。だからわたしは、さきほどの上下の分かれ道で君が下に行き、ソーラが上に向かうと踏んでいたんだが。実際は逆だった。予想は外れるものだね。アロンくんは成長しているようだ」
相変わらずの燕尾服とふちなしの丸めがね。金髪のオールバック。赤い瞳以外は寮長クーゼナス・ジェイの姿。「あたり」といっても結局、彼も本体ではなく虚像魔法の産物にすぎない。
「しかし君は本当にすごい魔法使いだ。わたしよりも、よほどね。赤い左目の虚像を逃がさず、なかなかのダメージを与えてきたし。実際は、ほとんど効いていないがね」
「どっちですか。じゃなくて、あなたの虚像魔法のほうが規格外に思えますが」
「わたしは君に嫉妬しているよ、アロン・シューくん」
「そんな要素、ありません」
「あるじゃないか。三色のそれらが」
かすれた声を出しつつ、彼は僕の三つの巻紙を順に指差した。
右手のそばに浮く青巻紙と左手の黄巻紙。そして腰のベルトにくくりつけている赤巻紙を。
「君のお父さんが亡くなったのは六年前だったか。そのときこれをチャンスと捉えたわたしは、彼の形見の巻紙を君の実家から盗むことにした。巻紙魔法の後継者の君も、当時はそこで暮らしていたね。そして、元々わたしは四つの巻紙全部をいただくつもりだった」
「父は亡くなる直前、赤・青・黄の巻紙を僕に譲渡した」
僕はアリアンの赤い瞳と目を合わせる。
「虹巻紙だけは僕が成長するまで封印すると言っていた。厳重な防護魔法をかけられた桐箱に虹巻紙は収められ、家の地下倉庫に隠された。しかし鏡の巨像の目は、ごまかせなかった」
「そう。虚像を飛ばせば秘密なんて無意味だよ。厳重な防護魔法とやらもね。ファカルオンの先生レベルの魔法使いじゃないと、わたしの虚像は見抜けない。ともあれ巻紙の情報をつかんだわたしは、もっとも価値のある虹巻紙にねらいをしぼった、わけじゃない」
そばの壁に背中をもたせかけ、アリアンは丸めがねのツルをたたく。
「巻紙すべてがほしかった。わたしは虹巻紙を盗んだあと、君の寝ている部屋に侵入し、三色の巻紙も奪おうとした。が、どの巻紙も手をすり抜け、君の枕元に戻る始末。わたしに複数の巻紙をあつかう力がなく、すでに虹巻紙で手一杯だったのに、無理に取ろうとしたからだろう」
「初対面の巻紙から所有者とみとめられるだけでも、じゅうぶんすごいんですが」
「やれやれ、略奪同然で虹巻紙をわたしのものにしたかと思えば、別の巻紙と一緒になるのを当の虹巻紙自体が拒否してくるのだから笑えない話だね」
「はい、本当に面白くない冗談です。それにしても」
「なにかね」
「僕もそのときアリアン・クラレスのきらめく赤い瞳を見ていたのかもしれませんね。夢のなかにいる感覚で」
「なるほど、君がソーラに惹かれたのは当時の記憶が無意識に焼き付いていたからと。娘もわたしに似た赤い目を持っているからね」
「違いますよ。その件に関しては、あなたなんて、もはや関係ありません」
「嬉しいね。自分を自分として見てくれる友達が増えてソーラも、ぶぼっ!」
この瞬間、彼の虚像は水のかたまりに飲まれた。背中は壁を離れ、めがねも水中に浮いた。
同時に、いやその直前に僕は黄巻紙の「指定」「雷撃」「混線」「強化」をなぞって、彼の飲まれた水めがけて魔法を撃ち込んでいた。
雷撃が直撃した水は、いびつに形状をふるわせたあと音を立て、一瞬で蒸発した。周囲に大量の湯気が広がる。なかの虚像は燕尾服ごと黒焦げになった。
「ふむ。わたしと会話しているあいだ、君は攻撃の準備をこっそり整えていたようだね。目を合わせてこちらの話に付き合ってくれたのは、自分の指に注目させないためか」
今度は後ろから、彼のかすれた声が響いた。
とっさに振り向く僕に、燕尾服のアリアンが微笑を返す。彼との距離は約三メートル。
「青巻紙の字を見て推理するなら」
当然のように彼は無傷だった。いや、さきほどとは別の虚像を用意したと言うほうが正しいだろう。燕尾服も、新調したようにきれいになっている。ただし。
もう丸めがねは、かけていなかった。
「アロンくんは、まず『水』を自分の背後に『指定』して出した。電気を通しやすいよう、それを『弱化』させた。さらに『収縮』をかけ、目に見えないサイズに変える。そのうえで『滞空』『誘導』で水をわたしのそばに移動させ、『設置』する。これで仕込みは完了」
僕の真似のつもりなのか、なにもないところでアリアンは右の五本の指を動かす。
「あとは瞬時に『膨張』させ、わたしが水に飲み込まれたところで、虚像にもダメージを与えられる『雷撃』を撃ち込んだ。合ってるかね」
「ちょっとよく聞こえませんね。もう少し近づいてもらえませんか」
「おいおい、もう一度ひっかけるつもりかね。君もさっきの攻撃だけでわたしをしとめきれるとは思っていなかったはず。だったら、ほかの手もすでに仕込んでいると見ていい。張っているんだろう、罠を」
「確かめてみては」
その台詞をゆっくり言ったあと、僕は次の言葉をほとんど高速で口にした。
「青巻紙・封、赤巻紙!」
すかさず赤巻紙の「火」「指定」「拡大」「放射」と黄巻紙の「混線」を発動させる。
火がアリアンに到達する瞬間、さらに赤巻紙をなぞり、あたりに設置していた黄巻紙の高圧電流の罠に「起爆」をかけた。
広範囲に電撃と火炎が広がる。
(この巨大な空間のなかなら赤巻紙を使用しても、ある程度は問題ない。たたみかける。アリアンは虚像がやられたことについて『ほとんど効いていない』と言ったが、裏を返せば小さなダメージは確実に通せているということ。このまま虚像を倒し続け、本体を引っ張り出す)
いったん僕はリング状の壁に沿って走り、爆風をのがれた。
(巻紙を見ないでスムーズに字をなぞることにも成功した。思えば簡単なことだ。それぞれの文字列の上で、あらかじめ指を構えておけばいい。勘や経験に頼ったり事前に目だけで位置を特定したりするよりも、確実で安全なブラインドタッチを意識する)
ダカルオンのあとサイフロスト先生と話していたから、実行できた策である。
「だけど君も大変じゃないか、アロンくん」
唐突に、斜め上から声がする。
見ると、アリアンの新しい虚像が壁の上にしゃがんでいた。僕との距離も近い。その状態で、彼が右手を伸ばしてくる。
「君もソーラも、目的は形見を取り返すことだろう? その隠し場所を知るわたしを死なせてしまえば、計画が水の泡になるかもしれない。そう考えると、無意識のうちに攻撃を制限せざるを得ない。今のわたしが虚像だとしてもね」
壁は二メートルほどの高さ。
そのそばにいた僕の頭に彼の手がせまる。
「対してわたしは口封じをしなければならない。よって君たちを帰せない。娘とその友人を手にかけるのは心苦しいが、我慢しよう。代わりに学園には君とソーラの虚像を置く。いや、それではファカルオンの先生たちにばれてしまうか。行方不明のまま消えてもらうしかないな」
その声を聞き終わる前に僕は、ゆかを蹴って彼から離れた。直後、自分の逃げた方向の先に「雷撃」を飛ばそうとした。
彼は奇襲のチャンスだったにもかかわらず自分から僕に声をかけ、悠長に手を伸ばし、あまつさえ長々と言葉を連ねた。
そこから、彼の作戦が読み取れた。壁の上の虚像に僕の意識を集中させ、こちらが逃げたところで真の奇襲を仕掛けようとしたのだろう。
普通に奇襲すれば黄巻紙の罠にかかるかもしれない。かつ、僕が逃走した方向には罠がない可能性が高い。それらを考慮し、彼は二重の奇襲をかけたのだ。
案の定、僕が逃げた先にも突如としてアリアンの虚像が現れた。
が、「雷撃」に指を置こうとした瞬間、僕は手をとめた。
僕の逃げた方向に現れたアリアンが、なんの前触れもなく吹っ飛ばされ、霧散したからだ。
「助けに来たわよ、アロン!」
すずしげな声と共にそこに現れたのは、破れた「エセ喪服」を身にまとった、赤い瞳のソーラだった。
チュニックも、その下から少しだけ見えるスパッツも、ニーソックスもパンプスも、ハーフツインの上に作られたツーサイドアップの根元のヘアゴムも灰色である。
お互いさまなのだろうが、通路で別れる前よりも肌や服の傷が増えている。
彼女はワープを使える黒髪の状態で、右のこぶしを突き出して僕にほほえむ。
「わたしが向かった下の通路の先にもアリアンの虚像がいた。わたしはそれを倒してから全速力で引き返し、あなたのもとに駆け付けたってわけ」
「助かった。ただ、いきなり現れたようにも見えたけど」
「アリアンに奇襲をたたき込むために、この空間に入る直前、透明状態になっていたの」
「どうやって、やつの虚像にダメージを与えたんだ」
「実体ではなく、虚像魔法という現象を細かく部分ワープさせるイメージでパンチしたのよ。そうすれば、こぶしが当たった瞬間にアリアンの虚像は分解されるわ。実はこれ、決戦前からずっと考えていたの、やつへの対策としてね」
「ソーラ」
ここで僕は自分の髪の生え際を指でなぞった。
対して彼女も黒髪の生え際をなぞってみせた。
それは僕とソーラが決めていたサイン。虚像魔法を使用するアリアンは、寮長クーゼナス・ジェイに限らず、別の人間の顔かたちを作り出すことも可能だろう。
だから二人のあいだで合言葉のようなサインを決めておき、「自分はアリアンによる虚像じゃない」と伝え合うことにしていた。図書館の自習室でも、今朝の教室棟の中庭でも、特訓のためグラウンドで会うときも、交わし合っていたサインだ。
(今、生え際をなぞるサインを彼女が返したということは)
目の前の彼女の正体に確信が持てたので、僕は安心した。
彼女は、銀色の壁の上にしゃがんでいるアリアンのほうを向いて、僕を横目で見た。
「じゃあ、いきましょう。なんとしてもあいつに盗品の保管場所をはかせるわよ!」
「ああ。攻撃に移ろう」
僕は黄巻紙の「雷撃」の文字の上で、ずっと指をとめていた。その浮かせていた指を下ろす。直後、対象を「指定」し、雷撃を飛ばした。
攻撃対象は決まっている。
僕の横に立つ「彼女」である。
赤巻紙の「火」も複合させて、僕は「彼女の姿」を黒焦げにした。
「そんな。アロン、なんで」
「アリアン・クラレス」
さらに僕はそこから離れ、周囲に「混線」と「感電」の罠を「設置」しながら、溶けていく彼女の姿に話しかけた。
「あなたは僕たちの合言葉に対応した。僕の仕草に合わせ、髪の生え際をなぞってみせた。確かにそれは僕とソーラが互いに本物だと伝え合うサイン。ただ、この取り決めには続きがある」
彼女の黒焦げの体と服が霧散していく。
最後に残ったのは赤い瞳。ほとんど黒くなったそれに、僕は視線をそそいだ。
(アリアンとの戦闘中に限っては、その仕草を相手が見せた場合、「そんなことをやっている場合か」という気持ちを込めて相手の顔面をなぐると取り決めていた。でも彼女は僕をなぐらなかった。だから目の前に現れた彼女の姿があなたの出した虚像だという確信を持てたんです)
消えていく眼球に、心のなかだけでそんな言葉をかけた。
そして黄巻紙に置いた左手の指を動かしつつ、壁の上にしゃがむアリアンに視線を向ける。
彼は無表情で首をかしげる。
「取り決めの続きの詳細はわからないが、通常は、さっきの仕草でいいんだろう?」
「どうでしょうね」
「だったら学園で君とソーラが会っていたときも、そのサインを交わし合っていたからといって互いが本物だったと心から断言できるのかね。ファカルオンにおいても、今のようにわたしの虚像が対応して同じ仕草を返していたとしたら」
「サインだけで相手を本物と判断していたわけではありません。彼女になりすますにあたって、ほかにもあなたはミスを犯しています」
「君たちのあいだに結ばれていた、その、友情的な力を読み取れなかったことかね」
「そういう立派なものとは違います。サインの件以外で、あなたは十個もミスを重ねました」
「計十一個? おかしいね、ソーラの再現度は、顔も声も口調も完璧だったはずだが」
「見た目については服の破れから肌の傷まで細かく再現されていました。さも彼女が戦闘を経てきたかのように、傷や破れが上手く増えていましたし、完璧でした。一点を除いて」
今朝の中庭のことを思い出す。デリングリンの発動前、ソーラはベンチに座っている僕の前に立ち、格好を間近で見せてくれていた。
「彼女のきょうのスパッツ、灰色じゃなくて黒ですよ。丈が短く大部分が隠れていて、チュニックのすそが破れた状態でもわかりにくいですけど。あなたは黒に寄せたダークグレーにしたようですが、まだデニールが足りません」
「むしろ君がそこまで観察していることに驚きを隠せないのだが」
「さらに虚像からはソーラがいつも発しているレモンの香りがしなかった。攻撃時、銀髪から黒髪に変わったはずなのに『発』と唱えなかった」
ちなみに、アリアンは虚像に「におい」を付与することもできる。これは事前にソーラから聞いた情報だ。親子として一緒に暮らしていたとき彼は、いろいろなアロマを虚像魔法で擬似的に再現し、家のなかを心地いい香りで満たしたという。
「そもそも、この空間に入る直前に透明になったと偽者は言いましたが、それだと彼女は黒髪ではなく銀髪で、つまりワープによる空中移動ができない状態で、僕のいるゆかまでおりたことになります。でも出入り口からゆかまでは八十メートルくらいありますよね」
「おまけに壁はつるつるで、はしごや階段といったものもどこにもないし、考えてみれば、銀髪のソーラが下までおりるのは不可能だね。いやはや設定が甘かった。これでわたしのミスは五個というわけか、面白いね、アロンくん」
「彼女の部分ワープによる分解攻撃も、ずっと前から考えていたものじゃない。今の彼女なら思い付くでしょうが、決戦前から想定していたなんて無理がある。あなたは三角柱での僕たちの戦闘を虚弱な虚像で観察するしかなく『部分ワープ』というワードを拾ったにすぎない」
うなずきながら話を聞くアリアンを見つつ、僕は続ける。
「だから彼女がきょうコツをつかんだことに、あなたは気付けなかった。もし本当に、もっと前から部分ワープによる分解を思い付いていたら、彼女は決戦当日になっても慌てることなく、事前に極めていたその技を使用し、あのエレベーターを最初から難なく解体していたでしょう」
「さすがに娘がベストタイミングで君を助けたのも、あやしかったかな」
「それが七個目と八個目のミス。いかにもあなたの策がにおわされていたタイミングで彼女が助けに来るなんて都合がよすぎた。また、僕はそのとき雷撃を発動しかけていた。本物のソーラなら助けが要らないことを読み取り、壁の上のもう一つの虚像のほうをまず攻撃している」
黄巻紙の罠を周囲に張り終えた僕は、壁の上の虚像に「混線」付きの火球を飛ばす。
「さらに言えば、至近距離であろうと僕の黄巻紙の雷撃を本物のソーラがあっさり食らうはずがない。無意識にでもワープを発動させ、雷撃の方向を転換する」
「これで九個のミスを君は指摘したわけだ」
僕の攻撃により壁の上の虚像は消え失せたが、代わりに真上から声が落ちてきた。見上げると、アリアンの新たな虚像が、ゆかから十メートルくらいの高度に浮いていた。
「しかしわたしのミスは十一個あるそうじゃないか。残り二個についても説明してもらいたいものだ」
「あなたはさっき、ソーラの偽者と僕が話しているあいだ、まったく攻撃しなかった。僕が逃げた先には黄巻紙の罠もないとわかっていたはず。僕に対して二重の奇襲を計画していたそぶりを見せたにもかかわらず、そのチャンスを活かさないのは意味がわからない」
僕は宙に浮くアリアンに魔法を撃つのをいったんひかえた。
彼が飛び回っていて当てにくいうえ、罠の穴に通すように遠距離攻撃を連発することになれば、逃げ道として用意している安全な箇所を相手に教えるようなもの。
「つまりそのときあなたはソーラの虚像を本物のように動かすのに集中していた。こちらの信用を得るために、ある程度の会話が必要とも考え、攻撃を仕掛けられなかった。ようするに虚像を本物と信用させたところで、油断した僕を確実にしとめる策だったわけですね」
「なら、現在もわたしが本格的に攻撃せず、君の説明を律儀に聞いている理由もわかるかね。アロンくんがご丁寧にわたしのミスを説明してくれているのは、罠を張る時間かせぎのためなんだろうが」
「時間かせぎは、あなたもでしょう、アリアン。あなたは、これまで具体的な魔法攻撃を使っていません。ただ、こちらにふれようとしていました。おそらくそれが通常の虚像の攻撃。虚像に込めた情報を相手に流し込み、精神を崩壊させるといったところですか」
「それこそ、確かめてほしい」
「しかし通常攻撃では決定打にならないと判断し、魔法の力を別のことに使おうと考えた。とはいえ虚像魔法はイメージが大切。寮長の姿で燕尾服を着ているのもイメージのためでしたね。とにかく別の攻撃に移るには、そのイメージを練る時間が必要不可欠。これが虚像魔法の弱点」
「わかったところで、どうすると?」
丸めがねを捨てた赤い裸眼でアリアンが僕を見下ろす。
「現に君は怖くて罠から出られず、わたしの時間かせぎをとめられずにいる」
「僕の時間かせぎのねらいは、罠を張ることだけじゃない」
赤巻紙に封をし、僕は右手の上に青巻紙をひらいた。
「そういえば十一個目のミスの説明が残っていました、アリアン」
「おや、まだ時間かせぎに付き合ってくれるのかね」
「彼女がこの空間に現れたときの第一声ですよ。『助けに来たわよ』でしたっけ。どこかソーラっぽくないというか。彼女だったらもっとほかに、たとえば――」
「――へばってないでしょうね、アロン・シュー!」
こういうことを言う。
僕は声のしたほうを見上げた。
空間の上部の出入り口を蹴り、ハーフツインの黒髪をなびかせる彼女が、空中をワープしつつアリアンに接近しているところだった。
最初から僕がおこなっていたのは、罠を張り終えるまでの時間かせぎではなく、ソーラ・クラレスがここに到着するまでの時間かせぎ。
そもそも彼女の偽者の発言どおり、ソーラが向かった下の通路の先にアリアンは本当にいたのか。
彼は僕に「『あたり』を引き当てた」と言った。普通なら敵の言葉をそのまま受け取るものじゃない。どうせソーラが向かった先でも虚像のアリアンが同じことを語っているのだろうと思うのが自然だった。
しかしその件に関して、もしアリアンが嘘をついていないとしたら。
この空間に入って僕は考えていた。僕がたどり着いた行き止まりとソーラがたどり着いた行き止まりがあるとして、それぞれにアリアンが虚像を配置する場合、彼自身がどう戦うか。
十の魔法の力があれば力を五と五に分けるだろうか。そんなことは、しない。最初は一と九に分ける。より強者のほうに牽制程度の一を当てたうえで、より弱者のほうに九をぶつけ、即座に撃破。そして九のリソースを一と合流させ、十の力で強者と対するのが上策。
だがアリアンは、いつまで経っても僕にリソースをつぎ込まない。一気にほうむることさえせず、時間かせぎをおこなう始末。
仮に彼がソーラのほうを弱者と判断して彼女に九の力を割いたとしても、それなら彼女を倒した瞬間にこちらへとリソースを移す。彼女にねばられたとすればソーラへの評価を改め、僕と彼女に対する魔法の力のリソース配分を多少なりとも見なおせばいいだけ。
にもかかわらずアリアンの挙動に目立った変化が見られないということは、そもそも彼は魔法の力を分散していないということ。
あるいは、それができないほどに弱体化している。
かつて「鏡の巨像」と恐れられ、世界中の宝物を盗んで回った彼は、魔法使いとしても一流だった。彼が全盛期の力を保持していたら、僕は手も足も出ないまま倒されていただろう。
理由は不明だが、彼は弱くなっている。五年前から活動を停止していたのも、おそらく彼自身の弱体化が原因と考えられる。
以上のことからソーラの向かった先にアリアンはおらず、それを確かめた彼女は引き返して僕のもとに合流する。そんな確信があった。
たとえアリアンが魔法装置を配置して彼女を邪魔するにしても、例の黒いエレベーターを突破したソーラを長時間足止めできるとは思えない。
だから僕は確信をもって時間かせぎをおこない、それが今、功を奏した。
そして彼女は奇襲時にわざわざ声を出した。
瞬時に僕は彼女の意図を理解した。
(わたしがわざと上に注意を向けさせたこと、わかってたのね)
(不意打ちをねらうならわざわざ相手に声をかけるなんて愚の骨頂)
カディナ砂漠でのやりとりが頭のなかでよみがえる。
ソーラに反応したアリアンに対し、僕は黄巻紙の「指定」「混線」「感電」「設置」を発動させた。相手を罠にさそうのではなく、罠自体を相手に直接ぶつけるかたちである。
(普通の攻撃だと、かわされそうだからね)
これまで僕は黄巻紙の罠を自分の近くにしか張らなかった。この罠は持続力を有する代わりに、遠くに設置するのが難しい。もし遠隔の空間をねらうとすれば、相当の魔法の力を消費する。カディナでソーラに対して張った、青巻紙による罠と同列にあつかうことはできない。
四メートル。その距離を超えると、黄巻紙の罠の設置に費やす魔法の力が急激に上昇する。「遠く」と定義するには微妙な数字だが、十メートル上空のアリアンにさえ届かないことを加味すれば、この場合に限り「遠く」という感覚も間違いではない気がする。
通常は、設置したいポイントに近づいて罠を張るのがセオリー。ダカルオンのときも、そうだった。
(しかしリスクがあるとはいえ、遠隔設置ができないわけじゃない。今は無理をしてでも、アリアンに罠を当てるべき。ただし、黄巻紙の罠にはタイムラグがある。近づいて設置しようとすれば確実に逃げられる。だから今、ゆかに靴底をつけた、この体勢で放つしかない)
そもそもソーラが声をあげて彼女自身に注意をひきつけたのは、僕をフリーにするため。
(アリアンの注意が僕からソーラに移ったその一瞬をねらって、今まで隠していた罠の遠隔設置を発動する。これ以上のタイミングは、もう訪れない!)
が、その瞬間にアリアンは黄巻紙をなぞる僕のほうをちらりと見た。そして上に飛んだ。
(力の消費を考えれば遠隔設置は一回しか使えない。僕はその罠を張り終えてしまった。僕に注目していないふりをして、上手いタイミングで動いたものだ。あなたはカディナ砂漠での戦闘に関しては一部始終を見ていたんだろう。不意打ちに関するやりとりについても)
だからアリアンも、露骨に声を出したソーラの意図に気付いていた。ここで本当に警戒すべきは僕のほうだとわかっていた。
(読んでいた! あなたがソーラの策にはまったふりをして、僕の攻撃をかわすタイミングをうかがっていたことくらい。弱体化したとはいえ、アリアンは「鏡の巨像」と呼ばれた魔法使い。ここで無策でいる人間じゃないと信じていた)
実際に僕が罠を設置したのは、アリアンが元々いた場所の真上であった。
彼はどこに逃げるか。ソーラのいる前方に行くことはないだろう。かといって下に向かえば、ゆかに立つ僕と空中の彼女にはさみうちにされるおそれがある。
(では後ろや左右に逃げるか。いや、僕が遠距離攻撃を仕掛けないことを考えれば、彼は現在の位置で僕の射線上に入っていないと判断する。ちょうど僕の周辺の罠が遮蔽物になる角度に自分がいると彼は思い込んでいるはず。その角度を維持したまま真上に逃げるのがベスト)
と僕は予想したのだが、彼は真上に向かわず、上は上でも後方斜め上に身をかわした。
(そんな! あと少しのところで罠にかからなかった。魔法の力の消費量の関係上、罠の大きさはせいぜい二メートル程度。だから絶対に外さない箇所にピンポイントで仕掛けたつもりだったのに。やつに読み合いで負けた。ともかく気持ちを切り替えて、ソーラのサポートを)
周辺の罠の穴を抜け、僕は青巻紙で飛び上がった。しかし罠の遠隔設置の直後のため、ふらふらと移動することしかできない。
「ソーラ。そこ、罠があるから気を付けて」
言葉にすればアリアンにも伝わってしまうが、やむを得ない。最悪なのは彼女自身が罠にかかってしまう展開。だから僕は罠の位置を指差してソーラに教えた。
アリアンはこちらの罠をかわしたあとも、ゆかから十メートルほどの高度を保ちつつ飛んでいる。現在、ソーラよりも僕のほうが彼に近いところにいる。
おぼつかない飛行を続けながら僕は、先にアリアンのそばまで近づいた。
そして彼まであと二メートルの距離に接近したところで、体内がざわつくように熱くなった。
僕は吐血した。
その血には、胃酸のすっぱい味が混ざっていた。
歯まで溶けるんじゃないかと思うほど、胃液の量が多かった。
(僕の飛行は自身の水分へとじかに魔法をかけることによって実現している。酷使しすぎれば、血液や胃液にまで悪影響をおよぼすのは必然か。体内の水が暴走している感覚がある)
これをチャンスと捉えたのか、アリアンは逃げるのをやめ、僕に手を伸ばしてきた。が、即座にそれを引っ込めた。この時点でソーラがすぐ近くまで、せまっていたからだ。
なぜだろう。そのとき僕は彼女のほうを向いて左手で自身の髪の生え際をなぞった。「自分はアリアンの虚像ではない」と伝えるための例のサインである。吐血した直後の僕は弱気になっていて、彼女が本物であるという確信をいち早く得たかったのだろうか。
もちろん彼女の視点からすれば僕が虚像である可能性も否定できない。だからこの声なき合言葉を投げることで、僕が本物であるとも伝えておきたかったのか。
果たして彼女は、こぶしを構え、そのまま僕をなぐり飛ばした。
「そんなことやってる場合じゃないでしょうが!」
白いこぶしが弧をえがき、左のほおに直撃する。
僕は確信した。
間違いない。本物である。
この場でもっとも驚いていたのはアリアンだった。起こったことが理解できなかったのか、彼は一瞬だけ動きをとめてしまった。
ソーラがこぶしを構えたとき、自分がなぐられると彼は考え、逃げようとしただろう。だが実際になぐられたのはアリアンではなく彼女の味方のはずの僕。
しかもそれに加え、なぐられた瞬間に僕が目の前から消えたのだ。
ソーラのパンチをもらった勢いのまま、僕はアリアンの後方にワープさせられた。
彼の背中に激突しそうになるも、虚像に物理的な攻撃は通用しない。
とっさに青巻紙の「水」「弱化」「指定」「砲撃」と黄巻紙の「混線」「帯電」をなぞり、彼を押し出した。その先には、さきほど空振りに終わった罠が設置されている。
とはいえ弱化した水のため砲撃の威力が足りない。また、僕の魔法の力もかなり減っており、期待したほどの勢いが出ない。このままだと水の砲撃から脱出される。本当は「帯電」ではなく「雷撃」を使いたいが、その余力も残っていない。
(罠まであと五メートル。これ以上、押し出せない。「混線」をかけた「帯電」によってアリアンの動きは封じているが、それもいつまで続くか。もう少し近づいて砲撃を。いや、だめだ。今、体に無理をさせてさらに飛行しようとすれば、さすがに今度は吐血じゃ済まない)
体内の液体すべてが暴走し、果ては心臓が内部から破ける、という未来まで想像した。
脳に、じゅうぶんに血液がめぐっていないようだ。視界が、かすむ。意識が、うすらぐ。
あるいは過剰に血が送られているようにも感じる。頭に圧迫感を覚える。鼓膜が痛い。
ここで、すずしげな声が耳に届いた。
「あとはわたしが飛ばすわ」
今まで上に待機していたソーラが落ちてきて、右手でアリアンの体にふれた。
彼は瞬時に五メートル先の罠にワープし、体をふるわせて停止した。
そこに僕の砲撃が命中する。
「虚像とはいえ、姿が見えるし声も聞こえる。実体はなくても『無』じゃない。なにかがあるなら、それを細かく転移させて分解するまでよ。本体じゃないから遠慮はしない」
彼女はアリアンの真上にワープして、しびれた状態の虚像の顔面をなぐった。虚像は霧のようにバラバラになって足の先まで消え去った。ソーラの偽者が言っていたこととも関わるが、こぶしを通して部分ワープを適用し、虚像魔法という現象を霧のレベルにまで解体したらしい。
そして落ちていく僕の背中とひざの裏あたりに、やわらかく手が添えられた。
「アロンは、よくやったわ。チャンスを無駄にしなかった」
目の前に、黒髪にふちどられたソーラの顔立ちが浮かんでいた。
ひとまず僕は魔法の力を回復させるために青巻紙と黄巻紙に封をした。
ソーラから顔をそむけ、せき込んだ。
血がのどにからみついているようで、しゃべりづらい。
目が、にじんできた。これも体の水の暴走だろうか。
薄い青のゆかにソーラが着地する。
ただし着地時の衝撃は僕に一切、伝わってこなかった。ソーラがワープで衝撃自体を逃がしたのだろう。むしろベッドに沈み込むような心地よさを覚える。
僕は顔をそむけるのをやめ、彼女の赤い瞳と目を合わせた。
「ありがとう、ソー、ッラ!」
のどにからみついていた血を、そのとき僕は、はいてしまった。
血液以外の水分も混じっているためか、妙にねばりけのある血だった。赤黒いそれが、ソーラの白い顔にかかった。ソーラは反射的に片目をつぶった。
「ごめ」
「謝らないで。わたしはわざと受けたの」
顔にかかった血をワープさせることもなく、彼女は僕をかかえたまま見下ろしている。
「むしろ責めなさいよ。さっきわたしは、血をはいたあなたを思いきりなぐり飛ばしたのよ」
「いや、そういう約束だったし、こぶしの威力も抑えられていた」
のどにからみついた血を出したせいだろうか、僕は楽に話せるようになっていた。
「あのパンチを受けたとき、君が本物のソーラ・クラレスだってわかった」
「あなたも本物のようね、アロン・シュー」
なにをもって彼女が僕を本物と判断したかはわからなかった。
今のソーラからはレモンの香りがしなかった。汗のにおいさえ、ただよってこない。
透明状態のときに自分の位置がばれないよう、彼女自身がワープにより香りの発生源をその身から切り離したようだ。
(ダカルオンのとき彼女は自分のにおいを隠せておらず、透明化を完全には活かせていなかった。これを反省したのだろう。特訓時、僕も彼女のにおいに慣れてしまってその弱点を指摘するのを忘れていたくらいだし、本人だとなおさら強く意識してケアする必要がありそうだ)
なんにせよ、アリアンがソーラの偽者にレモンの香りを付与しなかったのは、ミスではなかったかもしれない。
ところで当のアリアンの虚像は、今まで僕とソーラが会話しているあいだ、ずっとこちらに接近し、手を伸ばし、ときに蹴りを入れ、あらゆる方向から僕たちの体にふれようとしていた。
しかし僕をかかえ、手がふさがった状態のソーラにさわっても、その瞬間に虚像はことごとく霧散していた。おまけにソーラは、アリアンのほうをまともに見てさえいなかった。
彼は僕にも攻撃の手を伸ばしてきたが、ソーラのワープ魔法は僕の肌と服と巻紙にまでおよんでいた。
次から次へと、虚像が例外なく散っていく。
僕と初めて戦ったときよりも格段に彼女の魔法の力は上昇している。限界が見えない。向こうが分裂して全身を同時に攻撃してきても、彼女は一つ残らず虚像たちを消し去った。
「不毛ね、アリアン。あなたの虚像魔法の正体、当ててあげましょうか」
もはや彼の白髪交じりの金髪はオールバックではなかった。乱れに乱れ、額やほおの上で髪の一部が揺れていた。
「ベースにググーを使っているでしょ」
話しかけているはずのアリアンには目を向けず、ソーラはまぶたをとじた。
「ググーは魔法と生物の中間の存在。そのググーの形状や色彩を変化させるというのがあなたの本当の魔法。とはいえググーに具体的な要素を与えたことにより、それは実体寄りの虚像として現れる。だから視覚的にも聴覚的にも虚像を介して遠いところに干渉できるってわけね」
彼女は目をひらかずに、絶え間なく続くアリアンの攻撃をすべてさばいていく。
「わたしの友達にもググーを実体に近づけられる子がいるの。虚像魔法とは性質が違うのだけど。彼女に頼んで、実体を薄めたググーを何回もわたしにぶつけてもらったわ。最初は難しかった。でもそのうち目をつぶった状態でも『ふれる瞬間』がわかるようになった」
ソーラは、あえてアリアンにこの話を聞かせているようだ。虚像魔法で大切なのは第一に使い手の持つイメージ。本人に「正体が見抜かれた」「攻撃が通用しない」と強く思わせることで、アリアンの勝ちにつながりうるイメージをつぶし、少しでも弱体化を図ろうとしている。
ここでアリアンの攻撃がとまる。
「勝ち誇っているところすまないが、わたしがあえて弱めの虚像をぶつけていたことがわからなかったか」
「わかってたわよ、新たなイメージを固める時間かせぎのためでしょ」
ソーラは目をひらき、顔にかかっていた僕の血をワープさせて消した。
「ちまちまやっても、まどろっこしいわ。出しなさいよ、切り札。それもバラバラにして、一気にダメージを与えてあげるから」
「我が娘ながら、いい度胸だ」
その言葉と共に、乱れた髪のアリアンの虚像が溶けて消えた。
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