第十章 射程内のアリアン(前編)
「――時間前に来たわね、アロン・シュー」
「君こそ。ソーラ・クラレス」
午前五時五十五分。場所は教室棟の中庭。噴水のオブジェの前。
僕とソーラは、「ダカルオン翌日の午前六時に中庭で会おう」と約束し、ここに来た。
白を溶かした暗闇が、周りの教室棟の壁に落ちている。透明な窓とベージュの壁が、あやしくほんのりと輝き、正方形のかたちで僕たちを囲む。
中庭の地面に広がる芝生も、中央から離れたところに間隔をあけて植えられた三本のユズリハも、暗闇と光の中間くらいの色に染まっている。
中央の銀色のオブジェは、相変わらず水を出していない。
とんがり帽子を八つに分けてねじったような造形が、妙におごそかな雰囲気をまといながら、僕たちを見下ろしていた。
とりあえず僕とソーラは、そのオブジェの周りを囲うベンチに座った。
明け方の時間帯だと、そこから伝わる石の感触も余計に冷たく感じる。
髪の毛の生え際をなぞるという例のサインを互いに交わしたあとで、あたりを見回す。
「わたしたちしか、いないわね」
「ああ。きょうは授業がないから」
教室棟は、しまっている。周囲の窓に人影はない。
中庭にいるのは僕たち二人だけ。
本来、中庭に入るには、外の扉をとおって教室棟にいったん入り、建物のなかから出入り口のドアをあける必要がある。しかしソーラはワープを使用。そういった扉や出入り口を無視したうえで、建物内をじかに経由し、僕ごと中庭に入り込んだ。
なお、建物自体は閉鎖されているが、魔法を使って中庭に入る程度ならファカルオンの校則違反ではない。
「ここを選んで正解だったわ。今なら目撃されるおそれはない。じゃあ、すぐに始めましょう」
すでにソーラは黒い球体を手に持っていた。
古代の魔法装置、デリングリンである。
「きのうキュリアに見せてもらったそうね。使い方については、優勝賞品として渡される際に学園長から説明を受けているわ。額の表面で、この玉を転がすだけ」
「その作業を十五分から二十分くらい続けたあとに、デリングリンが起動して、使用者の存在を一瞬だけ消してくれるらしいね。僕の担当教員がそう言ってた」
「青ブロックで優勝したサイフロスト先生ね」
「そうだよ。きのう保健室で先生から情報をあらかた聞いた。一回作動させると壊れて、二度と使えなくなるとかね」
「助かるわ。なら、さっさとあなたの額で転がしてちょうだい」
デリングリンをつつむ透明な包装紙をあけ、ソーラは僕にその球体を渡した。
黒い飴玉みたいな形状のそれを、僕は右手に載せる。
そのまま手を持ち上げ、額にデリングリンを押し付ける。
この状態で手の平をぐりぐり動かし、球体を転がし続ける。
「満遍なく、球体の表面すべてが僕の額に最低一回は、ふれるように」
「魔法装置が発動するまで時間があるわね。最終確認に移りましょう。わたしたちの目的はアリアンの本体をさがし出すこと。わたしは母の遺髪を、あなたは虹巻紙を取り返す」
「そのためにデリングリンを発動させ、僕の存在を一瞬だけ消す。すると僕を失った巻紙は、虹巻紙の現所有者であるアリアンを次の所有者と定め、彼を目指して飛んでいく。その巻紙を追って、彼の居場所を突き止める」
そう言って僕は、腰のベルトにくくりつけていた赤巻紙を左手ではじいた。
僕の左隣に座っていたソーラが、それを片手でキャッチする。
「なるほど、飛ばすのは赤巻紙ね」
「デリングリンは本人と、本人の身につけているものすべてを消す。自分の接している椅子や地面にまでは効力がおよばないらしいけど、この性質は利用できる。アリアンに飛ばす巻紙は一つでいい。青巻紙は飛行用に残す。罠を張るのに有用な黄巻紙も手元に置いておく」
「あなたがベルトにつけているほうの巻紙はあなたと一緒に消える。それらの巻紙は所有者を失ったと認識せず、アロンのもとを離れないってわけ?」
「ああ。そしてソーラ」
彼女のキャッチした赤巻紙を左手で指差し、僕は伝える。
「巻紙から垂れている、ひもをつかんでいてほしい」
それは巻紙自体に元から取り付けられている黒いひも。巻紙をまとめ、とじるために存在する。僕は普段、そのひもの余った部分を腰のベルトにくくりつけている。
「僕が抹消された瞬間、赤巻紙は飛んでいく。猛スピードで次の所有者を目指す。たとえアリアンが地の果てにいても、一時間でその場所に着くだろう。それを追うのは君のワープを連続させても難しい。でも、巻紙のひもを持っていれば話は別だ」
「どういうことかしら」
「ひもでつながっている場合、所有者でなくても、その人と巻紙は軽いリンク状態になる。巻紙のひもを手放さない限り、君は巻紙と共に移動する。障害物はすり抜ける。振り落とされることもない。息もできるし、酔う心配もなく意外と快適、と父から聞いている」
「わかったわ」
ソーラは素直にうなずき、赤巻紙のひもを左手でにぎりしめた。
「デリングリンであなたの存在が消えるのは一瞬。もう一度アロンが現れたとき、わたしは右手を伸ばす。どこの部位でもいいから、あなたをわしづかみにする」
「そのあとは僕も赤巻紙とリンク状態になる。君を介した軽度のリンクだから、赤巻紙が、『やっぱり元の所有者は死んでいなかった』と認識することはないと思う」
「あと気になるのだけど巻紙とわたしが障害物をすり抜けるなら、その状態であなた自身をつかむことは本当にできるのかしら」
「巻紙とリンクした君が僕を障害物と認識しなければだいじょうぶ」
「そう。ともあれ、これで計画の最終確認は済んだわね」
「帰りはどうしようか。もしアリアンの本拠地が遠くにあったときは」
「考えてなかったわ。まあわたしの魔法でなんとか寮の門限には間に合うでしょう」
「無事に帰ることができればそれでいいよ」
僕は彼女と話しているあいだも右の手の平を絶えず動かし、デリングリンを額の表面で転がし続けていた。
「しかしこうしていると、光景としてはシュールというか。望んだ効果が本当に得られるのか不安になる」
「魔法装置が暴発しないよう、そんな変な発動条件にしたんでしょう。不毛な意味は感じないわ。それと、デリングリンやあなたの巻紙の特性が想定と違っていて、今まで考えていた計画が水の泡になる可能性もあるけれど、そのときは次の手を考えればいいだけだから」
「ありがとう、ソーラ。ところで」
「なによ、もう話すことはないでしょ」
「いや、額に球体を押し付けて、ずっと転がしていると、どうも眠くなって」
「だから眠気を払うために口を動かしたいの? まあ合理的ではあるわね。そのまま、あなたに寝付かれるとわたしが困る。話しましょうか」
「言いそびれていたことだ。ソーラ、ダカルオン優勝おめでとう」
「ありがと。でもアロンのおかげでもあるわ。あなたとの特訓で、わたしはワープに頼りすぎないことや、透明化の弱点について学べた。たとえば途中、わたしはスニーカーを投げてあなたをかく乱したけれど、あの発想も『音』という弱点をあなたが指摘していたから生まれた」
「それを言うなら僕が準優勝できたのもソーラと特訓したからだ。あの十日間がなければ、青巻紙の空中移動や巻紙の常時発動、乱戦における対応力、純粋な魔法の力、それらをレベルアップさせることができなかった。僕からも、ありがとう」
「どういたしまして。もちろん、その結果を残せたのはお互いに素敵なルームメイトがいたから。というのも忘れては、いけないのだけど」
「そうだね」
僕もソーラも、ほとんど互いの顔を見ずに話していた。
ここで彼女が僕を横目で見て、素早くまばたきをくりかえした。
「アロン、どこか変わったわね。あなたがダカルオンに本気で臨んだ目的は、あくまでアリアンをさがすための魔法装置を手に入れることだったはず。それなのに準優勝で喜んだりして。わたしには最初から『負けたくない』って気持ちもあったけど、あなたも本当は、そうだった?」
「これが変化なのか、本来の自分なのか、僕にも判然としない」
ただ少なくとも、予期していなかった現実が、僕と僕の周りで起こったのは事実なのだと思う。おそらく、彼女との協力関係をきっかけにして。
「振り返ってみれば、そもそも僕は魔法装置自体に興味がなかった。それから一か月も経たずに今こうして、その装置を額に押し付けて転がしているなんて、本当に未来はわからない」
「わたしも最近まで、アロン・シューの隣に座って互いのことを話すときが来るなんて思ってなかったわよ」
「でも君は自分をつらぬき続けている」
「あなたは違うの?」
「僕は準優勝で嬉しかったけど、同時に悔しくもあった。前回のダカルオンで敗退したときには味わえなかった気持ちだ。君の負けず嫌いに影響されてか」
「もしくはアロンのなかにも最初から、『負けたら悔しい』って思いがあったのかもね。かく言うわたしも前回で二位だったのをひきずってたし」
「君も、そういう気持ちを」
「もしかして、もやもやしてる? だったら学園長の言葉が参考になるかも。そのときあなたは保健室で眠っていたんじゃないかしら」
ソーラによると、ダカルオンが終わったあとの表彰式で、学園長がファカルオンの学生全員に対してこんなことを言ったらしい。
(負けた人も腐らずに。敗北は君への否定ではなく肯定です。まずは敗北できたことを悔しがりつつ誇りなさい。逃避にしても、敗北や勝利になりえます)
上空に浮かびながら、舌足らずの声を地上に落とし、次の言葉で話を締めくくったそうだ。
(君を本当に否定するものは、君に勝利どころか、敗北すらも与えません)
はっきりとした口調でソーラは、学園長の台詞をなぞった。
そして自分の言葉でまとめる。
「敗北とは悔しがるものであって、恥じるものじゃないわ。さすがに堂々と誇るのもどうかと思うけど」
「変な気持ちになるね。準優勝は、勝ちでもあり負けでもあるから」
「最終的に自分の勝ち負けを決めるのは自分自身よ。人生に審判は、いないんだから。『おまえは負け犬だ』と野次ってくる部外者がいるだけ。でも審判をきどって自分に『負け犬だ』って野次を飛ばすのだけは、やめなさい。不毛だから。やることやったんなら、誇りなさいよね」
少しずつ空が明るくなってきたせいだろうか。ソーラの赤い瞳が、きらめきを増す。
僕は彼女を横目で見つめ返し、質問した。
「それでもソーラは、負けたくないと?」
「勝つ。きょうも、きょうでない日も」
そんな彼女の返答を聞いたとき、僕の周りの景色が晴れていくような気がした。
デリングリンを額で転がし始めて、あまり時間も経過していない感じもする。
しかし確実に太陽はのぼり、すべてを照らし出そうとしている。
銀色のベンチが光沢を帯びる。中庭に植えられたユズリハの葉が白っぽく光る。地面の芝生が緑を濃くする。教室棟の窓とベージュの壁が、受けた日差しを反射する。
振り返らずとも後ろのオブジェが、きらきら光っているのがわかった。
ほんのりとした温度のなか、僕は僕の格好を確認する。
やはり喪服スタイルの黒いスーツである。バッグといった荷物はない。
清潔な白ワイシャツのすべてのボタンをとめ、えりを整え、黒ネクタイを首元まで締めた。
黒い中敷きを入れた左右の黒靴それぞれに、黒い靴下をはいた足を収めた。
黒いパンツの腰に黒いベルトを通したうえで、最後に黒いスーツジャケットを羽織った。
太陽に照らされて光沢を生じさせるものは、ウルフカットの黒髪と切れ長の黒い両目を除いて、僕のどこにも存在しない。
ベルトには青巻紙と黄巻紙がくくりつけてある。きのうの夜はブリーフケースにしまっていた巻紙たちだが、きょうという日に僕が忘れるわけがない。丈の短いジャケットのすそから、それらの一部が、はみ出ている。
これが、受け継ぐはずだった虹巻紙を奪われた僕に表明できる、父への弔意。
ただし同じく父の形見である赤巻紙だけは、現在、隣のソーラの左手にある。
僕の視線に気付いた彼女はベンチから立ち上がり、少し移動した。座っている僕を正面から見下ろす。
「あなたは額にデリングリンを当てている状態だから見づらいかもしれないけれど、わたしの服装も確認しておきたいかしら。アリアンとの戦闘になった場合、もしかしたら、また服だけをワープさせる、なんてこともありえる。一応、目に焼き付けておきなさい」
ヒールの低い灰色のパンプスに、灰色のニーソックス。長袖の灰色チュニックは、スカート丈の短いワンピースに近い。よく見ると腰のあたりにポケットがついている。
そしてチュニックのすその下からは黒いスパッツの一部が少しだけ見える。
スーパーロングの黒髪はハーフツイン。髪の一部を左右に分け、垂らしている。通常のツインテールとは違い、すべての髪をまとめているわけではない。腰まで届きそうな毛先は残されており、チュニックの後ろ側に揺れている。
ハーフツインの上に軽めのツーサイドアップを作っている。その根元は灰色のヘアゴムで固定されている。ヘアゴムは細く、ほぼ髪にうもれた状態だ。
全体的に灰色のコーディネート。
「エセ喪服よ」
地面の芝生をパンプスの底でこすりつつ、かすかにソーラが笑う。
「あなたと違って、わたしはずっと喪服では、いられない。でも、きょう母の遺髪と対面するなら、それに弔意を示したい。とはいえ実際の葬式は済ませてあるから、ガチガチの喪服でいけば母を二度殺すことになりそう。結果、折衷案として黒を薄めた灰色にしたってわけ」
彼女は軽やかに芝生の上をはねた。
僕と同様、荷物は持ってきていない。
「やや浮かれた格好なのも、しんみりした姿で母と会うのが嫌だからよ。まあ、お母さんへのメッセージね。『わたしは元気に生きてます』っていう」
「そう、かっ!」
ソーラにあいづちを返そうとしたとき、僕は語尾を荒らげた。
このタイミングで、額の表面で転がしていたデリングリンが、急に熱くなったのだ。
もうすぐ魔法装置が発動し、僕の存在が一瞬だけ抹消される。その合図である。
「ソーラ! 赤巻紙のひもを手放すな! そろそ
ろデリングリン。え?」
見ると、僕の手の平と額にはさまれた部分から、黒いかけらが落ちていた。
視界の中央に、小さくなっていくソーラが映る。あお向けの状態で、パンプスの底をこちらに向けている。彼女が奥へと遠ざかる。
「青巻紙!」
考えるひまもなく、とっさに僕は唱えていた。
ひらいた巻紙の表面に右手を接触させる。白紙に浮かぶ「滞空」「指定」の字をなぞり、「推進」に指をすべらせ続け、空中移動で彼女を追う。
ここは教室棟の中庭。前方に飛べば建物に激突する。
しかし僕はソーラを信じてその方向に向かうしかなかった。
突如として消えた所有者の代わりのもとに向かうべく、赤巻紙は障害物を素通りする、一種の無敵状態で飛んでいる。巻紙のひもをつかむソーラも、その状態を共有する。よって教室棟の壁や窓もすり抜けるかたちで、ソーラと巻紙は動いていた。
巻紙が教室棟から出ようとする一方で、進行方向とは反対に彼女はワープし続け、僕のほうに戻ろうとしている。
中庭に面する窓のあたりで、ソーラはなんとかとどまる。上半身が屋内に、下半身が屋外に出た格好だ。
ここで彼女は寝返りをうつように体を回転させ、うつ伏せの体勢になった。
直後、瞬時に一メートルほど左へワープ。体の位置を調整したうえで顔を僕のほうに向け、右手を後方にぐっと伸ばす。
窓にぶつかる直前、僕は左手を思いきり前方に出した。
そしてソーラと僕が互いの手をわしづかみにした瞬間、僕たちは窓を抜け、ベージュの壁を通過し、ダークブラウンの教室を通り抜け、教室棟の外に出た。
その先に待っていた白い壁もすり抜けて突破し、黄土色の砂漠の上を飛ぶ。
僕とソーラが戦い、協力関係を結んだ地、カディナ砂漠である。
「壁の閉鎖魔法まで貫通できるなんて驚きね」
飛んでいく赤巻紙のひもを左手につかみ、右手で僕の手を持つソーラ。
僕は彼女の右斜め後ろを飛ぶ。
赤巻紙の移動には勢いがあり、風圧に似た力が前方から発生している。これ以上、前に出るのは難しい。
ともあれ、ソーラの右手と僕の左手は、つながった状態。
二人とも、腹這いの格好である。赤巻紙に連れられて空を水平に進んでいる。
「青巻紙・封」
はなさないよう注意しながら、僕は片手で青巻紙を腰のベルトに戻した。
「ソーラ、ひとまず僕たちの計画は成功したようだ。気付いたら『無』すら感じるひまもなく、デリングリンは、くだけていた。どうやら役目を終えたらしい」
「わたしが前に言った二つの不確定要素『巻紙が死を認識するか』『再出現したあなたに気付くか』についても問題なかったみたいね。アロンがデリングリンで消えた瞬間に、赤巻紙はそこに死を見て即座に動いた。また、あなたが再び現れても、巻紙は依然として飛び続けた」
「僕に直接ふれられない限り、このまま赤巻紙は虹巻紙の現所有者のアリアンを目指して進む。僕たちには、あたりの砂すら当たらない。あとは一直線だ」
「でもアロン、上手くいったわりには変じゃない?」
彼女は首を回し、前後と左右を見渡した。
どこもかしこも黄土色の砂ばかりだ。
「わたしたち、いつまでカディナ砂漠の上を飛んでいるの。確かに今のスピードも速いとはいえ、目的地が地の果てでも一時間で到達できるんだったわよね。それなのにまだ砂漠を抜けないのは、ちょっと悠長な感じがする」
「とすれば、アリアンの本拠地は意外と近くにあったのかもしれない」
僕は後ろに視線をやった。
すり抜けた白い壁は、すでに地平線の向こうにほとんど消えている。
その壁の上に広がる空に、学園の透明塔がたたずんでいる。天から地までを縦につらぬくそれを目に入れたのち、僕は視線を前方に戻した。
「そういえば僕がファカルオンに入学した理由を君に伝えていなかったね」
「それ、今する話かしら。まだ眠いの?」
「もう目は覚めた。これからアリアンとの最終決戦だ。気持ちの整理をしておきたい。前に、君は学園に入ったわけを『単純に強くなりたかったから』と言っていた。でも僕のほうは入学理由を教えていない。聞きっぱなしじゃ、寝覚めが悪い」
「だったら勝手に話せば?」
ソーラは僕のほうを見ず、赤巻紙の進行方向に目を向けている。
猛スピードの僕たちが飛んでいるにもかかわらず、真下の地面は砂を派手に巻き上げることなく、ほどほどに風に吹かれている。
「僕は『鏡の巨像』の手がかりを求めてファカルオンに来た」
ここで言葉を切ったが、ソーラは反応を返さない。
「目当ては学園にそびえる『透明塔』だった。あそこには世界中のあらゆる情報が保存されていると聞いた」
「わたしも、それは知ってたわ」
彼女は右手に力を込め、僕の左手を強くにぎった。
「だけど透明塔は、風の動きを言葉としてとじ込め、データ化しているらしいわね。その特殊言語の解析ができるのは『空調魔法』を使える学園長だけ。だから実質、わたしたちが閲覧することのできない情報の集まりよ」
「僕は入学したあとに、その事実を知った」
自嘲気味に口角を上げる。
「でも失望のなか僕は君の名前を聞いた。前回のダカルオンの表彰式で、クラレスというファミリーネームを耳にした。『まさか』と思った」
「それでこちらの素性を調べて、アリアンの一人娘というのも突き止めて、情報を引き出すためにわたしをカディナ砂漠に呼び出したというわけ」
納得したようにうなずいたソーラは少しだけ僕のほうに顔をかたむけた。
横顔の、赤い瞳がきらめいた。
「そうして、わたしたちが始まったのね」
ちょうどそのとき、赤巻紙の進む向きが変わった。
水平ではなく、下に向かい始めたのだ。
僕たちの高度は徐々に下降し、黄土色の砂漠に腹部が当たりそうになる。もちろんその砂も僕とソーラをすり抜けるが、次の瞬間、僕たちは砂のなかに吸い込まれた。
赤巻紙が真下に落ちていく。
日の届かない、砂でうめつくされた空間。そのはずだが、ここを通過するあいだも僕とソーラは会話を交わすことができた。
「決まりだ。アリアンはカディナ砂漠の地下にいたんだ。でも、まさかこんな近くに」
「そのようね。思えば、ファカルオンの男子寮の寮長クーゼナス・ジェイがアリアンの虚像だとすれば、その虚像を現出させている本人が学園の付近に潜伏していても不思議じゃないわね」
ソーラと僕の体は、うつ伏せから逆立ちの状態になって、赤巻紙に引っ張られていく。
逆立ちのまま地下深くに落ちる一方で、頭に血がのぼるなどの症状は僕にもソーラにも出ていないようだ。
そして周りは、真っ暗。カディナの砂の特徴である黄土色も、斜め前のソーラの姿も赤巻紙もまったく見えない。
とはいえそのなかにあっても、僕の左手につながっているソーラの細い指とやわらかい右手の感触だけは確かだった。
「アロン。この手はアロンの手よね。ちなみにあなたがにぎっているのは正真正銘ソーラ・クラレスの手だから安心しなさい」
「こっちも正真正銘のアロン・シューで間違いない」
「わたしたち、どこまで落ちるのかしら。地中のマグマに当たったりしないわよね」
「アリアンも人間だ。だから彼の本拠地も、人間が生活できる環境にあると思う」
僕はここで少し考え、付け加える。
「もしマグマにぶつかるとしても、今の僕たちはその影響を受けずにすり抜けるから安心してほしい」
「なにそれ、無敵じゃない? 砂漠でわたしと戦ったときやダカルオン本戦で、どうしてその技を使わなかったのよ」
「無敵状態は、巻紙が所有者を失ったときにしか発動しない」
「普段は無敵ではないのに持ち主がいなくなった途端、なにもかもをすり抜けて誰かのもとに飛んでいくなんて。ずいぶん、さびしがりね、あなたの巻紙」
「いや、本当にさびしがりなら近くで飛んでいる僕にも気付く。今まで一緒にいたんだから」
僕は暗闇のなかで首を横に振った。もちろんソーラには見えていない。
「しいて巻紙に意思を想定するなら、きっと『彼等』は『長いものには巻かれろ』くらいの気持ちで所有者を選んでいる」
「ちょっと上手いわね」
クスリと笑う声が聞こえた。
「気が抜けるわ。アリアンとの決戦前だっていうのに」
「僕は真面目に言ったつもりだ」
「そう。緊張感は大事よね。だったら、わたしも気持ちの整理をしておこうかしら」
普段だったら話さないけれど暗闇のなかは退屈だから、とソーラは前置きする。
「ふと思うことはない? 『なんで自分は今こうしているんだろう』って」
「ある。自分の進んでいる道が本当に正しいのかわからなくなるときが」
「そんなときは自分の行動原理を思い出してみるの」
ソーラの右手の親指が、ぐっと僕の左手を押す。
「わたしの行動原理は、『負けたくない』というシンプルな感情。ダカルオンで頑張ったのも、アリアンから母の遺髪を奪い返そうとしているのも、敗北したままで終わりたくないから」
「君は負けず嫌いだからね」
「筋金入りよ。初めての敗北感は、物心ついて自分の頭に気付いたときだった。生まれながらにわたしには髪がなかった。医者によると一生、生えてこないらしいわ。わたしの毛髪は、まつげと眉だけってこと」
彼女は僕の反応を待たずに続ける。
「そのころは自分を恥じていた。一応、頭には家族のくれた『かつら』をつけていたけれど、この秘密がみんなにばれたらどうしようと思いながら、ずっとおどおどしてた」
ここでソーラが短い吐息をはさみ、口調をやや落ち着かせる。
「だけど当時、家族以外でわたしの本当を受け入れてくれる人もいた。その一人が、村外れに住んでいたおばあちゃん。普通のおじいちゃんと、のほほんと暮らしてた。おしゃれな人で、かつて銀髪だった自分の白髪を鎖骨くらいまで伸ばして、毛先を内側にカールさせていたの」
「それって」
ケルンストで僕のスーツを修理してくれた店主も年配の女性だったが、あの人の髪はカラフルだった。どうやらソーラが思い出しているのは、別のおばあさんらしい。
「彼女はわたしに言ってくれた。『素敵じゃないの。ソーラちゃんの頭は誰よりもきれいだわ』と。この言葉を聞いたとき、あたりの景色が、ちょっとだけ明るくなった」
そしてソーラが声をはずませる。
「わたしが遊びに行くときは決まって、おばあちゃんは家のオーブンでクッキーを焼いてくれた。甘くはないけどサクサクしていて、おいしかった。そのあとは、透明になれる彼女の魔法を使って、かくれんぼ。鬼は、いつもわたし。楽しかった、それだけで楽しかった」
が、はずんだ声色も次の言葉で厳しい調子に変わる。
「その日は、驚くほど簡単におばあちゃんが見つかった。オーブンの近くで倒れていたの。透明ではない状態で。おじいちゃんが急いで医者を連れてきてくれたけど、『彼女はもうじき亡くなる』と医者は語った」
あいづちをうつこともできず、僕は言葉を聞き続ける。
「ベッドにすがりつくわたしにおばあちゃんは優しく言った。『ソーラちゃん、わたしの髪、全部もらってくれる?』って、わたしの頭をなでながら。『お気に入りの髪なの。だからあなたにあげるわ。普段のソーラちゃんも素敵だけれど、きっとこの銀髪も似合うはずよ』って」
つながっているソーラの手が、わずかに左右に揺れる。
「彼女が亡くなったあと、おじいちゃんが知り合いを訪ねて、遺髪をかつらに仕立てなおした。彼は、それをわたしにくれた。伴侶の遺言だからと言って。わたしはその場でおばあちゃんの遺髪を頭にかぶった。鎖骨じゃなくて胸くらいで毛先が揺れていた」
当時は今より頭も小さかったからとソーラは補足する。
「このとき白髪が銀髪に変わっているのに気付いた。『かつての彼女に似た輝きだ』とおじいちゃんは泣きながら言った。銀髪のわたしは、おばあちゃんと同じように透明になることもできた。ほかの人が彼女の髪をかぶっても、その魔法は使えなかった」
「君だけが」
「ええ。毛がないからこそ、遺髪に宿った故人の魔法が直接わたしに流れ込むんだって。透過の魔法は、彼女そのものなの。銀髪をかぶると、クッキーのサクサクとした食感やかくれんぼの楽しかった記憶を思い出す」
数秒間だけ黙ったあと、はっきりとソーラが口にする。
「わたしがソーラ・クラレスだったから、わたしの上で、おばあちゃんの髪が生きている。それを恥じるのはわたしだけじゃなく彼女への侮辱にもなる」
ソーラの右の五本の指が、僕の左手を揉むように動く。
「物心ついたときに感じた敗北感は、つるつる頭に対してのものだと思ってた。でも本当は、つるつる頭を恥じていたことに対する敗北感だった」
「敗北の意味合いが変わったのか」
「彼女の銀髪をかぶったその日から、わたしは自分を誇ろうと決めた」
その瞬間、闇の向こうでソーラの赤い瞳が輝いた気がした。
「自分は人と違うからと卑下しておどおどする――そういったことをやめた。あの敗北感に、もう飲まれたくなかった。あらゆることに負けたくないと強く思った。自分が自分として生きるために強くなりたかった。わたしは遺髪だけでなく故人から魔法も受け取った」
僕の手を、彼女は下に向かって引っ張る。赤巻紙の飛ぶほうへ。
「わたしはわたしが受け継いだ遺髪に恥じない魔法使いになりたいし、なってみせる」
「それがソーラ・クラレスの行動原理。これからのビジョン」
「別におどおどすること自体が悪いとは思ってない。これがわたしの生き方ってだけ」
彼女の指から、とくん、とくんと脈動が感じられる。
「銀髪に加えて黒髪のぶんも合わせ、全力で自分を肯定するためにわたしは生きる。あなたはどう、アロン・シュー」
「僕は虹巻紙を取り返したい。でもアリアンとは関係なしに、僕は巻紙魔法を高めたいし、極めたい。巻紙は先祖代々受け継いできたものだ。それを僕のものにしたい」
「どうして」
「最初は義務感だったのかもしれない。だけど君と戦い、君の生き方にふれて気付いた。僕も負けず嫌いだ」
「じゃあわたしの真似でもするの」
「いいや。僕は勝ちでも負けでもない別のものを見つけたい。そのために勝つ」
「矛盾とは思わない?」
「勝たないと見渡せない景色もある」
「それについては同感ね」
「僕の巻紙には文字が羅列されている。でもこれらの字は『火』や『水』や『雷』といった客観的な意味合いにすぎない。巻紙に意思はない。『勝て』『負けるな』なんて言葉も、どこにも書かれていない。だから常に所有者自身が魔法の使い方を考えるしかない」
そう言って僕は左手で、あらためてソーラの右手をぐっとにぎる。
「なぜだろう、考えていくと父さんを思い出す。僕の父は厳格な人だった。寡黙でもあった。でも必ず母さんや僕を守ってくれた。四歳のころ僕は母と一緒に誘拐されたことがあるんだけど、そのときも父に助けられた」
そういえば家族について彼女に語るのは初めてだ。
「父は当局の人たちと共に、犯人の居場所に乗り込んだ。相手の持っていた武器を焼き、犯人をしびれさせ、あっという間に拘束した。そのあとで冷たい水を出し、母と僕に飲ませてくれた。それだけのことだよ。だけど僕はその日の水の味を、どうしてか忘れられない」
思い返せば僕の父は、巻紙の三色同時発動も軽くこなすような、すごい魔法使いだった。
「そんな父の影響を受けているかはわからないけれど、ここに僕の行動原理があるように感じる」
ごくりとつばを飲み、僕は言いきる。
「僕は巻紙を自分の確かな意思で用い、守りたいものを守れる魔法使いになる」
今まで出せなかった答えが、のどの奥からするりと出てきた。
ソーラは僕の手を同じ力加減でにぎり返した。
しかし声だけは優しかった。
「悪くないわね、あなたの行動原理も」
彼女がそう口にした瞬間、暗闇が突如として明るくなった。
巻紙の無敵状態のためか、目がちかちかするなどの影響はない。
やはりソーラと僕は右手と左手をつないだまま赤巻紙に引っ張られていた。
頭を重力方向に倒し、真っ逆さまに落ちていた。
周囲は黒い石の壁。その壁自体がほどよく発光し、照明としての役割を果たす。
「さっきの砂の空間を抜けたみたいだね」
振り返って上を見ると、黒光りする石の扉が天井全体をおおっていた。
そして赤巻紙のスピードが落ちてきている。
無敵状態の巻紙は次の所有者候補に近づくたび、確実に受け取ってもらえるよう移動速度を下げる性質を持つ。
「ソーラ。もうすぐアリアンの居場所に着く」
僕たちの落下にともない、周りと下の壁が明るくなる。今のところ底のほうは照明がついていないようで、まだ暗い。
再び天井を見上げると、その付近の空間が闇になっていた。どうやら通過してしばらくすればあかりは消えるらしい。
壁の表面は磨かれたようにつるつるで、三方から僕たちを囲む。
この空間を横から切れば、一辺十五メートルほどの正三角形が断面として表れるだろう。どこまで落ちても、かたちに変化はない。
「アロン、ここで赤巻紙の無敵状態をといたら、どうなるのかしら」
「ちょっと調べる」
青巻紙をひらき、そのはしを右わきにはさんだあと、「水」と「弱化」の字をなぞる。そうして生じたものを僕は空間内にほうり投げた。
さらに「下降」「推進」を重ねる。水の落ちるスピードを僕たちの落下速度に合わせたうえで、様子を見る。
「地下深くにまでもぐったようだけど、周辺の気圧に問題はないよ。地上とほぼ同じ」
「よくわかるわね」
ソーラが前方もとい下方から右の横顔を向ける。
ハーフツインの黒髪の揺れをちらりと目に入れ、僕は水を右手でつかんだ。やはり障害物と認識しなければ、無敵状態でも普通にさわれる。
「弱化させた水のつぶれ具合を観察することで、おおよその気圧は測定できる。ふれることによって、あたりの温度もわかる。常温と言っていい」
手の平に余った水を少量だけ、なめる。
「空気中に毒らしき成分はない。酸素はあるみたいだね。まあアリアンのいる場所に通じていることを考えれば、人にとって都合のいい環境であってもおかしくない。青巻紙・封」
「つまり無敵状態が解除されても安全ってわけ。ん?」
ここでソーラが全身をふるわせ、下方の闇に視線を戻した。
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