第六章 開幕ダカルオン
ソーラとの特訓が始まって以降、僕は巻紙の常時発動の訓練を重ねた。
文字をなぞらないときも封をせず、授業中も、その合間も、食事中も、寮でリネンのパンツとシャツを着ているときも、ベッドで眠るときも、巻紙をひらいたままにした。
授業を妨害しているわけではないので先生たちはそれをみとめてくれたし、ルームメイトのハフル・フォートも「気合い、入ってんじゃん」と笑って許してくれた。
「そもそも俺がおまえを邪魔するなんて、ありえないっての。俺のこの自慢のカーキ色のブーツも魔法で出してるものだしな。おまえも、どんどんさらしていこうぜ」
こんな彼の言葉も僕のささえになっていた。
長時間の発動は疲れるとはいえ、寮のシャワーを浴びれば疲労はじゅうぶんに抜けた。シャワー室でも僕は巻紙をひらいていたが、事前に青巻紙の「防水」をなぞって、巻紙自体が濡れないようにしておけば問題ない。
ただ、シャワーの水が「たすけて」といった文字列をかたどることは、もうなかった。
ちなみに寮長のクーゼナスは、僕とすれ違っても相変わらず普通のあいさつをするばかり。ケルンストでの一件が、まるでなかったかのように接してくる。
* *
グラウンドでの特訓も続く。
二日目。青巻紙の常時発動を継続させつつ、文字をなぞって通常の魔法も行使する。
三日目。「滞空」での受け身をスムーズにおこなえるまでソーラの攻撃を受け続ける。
四日目。青巻紙と共に赤巻紙もひらいたままにし、その状態を維持する。
五日目は空中浮遊を鍛える。赤巻紙もひらきながら、青巻紙の「滞空」「浮上」「下降」「推進」「指定」の字をなぞり、空中を飛び回る。
ソーラもワープによる空中移動が可能である。僕の飛行はまだ荒削りとはいえ、連携をとる前提で最低限の空中移動は身につけておく。
六日目、青巻紙を発動させた状態で赤巻紙の魔法を使用する。
七日目、赤巻紙にいったん封をし、黄巻紙を常時発動に切り替える。
八日目、空中を移動しつつ黄巻紙の文字をなぞる。
九日目、三色の巻紙をすべて同時にひらこうとするも、失敗。
僕の意識が飛びそうになった。
これは断念し、赤巻紙と黄巻紙を素早く切り替える練習をくりかえす。
そして十日目。
(特訓の最終日。過酷な内容になるだろう)
僕は覚悟してグラウンドに来た。
しかしソーラが提案した最後の特訓は、意外なものだった。
「イメージトレーニングよ」
実践的な特訓メニューはすべて消化したから、あとは具体的なビジョンを持つことが大切と言う。あしたの本番に備え、体や魔法の力を休める意味もあるらしい。
ゴムチップで舗装されたグラウンドに腰を下ろし、彼女はゆっくり口を動かす。
「リラックスした体勢で。まぶたをとじて。周囲の音やにおいを遮断して」
彼女はトレーニングウェアからウインドブレーカーを脱いで、タンクトップ姿になった。
タンクトップの色はエメラルドグリーンよりも白のほうが強かった。
僕はスーツのネクタイを締めなおし、彼女の近くに座り、目をつぶる。
「勝つビジョンを思い浮かべるのか」
「そう。でも、ただの勝ちじゃだめ。なんとなく勝つと思うだけだと、対戦相手や環境を自分にとって都合のいいものとして設定する。弱い相手、有利な環境、苦労もせず活躍する自分とかね。結果、自信満々で本番に臨んで、現実にうちのめされ、呆然としているうちに負ける」
そんな彼女の言葉と共に流れてくるレモンの香りを吸わないようにしながら、僕も思考を整理する。
「つまり強い相手と不利な環境を乗り越え、相応の努力を払ったうえで自分が勝つところを思い浮かべる」
ここで暗闇のなか、首を横に振る。
「いや、あまりに強い相手と極端に不利な環境を想定すると、どんなに工夫して頑張っても無駄だと思い込んで、無力感につぶされる。イメージすべきは、このぎりぎり」
「努力の方向を間違えないことね」
ソーラの鼻孔から息が漏れる音が聞こえた。
「たとえば『北に五十キロ進む』という目標を立てたとする。でも目指すべき方向を見据えずに東に向かえば、頑張って時速五十キロで進んでもずっと目的地にたどり着けない。対して最初から北をしっかり見ていれば、十分の一のスピードでも、いつか必ずゴールに到着する」
「僕たちはダカルオン優勝を目指して、純粋な戦闘力と乱戦における対応力を高めた。しっかり目的地に向かうことができている」
少し黙ったあと、言葉を続ける。
「青巻紙の常時発動による空中移動は乱戦においてのアドバンテージ。赤巻紙と黄巻紙を切り替えることで、だいたいの相手にも対応できるようになった」
僕は目をとじてグラウンドに座りながらも、青巻紙と赤巻紙をひらいたままにしていた。
これまでの特訓のおかげで、その状態にも、だいぶ慣れた。疲れなくなったわけではないものの、疲労は最初期の半分以下に抑えられている。
「巻紙の常時かつ同時発動は僕の魔法の力を底上げしてくれたと思う。君の攻撃に受け身をとり続けることで防御力も強化された。飛行の習得と巻紙の使用方法の改善により、攻撃のバリエーションが増加し、その威力も上がった」
「しっかり自己分析ができてるじゃない」
「これもソーラが特訓に付き合ってくれたおかげだ。あらためて礼を伝えたい」
「わたしはわたしの目的のためにあなたを利用してるだけよ」
「知ってる。お互いさまだ」
「そう。だったらわたしからも、ありがとうと言わせてちょうだい。わたしもこの十日で自分の課題を見つけ、それを克服して強くなれた。アロンのおかげね」
「一律に魔法を体系化して教えることは不可能」
「急になんの話よ」
「個人によって魔法の特性が違いすぎるせいで、統一された魔法教育を学園側もおこなえない。結局のところ自分の魔法を高められるのは自分だけ。そう思ってた」
僕は、自身のひざを音もなくたたいた。
「ファカルオンの先生たちは規格外だから例外としても、それ以外の人と魔法を高め合うことなんてできないと僕は思い込んでいた」
あごを上げ、目をとじたまま、ソーラがいると思われる方向に顔を向ける。
「でも互いにアドバイスしたりぶつかったりすることでも、人は強くなれる。そのことに僕はやっと気付けた。言葉にすれば、当たり前のようにも聞こえるけれど」
「今さらね。そもそもファカルオンの校訓が『君を極めろ』であって『自分を極めろ』でないのは、自分で自分を見るだけじゃなく、誰かから『君』といった二人称で見られることも大切だというメッセージも込めているから、とわたしの担当教員が言ってた」
「いい先生だ」
「だけど、最終的に自分を高め、極められるのは自分だけというのも間違いじゃない。他人のアドバイスをどう活かすかだって自分次第。誰かから言われたことがいつも正しいとも限らない。それで失敗しても誰にも責任を求めることはできない」
ソーラのすずしい声に、熱がこもる。
「決意し、実行し、勝利するのはわたし自身」
それから僕たちは、グラウンドに座したまま沈黙する。
まぶたの裏側の暗闇。その向こうに映るのは、僕たちを除いた二人一組のチーム。総数は二十九。
なかにはハフルの姿もある。彼はカーキ色のブーツでグラウンドを蹴る。
ハフルも僕たちと同様、先月の始めに入学しているから同じブロックになるのは確実。
どうしてルームメイトを思い浮かべたのか。
ハフルが「強い相手」だからだ。
ソーラが二位で表彰され、僕が敗退した前回の徒競走形式のダカルオン――そのときの優勝者の名前こそ、ハフル・フォートなのだ。
* *
いよいよダカルオン本番当日。
格好はいつもと同じ。黒いスーツに黒いネクタイ、黒いフェイクレザーの靴。髪型はウルフカット。腰のベルトには、赤・青・黄の巻紙。
さらに、ブリーフケースを持っていく。
ただ、ダカルオンに参加する前にやることがある。
その日、僕は早起きした。集合場所の第一グラウンドに行く前に、サイフロスト先生の研究室を訪ねた。
青緑のさびにおおわれた銅製のドアの奥にある、赤茶けたレンガで囲われた地下の部屋。
すみにともったかがり火が、四方を照らす。壁際をうめつくす銅の器物が、あやしく光る。
「君のノックの力加減を感じるのも久しぶりのような気がします。アロン・シューさん」
ここ十日間、僕は先生の研究室のドアをたたいていなかった。ソーラとの特訓のため、グラウンドに通い詰めていたからだ。
先生はレンガのゆかに腰を下ろしている。
人形のように整った顔立ちと緑の瞳を僕に向ける。
つばの広い黒のとんがり帽子の下に、ダークブラウンの髪がのぞく。毛先のやや乱れたボブカットが、ふんわり揺れる。
足首まで届くローブのすそから伸びた、ぶかぶかの黒靴下がごそごそ動いた。
「きょうのダカルオンの開催時刻まで、まあまあ時間がありますね」
「その前に、先生に巻紙魔法を見てもらいたいんです。最近はご無沙汰していましたが、ずっと仲間と特訓していたんです。でも今の僕があるのは先生のおかげでもあります。それなのにサイフロスト先生を無視してダカルオンに臨むのは、すっきりしなくて」
「アロンさん。以前よりもっと、やる気に満ちあふれています。よいことです」
けだるげに先生は目をこする。
「見せてください」
「はい。青巻紙・赤巻紙」
ブリーフケースをゆかに下ろし、巻紙の字に指を置く。青巻紙の「滞空」「浮上」「指定」「推進」により空中を移動し、赤巻紙により「火」を発生させる。すかさず「赤巻紙・封。黄巻紙」と唱え、今度は黄巻紙の「帯電」をなぞり、その状態を火に付与する。
バチバチとはじける火の玉に、青巻紙の「水」をかぶせる。
それを見て、サイフロスト先生は、やはりけだるげに拍手する。
「立派なものでした」
緑の瞳をやや細め、微笑する。
「同時発動も手慣れていますし、巻紙同士の切り替えにも無駄が見られません。しかも空中に浮かぶだけでなく、自在に飛ぶこともできるようになったのですね。間違えれば天井や壁のレンガやわたしの銅のコレクションにぶつかってしまいそうなのに、それもありません」
さらに先生は、僕の目の前に浮かぶ青巻紙と黄巻紙を見つめる。
「そしてアロンさんは、同時発動を安定させるだけでなく、巻紙をひらく時間そのものを延長することにも成功しているのでしょう?」
「どうしてわかるんです」
「魔法の力が微増していること。一回の魔法について力のリソース配分に無駄がなくなったこと。これらの事実は、君自身が魔法のポテンシャルを引き出し、かつ長時間の力の発動を想定するようになったことを示しています」
「さすがです、先生」
「もう一つ。君は無意識に魔法を使うことも覚えましたね。わたしと話しているあいだも君は青巻紙をなぞって『滞空』を続け、浮遊する位置を一定に保っています。すごいです。こういうとき先生が言うべきことは、あれですね、たいへんよくできました」
「ありがとうございます。たくさん練習したから、体が覚えたんだと思います」
僕は青巻紙の「下降」をなぞり、ゆかに靴底をつけた。
「青巻紙・封。黄巻紙・封」
ひとまず巻紙をとじる。本番に備え、魔法の力を温存する。
先生は僕の三色の巻紙を見ながら、両手を自身のほおに当てる。ローブに隠れたひざに、ひじをつく。
「すっきりできましたか」
「はい。あらためて、ありがとうございました。では頑張ってきます」
「ちょっとだけ待ってください。まだダカルオンには間に合うはずです」
先生は、わずかに口を動かし、唱えた。
「ドール・イン・ピース」
壁際をうめつくしていた銅の器物の一つが、ごとりと動く。
それは銅のつぼ。なかに蓄えられていた一枚の「銅貨」が空中を移動し、先生の前に音を立てて落ちた。
青緑色のさびでおおわれた、直径三センチの円だ。
「いまだググーが経済に浸透していなかった時代に使われていた貨幣です。今だとなんの価値もないと言われますが、わたしの目には宝のように輝いて見えます」
次の瞬間、銅貨のさびがはがれる。銅本来の赤い素肌があらわになる。
ついで青緑色のさび「ろくしょう」が、一つの立体に変化する。
(サイフロスト先生のろくしょう魔法か)
あっという間にそのさびが、人間の上半身をデフォルメした人形になった。
ろくしょうで出来た人形は高さが五センチ程度だった。
胴体は四角錐。頭部は球形。四角錐の斜面の左右から、腕を模した円筒が斜め下に突き出ている。
レンガの上にたたずむ人形の頭を、部屋のすみのかがり火が照らす。そこに顔はない。いわゆる、のっぺらぼうである。
「アロンさんは気付きました」
先生は人形を赤い銅貨の上に置き、その頭をつついた。
「人の体の多くは水分で構成されます。したがって水をあやつる君の青巻紙の対象にもなりそうです。たとえば自身に『滞空』を発動させれば体内の水が反応し、使い手自身が宙に浮きます。でも君は、『それ以上』のことは考えませんでした?」
ここでサイフロスト先生は、自身のとんがり帽子を片手で揉みだした。
そのなかにはクッションがつまっており、深く考えるときに先生はそこを揉む。
もう片方の手で、人形をつつき続ける。
「自分の体内の水を対象にできるなら、他者の体内の水も対象にできるんじゃないか。そういう発想に至りませんか」
「それで別の誰かを空中に浮かすこともできると」
「善良ですね、アロンさん」
緑の瞳を上目づかいで僕に向け、先生は人形を指で倒した。
「たとえば誰かを指定して青巻紙の『膨張』をなぞれば内部からその人の体は爆発するのか。『収縮』なら体内の水分量を減らし、血液の流れをとめ、死に至らしめることができるのか。そんな可能性を考えたりしません?」
この言葉を聞いた瞬間、僕は左右の手の平に冷や汗がにじむのを感じた。
「サイフロスト先生の教える一般教養の科目は『倫理』でしたね。もしかして、それと関わることですか」
「その前に実験しましょう」
とんがり帽子から手をはなし、人形を再び銅貨の上に立てた先生は立ち上がって、壁際のコレクションをあさった。
そして青緑色のさびでおおわれた、なべらしきものを持ってきた。
なかには水が入っている。
続いて先生は人形の頭部を外した。
「内部は、からっぽです」
頭を失った胴体。その頂上は微妙に切り取られていた。切り口が一個の穴となり、内部の空洞に続いている。その穴に先生は、なべの水を流し込んだ。
最後に、胴体の頂上に球形の頭部をはめなおす。頭部に相当する球体には、胴体にはめ込むための穴があけられていた。
「アロンさん、この子を対象にして『膨張』を発動させてもらえますか。壊しても構いません」
立ったままの先生を見て、僕は青巻紙を再度ひらいた。
しゃがんで人形に近づき、「指定」「膨張」の字をなぞる。
「なにも起こりません」
「では次の実験です」
先生は人形を拾い上げ、空洞に入れていた水をなべのなかに戻した。
そして頭部を外した状態の人形を、もう一度銅貨の上に置く。
「君の水をそそいでください」
指示に従い、僕は青巻紙から「水」を出し、人形の内部をそれで満たした。
うなずいた先生は、青巻紙の水でいっぱいになった胴体に頭部をはめ、人形から少し離れた位置に立った。
「さっきと同じことをしてみましょう。君も離れたほうがいいですよ」
僕も立って少し後退し、「指定」「膨張」に指を置く。
すると人形の頭部がぽんと飛び、胴体から水があふれだした。人形の載っている銅貨とその下のレンガが濡れた。
球形の頭部はゆかに落ち、転がった。壁に立てかけられている一本の銅剣に当たって、とまった。
「二つの実験でわかったことを述べてください」
「僕の青巻紙は僕自身の体内の水あるいは巻紙によって出した水にしか効果がない。よって他者の体内の水に干渉することは不可能」
「君は巻紙の所有者です。最初からリンクがある状態なのでしょう」
「とはいえ外部の水をはじく『防水』という例外もあります」
「それも君の述べたルールで説明できます。おそらく『防水』の対象は外部の水ではなく、君や巻紙そのものです。リンクの薄い水に対しての拒否反応を誘発するのが『防水』と思われます。自身に直接『防水』をかけても体液等の性質自体は変化せず、悪影響はないのでしょうが」
しゃべりつつ先生は、なべを元の場所に戻していた。そのあと、ぶかぶかの靴下でレンガのゆかを歩き、銅剣のそばの球体を拾った。
「さて今の実験でわかったことは、もう一つ。君の出した水を相手に飲ませて『膨張』を必要な数だけ発動させれば君はその人を簡単に殺せます。あるいは別の文字列も、似たようなかたちで使用できるかもしれませんね」
「あ」
僕はそれ以上の言葉を出せなかった。
ゆかにあふれた水をさけながら、先生が僕に近づく。
「倫理の補講です」
けだるげな声をやめた先生が、僕の前で足をとめた。
「いいですか。魔法が上達するのは、とても喜ばしいことです。その人がその人自身を極めていくことですから。でも大きくなった力は、誰かを助けるだけでなく、傷つけるためにも使えます。魔法に限ったことではありません。知識や技能、立場なども例外なく」
先生は、とんがり帽子のつばの下から僕を見上げる。
「他人のみならず自分を傷つけてしまうこともあります。君の青巻紙は『滞空』単体をなぞることで自身を浮かしますよね。つまりリンクする水が周辺にない状態では君自身が魔法の対象に選ばれます。そのとき『膨張』『収縮』をなぞれば、君自身が死にます」
僕は絶句したまま先生の話を聞いていた。
「君は今まで青巻紙を使うとき、必ず『水』からなぞっていました。おそらくこれは、君自身の家でたたき込まれたことなのでしょう。水を出していない状態で不用意に別の文字列をなぞると、危険ですので。ごめんなさい、わたしも、もっと早く言うべきでした」
ここで先生は瞳をそらし、僕のそばで浮き続けている青巻紙に視線を移した。
「アロンさんは、いい学生さんです。こんなお説教を聞かされるような悪いこともしていません。でも、わたしは思ったのです。このままだとずっと君にお説教をするチャンスがないまま時間が過ぎて、初めてお説教をする機会が来たとき、君は死んでいるかもしれないと」
そう言って先生は、帽子を目深にかぶりなおし、緑の瞳を隠した。
「君にそうする意思がなくても、約束してください。自分以外の誰かも、自分も、君は傷つけないでください。もし傷つけてしまったら、わたしに言ってください。ファカルオンの教師だとか、魔法使いだとか、そんなことは関係ありません。わたしは、君の先生なんですよ」
「約束します」
僕はようやく言葉を発して、しゃがんだ。ゆかにこぼれた水を赤巻紙で蒸発させようとした。
しかし研究室内に利いている空調魔法により、すでにそれは乾いていた。
青巻紙に封をして、僕は立ち上がる。
それと同時に先生がぺたんとレンガのゆかに座った。
「補講、終わりです」
けだるげな声に戻った先生は、ゆかの上の銅貨に載った人形の胴体に顔を近づけた。
手に持っていた球形の頭部をその胴体に再度はめる。
人形を左手で、赤い銅貨を右手でにぎり込む。そのあと銅貨だけを指ではじき、飛ばし、壁際のつぼのなかに戻した。
「では、全力をつくしてきてください」
「はい!」
僕はゆかに置いていたブリーフケースの持ち手をにぎった。
* *
「おまえ、どこ行ってたんだよ。俺より早く部屋を出といてさ」
ハフル・フォートがカーキ色のブーツで、ゴムチップ舗装の地面を蹴った。
「さては優勝に向けて最終調整か。熱心だな、我が友アロン・シュー」
「まあ、そんなところだよ」
「どんなところよ」
相変わらず軽口を飛ばしてくるハフルに、僕は奇妙な安心感を覚える。
ダカルオン集合時間二十分前。天気は快晴。
すでに第一グラウンドには多くの学生が集まっていた。
服装は自由。各自、思い思いの格好をしている。大半は動きやすい服装。ゼルドルのロゴの入った、エメラルドグリーンのトレーニングウェアを着ている者も二割くらいいる。
ただし「破れてもよく、インナーの見えないもの」という最低限の指定はあり、派手な格好をしている者はほとんどいない。
第一グラウンドは百メートル四方。
そのなかに散らばっている学生たちを見ながら、ハフルが言う。
「強制参加つっても、仮病とかを使ってサボるやつもいるだろうな。本当に病気にかかったり、家庭の事情が発生したりしてマジに参加できないやつも何人かいるとして。俺の見立てだと、ファカルオンの学生三百人中、最終的に参加すんのは、二百八十人ってとこじゃねえかな」
「さすがだ、ハフル。僕はそれを考えていなかった」
「おまえは真面目すぎんだよ。きょうもスーツで決めちゃって、まあ。で、その二百八十人に関しても、全員やる気満々なわけじゃねえ。今回の優勝賞品は自分の存在を一瞬だけ消す装置。利用価値ないし、優勝者が複数出る関係上、もらえる単位も少ないとくる。食指が動かんわ」
僕もソーラも気付いていなかった視点を、彼は、ぽんぽん出してくる。
もちろん誰かのモチベーションの低さをあてにすることはできないが、勝ちにつながりうる要素はできるだけ多いほうがいい。
「ところでハフル、君のやる気は」
「ないね、全然」
「しかし前回は優勝してたじゃないか」
「いやあ、あのころの俺は若くて張り切っちゃったけど、年をとった今になると思うのよ。勝利は、むなしい」
「先月のことだよね?」
僕はハフルの服装を確認する。
カーキ色のブーツに青いジーンズをはき、ジッパー付きの緑のポロシャツの上に薄手の黒いジャンパーを重ねている。
彼の青い目と赤いツイストパーマの髪を合わせると、グラウンドに集まった学生のなかでもとくに派手な雰囲気を感じさせる。
ともあれ僕はあたりを見回し、ソーラの赤い瞳をさがす。
もし二人一組のチームを自由に結成できるなら、早めに彼女と合流したほうがいい。そもそもソーラと僕はチームを組むことを想定して十日のあいだ特訓してきたのだから。
中庭のときとは違い、すぐにソーラは見つかった。
(いた!)
ソーラはグラウンドのはしに一人で立っていた。
僕は手を振ったが、向こうはこちらに気付いていない。
「ごめん、ハフル。僕は少しここを離れ」
「えー、学生のみなさん。聞こえていますか」
そのときグラウンド全体に「彼女」の声が響いた。
学生たちの視線が、声の聞こえたほうに集中する。みんなはあごを上げ、空を見る。
そこに人が浮かんでいる。「彼女」は上空四十メートルの高さに静止し、直立不動の姿勢をとっていた。顔と腹部とつま先を地上に向けている。
彼女は自身の空調魔法により気流や温度を調節して拡声をおこなう。
首から足の先までを厚手の黒いローブでおおっている。その袖は長く、手の中指の先さえ見えない。首元の布地もほとんどマフラーの形状で、あごの下が隠れている。ローブ全体に、シワのようなうねりが無数に刻まれる。そうして出来た模様が絶えず生き物のように動く。
そんな分厚い服の上部から出た顔は小さく、あどけない。
髪の毛は黒に近い紫。ローブと同様、うねりを無数に持つ。ほとんどがローブの下に隠れているため、髪全体の長さは不明。左右の髪の隙間からは小ぶりの耳がちらりとのぞく。
これが、学園ファカルオンの学園長の姿である。
学園長はグラウンドの学生に、濁った紫の瞳を向け、小さな口を動かす。
「本日は快晴にめぐまれて、なによりです。さてみなさん、事前に告知していたとおり今回のダカルオンは強制参加。二人一組のチームで戦います。入学時期により五ブロックに分け、それぞれで優勝を競います」
高い声が落ちてくる。舌足らずで発音がはっきりしないところがあるものの、なぜか聞き取りやすい声でもあった。
「で、その二人一組なんですが、組むのはルームメイトです」
それを聞いてざわつく学生たちに「静かに」と学園長は落ち着いた声音で注意する。
「寮では二人で一つの部屋を共有していますね。同室中の相手と組んでください。入学時期が同じ学生同士をルームメイトにしているので、ブロック分けに問題はありません」
ここで学生たちから質問の手が挙がる。それぞれに学園長が答えを返す。
「ルームメイトと組ませる意図はなんですか」
「親睦を深めてほしいと思いまして」
「なぜ開催直前になって明かしたんですか」
「抜き打ちじゃないと、当日までギスギスする部屋もあるからです」
「強制参加とはいえ、特別な理由でルームメイトがいない場合は?」
「別の余っている学生と組むことをみとめます。互いの入学時期が離れている場合は、その中間を入学時期と見なしてブロック分けをします」
「それでも誰ともチームになれなかったときは、どうしましょう」
「先生と組みましょう。力はセーブさせます」
一通り回答した学園長は、せき払いしてルール説明に移る。
「事前に知らせていたダカルオンの集合時間までに、この第一グラウンドでルームメイトと手をつないでおいてください。ただし一方は右手のみを、他方は左手のみを使用すること」
ここで学園長はグラウンドのほうを向いたまま、左の足先を軸にして体を回し始めた。地上の僕たちから見て、時計回りである。
まるで上空に透明なゆかがあって、そこを腹這いですべっているかのようだ。
「時間までに正式な相手と手をつないでいない人は失格。右手同士、左手同士、あるいは両手でつながっている人も失格。右手と左手をつないでいても、グラウンドから体の一部または全体が出ていたら失格」
時計回りで体を一周させたあとは、軸足を変更し、反時計回りに切り替える。
反時計回りで一周すれば、また時計回りに戻る。
学園長は、そんな動きをくりかえしていた。
「時間が来たら、ちゃんと手をつないでいる人たちの手首に単色のミサンガをつけます。二人のミサンガは同色のひもで結ばれます。その色が、各自の所属するブロックです。競技をおこなうグラウンドはブロックごとに異なります」
あくびをする学生もいたが、学園長はそんなことをまったく気にせず説明を続ける。
「白のミサンガの人たちは、この第一グラウンド。黒は向こうの第二。赤は第三。青は第四。黄は第五。色を確認してから十分以内に、それぞれのグラウンドに移動すること。なお、ミサンガをつけたあとは、互いに手をつないだままにしておく必要はありません」
濁った紫の瞳を一定の間隔でまばたきさせながら、学園長は地上を見ている。
すでに多くの学生たちが手をつなぎ始めている。
みんなの話し声も大きくなる。
もはや学園長の口から、「静かに」といった注意が発されることはなかった。
「さて肝心の魔法競技の内容は、バトルロイヤルです」
どうやら、ソーラの予想が当たったようだ。
「ルールは単純。ミサンガ同士をつなぐひもが切れたら負け。場外に出ても負け。制限時間は設けません。最後まで残った二人が各ブロックの優勝チームとなります。道具の持ち込みおよび使用は自由です。ただし」
学園長は付け加える。
「誰かの心や体に不可逆の傷を意図的に負わせた者は無条件で失格です。当局に突き出します。これはあくまで競技です。戦争やってんじゃないんです。本来、魔法は誰かを傷つけたり優越感を味わったりするためのものではありません。勘違いしないよう」
感情の乗っていない淡々とした言葉を聞いて、学生たちの話し声がぴたりとやんだ。
学園長も体を回すのをやめ、再び空中に静止した。
「まあ老婆心による忠告はともかく、あらためてみなさんから質問はありますか」
「競技に不必要な荷物は」
「いつもどおり学園側で預かります」
「敗退したチームが復活するルールはありますか」
「負けた時点ですぐにグラウンドから出てください。ひもを結びなおすのも禁止です。敗退後、競技に関してのあらゆる干渉をみとめません。魔法によらない声援くらいなら、いいですけど」
「ミサンガ同士を結ぶひもの長さによって、不利になるチームが出てこないでしょうか」
「身長差がある場合は、そのぶんだけ、ひもを長くし、移動や連携に支障が出ないようにします」
「ひもではなくミサンガ自体が切れたり手首から抜けたりした場合は」
「その場合も失格とします」
ここで学園長は質問を打ち切った。
「では、わたしからの話はおしまいです。みなさん、はげみましょう」
彼女の拡声がやむと同時に、グラウンドに集まっていた学生たちが本格的に動きだした。
まだルームメイトと手をつないでいない者は相手をさがす。
グラウンドのそばのベンチに待機している先生たちに荷物を預ける学生も多い。
ルールを確認し合う声が響く。学園長の話が終わってからやって来た者に、一から説明している人もいる。
この場にルームメイトがいない学生たちも、それぞれでチームを組み始めている。
「俺たちも、さっさと手、つないどこうぜ」
先生たちにブリーフケースを預けて戻ってきた僕に対し、ハフルが右手を差し出す。
僕は、その手を取るのをためらった。
「あらためて確認するけど君の利き手は右か」
「いっつも見てるだろ。アロンもだよな」
「実のところ僕は両利きだ。普段は右を使うことが多いとはいえ」
「確かにおまえの巻紙魔法に関しちゃ、両手を自由に動かせるほうがいいもんな」
「ああ。だから君には左手で僕の右手をにぎってほしい。手首をひもで連結された場合、そちらの手の動きが制限される」
「利き手のほうをフリーにしとけって話か。考えてるねえ」
差し出した右手をひっこめたハフルは、すかさず左手で僕の右手をつかんできた。
彼の手は、ほどよくごつごつしていた。
「俺で悪かったな、アロン」
ハフルが僕に、冗談めかした笑顔を向ける。
「学園長の話が始まる前、おまえ、誰かをさがして俺の隣を離れかけたろ。本当は俺よりも組みたいやつがいたんじゃねえの」
「僕はその人とチームになることを想定して、ここ十日間、特訓してたから」
「ここんとこ寮に帰る時間が遅かったのも、そのせいか。ま、人生がいつも思いどおりに転がるわけもねえし、残念だったな」
「いや、そんなことはない。『敵同士になっても全力で』とその人とは約束してあるし。それに」
「なんだよ」
「前回優勝者のハフル・フォートが味方であり敵にいない状況。これが、なにより心強い」
「ちょ、ちょい、照れるだろ」
彼は口角を限度いっぱいまで上げて、青い目を細めた。
「俺さあ」
ハフルの左手の力が抜けるのを感じる。
「正直、今回やる気なかった。賞品はよくわからんし、単位のうまみも少ない。入学して初めてのダカルオンで勝っちまったせいで、俺のこと白い目で見てきやがるやつもいるし。今回は適当に流しとこうかなって思ってた。さっきまでは」
ここで彼は、再び左手に力を込めた。
「だが、おまえから頼りにされちゃあ、そんなことも言ってられんな。やる気が出てきた。満々さ。アロンが今回、なんで勝とうとしているかは知らねえし聞かねえ。賞品も単位も、どうでもいい。ただ」
上体と首をねじり、ぽつりとハフルは言った。
「俺はおまえを勝たせたい」
「ああ、勝とう。ハフル」
今まで僕は、彼のことを陽気な学友と考えていた。
もちろんそれも嘘ではないのだろうが、そんなハフルも心のなかで彼なりに悩んだり葛藤したりしていたのだ。
思いを持ってダカルオンに臨むのは、なにも僕やソーラだけではない。
僕は鼻孔から息を大きく吸い、はいた。彼の赤いツイストパーマとカーキ色のブーツをちらりと見て、心を落ち着かせた。
* *
間もなくして、時間が来た。
ずっと上空に浮かんでいた学園長の黒いローブの左右の袖から、白・黒・赤・青・黄のミサンガが放出される。
それらのミサンガが、手をつないでいる学生たちのもとに落ち、すっと手首にはまった。
二つのミサンガは、すでに同色のひもでつながっている。
僕とハフルのものは白。この第一グラウンドから動く必要はないようだ。
一方、白以外のミサンガをつけた学生たちは、ここから出て別のグラウンドに走っていく。
そして十分後。
学園長は上空四十メートルよりも高い位置に浮き上がり、学生たちのいる五つのグラウンドすべてを見渡せる高度まで上昇し、そこから大きな声を落とした。
「開幕!」
宣言の直後だった。
グラウンドに立つ僕の目の前に、どこからともなく一つのこぶしがせまっていた。
そのこぶしの向こう側に、赤い瞳がきらめいている。
見間違えようがない。
それは、ソーラ・クラレスの目だった。
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