第四章 寮長クーゼナス・ジェイ

 これから述べるのは、僕がおばあさんのお店から出てソーラを待っていた三十分のあいだに起こった出来事だ。


* *


 僕は、ほかに人影のない細い道のはしで、手持ちの懐中時計の針が動くのをなんとなく見ていた。


 そのときだった。

 低く、かすれた、落ち着きのある声が、すぐ近くから聞こえた。


「門限には間に合いそうかね。アロン・シューくん」


 聞き覚えのあるその声が耳に届いた瞬間、僕は時計をジャケットの内ポケットにしまった。


「寮長」


 僕は道のはしに立っている。その反対側にある壁に「彼」が背中を預けていた。白髪交じりのオールバックの金髪とあごひげ。ふちなしの丸めがねをかけた初老の男性。なにより目立つのは燕尾服。男子寮の寮長、クーゼナス・ジェイの姿で間違いない。


 この道の幅は四メートル程度。互いの距離は遠くない。

 彼は道の突き当たりの、パッチワークの壁を横目で見る。


「あちらに声は聞こえない。君も気付いているようだが、布の壁が音を遮断している」

「寮長もケルンストの町に用があって来たんですか」

「いいや、違うよ」


 壁から背中をはなし、彼は僕に一歩近づく。


「君に用があって来た。アロンくん」

「腑に落ちませんね」


 寮長の丸めがねを見つつ、僕は首をかしげる。


「どうして寮ではなく、わざわざ、ここで」

「決まっているだろ、みんなに聞かれたくないからだよ」


「秘密の話ですか」

「そうだよ、君たちは、最近『鏡の巨像』アリアン・クラレスを追っているね」


「え、かが? なんです」

「ごまかす必要はない。ほかのみんなに告げ口したりしないから」


 寮長は、二歩、三歩と接近し、ついには僕の隣に立った。

 くるりと体を回転させ、僕と同じ方向につま先を向ける。

 反対側の壁を凝視して、彼は続ける。


「君はこの前の休日からソーラ・クラレスくんとの距離を縮めている。カディナ砂漠では彼女と会っていたんだろう? そして翌日の、中庭での一件。きょうという休日を使っての外出。門番の二人に聞いたよ、君たちは一緒に正門を出たんだってね」


「スーツの修理に関して、いい店があるというので、彼女にはそれを紹介してもらっただけです。さっき、その突き当たりの店で直してきたところです。ソーラも今、なかにいますよ」


 僕は手に提げたガーメントバッグを、もう片方の手で軽くたたいた。

 しかし寮長は僕ではなく壁を見たまま、言葉を継ぐ。


「別にわたしは若者同士の交際を邪魔したいわけじゃない。ただ、君とソーラくんは、『鏡の巨像』の盗難被害に遭っている点で共通する。君はお父さんの形見の虹巻紙を、彼女はお母さんの遺髪を盗まれた。そんな二人が一緒にやることは一つしかない。アリアンの捜索だ」


 ここで彼はいったん言葉を打ち切り、僕の顔をのぞき込んだ。


 僕は黙って、寮長の足下の影を見ていた。

 道のほとんどは影でおおわれていた。その影のなかに出来た、さらに濃い影を僕は見ていた。


 寮長は、再び壁のほうに目をやり、ため息をつく。


「聞きなさいよ、アロンくん。『なぜ虹巻紙や遺髪が盗まれたことを知っているのか』と」

「寮長だからですか」

「わたしがアリアン・クラレスだからだ」


 彼のその答えを聞くやいなや、僕は反対側の壁に移動し、腰のベルトにくくりつけてある巻紙に指をふれた。


「冗談は、よしてください。寮長」


 僕は彼の丸めがねの奥の、大きな灰色の目に視線を向ける。


「すでに調べてあります。アリアンの瞳は赤なんですよ」


 同時に、僕は彼と目を合わせたまま、こう考えていた。


(それに、あなたが本当のアリアンなら、娘のソーラがすでに気付いている。あなたもずっと男子寮のなかにいたわけじゃないはず。彼女があなたの顔を見る機会は入学後それなりにあったと思われる。でもソーラは僕と協力関係を結んだあとも、あなたについて言及しなかった)


 深呼吸をはさみ、結論づける。


(つまりクーゼナス・ジェイ寮長とアリアン・クラレスの顔は違う。別人ということ)


 対して彼はオールバックの金髪を後ろになでつけた。

 丸めがねのツルに彼の手が当たり、その位置がわずかにずれる。


「アリアンが、なんと呼ばれているか君は忘れていないかね」


 彼の言葉に、僕は一瞬、硬直した。

 しかし、すぐに思い当たった。


「鏡の巨像」

「そうだ、アロン・シューくん」


 彼は両手で、丸めがねの位置を戻す。


「わたしは『虚像魔法』の使い手。それによって若いころ『巨像』を出したことがあるから、この二つ名がついた。まあ巨像なんてそれ以降あまり使ってないんだがね。実際はあらゆる『虚像』を作り出す。たとえば、君と話しているこの体も虚像。影さえ魔法の産物だ」


 その瞬間、彼の足下の濃い影が、ふっと消えた。


「なぜわたしがいつも燕尾服を着ていると思う。イメージしやすいからだよ、存在を。実際のわたしは、ここにも寮にもいない。遠くから虚像を届けている。君が見ているわたしは、声も顔も目も、実物とは違う。当然だろう、『虚像』なんだから」


 彼は首を回しつつ、丸めがねから手をはなした。

 直後、めがねが溶けた。比喩ではなく、本当に。

 もはや、その奥にあるのは灰色の目ではなかった。


 赤い瞳が、きらめいていた。


「これで信じてもら」

「青巻紙・黄巻紙」


 彼が言い終わらないうちに、僕は手に提げていたガーメントバッグを落とし、腰の巻紙二つをひらいた。

 白紙に浮き出た文字をなぞる。


(黄巻紙の「感電」で相手をひるませたところで、青巻紙の「水」「凍結」で完全に動きを封じる)


 サイフロスト先生がアドバイスしてくれた巻紙の同時発動である。


(あれから毎日、先生に魔法を見てもらっていて正解だった)


 感電を受けたクーゼナス・ジェイはよろめいて、石畳に、しりもちをついた。


 僕は、すかさず水を落とす。瞬時に凍結して固める。

 クーゼナスの首から下が、石畳に腰を下ろした状態で、氷塊に封じ込められた。氷の上から頭だけが出た格好である。僕はそんな彼の前に移動し、少し腰をかがめる。


「どうせあなたは盗品の保管場所や本体の居場所は教えないでしょう。よって別のことを質問します。なぜ正体を明かしたんです」


 僕は敬語を続けていた。見た目は赤い瞳以外、寮長と変わらなかったから。

 彼は空を見上げて答える。


「忠告のためかな。『もうアリアンを追うな』とわたしは伝えたかった。だから、わざわざみんなのいないところで君と接触した。しかし寮長として頼んでも、君たちは納得しないだろう。それで自分から名乗り出て、釘を刺そうと思った」

「忠告? 僕たちが心配とでも」


「そうだよ、心配なんだよ。わたしをさがし出せば、君たちは必ず後悔する。おどしじゃない」

「とめたいなら、学園側に告げ口をすれば済むことでは」


「その場合、真偽を確かめるために学園はわたし自身も調査する。都合が悪い」

「じゃあ僕たちが、クーゼナス・ジェイはアリアン・クラレスだと学園に明かしたら? いや、アリアンほどの大犯罪者なら、学園外の『当局』だって動く」


 ここで言う「当局」とは、警察や犯罪捜査を担当する、国際的な組織のことである。


 クーゼナスは、まばたきを連続させたあと、かすかな笑みを浮かべて言う。


「いいや、明かせない。確かにわたしのことを伝えれば、みんな動くよ。しかし今後、君たちは二度と独自の捜索ができなくなる。アリアンは大犯罪者。学生には危ないからね。盗品が見つかったところで、それらは当局で入念に調べられる。返ってくるのは、いつになるか」


 そして彼は上空を見るのをやめ、中腰の僕に赤い瞳を向けた。

 僕は青巻紙と黄巻紙を両手に持ったまま、質問を重ねる。


「アリアンは五年前から活動を停止している。理由は?」

「忠告は済んだ。これ以上は答えないよ」


 かすれた声が、僕の背後から聞こえた。

 振り返ると、そこにもクーゼナスの姿があった。彼は、燕尾服についたほこりをはたいていた。


「アロンくんは最初からわたしを捕らえきれていない。しりもちをついたまま固まったのも、君の緊張をほぐすためにわざとやったことだ。本当は簡単に脱出できる。そもそも虚像だからダメージもない」

「あなたの水道魔法も実は虚像魔法ですか」


「いいや、あれは本物だ。おっと、水道魔法が使える理由についても口をとじさせてもらうよ」

「そうですか」


 さきほどから僕は話しながら、さりげなく黄巻紙の「感電」を何回もなぞっていた。「指定」にも指を這わせ、感電位置を調整した。しかしクーゼナスは、なにごともないかのように立ち続けている。


 ここで彼は右の手の平を上空に向けた。

 すると、天からふちなしの丸めがねが落ちてきた。


 彼がそれをかけなおすと、赤い瞳が灰色に戻った。その灰色が、巻紙をなぞり続ける僕の手を見る。


「不毛なことは、やめたまえ。今のわたしに戦う気はない。きょうの朝、伝えただろう。『はしゃぎすぎないように』と」


 クーゼナスは細い道の出口に向かって、石畳を踏んでいく。

 僕は彼の燕尾服めがけて手を伸ばした。


「ソーラに顔を見せないんですか」

「今までやってきたことを考えれば、親子だとしても真っ向から向き合えない。だから逃げる。わたしからの忠告は、君の口からソーラに伝えてほしい。アロン・シューくん」


 彼は背中を見せつつ、そう語る。

 僕の伸ばした手は、その背中の手前で空をつかんだ。


「君が『いい寮生』のままでいてくれることを願っているよ」


 直後、彼の虚像が霧のように溶けて消えた。細い道から出ることもなく。


 僕はそのあと、道に残された氷のかたまりを赤巻紙で溶かし、蒸発させた。そこに捕らえていたはずのクーゼナスの姿は、もうどこにもない。氷には、穴さえあいていなかった。脱出されたのではなく、元から彼の拘束すらできていなかったのだ。


 スーツも黒靴も傷つきはしなかったが、このときの僕はどうしようもない敗北感を味わっていた。

 だが、これは進展でもある。さがしていた人物がわざわざ向こうから近づいてきてくれたのだから。


 僕は巻紙を腰のベルトに戻して、笑顔を作った。

 石畳に落としていたバッグを拾い、パッチワークの店の壁に再び近づき、ソーラが出てくるのを待った。


* *


「そう、わたしがおばあちゃんの店にいるあいだ、布一枚をへだてた向こうでそんなことが」


 色あせた赤レンガの道を進みながら、ソーラはベレー帽に手を当てていた。


「わたしもクーゼナス寮長を、男子寮の前をとおるときに見たことがある。でも父とは顔が全然違うわね。金髪なのは一緒だけど」

「寮長イコール『鏡の巨像』と決まったわけじゃない」


 僕は彼女の右隣を歩きつつ、手を小さく振った。


「なんの後ろ暗いところもない寮長の顔と名前をアリアンが勝手に使っている可能性もある」

「とにかくクーゼナス寮長を取り押さえても不毛みたいね」


 ソーラは銀髪の上で赤いベレー帽を回す。


「あいつがこのタイミングでこちらに接触したのは、わたしたちが本格的にアリアンをさがし始めたことを知って、それをとめたいと考えたからでしょう。でも、じかに手をくだせばファカルオンも黙っていない。だから今回は忠告にとどめた」

「どうする? やつの忠告に従う?」


「従わない」

「同意見。実物のアリアンを必ず見つけて虹巻紙を取り戻す」


「わたしもよ、母の遺髪を奪い返す」

「もちろん先生たちに知らせるという手も、まだある。けれど、僕はそれもしたくない。それだとアリアンの言ったとおり、虹巻紙が見つかっても当局に回収されて、いつ戻ってくるかわからなくなる。学生として望ましい行為じゃないと理解していても、虹巻紙は譲れない」


「もう決まっていることね。状況が変わろうが、わたしたちのやることは変わらない」

「ああ」


 僕は短く、うなずいた。

 ソーラは右手にこぶしを作り、それを左の手の平にたたきつける。


「当局にあいつの身柄が確保されたら、ひとさまに迷惑をかけるのみならず母の遺髪まで盗んで、あまつさえ娘から逃げ続けて顔すら見せようとしない最悪の父親を締め上げることができなくなるし」

「そ、そう」


 歯切れ悪くあいづちをうつ僕に、彼女は真顔を向ける。


「にしても、アロン。あなた、アリアンと会ったっていうのに、そのあと平然とラーメンすすったりしてたのね。なかなか肝が据わっているじゃない」

「いや、内心は動揺してたよ。それが三百六十度回って妙な落ち着きになった感じだ。ところで、さっき君が言いかけていた、アリアンをさがし出すための計画というのは? 僕に消えてもらうっていう発言とも関わるんだろうけど」


 ここで僕は、あらためて周囲を見回す。

 足下の赤レンガの舗装。道の左右に広がる薄緑の草原。学園の方向に立つ透明塔。


 人がいないかどうかを確認したのだが、振り返ったところ、後ろに複数の学生の姿がまばらに見えた。

 彼等も休日に学園から外出していた者たちで、今はファカルオンに帰る途中のようだ。


「さっきまでいなかったはずなのに。ちょっとスローペースで歩きすぎちゃったかしら。見たところ、いくつかのグループ。しかもそれぞれで歩調が異なる。いったん全員に追い抜いてもらうのも難しいわね」


 ソーラも目を後方に向けて、状況を確かめる。


「だからといってわたしたちが進むスピードを上げれば、悪目立ちする。仕方ないわね」


 彼女は僕の左耳に口を近づけて、歩きながらささやいた。


「そのまま聞いて。今あなたは、しゃべらなくていい。わたしのほうを向かないで。後ろのみんなに、イチャついてると思われるのも厄介だから」


 僕は小さくうなずいて、彼女のほうを見ず、道をまっすぐ歩く。


「ごめんなさい、やっぱり計画については、まだ打ち明けられない。万が一にもみんなに聞かれたくないし、あらためてあした話すわ。ただ、わたしとあなたの時間割は見事なまでにずれているみたいだから授業中には会えない。そこで」


 ソーラからただようレモンの香りが、鼓膜を直接くすぐってくる。


「あしたの正午、図書館の自習室で会いましょう」


 彼女は右手で口元を隠す。


「前はだめって言ったけど、状況が変わったから。わたしがつるつる頭だと知って、みんなわたしのことを敬遠してる状態なの。今なら注目されてないし、二人で自習室にいるところを見られても、かどは立たない。わざわざ盗み聞きしようなんて人もいないでしょう」


 ソーラのすずしげな声が、やや斜め下から僕の耳に入ってくる。


「図書館の東にある階段から地下二階におりたあと、右に曲がって通路を突き当たりまで進みなさい。左手のガラス張りの部屋でわたしは待ってるわ。覚えたなら、うなずいて」


 僕は一回、あごを縦に動かした。


「前にアロンが自習室で会うことを提案してから、あらためてわたしのほうでも調べたの。ここ、昼の時間帯は誰もいないのよ」


 そのとき、口元を隠していた彼女の手の指が、僕の耳に当たった。


「最後に。今のうちに決めておかないと、まずいことが一つある。言いなおさないから、しっかり耳をかたむけて」


 僕は彼女から、その内容を聞いた。


(確かに、これからアリアンを追っていくうえで、それは絶対に必要だ)


 再びうなずき、理解した意をソーラに伝える。


「よし。きょうは、これで終わりね」


 彼女は僕の耳から口を遠ざけ、前を向いた。

 それから三分ほど経過して、学生たちのグループの一つが、僕たちのそばを通り過ぎた。


 以降、僕もソーラも、ほとんどしゃべらなかった。

 交わすのは、ほかの学生から不自然に思われないための雑談のみ。


 透明塔のあるほうに向かって、レンガの道を歩く。学園を囲む白い壁が鮮明に見えてくる。相変わらず壁の上には、帯のようにユズリハの葉が広がっている。


 さらに進み、正門の前でとまる。戻ってきたことを門番二人に伝える。大理石のアーチをくぐり、学園内の灰色の砂利道を踏む。

 ここでソーラが僕と歩調を合わせるのをやめ、足早になった。さすがに寮まで二人で行くのは、よくないということだろう。僕は逆に歩幅を小さくした。


 しかし彼女は、ここでいったん振り返り、キュロットスカートとチュニックを風になびかせた。銀髪も揺れ、毛先が彼女の鎖骨をこすった。


「きょうは、おつかれさま、アロン。わたしも、楽しかったわ」


* *


 僕は男子寮に帰った。


 一階の廊下で寮長のクーゼナス・ジェイとすれ違ったが、彼はいつもの燕尾服の姿で、「おかえり、アロンくん」と言っただけだった。


 シャワー室でシャワーを浴び、僕は疲れをとる。

 適温の水が、白いタイルのゆかに流れ、個室のすみの排水口に吸い込まれる。


(このシャワーもクーゼナスの水道魔法によるもの。だけど僕の青巻紙の水より、数段、洗練されている。体から、みるみる疲労が抜けていく。そこは、みとめるしかない)


 シャワーヘッドから噴き出す水を見ながら、僕はさらに考える。


(しかし寮長がアリアンだとすれば、水道魔法で僕を襲うことも可能なはず。それをしないのは、学園の調査が自身におよぶのを防ぐためだろうか。だったら僕は、この状況を利用する。シャワーも使うし、食堂の水も飲む。仕掛けてくるなら、受けて立つ)


 僕はシャワーヘッドの下から離れ、水をとめる。

 が、個室を出ようとしたとき、奇妙な音が僕の鼓膜をくすぐった。

 ぴちょり、ぴちょりと水音が連続して聞こえる。


 見ると、シャワーヘッドから水滴が少しずつ垂れていた。


 ただ、それだけのことだった。しかし僕は、ここに違和感を覚えた。いつもならシャワーヘッドの下を離れた時点で水は完全にとまるはず。なんとなく、その垂れる水滴を目で追ってみた。


 水が、ゆかに落下する。白いタイルの上で、ほかの水とくっつく。少しだけタイルをすべって、位置をずらす。

 そうして出来た水のかたまりの一部が、横に突き出る。あるいは、へこむ。


 僕は水滴を見続けた。そしてシャワーヘッドから水が垂れなくなってから、もう一度タイルのゆかに視線を落とした。


 透明な水が白タイルの上で文字のかたちをとり、短文を作っていた。


(たすけて)


 確かに、そんな文字に見えた。

 僕はそれに近づき、しゃがんで確認しようとした。

 が、その瞬間にシャワーヘッドから水が噴き出て、水の文字はすべて流れた。


(どういうことだ、アリアン。ゆさぶりでも、かけているのか)


 再びシャワーヘッドから離れると、水がぴたりとやんだ。

 もう水滴が垂れてくることもなかった。


 僕はリネンのシャツとパンツを着て、部屋に戻った。

 ガーメントバッグからスーツ一式を取り出し、クローゼットに収納する。きれいになった黒靴をシューズラックに置く。


「お、完全に直ってんじゃん」


 スリッポンにはき替える僕を見ながら、ルームメイトのハフルが陽気に笑う。


「よほどいい修理屋に頼んだらしいな」


 ハフルはベッドに腰かけたまま、はいているブーツを指でたたく。


「着てったスーツもよごさなかったようだし。小さなことだが、めでてえな」


* *


 その晩、ハフルと僕は食堂でカレーを注文した。

 といっても激辛ではなく、辛さを抑えたものを頼んだ。


 僕はカレーを食べながら、ベージュを基調とした食堂のあちこちに目を走らせる。しかし視界に映る人影は、食事中の寮生ばかり。燕尾服は、どこにも見えない。

 クーゼナスが寮長として再び僕に接触してくるかとも予想したのだが、少なくとも今、彼にその気はないらしい。


 カレーと一緒に出された水を、僕はごくりと飲み干した。

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