第三章 学園外のケルンスト

 色あせた赤レンガの道に立ったまま、僕は腰の巻紙に指をすべらせる。


「確かにこれは君に訪れた最大のチャンスだ。僕が死ねば、巻紙がアリアンの居場所に君を導いてくれる」


 ガーメントバッグを提げているほうの手にも力を込め、彼女に笑い返す。


「でも、みすみす消されるつもりはない」

「そう。いい心構えじゃないの。だけど、あなたを始末する気なんて毛頭ないから安心して」


 彼女は右手を僕に差し出す。


「とりあえず、手をつないでもらえる?」


 そう言われた瞬間、僕は後ろに一歩さがった。


「おびえないでよ」


 ソーラは首を横に振る。それにともない、彼女の銀髪とチュニックとキュロットスカートが順に揺れた。


「そもそもわたしたちはアロンのスーツ一式を直すために外出したんじゃない? さっきまでは二人きりで話す必要があったから、あえてワープせずにこの道を歩いてたけど」


 彼女は右手を差し出しながら、指の関節を小刻みに動かす。


「あなたとの話でようやく光明を見いだせた。だからこの興奮をいったん冷ましたい。ともかく表向きの用を済ませましょう。残りは帰り道で話すわ」

「それなら」


 警戒しつつも、僕は巻紙から指をはなす。

 差し出された彼女の右手に、左手を近づける。


 ソーラはゆっくり、僕の左手の人差し指をつまみ、こう言った。


「発」


 反射的に僕は、まばたきした。

 すると次に目をあけた瞬間、彼女の銀髪が黒髪に変わっていた。

 もう一度まぶたをとじて見なおしても、やはり黒。


 銀髪のときは鎖骨にふれるくらいだが、今の黒髪は腰まで届きそうな長さ。

 それはソーラが例のカミングアウト以前、自分の頭にかぶせていた黒髪。

 眉とまつげも、銀から黒に戻っている。


 ただし服装に変化はない。赤いベレー帽、水色のチュニック、乳白色のキュロットスカート、白いサンダル、右肩にかけた淡い黄色のかばん。

 瞳も、やはり赤いまま。白い肌や体の細い線も変わっていない。


 彼女は僕の人差し指をつまんだまま、上体をこちらにかたむける。


「ワープ魔法は黒髪のときじゃないと使えないの」


 やはり香水なのだろうか。ソーラからレモンの香りがする。


「正確に言えば、ワープはわたしオリジナルの魔法じゃないわ。黒髪も銀髪も、故人のものよ。わたしは、死んだ人の遺髪をかつらにしてかぶっている。そこに残された魔法の力を借りてる。黒髪に宿る魔法が、ワープというわけ」

「合点がいった」


 僕は、彼女と戦った日のことを思い出す。


「カディナ砂漠で君が黒髪を分離させたあとワープを使用しなかったのは、そもそも発動できなかったからか」

「ええ。つまりあのときのわたしは無力だった。その気になればあなたは巻紙を奪い返して逆転できていたのよ」


 ソーラは僕の人差し指を軽く引っ張った。


「発」


 もう一度、同じ言葉を唱えた。

 やはり僕がまばたきした瞬間に、スーパーロングの黒髪が、鎖骨にふれるくらいの銀髪に変わっている。


「これがわたし自身の魔法。髪を別空間に収納して、自由に取り替える」


 さらにもう一回、彼女は「発」と短く唱え、髪を銀から黒に戻した。

 音や光といったエフェクトはない。


 色も長さも徐々に変わるわけではなく、僕が目をとじてまぶたをもう一度ひらくその一瞬で、髪全体がすりかわっている。


 ソーラは、長いまつげにふちどられた赤い瞳をきらめかせる。


「見てのとおり、オリジナルの魔法は頭髪の交換だけ。かぶる遺髪によって、眉とまつげの色も変化する」

「そんな魔法も、あるんだ」


 僕は、つままれた人差し指から力を抜いた。


 このタイミングでソーラが自身の魔法について説明したのは、僕の警戒心をとくためだろう。

 少なくとも彼女は歩み寄ろうとしている。「消えてもらう」という発言の真意は不明なままだが、ここで安易にソーラを疑って協力関係を瓦解させるのは得策ではない。


「じゃあ今から連続でワープしてスーツの修理に向かうわよ、準備は、いい?」


 そう言われた僕は、右手に提げたガーメントバッグに視線を落とし、持ち手をにぎりなおした。


「いつでも」

「酔わないようにね」


 瞬間、僕たちの足下のレンガ舗装の配置が微妙に変わった。

 彼女のワープが発動し、道の先に転移したらしい。


 僕は彼女の右の親指と人差し指につままれた左の人差し指を軸にし、体を半回転させて前方を向いた。


 まばたきする間もなく瞬時に風景がすりかわっていく。


 空に浮かぶ白い雲に着目すればわかりやすい。

 空色を背景にして、かたちと位置が次から次へと変化する。

 枚数の少ないパラパラ漫画を見るようだ。


 今まで味わったことのない感覚が短時間で連続する。視界が切り替わっていくことに対する、一種の爽快感と言ってもいい。少し胃のあたりに気持ち悪さを覚えるが、それすら心地よく感じるほどだ。


 一方の彼女はすずしい顔で、道のレンガを蹴り続ける。

 その蹴りは、ワープ前の予備動作のようだ。


 本来は予備動作なしでワープすることも可能なのだろうが、「蹴る」という行為を一種の発動条件に設定することで、日常生活における魔法の暴発を防いでいると思われる。


 そんなに目立った動作でもない。蹴る強さも、まちまちのようだ。「踏む」「足裏に力を入れる」と表現したほうがいい蹴りもある。ときどき地面ではなく空中を蹴ることさえある。


(カディナ砂漠で戦ったときには気付けなかった)


 そして薄緑が続いていた草原の右手に、小川が現れる。

 日光にきらめく川面に目を奪われていると、クリーム色の木で出来た水車小屋が視界に加わる。水車は川の流れに合わせて回転し、透明な水を落としている。


 しかしそれが見えたのも一瞬。

 水車小屋は前方からこちらにどんどん寄ってきて、すぐに僕の後ろに消えた。


 残された小川から目を離し、今度は左手に視線を向ける。

 そこには白い柵で囲まれた牧場が広がっていた。


 飼われているのは茶色と白のまだら模様の牛たち。彼等の多くは頭を沈めた格好で、足下の草に夢中になっていた。

 牛たちの近くには白いレンガの建物がたたずみ、その窓から、牧場の管理者らしき壮年の男性が顔をのぞかせ、あくびをしていた。


 彼は僕たちに気付いたのかレンガの道のほうに顔を向けた。が、目を合わせるひまもなく牧場ごと姿を消した。


 すかさず左前方に、ダークブラウンの、大きな木造の建物が見えてくる。

 そこは馬車の発着所である。

 通常、ファカルオンを出た学生はその馬車に乗って目的地に向かう。


 彼女はその建物に目もくれず、そばを通り過ぎる。

 ここから道幅が広がり、足下のレンガの舗装が灰色の石畳に切り替わる。


 ソーラは道のはしに寄り、僕の左の人差し指から右の二本の指をはなした。

 その右手で僕の右の手首をつかみ、僕の位置を彼女自身の背後へと移動させた。


 彼女はワープをとめずに一瞬で、その作業をやってのけた。その際、僕は右手のバッグを左手に持ち替えた。


 ときどき、馬車とすれ違う。まばたきのあいだに、追い抜いていることもある。

 左右の草原も少しずつ失われ、右手に濃い緑の森が現れる。左手には赤茶色やクリーム色の人家がぽつりぽつりと見え始める。


 前方の視界に十字路が映る。

 そこを直角に左折した。



 しばらく進み、通行人や人家が増えてきたところで彼女はワープの速度を落とす。

 もう、そこは町だった。


 ソーラの右手が僕の手首から離れる。

 道を歩く通行人たちは普通に動き、あたりの建物は変化しない。


 ワープは、いったんここまでのようだ。

 学園からこの町まで移動するのは初めてではなかったが、今回は新鮮な感じがした。


(あらためて実感した。これがソーラの黒い遺髪の力)


 当の彼女は通行人の邪魔にならないよう道のはしに立ち、僕のガーメントバッグに視線を向ける。


「落とし物は、ないかしら」


 僕はバッグの中身を確認した。ぼろぼろのスーツ一式も傷だらけの靴もある。

 着ているスーツのジャケット、パンツ、靴下、靴、ネクタイ、ワイシャツのボタン、ベルトを確かめる。三色の巻紙を含め、なにもなくしていない。

 思わず自分の髪もさわった。僕のウルフカットも無事のようだ。


 ソーラはキュロットスカートのすそを少し引っ張って笑った。


「酔った?」

「慣れた」


 僕たちは町のなかをワープなしで歩いていく。


 その町の名はケルンスト。

 総人口は三千。

 薄い赤や灰色の交じった石造りの民家が建ち並ぶ。ほとんどの屋根が、道に向かってかたむくように取り付けられている。


 道は灰色の石畳。坂や段差が多い。

 ところどころに、やや小ぶりのプラタナスが植えられている。


 民家の集中する区画を抜けると、大きな円のかたちをした広場に出る。

 そこでは市場がひらかれており、露天商たちが大声で客を呼び込んでいた。

 石畳にマットを敷いて商品を並べる者、移動式の屋台を構えて看板を掲げる者、売り物の入ったかごをかかえて広場を歩き回る者など。


 魔法で実演販売をおこなう者もいた。

 たとえば売り物のカーペットに炎を浴びせ、耐久力と耐熱性を証明する。

 たとえば鉄のかたまりをくねくねと曲げ、人形のかたちにしてそれを売る。


 僕たちは、そんな市場も通り過ぎる。


 それから数えきれないほどの坂と段差をのぼったあとで、細い道に入った。道の両側には灰色の壁が続いていた。その壁も建物の一部と思われるが、ドアや窓はどこにもない。


 この道を進んだ先の突き当たりに平屋の建物があった。

 建物は石造りではなく、布で出来ていた。

 赤、青、黄、緑、黒、白などを組み合わせたパッチワークの壁と屋根。ふれてみると、まったく固くない。


「金属も使わず、完全に布だけで建物のかたちを維持しているのか」

「店主の魔法よ、期待できるでしょ」


「まさか、この町にこんな場所があったなんて」

「知る人ぞ知るってやつね」


 ソーラはパッチワークの壁から布の切れ目を見つけ、右方向にめくった。そこが入り口らしい。僕も彼女に続いて通過し、店内に入る。


 なかの壁と天井もやはりパッチワークだが、ゆかは屋外と同じ石畳である。

 商品は陳列されていない。目に入るのは、奥に設置された長テーブルと、その上に両ひじを置くおばあさん一人。


 テーブルは黒い布でおおわれている。


「いらっしゃい」


 店主らしきおばあさんが、僕とソーラのあいだの空間に、赤く細い目を向ける。

 高く響く声だった。


 おばあさんの髪はベリーショート。少しパーマが、かかっている。店の壁のパッチワークのようにカラフルに染められている。


 そんな髪とは対照的に、彼女が身にまとうのは無地の白シャツ。

 親指の根元に届く長袖。その先は扇状に広がっている。


 僕はガーメントバッグを胸のあたりまで持ち上げて、おばあさんに笑いかける。


「すみません、スーツを直したいのですが」

「スーツ?」


 店主はテーブルに置いていたひじを持ち上げ、片手でパーマをぽんぽんとたたき、ため息をついた。


「最近は個人の魔法のくせも強くなって、そのせいで衣服のバリエーションも増えて、嫌んなるね。直したいのは、あんたの着てるやつと同じものかい?」

「はい」


「とにかく見せな。あたしに直せない服はない」

「こちらです」


 僕はガーメントバッグをあけ、よごれたぼろぼろのスーツジャケットを取り出す。

 それを見て、おばあさんは早口で言った。


「並べな、全部。よごれは気にしなくていい。ちなみに靴も、いけるからね」


 僕はうなずいて、ジャケットに続き、傷ついたスーツパンツ、ワイシャツ、ネクタイ、靴下をバッグから出し、テーブルに置いた。

 最後に、傷だらけの黒靴を引っ張り出す。左右の靴それぞれの底を上に向けて靴下の横に添える。


「これで全部です」

「ちょっと待ってな」


 おばあさんはルーペを取り出し、ぼろぼろの服と靴を一つ一つ拡大する。


「あんた、これ全部、ゼルドルの店で買ったろ」

「はい、どうしてわかったんですか」

「生意気なほど質がいいから」


 ゼルドルは、衣服全般をあつかう商人。

 ケルンストに向かう途中でとおった十字路。その道の一つが、約二万人の住む都市に続く。そこにゼルドルが店舗を構えている。


 ここ二十年で彼は、安価で質のいい、さまざまな衣料品を売り出し、巨万の富を得たと言われる。

 ゼルドルはファカルオンの卒業生であり、学園に資金援助もしているらしい。


「やつは服の修理を受け付けていない。このぼろぼろ具合なら、あたしが直す以外にないね」


 店主は、黒い布の上にルーペを置く。


「坊や、新品同然にしてほしいかい?」

「いえ、なるべく安く済ませたくて」


「じゃあ元に戻す程度にするかね。今、あんたが着ているスーツよりも、ちょっときれいになるくらいで。それと、ジャケットとワイシャツの取れたボタンは、それぞれ残っているボタンと同じ種類のものでいいんだね」


 おばあさんは、うなずく僕を確認し、まず靴にふれた。

 傷だらけの部分に手の平をすべらせる。


 すると、みるみるうちに傷が消えていく。

 靴の黒い表面にはカディナ砂漠の黄土色の砂もこびりついていたが、それもごっそり落ちていった。


 店主は靴底も、なでた。靴のなかにも手をつっこんだ。


「かいでみな」


 僕はおばあさんの指示に従い、靴に鼻を近づけた。

 中敷きまできれいになっており、嫌なにおいが一切しない。


「次。さっさと終わらせるよ」


 ついでおばあさんは靴下に手を伸ばし、靴と同じように、すみずみをさわった。

 店主が手の平をすべらせるたび、布の切れた部分やほつれまで、元どおりになっていく。


 それから手の動きはどんどん速くなり、テーブルに並べられていたネクタイ、ワイシャツ、パンツ、ジャケットが、あっという間に修復された。


 シャツ一つを確認しても、シワさえ、まったく見られない。取れていたボタンも、元のとおりにしっかり固定されている。

 えりの部分に目立っていた変色さえ、跡形もなく真っ白。


 ただし代わりに店主の無地の白シャツが、袖の先から「みごろ」に至るまで、濁った黄土色に染まっていた。自身の魔法の影響なのだろう。


 僕はガーメントバッグに、修理してもらったスーツ一式と靴をしまった。


「ありがとうございます。では、お金を払います」

「五十グレーで」


「安くないですか、黒パン一つの値段ですよ」

「初回料金ってやつさ。今後あんたが服をだめにしたとき『ゼルドルの店で新しいのを買えばいいや』と思われちゃあ、こっちは、おまんまの食い上げなんだよ」

「わかりました。機会がありましたら、また今度」


 そして僕と店主は「ググー」と唱えた。

 にじんだ薄桃色の球体が互いの目の前に現れる。

 僕は続いて金額を言う。


「五十グレー」

「レー」


 おばあさんが了承の意を伝えた瞬間、僕の球体の一部が分離し、向こうの球体に吸い込まれた。

 最後にもう一度、「ググー」と互いに唱え、球体を目の前から消す。


 これは僕たちの魔法ではなく、「ググー」の性質を利用した支払いだ。



 ググーは本来とても小さな生物。薄桃色の球体は、その小さなググーの個体が集合して現れる群体だ。

 人の「手放す」「受け取る」という意識に反応する特性がググーにはある。


 基本的に個体数は増減しない。不死ではなく、一つの個体が死ぬときにその個体から別の個体が一つ生まれるらしい。

 また、一つの群体に加わった個体は「手放す」という意識を受けない限り、そこから離れることがない。


 これは世界史で習ったことだが、およそ二百年前、ググーを貨幣として利用することを思い付いたのが、革命家としても知られるレザウェル。

 元々、ググーは、この世界の人間一人ひとりに群体の状態で取り付いていた。

 最近の研究によると、魔法と生物の中間に位置する存在らしい。


 そのググー一匹ぶんが貨幣単位としての「グレー」となる。誰かがググーを呼んで「○グレー」と言えば、その「手放す」という意識を受けて、ググーは同じ数だけ離れる。

 その際、近くにいる人が「受け取る」という意識を込めて「レー」と言うことで、離れたぶんのググーが向こうの群体に加わるという仕組みだ。


 ググーを呼びたいときはその名を口にすればいい。「ググーを」といったふうに別の音をくっつけた場合は無効である。消したいときは、もう一度「ググー」と発音する。


 ただし最初に出てくる球体はググーが圧縮された状態なので、実際の所持金を知るには、ググーを出した状態で「グー」と唱える必要がある。

 そうするとググーが本来の大きさに膨張する。それを見れば自分のふところ具合がわかる。

 なお、再びグーと言えば、ググーは小さな状態に戻る。


 寮の食堂や学園の購買部だけでなく、今や全世界でググーを共通の貨幣として利用できる。

 これが定着する前は「硬貨」「紙幣」「財布」というものを持ち歩いていたらしいが、それだと落としたり盗まれたり、かさばったりしそうだ。また、ググー以前は貨幣の統一もなされておらず、物や人の動きも今日ほど活発ではなかったという。


 ググーが貨幣として利用されていなかったら、経済の流通がとどこおるのみならず、世界各地の文化も今より閉鎖的になっていたのではないか、と世界史の授業で学友たちと話し合ったこともある。


 たとえばゼルドルの店もひらかれず、ハフルやソーラの自由な服装も僕のスーツ姿も、なかったかもしれない。食堂で激辛カレーを食べることも購買部でサンドイッチをつまむことも。



 しかし、それは仮定の話。

 あらためて僕は今の状況を確認する。


 おばあさんのお店でスーツの修理が終わり、その支払いも済んだところだ。

 ここで店内にソーラの声が加わる。


「おばあちゃん、わたしも用があるんだけど」


 僕がおばあさんと話しているあいだ、ソーラは店内のすみで腕組みをして立っていたのだ。

 テーブルに置いていたルーペを再び手に取り、店主はそれをかたむける。


「ああ、いつものメンテナンスか。ところで、そっちの坊やにあたしの店を紹介してくれたのは、あんたみたいだね」

「まあね。客観的に見ても、服の修理なら、ここが一番だから」



 彼女たちのやりとりを聞きながら、バッグを持って僕は店の外に出た。

 パッチワークの壁は薄い。しかし音を遮断するらしく、店内での話し声はもう聞き取れなかった。


 やることもないのでスーツジャケットの内ポケットに入れていた懐中時計を取り出す。

 針は一時過ぎを指していた。

 これなら寮の門限に間に合うだろう。


* *


 ソーラが店から出てきたのは、それから三十分後だった。


 彼女の頭は、銀髪になっていた。

 きょう学園の正門で会ったときの髪と同じもの。鎖骨にふれるくらいの長さで、内側に緩くカールしている。


「待たせてごめんなさい。って、これ前にも言ったかしら」

「いや、いいよ。僕のスーツの修理にも君は付き合ってくれたし」


 おばあさんのお店がある突き当たりを離れ、細い道を歩いていく。


 少し進んだところでソーラが道のはしに寄り、立ち止まった。

 彼女は、合わせて停止する僕を赤い瞳で見つめ、こう唱える。


「ググー」


 にじんだ薄桃色の球体を出現させ、ベレー帽のふちを指でなぞる。


「あなたもググーを出しなさい」


 ソーラはベレー帽から指をはなし、チュニックのすそをいじる。


「弁償するって約束だもの。だから、あなたがおばあちゃんに支払ったぶんのお金、渡すわ。黒パン一つの値段でも、お金はお金。こういうことは、きっちりしなきゃ」

「そうだね。ググー」


「五十グレー」

「レー」


 彼女の球体の一部が僕の球体に移動し、飲み込まれた。

 それを確認し合った僕たちは「ググー」と再度唱え、薄桃色の球体を消した。


 ソーラは目を細め、首をかたむける。


「これでスーツ一式の修理と弁償の件は完了だけど、わたしの負担額が五十グレーというのが、すっきりしないわね。本来だったらあの店、一回につき最低でも五千グレーよ。そのぶんも追加で支払ったほうがいいかしら」

「それは受け取らない。僕が店主に渡した金額は五十グレーで間違いないから」


 ここで僕は一瞬だけ振り返り、突き当たりのパッチワークの平屋を見た。


「君は、いいお店を教えてくれた。それだけで五千グレー以上の価値があるよ」


 僕は片手に提げたガーメントバッグを小さく揺らした。

 ソーラは右の口角に指のふしを当てる。


「おばあちゃん、それ聞いたら喜ぶでしょうね」


 白いサンダルで灰色の石畳を蹴りながら、彼女はその場で一回転した。


「新しい金づるゲットしたって」

「おい……」


 そのまま彼女はキュロットスカートとチュニックのすそをふわりと浮かし、この細い道を出ていった。

 僕も彼女を追いかける。


(ソーラは約束を果たした。でも僕に伝えた「消えてもらう」という発言の意味は、まだ判然としない。これについて彼女は、帰り道で話すつもりのようだけど。ともあれ、詳しい話をソーラから聞くまでは行動を共にしなければならない。それに)


 道を抜けて、僕はあたりを見回した。


 眼下に、石造りの建物が並んでいる。薄い赤と灰色をほどよく交ぜながら、町の景観に落ち着きを与えている。


 ところどころに配置されたプラタナスの緑も、よいアクセントとして目に映る。

 円形の広場も小さく見えた。そこでは露天商たちがひしめき合う。客を呼ぶ彼等の声が、僕の耳にもわずかに届く。


 来るときはあまり意識しなかったが、今の僕は、ケルンストの町のなかでも、それなりに高い場所にいる。

 数えきれないほどの坂と段差をのぼって、ここまで来たのだから当然と言えば当然だ。


 ふと振り返って、あごを上げ、視線を高所に送る。やはり僕の頭上には薄い赤と灰色の建物の群れがそびえている。

 その向こうの青空から光が漏れている。


「どうしたの、なにかをさがすみたいに町を見ちゃって」


 すずしい声音が、町を見上げる僕の後ろから凜と響いた。

 声のしたほうからレモンの香りも流れてくる。


「まだケルンストに用があるなら付き合うわよ」

「いいや、もう、やることは済ませた」


 僕はあごを落とし、今まで消えていたはずのソーラのほうに顔を向けた。


「軽い昼食のあと、帰ろうか」

「そうね」


 町の段差と坂をおりていき、円形の広場に再び入る。

 相変わらず露天商たちの声が響き合い、活気のある市場となっている。


 そこに構えられた屋台の一つがラーメンを売っていた。

 値段は六十グレー。


 クウァリファットラーメンといって、その名のとおりクウァリファットで生まれたラーメン。

 通常のメンに加え、細いメンのかたちに切ってつないだキャベツを大量にスープのなかにつけている。コシのあるオーソドックスなメンと、しゃきしゃきしたキャベツのメンに、濃厚なスープをからめて味わうのだ。


 屋台の店主いわく、元々はクウァリファットの魔法使いがキャベツの千切りをつなぎ合わせてスープに投入したことから始まったそうだ。

 最近の健康志向に合わせ、味をそのままに、塩分を従来の百分の一に抑えているらしい。

 方法は極秘とのこと。店主の魔法によるものか、あるいは魔法に頼らない技術を開発したのか、それはわからない。


 ソーラは小顔をかたむけて、大きな器に入ったスープを飲み干していた。


「ごくごく。おいしいわね」

「ああ」


 僕は屋台の店主の話に耳をかたむけていた。

 彼はクウァリファットで修業したそうだ。しかし最初は言葉で苦労したらしく、「感謝を伝えたつもりが実は相手を罵倒していた」なんてこともあったとか。


「それでも地元の人たちが自分を許し、言葉の壁にも配慮してくれたから今こうしてわたしは屋台でラーメンを出せている」


 照れくさそうに笑いつつ、彼はそう言った。


 その笑顔を見た瞬間、僕は学園外に出てよかったと思った。

 スーツの修理の帰りにたまたま立ち寄っただけとはいえ、こうした場所で気付かされることもある。


 なにも世界はファカルオンだけではない。学園の内も外も関係なく、さまざまな人がさまざまな思いで、きょうを生きている。


 修理屋のおばあさんも。この屋台の店主も。巨万の富を築いたというゼルドルも。

 学友のハフル・フォートも。僕の担当教員のメアラ・サイフロスト先生も。僕の隣の席に座ってハンカチで口をふいているソーラ・クラレスも。


 学園外の道を歩く通行人たちも。僕が話したことのない、たとえば道の途中で目が合いそうになった牧場の管理者らしき人も。学園内の、学友とはまだ呼べない学生たちも。


 みんな、僕の知らないそれぞれの思いや目的をかかえて暮らしているのかもしれない。

 あるいは「鏡の巨像」アリアン・クラレスすらも。


 自分はなにがしたいのだろうとあらためて考える。ソーラと協力してアリアンから父の形見の虹巻紙を取り返すところまではいいとして、そのあとは。


 ファカルオンは魔法使いの教育機関。でもこの世界に生まれるすべての人は例外なく、なんらかの魔法を使える魔法使い。


 魔法使いとは職業や役柄の名前ではなく、ほぼ「人間」と同義語のようなもの。


 したがって「これから」を考えるときは「魔法使いになりたい」ではなく「こんな魔法使いになりたい」というビジョンが必要になる。

 だからこそファカルオンは一般教養を重視し、各学生の、魔法以外の根幹部分をも刺激しているのだろう。


 たとえば世界史から過去を学び、外国語から交流を広げ、倫理学から自分の生き方の指針を持つ。個人の魔法は、それらの基盤があってこそ初めて活かされるのかもしれない。


(立派な魔法使いになるには、むしろ魔法以外のことをしっかり学ばなければなりません)


 学園長の言葉が脳裏によみがえる。

 そのとき、隣のソーラが立ち上がり、僕のジャケットの肩を軽くたたいた。


「もう食べ終わったんだから、帰るわよ」

「ごめん、考え事してた」


 お金を払い、僕たちは屋台をあとにした。

 円形の広場からも出て、民家の建ち並ぶ区画を抜ける。



 次第に、道沿いの建物や通行人が少なくなる。

 学園方向に続く道にケルンストは門や関所を設けていない。進んでいくと、気付いたときには町から出ている。


 外れに馬車が停まっていた。僕たちは、それに揺られて帰ることにした。


「せっかく銀髪で外出したし、寮の門限までまだ時間があるから、帰りはワープを使わないでいいかしら」

「いいと思うよ。僕も乗りたい気分だし」


 それは一頭立ての小さな四輪馬車。馬をあやつる御者を除けば、最大六人乗り。屋根はない。

 木で出来た荷車の内部に座席とクッションを取り付け、人が乗れるようにしたもの。

 前部に御者用のスペースを設けたうえで、ハーネスという馬具で馬車と馬をつなげば完成である。


 僕たちは向かい合った状態で座席に腰を下ろした。

 わき近くの背中に、荷車部分の壁のふちが当たる。

 馬車には揺れを軽減するためのスプリングが付けられている。乗り物酔いになることはなさそうだ。


 ソーラも僕も車上でしゃべらず、ただ流れていく景色をぼんやり見ていた。

 彼女はレモン色のかばんをひざに置き、対面する僕の、向かって左の空間に目をやっていた。

 僕のほうはガーメントバッグの持ち手を両手でにぎり、ソーラの右にあいた景色に視線を投げていた。


 彼女のワープのときとは違い、景色がぬるぬる横に流れる。

 道を走る馬車を、通行人がよける。多くの人家が過ぎていく。



 じきに、例の十字路に着く。そこを馬車は右折する。

 その後、僕の視界は、濃い緑の森で満たされる。


 ほとんど変化のない風景ではあったが、それぞれの木の葉のつき具合が微妙に違っていたためか、ながめていても不思議と飽きは来なかった。


 そして森が薄れ、代わりに草原が広がり始める。ここで僕は少し眠ったと思う。御者から「到着しました」と声をかけられ、はっとする。道の前方を見ると、木で出来たダークブラウンの建物が僕たちを見下ろしていた。馬車の発着所に着いたのだ。


 料金を支払ったあと、灰色の石畳をあとにし、赤レンガの道を徒歩で進む。

 先の青空を見上げると、学園の「透明塔」が細く光を反射していた。


 右手の牧場を通り過ぎる際、相変わらず茶色と白のまだら模様の牛たちが足下の草を食んでいた。

 左手の小川はきらめいていた。川沿いに建つクリーム色の水車小屋から一人の青年が出てきて、僕たちに手を振った。


 来るときは右手に小川が流れ、左手に牧場が広がっていたが、帰り道ではそれも左右が逆になる。


* *


 じきに小川も視界から消える。道の左右のすべてが草原の薄緑におおわれたところで、ソーラが口をひらいた。


「そろそろ話すわ、アリアンをさがし出すための計画があるの」

「ソーラ、その前に報告していいだろうか」

「なにかしら」


 僕の前を歩いていた彼女が、上体だけをひねってこちらに顔を向ける。

 声を落として僕は言う。


「きょう、

「……続けて」


 彼女は銀髪をかき上げ、僕の左隣に移動した。

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